学位論文要旨



No 125158
著者(漢字) 宇野,佑子
著者(英字)
著者(カナ) ウノ,ユウコ
標題(和) ミツバチ脳における幼若ホルモン代謝と小胞体カルシウム放出に関わる遺伝子・タンパク質のキノコ体選択的な発現に関する研究
標題(洋) Study of mushroom body-preferential expression of genes/proteins for juvenile hormone metabolism and endoplasmic reticulum Ca2+-release in honeybee brain
報告番号 125158
報告番号 甲25158
学位授与日 2009.04.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5424号
研究科 理学系研究科
専攻 生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久保,健雄
 東京大学 教授 岡,良隆
 東京大学 教授 竹井,祥郎
 東京大学 教授 野中,勝
 東京大学 講師 吉田,学
内容要旨 要旨を表示する

動物は進化の過程で環境に適応するために様々な行動形質を獲得してきた。ヒトを含むいくつかの生物種では、同種個体と社会を形成し仲間とのコミュニケーション能力を発達させることで、他の種よりも有利に環境に適応している例も知られる。このような戦略をとる生物種には、近縁の種と比較して高い記憶・学習能力を獲得している種もおり、これらの生物に着目する ことで社会性動物がもつ脳の分子的・神経的基盤が明らかになると期待される。

セイヨウミツバチ(Apis mellifera L.)は数万匹の個体と集団を形成して生活する社会性昆虫であり、メスは女王蜂(生殖カースト)と働き蜂(労働カースト)に分化する。さらに働き蜂は羽化後の日齢依存的に、幼虫の世話を行う育児から花蜜・花粉を集める採餌へと労働分担をシフトする(齢差分業)。また採餌蜂は、「ダンスコミュニケーション」により餌場の位置を 仲間に伝達するなど、高い記憶・学習能力やコミュニケーション能力を有する。ミツバチがこうした特徴的行動様式をもつ背景として、ミツバチ脳では他の昆虫と比較して高次中枢であるキノコ体が、顕著に発達していることが1つの要因と推測されている。キノコ体を構成する介在神経の細胞体(「ケニヨン細胞」)は主に傘の構造の内側に存在する(図1)。ケニヨン細胞には細胞体の大きさが異なる「大型」と「小型」の2種類が 存在し、それぞれ異なる遺伝子発現プロファイルをもつことが報告されている。また、キノコ体のプロポーションが分業に伴い変化することも知られており、キノコ体が社会性行動の制御 中枢である可能性も考えられている。これまでキノコ体の機能解析を目的として、ミツバチ脳でキノコ体選択的に発現する遺伝子の解析が進められているが、実際の機能分子であるタンパク質に着目した解析はほとんど行われていない。遺伝子機能は主に転写後に翻訳・プロセシング・修飾を受けたタンパク質が担う。またその量は、転写・翻訳段階に加え、分解により調節される。そこで私はキノコ体のタンパク質の発現プロファイルに着目することにより、キノコ体の機能の新しい特徴を見いだせるのではないかと考え、キノコ体で発現するタンパク質の プロテオーム解析を行ってきた。

修士課程で私は、キノコ体選択的に発現するタンパク質として幼若ホルモン(JH)の代謝 酵素:JH diol kinase (JHDK) を新規に同定した。博士課程では、引続きキノコ体選択的な タンパク質を網羅的に同定するとともに、JHDKをはじめとしたキノコ体選択的なタンパク質を コードするmRNA の発現解析や定量を行った。結果の詳細は以下の通りである。

1)キノコ体選択的なタンパク質候補として、JH合成酵素(Farnesoic acid O-metyltransferase (FAMeT))と、小胞体のカルシウム結合タンパク質であるレティキュロカルビンおよび カルレティキュリンを新たに同定した(表1)。

2)JHDK mRNAの発現解析の結果、JHDK は mRNAの段階からキノコ体、特に大型ケニ ヨン細胞の一部で選択的に発現していることが示された(図2)。ミツバチでは働き蜂の 分業に伴い体液中のJH濃度が上昇し、JHの投与が分業を促進することからJHが分業の 制御因子と考えられている。しかしながら、JHがどのように分業を制御するかは明らかではなく、この結果はキノコ体の大型ケニヨン細胞の一部がJHの標的器官である可能性を初めて示すものである。さらにJHDK mRNAは採餌蜂のみならず、カーストの異なる女王蜂やオス蜂の大型ケニヨン細胞でも同様のパターンとして検出されることを見出し、 カースト差や性差によらず、脳でJHの代謝が起こる可能性を示した。

