学位論文要旨



No 125140
著者(漢字) 山根,純佳
著者(英字)
著者(カナ) ヤマネ,スミカ
標題(和) なぜ女性はケア労働者になるのか 女性の行為主体性と性別分業の再生産・変動
標題(洋)
報告番号 125140
報告番号 甲25140
学位授与日 2009.04.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(社会学)
学位記番号 博人社第697号
研究科 人文社会系研究科
専攻 社会文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 上野,千鶴子
 東京大学 教授 盛山,和夫
 東京大学 教授 武川,正吾
 東京大学 教授 大沢,真理
 一橋大学 准教授 佐藤,文香
内容要旨 要旨を表示する

本論の目的は、構造と主体の二元論を乗りこえる概念として、女性の「行為主体性agency」に照準することで、「家庭から労働市場への性別分業の拡大・再編」メカニズムを説明することにある。

序章では、問題意識と問題設定について論じた。男性が市場の賃労働、女性が家庭の家事労働を担う性別分業gender division of laborは、長らく女性抑圧をめぐる主要なテーマである。近年では、家事労働のなかでも、育児や介護といった「ケア労働care-work」が焦点化され、女性の負担の軽減と社会的な責任の分配が焦点化されるにいたっている。各国でケアの脱家族化がすすむ一方、社会化、市場化されたケアワークに女性が従事するというかたちで性別分業の再編がすすんでいる。なぜ公私にわたって女性がケア労働を引きうける性別分業が再生産されるのか。性別分業の再生産メカニズムを明らかにすることは、性別分業の解消のための実践的課題を明確化するために、重要な課題だと考えられる。

性別分業をめぐる研究の状況をみると、これまで性別分業の再生産をめぐっては、家父長制という構造決定論と、ジェンダー規範を内面化した「主体」による選択論(主体選択論)という対立する理論が併存してきたが、この二元論の理論的乗りこえは十分におこなわれていない。一方近年のジェンダー研究では、性別分業を規定するものとして福祉国家によるケアサービス資源等の「資源配分構造」に注目が集まっており、資源配分が行為者の行為に与える影響が明らかにされている。ただしこの研究潮流は、構造決定論と主体選択論という理論的対立を乗りこえる視点を提示するものではない。

また構造決定論や主体選択論を乗り越える視点は、ポスト構造主義フェミニズムにおいて「言説構造的制約のもとでの行為者の自由」をさす行為主体性agency概念が提示されている。しかしこの概念は性別分業論には取り入れられておらず、また上述の資源配分構造と女性の選択との関連を明確にするものではない。こうしたことから、本論では、行為主体性を(1)支配的な言説に対する反省性、(2)反省性にもとづいてよりよい状況を求めることと定義し、資源配分と言説という二つの構造のもとでの行為主体性に照準して性別分業の再生産・変動過程を明らかにすることを試みた。

第1章では、構造的与件のもとでの行為者の行為を表す概念として「実践practice」概念を用いて性別分業の再生産を説明している江原由美子の「ジェンダー秩序」論の批判的検討をとおして本論の課題をより明らかにすることを試みた。ブルデューの「ハビトゥス」やギデンズの「規則」を「構造」として位置づける江原の再生産論は、構造を「言説」に還元する「言説構造還元論」であり、また構造からの行為者の自由の可能性が担保されていない「構造決定論」にとどまっている。そこで本論では、こうした構造決定論を乗り越え、資源配分構造と言説構造のもとでの行為主体性を前提とした性別分業再生産・変動過程を説明するために、(1)研究者が発見する「パターン」ではなく、行為者の実践とのかかわりから把握される歴史的な資源配分構造と言説構造を明らかにし、(2)それらの構造に対する行為者の解釈実践にもとづく再生産実践、変動実践について明らかにすることを課題とした。

第2章では、マルクス主義フェミニズムの物質構造決定論とその論争の検討をとおして、資源配分構造と女性の行為主体性について明らかにすることを試みた。女性は物質的基盤をもつ構造(家父長制)によって、ケア労働を強いられているとするマルクス主義フェミニズムの構造決定論は、性別分業再生産における言説構造の役割と女性の能動性を否定するとして批判されてきた。本論ではこれらの論争をふまえ、労働市場における男女賃金格差という資源配分構造のもとにある女性が「女性の居場所=家庭」という言説を受容し、性別分業を再生産することは労働市場に残るよりもよりよい選択となるという点で、再生産実践に女性の行為主体性を見出すことができることを指摘した。一方で、以上の再生産実践の説明は、性別分業の変動の可能性を明らかにするものではない。よって次章以降では、性別分業をめぐる言説に対する女性の批判的解釈実践と変動実践について照準した。

第3章では、女性はケアの価値を内面化した主体であり、性別分業は女性主体の自発的選択の結果であるとする価値内面化モデルに対する批判的検討をとおして、性別分業に対する女性の批判的解釈実践について明らかにした。本章の考察によれば、幼少期の社会化過程で女性はケアの価値を内面化しており、この価値が成人期における女性の母親業の選択を規定しているとするギリガンやチョドロウの価値内面化モデルは以下の点で適切ではない。女性特有の「ケアの倫理」を実証したとするギリガンの被調査者の女性たちは、「女性=ケアする存在」という言説に対する批判的解釈実践もおこなっている。また女性はケア労働の経験をとおしてケアの道徳的価値を内面化している、とするケア・エシックスの議論も適切ではない。女性のケアの道徳的責任は、代替的ケア資源を獲得できないという資源配分構造や、「ケア責任は女性にある」とする他者の言説実践によって構成されたものであり、それゆえ「ケア労働からやりがいを得られない」、「負担が大きい」という経験は、女性が性別分業を批判的に問い直す契機となると考えられる。

