学位論文要旨



No 125155
著者(漢字) 牧野,元紀
著者(英字)
著者(カナ) マキノ,モトノリ
標題(和) 前植民地期ベトナム北部におけるキリスト教コミュニティの形成と変容1788-1847年、パリ外国宣教会西トンキン代牧区を中心に
標題(洋)
報告番号 125155
報告番号 甲25155
学位授与日 2009.04.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第911号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古田,元夫
 東京大学 名誉教授 五野井,隆史
 東京大学 教授 並木,頼寿
 東京大学 教授 村田,雄二郎
 東京大学 准教授 長谷川,まゆ帆
内容要旨 要旨を表示する

19 世紀前半のベトナムでは阮朝(1802―1945 年)がキリスト教(カトリック)に対する厳しい弾圧を行った。それはやがてフランスの軍事介入を招き、一連の不平等条約締結と植民地化の引き金となった。阮朝のキリスト教弾圧はフランスとの関わりのなかでベトナムの近代を運命づける出来事であった。

しかし、弾圧の対象となったベトナムのキリスト教コミュニティがいかなるものであったのか、その全容は未だ詳らかではない。本論文の目的はベトナムにおいてキリスト教宣教を主導した「パリ外国宣教会 Missions Etrangeres de Paris(略称 MEP)」の管轄におかれた 「西トンキン代牧区 Vicariat Apostolique du Tonkin Occidental」を事例に前植民地期ベトナム北部のキリスト教社会の動態を明らかにすることにある。西トンキン代牧区は当時のベトナムで最大規模のキリスト教コミュニティであった。

16 世紀の宣教開始以来およそ 300 年にわたって形づくられてきたベトナム北部のキリスト教コミュニティはやがて本格化するフランスの軍事侵攻とそれに続く民衆の大規模な反キリスト教運動の展開を目前にした19世紀前半にいかなる様相を呈していたのであろうか。その実態はこれまでほとんど知られていない。従来のベトナム史研究ではキリスト教コミュニティをめぐる諸問題がその重要性は認識されながらも、資料の不足や政治・宗教のイデオロギー的障壁から周縁に位置づけられてきたためである。

本論文は 1990 年代後半から一般公開の進むフランスの MEP 所蔵文書とベトナムの現地語資料との双方を収集し史料批判を適宜加えることによりキリスト教コミュニティをあるがままの社会史的研究の対象とした。これにより非キリスト教コミュニティを主として構築のなされてきた前植民地期ベトナム北部の村落社会像に対してキリスト教コミュニティ側からみた新たな具体像を提示することがようやく可能となった。

本論文の構成は大きく三つに分かれる。MEP の世界大的布教活動におけるベトナム北部宣教の位置づけの把握(第I部)、ベトナム北部におけるキリスト教社会と非キリスト教社会の双方における人々の流動性や文化の連続性についての考察(第II部)、ベトナム北部のキリスト教コミュニティ内部において拡大しつつあった地域性の差異とその政治的・社会的背景の分析(第III部)である。

はじめに、第I部「パリ外国宣教会とベトナム北部宣教」ではMEPの活動を17世紀中葉の創設時から本論文が分析の中心とした19世紀前半に至るまでの長いタイムスパンから俯瞰することで、同会にとってのベトナム北部宣教事業の歴史的意義を外枠から把握することに努めた。

第1章「18 世紀以前のパリ外国宣教会とベトナム北部宣教」では、MEP がベトナムに到来した当初、現地で宣教を主導していたのはイエズス会であり、MEP が一定の教勢を保持するようになったのは同会がいわゆる典礼論争に敗れて衰微する 18 世紀半ば以降であったことを示した。MEP は旧イエズス会配下の者を自らの組織に再編成し、彼らの活躍をとおして一般信者の掌握を図った。政権との関係では黎朝鄭氏政権による弾圧下で代牧区の中心地であったナムディン Nam Dinh のコミュニティが首都に近く頻繁な被害を受けたのに対し、もう一つの中心地であるゲアン Nghe An では地方高官がキリスト教勢力をしばしば保護する特異な傾向のみられることを確認した。このナムディンとゲアンの二極構造は西トンキン代牧区における MEP のその後の宣教活動に柔軟性と持続性を与えることになった。

