学位論文要旨



No 125154
著者(漢字) 包,聯群
著者(英字)
著者(カナ) ホウ,レンチュン
標題(和) 言語接触と言語変異 : 中国黒龍江省ドルブットモンゴル族コミュニティー言語を事例として
標題(洋)
報告番号 125154
報告番号 甲25154
学位授与日 2009.04.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第910号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 ラマール,クリスティーン
 東京大学 教授 生越,直樹
 東京大学 准教授 吉川,雅之
 東京外国語大学 教授 二木,博史
 首都大学東京 准教授 ロング,ダニエル
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、今まで記述されたことのない中国黒龍江省ドルブット(杜爾伯特)モンゴル族コミュニティー言語(Dorbed Mongolian Community Language、「接触言語」)の記述を行うことを主な目的とした。中国黒龍江省ドルブッドモンゴル族自治県は、黒龍江省における唯一のモンゴル族自治県であり、黒龍江省のモンゴル族の三分の一を占める4万人以上が集中して居住する地域でもある。ここで暮らすモンゴル族の多くは日常的にモンゴル語の形態要素と中国語の語彙要素が混合した言語を話している。例えば、1)の第一人称代名詞 [bi:]「私」、テンス語尾を示す [-na:] はモンゴル語が起源であるが、名詞"(〓)dianhua"「電話」、動詞"打da"「打つ」は、中国語が起源である。2)の〔la-b-辣-di:〕「とても辛い」はモンゴル語とも中国語ともかなり異なっており、この表現には中国語起源の形容詞"辣la"「辛い」とモンゴル語形容詞の強意形接辞 [-b-] が含まれている

1) bi: (〓) 打-na:.

1SG 電話 かける‐NPT

(私が電話をかけます。)

2) en ncvc: la-b-辣-di:.

この 料理 辛い.INT‐DE

(この料理はとても辛いです。)

本研究は全九章から構成されている。序章では事例研究を紹介し、本研究で取り上げる課題を提起した。第2章ではドルブットモンゴル族をとりまく教育的・社会的状況を概観し、第3章ではDMCLの音韻的・形態的・統語的特徴を分析した。第4章から第6章では、バイリンガル動詞、バイリンガル形容詞、DMCLの名詞を考察した。第7章では、ドルブットモンゴル族の言語使用と言語意識等を考察し、第8章ではBakker and Muysken(1994)、Bakker(2003)等が提示した混合言語(Mixed Language)という概念に基づき、混合語論争とDMCLの位置付けを試みた。第9章では本研究の内容をまとめた。

以下、本研究で明らかにした点を述べる。

(1)DMCLを話す人々の教育状況と言語生活

ドルブットモンゴル族が居住する地域には、1904年の「蒙地開放」政策およびその後の移民政策等によって漢民族が大量に移住してきた。この地域のモンゴル族がDMCLを話すようになった背景には、モンゴル語による教育が継続的でなかったこと、マスメディアによる中国語の影響の拡大、中国語の社会的、経済的優位性等があった。現在、ドルブットモンゴル族は、中国語、DMCL、モンゴル語の三種類の言語を使用しており、場面や相手に合わせて使用言語を選ぶ。フォーマルな場面での使用言語は中国語であり、カジュアルな場面ではDMCLが多く使用されるが、モンゴル語は僅かな人によって限られた場面でのみ用いられるというダイグロシア状態が観察された(第2、7章)。

(2)「言語の絡み合い」によって生まれた言語-DMCLの主な特色

DMCLはモンゴル語の文法をベースとし、中国語から語彙を大量に取り入れた言語である。DMCLの文法形態素と語彙形態素はそれぞれ異なる言語を起源としている。DMCLはこの点で、Bakker and Muysken (1994)が指摘した「language intertwining」現象と類似しており、混合言語のアングロ・ロマーニー語、メディア・レングア語、ミチェフ語と極めて近い構造をもっている。DMCLとこれらの言語は、単一の祖語を受けついだものではない点と、バイリンガルコミュニティー内部で使用する言語である点でも共通している。また、DMCLの話者は少なくとも起源言語のどちらか一つを話すことが可能である。

音韻的な面(3.3)では、DMCLのモンゴル語起源の要素はドルブットモンゴル族地域のモンゴル語と同じ音韻体系を示す。DMCLに用いられる中国語起源の語彙は、声調を失い、語の第一音節の母音にストレスが置かれる。中国語においては本来声調によって語の意味を区別するが、DMCLに取り入れられた語彙の各音節には声調の対立が認められない。中国語起源語彙の音声構造の変化は声調対立の消失のほかに、セグメントの部分にも及ぶ。語彙は中国語由来でも、韻律面では中国語の音韻体系に沿う形になっておらず、モンゴル語の音韻体系の方が支配的となっている。

形態的な面(3.4)では、DMCLの中国語起源の語彙はモンゴル語固有の語彙と同様に様々な形態変化をもつようになる。中国語はほぼ形態変化をもたないが、DMCLの一部になると、中国語起源の名詞にはモンゴル語の曲用語尾、動詞にはモンゴル語の活用語尾などが付加され、モンゴル語の形態変化のルールが適用される。

