学位論文要旨



No 125147
著者(漢字) 宇野,直輝
著者(英字)
著者(カナ) ウノ,ナオキ
標題(和) APC-β-cateninシグナルに対するヒト正常線維芽細胞の癌抑制機序の解明
標題(洋)
報告番号 125147
報告番号 甲25147
学位授与日 2009.04.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 博医第3352号
研究科 医学系研究科
専攻 病因・病理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡山,博人
 東京大学 教授 伊庭,英夫
 東京大学 教授 宮園,浩平
 東京大学 教授 宮島,篤
 東京大学 准教授 高崎,誠一
内容要旨 要旨を表示する

様々な発癌ストレスに対して正常細胞は細胞周期停止・細胞老化・細胞死を介して発癌を抑制する機能を有している。Wntシグナルは大腸癌をはじめとする腫瘍の発症・進展に寄与することが知られているが、Wntシグナルに対するヒト正常細胞の癌抑制機能はほとんど解明されていない。本研究は癌抑制遺伝子APCの発現低下に対してヒト正常線維芽細胞がp53依存的に細胞周期を停止することを明らかにした。またそのシグナル伝達経路がβ-catenin-TCFに依存しないことを示唆した。

癌抑制遺伝子APCの発現抑制あるいは安定型β-cateninの過剰発現はヒト正常線維芽細胞の細胞増殖を阻害した。このことから、APC-β-cateninシグナルに対してヒト正常線維芽細胞は癌抑制機能を有することが示唆された。そのメカニズムを明らかにするため、細胞周期停止、細胞老化、及びアポトーシスについて検討した。

細胞周期解析の結果、癌抑制遺伝子APCの発現抑制あるいは安定型β-cateninの過剰発現はいずれもヒト正常線維芽細胞の細胞周期をG1期で停止させることが明らかになった。またAPCの発現抑制によって、サイクリン依存性リン酸化酵素阻害因子であるp16I(NK4A)・p21W(af1)・p27K(ip1)の発現増大、Rbの脱リン酸化、及びE2F1の標的遺伝子の発現低下が認められた。

癌抑制遺伝子p53は細胞周期停止・細胞老化・細胞死を制御することで癌抑制機能を果たすことが知られている。そこでp53の関与を検討した結果、APCの発現抑制あるいは安定型β-cateninの過剰発現による細胞増殖抑制はp53のノックダウンによって回避された。このことから、細胞増殖阻害はいずれもp53に依存することが明らかになった。p21は細胞周期停止に寄与するp53の標的遺伝子として知られているが、p21のノックダウンはAPCのノックダウンによる細胞増殖阻害を回復させなかった。そのため、APCの発現低下による細胞周期停止にはp21以外の遺伝子が機能的に重要であると考えられた。

Oncogene-induced senescenceは癌遺伝子の活性化や癌抑制遺伝子の不活性化に対する正常細胞の癌抑制機能として知られている。しかしながら、癌抑制遺伝子APCの発現抑制あるいは安定型β-cateninを過剰発現させたヒト正常線維芽細胞では細胞老化の表現型は認められなかった。このことは正常細胞の備える癌抑制機能を否定するものではなく、APC-β-cateninシグナルに対して、ヒト正常線維芽細胞は細胞老化ではなく細胞周期停止を介して癌抑制機能を発揮することを示唆している。

アポトーシスの関与についてはAPCを発現抑制させたヒト正常線維芽細胞の培養過程で死細胞がほとんど観察されないことやAnnexin V アッセイによってアポトーシス細胞が認められなかったことから、APCの発現抑制によってアポトーシスは起こらないと判断された。

APCによるβ-cateninの分解はその癌抑制機能に極めて重要であることから、APCの発現抑制によるヒト正常線維芽細胞の細胞周期停止はβ-cateninの安定化とそれに続くTCF4の活性化を介すると予想された。しかしながら、APCの発現抑制によってβ-cateninの安定化と核内移行が認められないことやTCF4のドミナントネガティブ変異体の過剰発現によってAPCによる細胞増殖抑制が回復しないことなどから、APCの発現抑制による細胞周期停止はβ-catenin/TCF4に依存しないことが示唆された。β-cateninに依存しないAPCの癌抑制機能はあまり知られていないが、APCはβ-catenin以外の様々な蛋白質と相互作用することでβ-catenin非依存的機能も担っており、β-catenin非依存的に細胞周期を制御することが報告されている。APCの発現抑制によるヒト正常線維芽細胞の細胞周期停止がβ-catenin-TCF4に依存しないという発見はその点において新規発見と考えられる。