第2章「19 世紀前半のパリ外国宣教会とフランスの宣教支援団体」では、19世紀前半にMEPがベトナムでの宣教活動を継続発展させるうえで本国フランスからいかなる具体的支援を得ていたのかを政治・経済の両面から考察した。MEP はこの時期、大革命後に頻発する一連の反教権主義運動による打撃は被ったものの、制度改革をつうじた組織内部の建て直しに成功した。さらにナショナリズムの高揚という時流に乗じて政府要人や海軍関係者からも直接的支援を受けた。カトリック界では極東での勢力拡大に向けて宣教団としての正統性を得たほか、同時代に設立された「信仰普及協会 Association de la Propagation de la Foi」 や「聖嬰会 OEuvre de la Sainte Enfance」などの民間の宣教支援団体から莫大な経済的援助を受けることができた。MEPではこれら有形無形の物質的支援を背景に19世紀前半をとおして宣教人員の増加をみた。その主たる派遣先の一つがベトナムであった。

第3章「ベトナム宣教事業をめぐるパリ外国宣教会宣教師の心性」では MEP が他ならぬベトナムでの宣教に固執した精神的動機を考察した。阮朝政権の度重なる弾圧にもかかわらず、ベトナムでの宣教活動が進展した要因の一つは宣教師たちの集団心性に求められる。彼らの精神には反教権主義運動下の同時代フランスと、徹底した弾圧のため宣教事業自体が潰えた17世紀の日本に対するある種のトラウマが存在した。ベトナムは「第二の日本」と位置づけられ、その宣教事業の進展は殉教によって効果的に示されることとなった。殉教者の創出と体系化の作業は効率的に進められ、MEPはフランスとベトナムの教界を精神面で連結し、厳しい弾圧下でも宣教活動を継続しながら教勢の維持と拡大に努めることが できた。

つぎに、第II部「パリ外国宣教会のベトナム北部における布教活動の実態」ではベトナムのキリスト教コミュニティの動態を把握するために内側から踏み込んだ分析を進めた。 政権による厳しい弾圧にさらされながらも北部の村落社会のなかで300 年にわたってキリ スト教コミュニティが存立しえたのはなぜか。ここではそれが従来想定されてきた孤立性や断絶性にあるのではなく、周囲の非キリスト教コミュニティとの間でみられた人々の双方向的流動性や文化的連続性にあると結論した。

第4章「神の家の組織」では、代牧区内における信仰生活共同体の中核組織であり、現地人聖職者養成の要であった「神の家」の全容を解明した。当初は共有財産制を軸とした安定的な経済基盤に依拠し、その構成員のなかから聖職志望者を選抜したうえで必要な教育と扶養を与えるのが設立の目的であった。また、コミュニティ内の貧者・病人・孤児に対しても信者・非信者を問わず救済活動を行い、適宜受け入れるなどの社会福祉的機能も持ち合わせていた。元来は厳格な規律に基づく信者限定の禁域的生活共同体を志向したが、時代とともに組織の性格は変容をとげた。とくに 18 世紀後半以降は動乱の続くベトナム北部の政治社会の変化と密接に連動した。「神の家」出身の青年が反政府運動に加わり、「俗世」での栄達を狙うこともしばしばみられた。教界と俗界を連結する「神の家」のこうした開放性は北部のキリスト教コミュニティの持続と発展を根底から支えるものであった。

第5章「カテキスタの活動」では、「神の家」で教育を受けながらヨーロッパ人宣教師や現地人司祭の下で聖職者組織の末端として働き、聖職者上層と一般信者とを在地で結ぶ役割を担ったカテキスタ catechist の多岐にわたる活動について分析を行った。上位のカテキスタは教義を熟知するキリスト者でありながら同時に漢字・漢文に秀でた中国古典の知識をもつ文人としての性格をもっており、信者・非信者を問わず現地社会では村落知識人としての敬意を集める存在であった。他方、18 世紀末以降の組織拡大と人員増大の影響を受けた下位のカテキスタは上位聖職者に対する従属的性格が次第に強まったため職業人としての質の低下も顕著にみられた。いずれにしてもその「境界者」的性格は流動化する当時の北部村落社会の構造変容を象徴するものであった。