統語的な面(3.5)では、DMCLはOV型言語であるモンゴル語の統語規則を受け継いでいるため、中国語起源のVO型のフレーズは様々な形で処理される。DMCLはモンゴル語の〔目的語―動詞〕という語順を継承しており、DMCLの名詞と接置詞、動詞とモダリティ助動詞、否定とヘッドの語順は中国語とは異なり、モンゴル語に従ったものである。

本研究では、以上の言語事実に基づき、DMCLが二つの起源言語(source languages)から成立っており、形態・文法は基本的にモンゴル語の形態・統語規則が適用されているという結論を得た。本研究ではさらに動詞・形容詞・名詞という主な品詞を対象として、言語接触で生じた新しい「接触言語」の振る舞いを詳しく記述・分析し、接触言語の形成メカニズムを解明することを試みた。

(3)DMCLの動詞、形容詞、名詞

第4章では、DMCLの動詞のうち、「バイリンガル動詞」(Muysken 2000)と名付けたタイプの動詞に焦点を当てた。バイリンガル動詞とは主に中国語起源の動詞にモンゴル語起源の接尾辞、テンス語尾やアスペクト語尾・マーカーなどが接続され、新たに作られた動詞を指し、ここには中国語起源の語にモンゴル語起源の軽動詞 [xix]「スル」をつけて構成する動詞も含まれる。DMCLの動詞の大多数は、このような新たに生成された動詞が占めている。ここでは、前者をタイプI【V+接尾辞と語尾】、後者をタイプII【V/N+xix】と分けて考察した(4.3)。タイプIの場合、中国語由来の動詞が動詞として借用され、モンゴル語では動詞にしか接続できない接尾辞が付加される。DMCLでは動詞が借用されている事実は、「動詞が借用されにくい」という一部の意見に対する反例を提示している。タイプIIは、言語接触研究でしばしば論じられる「ダミー動詞」が活躍するタイプの動詞である。

バイリンガル形容詞(第5章)の最も重要な特徴の一つは、中国語の形容詞に後続する接辞"的de"に由来する接尾辞 [-di:] を、中国語起源形容詞のすべてに付加するという現象である(5.5)。それによって、中国語では形式・形態・文法機能の面で厳格に区別される「性質形容詞」と「状態形容詞」の区別がなくなり、中国語の形容詞の大切な文法カテゴリーが統一化される点は、言語接触研究で指摘される「簡略化」現象の一例とみなせる。DMCLの中国語起源の形容詞に付く接尾辞 [-di:] の使用範囲は中国語の形容詞接尾辞"的de"の使用範囲を遥かに超えており、義務的な構成部分となっている(5.5)。DMCLの接中辞 [-b-] の挿入による強意形は、モンゴル語固有語の形容詞の強意形とは異なり、文に用いられるには接尾辞 [-di:] の付加が必要となり、新たな形容詞を構成している(5.6)。

DMCLの名詞(第6章)はモンゴル語固有の拡張形(6.3)を用いているが、ルールの細部においてはモンゴル語との違いがみられ、モンゴル語の規則をすべてそのまま継承しているわけではない(6.3.2)。これは、二つの異なる言語の接触によって生まれた言語には独自の形態規則があることを反映している。DMCLは類別詞を持たないモンゴル語と異なり、中国語から意味が抽象化した"个ge"「ツ」以外の類別詞を多数取り入れている(6.4.4)。

(4)言語使用と言語意識

モンゴル語カリキュラムの生徒の6割以上はDMCLがすでにモンゴル語と中国語の混合言語となり、「漢語化」したとみている。DMCLの使用率及びDMCLに「親しみを感じる」人は8割以上を占めている。中国語カリキュラムの保護者の4割弱はすでにDMCLから中国語への言語シフトを完成している(7.4)。

(5)混合語(ML)論争とDMCLの位置付け

第8章では、DMCLは混合語であることを確認した。DMCLは起源言語のモンゴル語とは異なり、モンゴル系諸言語と類似点をもつ一方、相違点も有している(8.1.1)。DMCLはBakker(2003)と Croft(2003)が提示したMLとの類似点が多い(8.1.3)。DMCLはモンゴル語から中国語へ言語シフトする途中段階にきており(8.3.2)、Bakkerが提示したMLの定義に合致し、その基準を満たしている。DMCLの形成プロセスにおいては、コードスイッチングも、化石化したコードスイッチングも決定的な役割を果たしたとは考えにくい(8.2.2)。DMCLは短期間で生じた新しい言語である(8.2.2、8.3.1)。

最後に本研究ではDMCLを「他の言語と同様な言語機能をもち、コミュニケーションの道具としての役割を果たしている」と位置付けた(8.4)。その上で、DMCLは中国語の影響を強く受け、言語接触(language contact)による言語変異を経て発展した独自の言語体系をもつ言語であるという結論に至った。

