学位論文要旨



No 125156
著者(漢字) 森田,團
著者(英字)
著者(カナ) モリタ,ダン
標題(和) イメージの名 : ヴァルター・ベンヤミンの媒質の哲学
標題(洋)
報告番号 125156
報告番号 甲25156
学位授与日 2009.04.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第912号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 足立,信彦
 東京大学 教授 大貫,隆
 東京大学 教授 増田,一夫
 東京大学 教授 臼井,隆一郎
 東京外国語大学 准教授 山口,裕之
内容要旨 要旨を表示する

ベンヤミンの思考の核心を〈媒質の哲学〉に見いだし、その変遷を辿りながら、この哲学の企ての意味を問うことが、本論文の中心的な課題である。媒質[Medium]とは、ベンヤミンにとってたんに中間者を意味するのではなく、この中間者に関係する項(たとえば自然と人間)を産出するような根源=アルケーを意味する。この根源的な中間者をめぐる考察をここでは〈媒質の哲学〉と呼ぶ。ベンヤミンは、媒質として独特な言語概念(名の概念)を構想していた。原初的な命名=名の発生によって自然と人間が産み出されるとベンヤミンは考えていたのである。

同時にベンヤミンは、このような構想に真っ向から対立するのだが、イメージが媒質であるという可能性についても考察を残している。ここでは原初的なイメージ体験が自然と人間とを関係させ、同時に産み出すと考えられている。この言語とイメージについての考え方の対立は、『ドイツ悲劇の根源』(1925年執筆・1928年出版)までは、十分に問題化されることがなかったが、この書物におけるアレゴリーや文字の考察を経て、ベンヤミンは次第にイメージと(名とは区別される)線条的な言語との関係に思考の重点を移すことになる。文字は、イメージ(直観的なもの)を線条的な言説言語(言説的なもの)へと媒介する役割を果たすとベンヤミンによって解釈されているからである。本論文では、媒質という概念を基盤にして、言語概念とイメージ概念を綿密に検討したのちに、両者の対立を解消するために、ベンヤミンが文字の概念を手掛かりにしながら、イメージから線条的な言語への媒介可能性へと問いを深める過程を跡づけている。ベンヤミンにとって、この可能性を問うことこそが〈神話的なものとの対決〉と呼ぶべき課題であった。イメージ体験は神話を産み出す源泉だと考えられていたからである。

最終的にはこの媒介の在り方が、ベンヤミンのミメーシス論にこそ存するという想定のもと、ミメーシスの概念を新たに読み直すこととなった。ベンヤミンは、ミメーシスを主体なき原-行為とみなし、そこからイメージ体験のみならず、言語の可能性も生まれると考えていた。いわばベンヤミンにとってミメーシスは、そこからすべてが演繹されるような根源=アルケーとして解釈されたのである。結論では、このような帰結を持つ媒質の哲学が、ベンヤミンの歴史哲学にいかに関わるかについての展望を示した。

以下、各部(各章)の内容をしるす。論文は五部に分かれ、全十章によって構成されている。

第一部は、ベンヤミンのカント論「来るべき哲学のプログラム」(1919)とその周辺の遺稿を読解し、カント哲学へのベンヤミンの批判を通して媒質概念の必要性を導き出すことを試みた(第一章)。カント論読解は、同時に媒質概念とカッシーラーの「シンボル形式」の概念を比較するための準備にもなっている。ベンヤミンもカッシーラーも、カントの批判を通して、自ら新たな哲学を練り上げているからである。その構成と狙いにおいて媒質概念と最も親縁性を持つと思われるシンボル形式の概念との比較は、媒質の哲学が持つ哲学的な意義だけではなく、それが孕んでいる問題を浮き彫りにすることになった(第二章)。

第二部では初期言語論「言語一般および人間の言語について」(1916)を詳細に読解することによって、媒質概念の構造と発生を明らかにし、さらにそこから関係する二項が析出されてくる出来事(以下〈根源的産出〉と呼ぶ)を分析した。ここに媒質の哲学の全貌が浮かび上がることになる。その際、この哲学が潜在的に対決の対象としていると思われる生の哲学を、とりわけ表現概念の用法に焦点を絞って対照し、ベンヤミンの初期言語論が、生の哲学から何を借り受け、何を批判しようとしているかを考察した(第三章)。さらに初期言語論における命名の概念を問うことによって、この概念が孕む背反的要素が必然的に堕罪へと導く原因となっていることを明らかにしたうえで(初期言語論では『創世記』における言語の問題が中心的な役割を果たしている)、ベンヤミンによる堕罪の言語論的な解釈が根源的産出の理論として読みうることを示した(第四章)。

言語としての媒質を基幹とするベンヤミンの思考は、いかにして神話的なものとの対決を成し遂げることになるのだろうか。この問いが第三部以降の論述を導いている。ベンヤミンはイメージとしての媒質の可能性に極めて早くから気付いていたし、初期においてすでにイメージについての原理的な考察も存在している。第三部では、まずベンヤミンのイメージ論の前提となる議論としてクラーゲスの哲学、ならびにそのイメージ論を検討したうえで、ベンヤミンとクラーゲスとの伝記的な関係を一瞥した(第五章)。次に、ベンヤミン自身のイメージ概念を、おもに「ゲーテの『親和力』」(1921/22)において主題となる「仮象」の概念の読解に基づき再構成し、イメージとしての媒質の構造を取り出すことを試みた(第六章)。

第四部では、いわゆる前期と後期に通常分かたれる思考の境界が問題となる。イメージとしての媒質を出発点にする根源的産出にとって文字の概念が決定的な役割を果たすことが、『ドイツ悲劇の根源』の第二部「アレゴリーとバロック悲劇」の読解によって示される一方、悲劇書が前期ベンヤミンの思考圏のうちにあること、まさにそれゆえに文字が持つイメージを批判的に解体する可能性への認識が妨げられていることを指摘し、前期ベンヤミンの限界を描き出した(第七章)。