第6章「布教に用いられた書記言語」では、北部のキリスト教コミュニティと非キリスト教コミュニティとの間の文化的連続性に関して、布教活動で用いられた書き言葉に焦点をあてて議論を進めた。MEP所蔵の各種宗教書と宣教師書簡を精査した結果、19 世紀中葉に至るまで聖職者・支配層・知識層・一般層を問わず、教界で使用された文字言語はほとんどの場合、漢字とチュノム chu nom であり、従来キリスト教コミュニティを特徴づける存在とみなされてきたクオックグーquoc ngu については非常に限定的な使用に留まったことを実証した。前植民地期のベトナム北部ではキリスト教コミュニティと非キリスト教コミュニティとの間に少なくとも言語文化の面で際立った相違はみられなかったといえる。

第7章「一般信者のくらし」では、キリスト教コミュニティを基底で支えた主要構成員でありながらも従来ほとんど明らかでなかった一般信者の日常について考察した。信者は代牧区内各所に散在する最小の集住単位である「クレティアンテ chretiente」に居住した。 各クレティアンテでは「チュム trum」とよばれる指導者が窓口となって上位カテキスタ・司祭・宣教師などと接触したほか、非信者や地方官との折衝においても信者たちを代表し た。北部での信者は大部分が農民であったが、漁民・兵士・医師など日常的移動を前提とした職層にも比較的多くみられた。こうした移動者のネットワークが中央の弾圧政策を地方末端で機能不全に陥らせた。また、捕縛司祭の救出事例をもとに弾圧下のクレティアンテにおける信仰活動の維持に重要な役割を担ったのが女性の一般信者であったことも明らかにした。

最後に、第III部「ベトナム北部における現地政権とキリスト教コミュニティとの関係」 では、第I部と第II部で判明した諸事項を議論の前提としたうえで、18 世紀末から 19 世紀中葉にかけて西トンキン代牧区内部でにわかに拡大した地域性の差異とその社会的背景について分析を進めた。中央の禁教政策への対応をめぐって、現場での地方官と教会勢力との関係を軸に代牧区内部の主要コミュニティであったナムディンとゲアンの教界がいかなる盛衰を遂げたのかを明らかにした。

第8章「西山朝下の西トンキン代牧区(1788―1802)」では、従来の研究で反キリスト教的形容のなされる西山政権下において北部では19世紀以降に続くキリスト教コミュニティ発展の基礎が形成されたことを論じた。光中帝治下の安定した宣教環境のなかでロンジェLonger代牧司教は管区制の導入・ヨーロッパ人宣教師の優越性確認・個人消費の認可などの諸改革を行い、組織の集約化を一挙に図った。以後、各管区・小教区の管理を委ねられた宣教師と現地人司祭は相互に監督し合い信者の督励や信仰の維持に努めた。またゲアンでは西山朝期においても前代の黎朝鄭氏政権時代の「伝統」が引き継がれており、キリスト教をめぐる弾圧政策の執行については地方高官の意思に大きく委ねられていた。

第9章「阮朝明命期のナムディンとゲアン(1820―1841)」では、ベトナムのキリスト教史上未曾有の大弾圧が行われた阮朝の明命期にナムディンとゲアンのキリスト教コミュニティがいかなる状況に置かれ変容を被ったのかを明らかにした。信者の関与が疑われる反乱が頻発し、常に不安定な社会情勢におかれたナムディンでは明命帝の派遣した反キリスト教官人の主導で容赦ない弾圧政策が遂行され壊滅的状況に陥った。これとは対照的にゲアンではカトリック高官あるいは親カトリックの高官が頂点に立つ現地官界とキリスト教界とが互いに働きかけを行い、現行の社会秩序の安寧と治安維持に努めた。ゲアンのコミュニティが明命弾圧をほとんど無傷で乗り切ったことでベトナム北部のキリスト教社会は全壊を免れ、紹治期以後の速やかな再出発が可能となった。

第10章「阮朝紹治下、南トンキン代牧区の成立(1841―1847)」では、従来のベトナム史研究でほとんど関心を集めてこなかった紹治期こそがキリスト教勢力の動態に着目するならば非常に重要な時期であったことを明らかにした。アヘン戦争後の国際情勢の緊迫を受けた政権による禁教政策の軟化、天災や疫病などの相次ぐ社会不安の増大は同時期にフランス本国から物心両面での支援を得たMEPにとって宣教再開の好機となった。医療行為や教育活動をとおして教勢はにわかに拡大し、さらに宣教師・現地人聖職者・一般信者の急増を反映して既存の代牧区から新たな代牧区の分立が促された。こうした状況下、明命期の弾圧をほとんど無傷で乗り越え、西トンキン代牧区内で自律的傾向を強めていたゲアン地方は 1847 年、「南トンキン代牧区Vicariat Apostolique du Tonkin Meridional」として新たに分離独立するに至った。