審査要旨 要旨を表示する

包聯群氏の博士論文『言語接触と言語変異-中国黒龍江省ドルブットモンゴル族コミュニティーを事例として -』は中国東北部の黒竜江省に位置するドルブットモンゴル族自治県において、モンゴル系住民のあいだに広く用いられる話しことばの実態を記述・分析するものである。本論文は、筆者の数年間にわたる現地調査を経て収集したデータに基づいて、その言語が漢語(中国語)・モンゴル語の両言語の接触によってモンゴル系住民というバイリンガル集団において生まれたいわゆる「接触言語」であると主張し、その言語は漢語とモンゴル語に由来する言語素材を組み合わせながらも、どちらとも異なる言語体系を有する独立した言語とみなすべきであることを実証することを目指している。論文は更にこの事例が社会言語学界で注目される混合言語のほかの事例との類似点と相違点を整理し、言語接触研究の観点からの議論も行う。以下では、研究対象となっている言語は特に名前がないため、論文筆者が与えたDMCL(Dorbed Mongolian Community Languageの略)という言語名を用いる。

本論文は9章で構成されている。まず序章では、本論文で考察する11の課題を提示し、アジア大陸で話されているモンゴル系の言語及び論文が基づく言語データを紹介する。

第2章は黒竜江省ドルブットモンゴル族自治県の歴史的変遷、モンゴル系住民と漢民族系住民の人口の変遷、その地域の言語・教育政策の変遷を紹介し、DMCLの生まれた背景となる社会的状況を明らかにする。公式資料のみに頼ることなく、文献資料を現地調査で得たデータと組み合わせてその実態を見抜く努力がなされている。

第3章はDMCLの全体像を描く。そのソースである二つの言語(モンゴル語と漢語)と対照させながら音韻・形態・文法の主な特徴をまとめる。たとえば、DMCLにおける漢語由来の語彙形式がモンゴル語のストレスパターンに合わせられ、名詞がモンゴル語の格助詞をとり、全体の語順は基本的にモンゴル語の語順となることに基づいて、モンゴル語の体系が支配的であると述べる。また、本論文が多く参照する理論的枠組み(Bakker & Muysken 1994)が提示した「言語の絡み合い」(language intertwining)という概念を紹介する。

第4、5、6章はDMCLにおいて中国語由来の語彙形式がいかにモンゴル語の形態・文法体系に組み入れられているかを示すために、それぞれ動詞、形容詞、そして名詞関連の言語現象の記述と分析を行っている。第4章は中国語由来の動詞とモンゴル語由来の接辞の組み合わせの規則を描く。第5章は中国語由来の形容詞がDMCLに取り入れられる際、一律に [di:]という接辞が接続される現象と形容詞の強意形をつくる接中辞の挿入現象の記述を通じて、モンゴル語とも中国語とも異なるルールの存在を指摘する。第6章では、DMCL が中国語の名詞を借用する際に、モンゴル語に存在しない類別詞(いわゆる助数詞)も取り入れる傾向があることを述べる。また、中国語起源の名詞に見られるモンゴル語同様の接中辞の挿入などという複雑な形態変化を詳細に記述する。この三つの章における詳細な記述を経て、DMCLが独自の形態・文法規則を有する事実が浮かび上がり、起源言語であるモンゴル語と中国語から独立した言語体系の存在が実証されている。

第7章はDMCLの話し手に対するアンケート調査を紹介し、言語に対する意識を論じる。第8章は社会言語学研究における言語接触論、言語接触による言語変異、そして混合言語といった研究分野の観点からDMCLの形成過程とその性質を論じる。DMCL はモンゴル系住民内部のコミュニケーション手段である点に着目し、モンゴル人がモンゴル語から漢語へと切り替える長期的なプロセス(language shift)において、民族アイデンティティーの指標としての役割も果たしているという見方を提示した。第9章は全体のまとめである。

包聯群氏の論文は、言語学的な記述がなされていない、名前すらない言語を、綿密な現地調査を通じて収集したデータに基づいて記述・分析し、漢語とモンゴル語の接触によって生まれた混合言語の事例研究を成し遂げた。ドルブットモンゴル族自治県という特定の地域で話されていることばの記述ではあるが、黒龍江省に住居する6万人のモンゴル人のあいだに類似した言語がかなり用いられていると想定でき、本論文がその言語の最初の本格的な記述・研究であることは特筆すべきである。審査委員から、モンゴル語と漢語の接触は中国内で広範囲に生じており、本論文で扱った黒龍江省の事例は、一つの典型的なケーススタディとして、今後の研究の基礎になりうるものであるという評価を受けた。またほかの審査委員が、本論文はアジアの言語同士の混合言語の事例研究として、言語接触理論の構築に大いに貢献するものであるという評価を受けた。

その一方で,課題が残されていないわけではない。審査委員から、DMCLの音韻・音声に関する記述が不十分である点、ドルブット地域のモンゴル方言や行政区の歴史変遷についての先行研究に対する目配りが必ずしも十分ではない点などが指摘された。しかしこれらの不備は本論文の学術価値を些かも損なうものではない。包聯群氏の博士論文の研究内容の幅広さ、扱う研究題材の重要さとオリジナリティ、研究全体の独創性は非常に顕著である。したがって、本審査委員会は包聯群氏の論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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