第4章では、性別分業に対する女性の批判的解釈実践にもとづいた交渉実践による変動の可能性について、家庭内の育児や介護の分担の交渉をめぐる研究をもとに検討した。家庭内のケア分担をめぐる研究では、労働市場における女性の経済資源の獲得が家庭の交渉力をあげることが実証されている。しかしこのことは、家庭の男女の交渉力は経済資源の所有に規定されているという経済決定論を意味しない。男性がケアにかかわることを評価する言説や、男性に義務づけられた育児休業制度が整備されることは、「男性もケアに参加せよ」という女性の交渉力を高める。このような女性からの交渉実践は、ケア責任しない行為者を前提にした労働市場の価値を男性が相対化する契機となり、性別分業を解体していくものとなる。

以上第2章から第4章までは、家庭の性別分業における女性の再生産実践、変動実践について考察してきたが、第5章では、ここまでの枠組みを用いて労働市場のケアワークにおける再生産・変動実践について照準した。

第5章では、まず「男性稼ぎ手・女性被扶養」という家庭の資源配分構造や、「ケア=女性の仕事」という言説構造のもとでは、女性の行為主体性を介して労働市場においても性別分業を再生産されていることを指摘したうえで、介護保険制度以後の介護労働市場を対象に、ケアワーカーの交渉実践と変動について、二つの聞き取り調査のデータを用いて考察した。既婚女性の働くワーカーズ・コレクティブでは、上部の組織に対する交渉実践をとおして、自律的な労働の場と権限と責任の獲得がおこなわれており、また女性がケア能力以外のマネジメント能力を獲得することで、女性の労働市場における位置を変更させている。また介護保険制度以後に参入した若年男性ヘルパーは、ヘルパー職の職業としての確立を目指すなかで、家事サービスに積極的に取り組み「家事=女性の仕事」という言説を変化させている。ただし、ワーカーズ・コレクティブの交渉実践は、介護労働市場の家計補助的な賃金構造を変えるものではなく、また男性ヘルパーの交渉実践は、男性がマネジメント職につく性別分離を再生産している。こうしたことから、介護の社会化は、家庭の性別分業を「拡大再生産」しているのではなく、性別分業を「再編」しているといえる。

第6章では、以上の検討をふりかえり、資源配分構造と言説の構造のもとでの女性の行為主体性による性別分業の再生産・変動メカニズムについてまとめ、性別分業がなぜ性支配的なのか、結果の不平等と、再生産過程における男女の交渉力の格差という点から明らかにした。最後に、今後の課題として、女性間の格差や多様性を踏まえた性別分業論の展開が求められていることを指摘した。

審査要旨 要旨を表示する

山根純佳の博士論文、「なぜ女性はケア労働者になるのか」は、フェミニズム理論のふたつの系譜である構造決定論と主体選択論とを、ポスト構造主義フェミニズムの鍵概念である「エイジェンシー」概念を用いることで同時に乗り越えようとする理論的な調停の試みである。エイジェンシーとは、与件としてのジェンダー規則のもとにある言説資源やその他の物質的資源配分構造の制約のもとにありながらも、解釈実践と交渉実践によってそれを変更する潜在的可能性を持った行為主体性を指す。それを通じて、社会学の古典的な問いともいえる「構造か実践(主体)か」という問いに対しても一定の答えを与えることで、構造の再生産のみならず変動の可能性についても説明可能な理論的な枠組みを与えることで、今日の社会学理論へも貢献を果たした。

論文の構成は以下の通りである。まず序章で、性別分業が公的領域においても私的領域においても再生産されている状況を、「なぜ女性はケア労働者になるのか」と問いを立て、構造決定論と主体選択論のふたつの理論を検討し、エイジェンシーという鍵概念について説明を述べる。つづく1章では同じ対立を社会学の「構造」と「実践」概念で検討し、いずれもが再生産論に陥り、変動を説明できないことを批判する。2章では資源配分構造による構造決定論を批判し、3章では言説実践による再生産論に対して、「解釈実践」という概念を持ち込むことで、エイジェンシーの行使による変動の可能性を示す。さらに4章と5章では、以上の理論的な分析装置を用いて、家庭という私的領域における性別分業の再生産と、ケアワークという公的領域における性別分業の再生産について、エイジェンシーを通じての「交渉実践」の効果を、経験的なデータにもとづいて示す。とりわけ5章では、介護保険の導入後成立した介護労働力市場においても「ケアは女の仕事」という性別分業が再生産されているメカニズムを、女性を中心としたワーカーズ・コレクティブの交渉実践と、逸脱的な存在である男性ホームヘルパーの交渉実践というふたつの事例をもとに検証する。その過程で、性別分業の再生産のみならず、変動の潜在可能性が示される。最終章では結論として私的領域と公的領域との性別分業の再編成をつうじたジェンダー体制の再生産と、そのもとでの資源配分のジェンダー格差を指摘し、それがさらに女性間の多様性や格差を生み出すことを指摘して、将来の検討課題を示す。理論編に比べて実証編はいささか見劣りがするが、論文の主張は説得的であり、日本におけるジェンダー研究の第2世代の到達点を示す論文として、これ以降の研究者にとって里程標となる性格を持つ。以上の評価にもとづき、審査委員会は本論文を博士(社会学)の学位に相当するものと認める。

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