これまで前植民地期ベトナムにおけるキリスト教コミュニティは専ら非キリスト教コミ ュニティとの間での「対立・排除」のいわば観念論的図式のみから描かれてきた。しかし、公開されたばかりの教会側・現地政権側双方の資料を読み解くと、二つのコミュニティの間は必ずしも対立関係に終始していたわけでなく、むしろ社会的・文化的連続性が広く認められる。両者は潜在的には緊張をはらみつつも、平時には住み分けのなされる共存関係 にあった。

18世紀末の西山政権につづく19世紀前半の阮朝政権による弾圧政策下、北部のキリスト教コミュニティは内外で生じる社会情勢の変動に対応し変容をとげることで宗教生活共同体としての生き残りと教勢の拡大を果たした。宣教開始からおよそ3世紀を経たキリスト教はこの頃すでに「伝統」宗教の一つとして北部の村落社会に根を下ろす存在であった。

西トンキン代牧区はナムディン地方とゲアン地方を布教活動の核とした。前者は弾圧が最も激化した阮朝明命期に壊滅的被害を受けたが、後者はほとんど損傷を受けずに共同体を維持することに成功した。つづく紹治期、緊迫する国際情勢を背景に弾圧政策が弛緩し、宣教をめぐる環境が安定するとゲアン地方の各クレティアンテは教勢を益々盛んとした。この結果、ゲアンを中心とする北中部のMEP管轄地域は南トンキン代牧区として新たに分立するに至り、フランスによる植民地化前夜にその独自性を一層強めてゆくことになるの であった。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、18世紀後半から19世紀半ばにかけての、パリ外国宣教会(MEP)西トンキン代牧区を中心とする、べトナム北部におけるキリスト教コミュニティの形成と変容を、社会史的に考察したものである。

本論文は三部から構成されている。第I部「パリ外国宣教会とべトナム北部宣教」では、MEPの世界全体での布教活動におけるべトナム北部宣教の位置が検討されている。第1章「18世紀以前のパリ外国宣教会とベトナム北部宣教」では、べトナム布教で先行していたイエズス会が、典礼論争に敗れて衰微する18世紀半ば以降、MEPがべトナム北部においてイエズス会の勢力を吸収しつつ本格的に地歩を築くようになったこと、その活動にはナムディンとゲアンという二つの中心があり、黎朝鄭氏政権の下で前者が頻繁に弾圧に見舞われたのに対して、後者ではキリスト教に理解を示す高官による保護があったことが指摘されている。第2章「19世紀前半のパリ外国宣教会とフランスの宣教支援団体」では、MEPがフランス革命後の反教権主義運動による打撃を受けたものの、ナショナリズムとの一体化によって勢力を回復し、教皇から極東での勢力拡大をはかる宣教団としての正統性を獲得する一方、民間の宣教支援団体から莫大な金銭的支援を獲得したことが指摘されている。第3章「べトナム宣教事業をめぐるパリ外国宣教師の心性」では、MEPがべトナムでの宣教にかけた精神的背景が考察され、かつて徹底した弾圧のため宣教事業が潰えた日本に対するトラウマが宣教師には存在し、べトナムは「第二の日本」と位置づけられ、べトナム政権による弾圧の強化は、むしろ宣教師達の「殉教精神」をかきたてることになったことが指摘されている。

第II部「パリ外国宣教会のベトナム北部における布教活動の実態」では、MEPが組織したべトナム北部のキリスト教コミュニティのあり方が、非キリスト教徒社会との断絶よりは連続性に力点を置いて論じられている。まず第4章「神の家の組織」では、代牧区における信仰生活共同体の中核組織である「神の家」について、それが共有財産制による安定的な経済基盤を有し、その構成員の中から聖職志望者を選抜し必要な教育をほどこすという機能とともに、貧者・病人・孤児などを信者・非信者の区別なく救済するという、開放的性格もあわせもっていたことが明らかにされている。第5章「カテキスタの活動」では、現地人聖職者組織の末端に位置し、上級聖職者と一般信者を結ぶ役割を果たしたカテキスタについて、上位のカテキスタは漢字・漢文に秀でた文人という性格をももっており、信者・非信者を問わず村落知識人として敬意を集める存在であったことなどが解明されている。第6章「布教に用いられた書記言語」では、19世紀の半ばまでに時期においては、布教活動の書記言語として主に用いられていたのは、アルファベット化されたべトナム語(クオックグー)ではなく、漢字・チューノムであり、言語文化という面でキリスト教コミュニティと非キリスト教コミュニティとの間に際立った相違はなかったことが指摘されている。第7章「一般信者のくらし」では、代牧区に散在する最小の集住単位であるクレティアンテのあり方、そこをたばね信者たちを代表して非信者や地方官人との折衝にあたった「チュム」の存在などを検討し、信者の大半は農民であったが、漁民・兵士・医師など移動性の高い職層にも信者は多く、こうした移動者のネットワークや女性が、弾圧への抵抗では重要な役割を果たしたことが指摘されている。