この限界を超えたことを明確に示すテクストが「フランツ・カフカ」(1934)である。この論文においてベンヤミンは、言語としての媒質という立場から決定的に離脱し、イメージとしての媒質を自らの思考の基盤としている。ここではじめてイメージとしての媒質の批判的解消が、すなわち神話的なものとの対決がはっきりと問題として浮上する。カフカ論の精読によって示されたのは、文字の担う機能が、神話的なものとの対決という主題のうちで考察され、その機能のうちでミメーシスが潜在的に問題となっていることである(第八章)。

最終部である第五部は、根源的産出の過程と論理を、ミメーシスの概念の分析によって解明することを試みている。まず前期ベンヤミンのイメージとミメーシスについての思考を、「虹――ファンタジーについての対話」(1914/15)や『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』(1919)の最終章に見出し、そこで展開されたミメーシスについての思考が後期へ受け継がれている可能性を指摘しながら、改めて前期の思考の限界を探った(第九章)。前期において潜在的にとどまっていた思考は、後期のミメーシス論――すなわち「ミメーシスの概念について」と「類似したものについての理論」(1933)――において結実する。両者の詳細な読解によって最終的に示されるのは、神話的なものとの対決の遂行の在り方である。イメージは根源的なミメーシスのうちでこそ言語へと移行するのであり、そのときミメーシスが行なう反復こそが移行の論理なのである(第十章)。以上の論述を通じて示されたのは、媒質とはそこからベンヤミンの全思考が演繹されるような始まりを形成する概念であることにほかならない。結論では、媒質の哲学と歴史哲学との本質的な関係を明示したうえで、媒質の哲学を踏まえたとき、ベンヤミンの歴史哲学がいかに読解されるのかについての展望を提示した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、20世紀前半のドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンの思考を〈媒質の哲学〉として解釈することを目的としている。

本論文は五部に分かれ、全十章によって構成されている。

第一部では、カント哲学へのベンヤミンの批判を通して媒質概念の必要性を導き出すことを試みる(第一章)。次に、その構成と狙いにおいて媒質概念と最も親縁性を持つと思われるカッシーラーのシンボル形式の概念との比較をおこなう(第二章)。

第二部ではベンヤミンの初期言語論の読解を通じて、媒質概念の構造と発生を明らかにし、さらに根源的産出という出来事を分析する。(第三章)。さらに初期言語論における命名の概念を分析し、ベンヤミンによる堕罪の言語論的な解釈が根源的産出の理論として読み得ることを示す(第四章)。

第三部では、ベンヤミンのイメージ論の前提となるクラーゲスのイメージ論を検討する(第五章)。次に、ベンヤミン自身のイメージ概念を、おもに「ゲーテの『親和力』」(1921/22)における「仮象」の概念に基づいて再構成する(第六章)。

第四部では、前期ベンヤミンにおいては文字が持つイメージを批判的に解体する可能性への認識が妨げられていることを指摘する(第七章)。しかし、この限界は、カフカ論において、文字の担う機能が神話的なものとの対決という主題のうちで考察されたことによって克服されることを示す(第八章)。

最終部である第五部は、根源的産出の過程と論理をミメーシスの概念の分析によって解明する。まず前期ベンヤミンのイメージとミメーシスについての思考を、「虹――ファンタジーについての対話」(1914/15)や『ドイツ・ロマン主義における芸術批評の概念』(1919)の最終章に見出し、改めて前期の思考の限界を探る(第九章)。後期のミメーシス論――すなわち「ミメーシスの概念について」と「類似したものについての理論」――の読解によって神話的なものとの対決の遂行の在り方が示される。イメージは根源的なミメーシスのうちで言語へと移行し、そのときミメーシスが行なう反復こそが移行の論理である(第十章)。

結論では、媒質の哲学と歴史哲学との本質的な関係を示し、ベンヤミンの歴史哲学の読解についての展望を提示する。

この論文の主要な主張は、以下のように要約される。

前期ベンヤミンの思考は、媒質を言語とみなす考え方に支配されているが、その背後には媒質をイメージと解釈するような考え方が存在する。それは、クラーゲスのイメージ論に関わる。後期ベンヤミンの思考の核心はイメージないしは神話的なものという問題との対決にある。同時に、文字と読むことの概念が、イメージという媒質を言語(線条的に展開される言説)へと転換する役割を果たす。1933年から1934年のあいだに書かれた「ミメーシスの能力について」と「フランツ・カフカ」において、媒質としてのイメージが根源的産出の過程で言説へと展開されていく過程が究明されている。これこそが〈神話的なものとの対決〉の具体的な内容であり、文字と読むことがイメージを言語へと転回させるにあたって、ミメーシスが重要な役割を果たす。

このように本論文は、詳細な読解に基づいた精緻かつ大がかりなベンヤミン論ではあるが、いくつかの欠点も無いわけではない。

まず、最初にベンヤミンの哲学を媒質の哲学と規定することから始まり、そこから展開された議論の到達点がやはり媒質がベンヤミンの始まりを形成する概念であるという全体の構造が、循環的構造を示しているという点。

次に、媒質を中心に議論を組み立てるためにやや強引な論理展開がみられること、とくにそのために歴史哲学に関する議論が排除されたこと。

さらに、議論は内部的には整合性を保っているものの、全体として何のためのものなのか、いかなる文脈に位置づけられるべき議論なのかが示されていないこと、などである。

しかし、若干の疑問はあるものの全体として優れた労作であることに変わりなく、慎重審議の結果、博士号に値するという結論に達した。

したがって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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