発癌ストレスに対する正常細胞の生理的反応を評価するにあたって、過剰発現系は内在性遺伝子の機能欠損以上の価値を有さない。APCの発現抑制による細胞周期停止がβ-cateninに依存しないことが示唆されたことから、安定型β-cateninの過剰発現はAPCの発現抑制の結果を補強する根拠を失った。しかしながら、β-cateninの変異は様々な悪性腫瘍で認められており、それに対する正常細胞の防御反応であると考えることができる。

本研究によって、ヒト正常細胞がAPCの発現低下という発癌ストレスに対してp53依存的かつβ-catenin-TCF4非依存的に細胞周期を停止させることで癌抑制機能を果たすことが示唆された。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は発癌ストレスとして知られるAPCの不活化及びβ-cateninの安定化に対するヒト正常細胞の反応を評価し、それらに対するヒト正常細胞の癌抑制機能を解明することを目的としている。ヒト正常線維芽細胞を用いたレトロウイルスによる遺伝子導入実験系で以下の結果を得ている。

1.APCに対する3種類のshRNAをレトロウイルスを用いてヒト正常線維芽細胞に導入した結果、良好なノックダウン効果が認められた2種類についてのみ、BrdUの取り込みが減少することが明らかになった。またAPCのノックダウンによって細胞増殖も抑制されることが明らかになった。

2.細胞老化の表現型として知られる大きく扁平な細胞形態、SA-βgal染色陽性、SAHF (senescence associated heterochromatin foci)はいずれもAPCをノックダウンした場合と正常対象で有意な差は認められなかった。

3.FACSによる細胞周期の解析によって、APCのノックダウンは細胞周期をG1期で停止させることが明らかになった。

4.Western blottingの結果、APCのノックダウンによって、G1期を制御するCDK inhibitorsであるp16・p21・p27の発現はいずれも増加し、Rbは脱リン酸化し、E2F1の標的遺伝子の発現は低下することが明らかになった。

5.APCのノックダウンと同時にp53をノックダウンした結果、BrdUの取り込みの低下が回復したことから、APCのノックダウンによる細胞周期停止にはp53が機能的に必要とされることが明らかになった。しかしながら、p21をノックダウンした場合は細胞増殖抑制の回復は認められず、p21はAPCのノックダウンによる細胞増殖抑制に必要とされないことが示唆された。

6.APCのノックダウンによる細胞増殖抑制にアポトーシスが関与するかどうかを検討するため、Annexin V陽性かつPI陰性の細胞分画は正常対象と同様にAPCのノックダウンでも認められなかった。培養過程で死細胞はほとんど認められないことからも、APCのノックダウンによってアポトーシスは生じないと考えられた。

7.β-cateninの安定化がヒト正常線維芽細胞に及ぼす影響を検討した結果、β-cateninの安定型変異体の過剰発現によって、細胞増殖抑制とBrdU取り込みの低下が認められた。

8.安定型β-cateninを過剰発現させた細胞では、癌型Rasの過剰発現で認められるような細胞老化の表現型は認められず、正常対象と比して有意な差が認められなかった。

9.FACSによる細胞周期分析によって、安定型β-cateninは細胞周期をG1期で停止させることが明らかになった。

10.p53をノックダウンした細胞では、安定型β-cateninによる細胞増殖抑制が回復したことから、安定型β-cateninによる細胞増殖抑制にはp53が必要とされることが明らかになった。

11.APCのノックダウンによる細胞増殖抑制がβ-catenin-TCF経路を介した表現型か否かを検討した結果、APCのノックダウンによってβ-cateninの蛋白発現量は変化せず、β-cateninの核内移行も認められず、TCF4のドミナントネガティブ変異体を過剰発現させても細胞増殖抑制は回避されなかったことから、APCのノックダウンによる細胞増殖抑制はβ-catenin-TCF4経路を介さない可能性が示唆された。

以上の知見から、発癌ストレスとして知られるAPCの不活性化及びβ-cateninの蓄積に対して、ヒト正常細胞はp53依存的に細胞周期停止を起こすことが明らかになった。この結果は発癌ストレスに対するヒト正常細胞の癌抑制機能に矛盾せず、ヒト正常細胞の新たな癌抑制機能を提示する発見として学位の授与に値すると考えられる。

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