第III部「べトナム北部における現地政権とキリスト教コミュニティとの関係」では、18世紀末から19世紀前半にかけての現地政権とキリスト教コミュニティとの関係を、ナムディンとゲアンの地方官と教会勢力の関係に注目して検討している。第8章「西山朝下の西トンキン代牧区」では、従来キリスト教にとっては暗黒時代として描かれることが多い西山朝期が、むしろその後のべトナム北部におけるキリスト教コミュニティ発展の基礎が形成された時代であったこと、この時期にもゲアンではキリスト教への対応が地方高官の意思で大きく左右される構造が存在していたことが指摘されている。第9章「阮朝明命期のナムディンとゲアン」では、未曾有のキリスト教大弾圧が行われた明命期にも、ナムディンでは徹底した弾圧が行われたのに対して、ゲアンではキリスト教に理解をもつ高官が頂点に立つ現地官界とキリスト教コミュニティが協力して社会秩序の維持を図り、明命弾圧を無傷で乗り切ったことが明らかにされている。第10章「阮朝紹治下、南トンキン代牧区の成立」では、紹治期がMEPにとって宣教再開の好機となり、その際ゲアンの果たした役割は大きく、そのことが1847年の南トンキン代牧区の成立にたつながったことが明らかにされている。

本論文の意義は、まず第一に、1990年代後半から公開が進んだフランスのパリ外国宣教会文書館の所蔵文書を駆使し、それとベトナム側の資料をつきあわせて、18世紀後半から19世紀半ばにかけてのMEPの西トンキン代牧区のあり方をきわめて実証的に描いた点にあり、従来きわめて政治的に扱われることが多かったベトナムのキリスト教史研究に新しい地平を開く研究となっている点にある。第二に、こうした実証研究を通じて、従来は対立と断絶という側面ばかりが注目されていた、キリスト教コミュニティと非キリスト教コミュニティに、むしろ社会的・文化的に連続していた面があったことを解明したことである。この時期の西トンキン代牧区における宣教活動の書記言語として漢字・チューノムが大きな役割を果たしていたことなど、ベトナム史の書き換えにもつながる重要な指摘がなされている。第三に、西トンキン代牧区の中心地であったナムディンとゲアンでは、地方官人とキリスト教コミュニティの関係に顕著な相違があり、明命弾圧を無傷で乗り越えたゲアンが教勢を拡大し南トンキン代牧区として自立していく過程が明らかにされ、キリスト教史研究における地方の重要性が説得的に提示されている。また第四に、MEPをはじめカトリックの動きを、東アジア全体を視野に入れて検討することにより、カトリック布教における日本とベトナムの関係性が浮き彫りにされている。

なお審査では、当時のMEP内で情報がどのように伝わっていたのかという通信システムの検討がなされていないこと、ゲアンの特異性はよく描けているが、なぜゲアンが特異だったのかの分析がやや物足りないこと、女性の役割について新しい事実を掘り起こしているが、それがキリスト教の影響の結果なのか否かなど、もう一歩深みのある分析が望まれること、「神の家」の内と外、キリスト教と非キリスト教コミュニティの基層社会レベルでの「共生」関係を示すような非キリスト教徒の側の資料が提示されておらず、「共生」関係が十分解明されているとは言いがたいこと、「現地政権」といった言葉づかいに宣教会側の資料に引きずられた面があることなど、本論文のいくつかの弱点も指摘された。しかし、これらの問題点は、本論文の博士学位論文としての価値を否定するような性格のものではなく、今後の研究で克服すべき課題であると、審査委員会は考える。したがって、本審査委員会は全員の一致で本論文は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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