さらに、JHDKのホモログ (Calexcitin) と結合し、カルシウム放出を促進することが知られる小胞体のカルシウムチャネル、リアノジン受容体mRNAについても脳での発現部位を調べたところ、JHDK同様にキノコ体の大型ケニヨン細胞選択的に検出された(図3)。

3) mRNAの発現解析の結果、FAMeTやレティキュロカルビンのmRNAがそれぞれキノコ体の近傍(図4)やキノコ体の大型ケニヨン細胞(図5)で発現していることを示した。 一方で、カルレティキュリンmRNAのキノコ体を含む脳の広範な領域での発現が検出された(図6)。次に抗ヒトカルレティキュリン抗血清を用いたウェスタンブロット解析を行った結果、キノコ体特異的なスポットが観察された(図7)。また定量的RT-PCR法によるmRNAの定量の結果でも、視葉に比べてキノコ体で有意に強い発現が検出された。

4)リアノジン受容体やレティキュロカルビンといった小胞体に局在するカルシウム放出・貯留に関与すると考えられるタンパク質がキノコ体で発現亢進していることを考えると、キノコ体の小胞体では、カルシウム放出・貯留に関わる機能のみが発達している可能性が考えられる。しかしながらキノコ体は他の脳領野に比べて小胞体密度や発達が異なる可能性も考えられる。そこで次に小胞体局在因子のいくつかについて、キノコ体と視葉での遺伝子の発現量を定量的RT-PCR法により比較して、上記仮説の検討を行った。その結果、カルシウム貯留・放出に関わる機能を持つリアノジン受容体とレティキュロカルビンの発現は有意にキノコ体で亢進していることが示された一方で、カルシウムとは直接関連しない機能を持つ因子(Protein disulfide isomerase, Sec61, ERP60)に関しては有意なキノコ体選択性は検出されなかった。以上のことから、キノコ体では他の領域と比較して、カルシウム放出・貯留能を亢進した小胞体を持つと考えられる。

本研究で私は、ミツバチ脳のプロテオーム解析と得られた因子の発現解析を通じて、ミツバチの キノコ体でJHの代謝が起きる可能性、キノコ体では小胞体のカルシウム放出・貯留機能が亢進している可能性を初めて示した。特にミツバチの行動を制御するJHの代謝酵素やカルシウム情報 伝達系が、ともに大型ケニヨン細胞で亢進していることはミツバチの脳の中で大型ケニヨン細胞が特殊な細胞個性を持つことを示しており、昆虫の脳機能の進化を考える上で興味深い(図8)。

図1 ミツバチの脳の模式図

表1 LC-MS/MSとデータベースを用いたキノコ体選択的なタンパク質の推定

キノコ体選択的に得られたスポットの、二次元電気泳動結果と、データベース(NCBI)上の情報を比較した。MW: 分子量、pI:等電点、match:マッチしたペプチド断片の数、cover:全アミノ酸配列のうち、同定したアミノ酸残基数(%)

図2 jhdkの発現解析

DIG標識したjhdkのアンチセンス/センスRNAプローブをハイブリダイズさせた採餌蜂の脳切片.Barは100μmを示す。

図3 リアノジン受容体mRNAの発現解析

DIG標識したアンチセンス/センスRNAプローブをハイブリダイズさせた採餌蜂の脳切片.Barは100μmを示す。

図4 fametの発現解析(蛍光 in situ ハイブリダイゼーション)

DIG標識した fametのアンチセンス(A-C)/センス(A')RNAプローブをハイブリダイズさせた採餌蜂の脳切片.(D)それぞれの写真の位置を示す。Barは100μmを示す。

図5 レティキュロカルビンmRNAの発現解析

DIG標識したアンチセンス/センスRNAプローブをハイブリダイズさせた採餌蜂の脳切片.Barは100μmを示す。

図6 カルレティキュリンmRNAの発現解析

DIG標識したアンチセンス/センスRNAプローブをハイブリダイズさせた採餌蜂の脳切片.Barは100μmを示す。

図7 カルレティキュリン抗血清によるイムノブロット

(A)二次元電気泳動後、PVDF膜に転写し、アミドブラックで染色した膜。(B)イムノブロットの結果。カルレティキュリンを赤矢印で示す。

図8 ミツバチのキノコ体大型ケニヨン細胞におけるJHとカルシウム情報伝達系カスケードの模式図

キノコ体ではJHの代謝酵素が亢進し、さらにその近傍でJHの合成が起こるため、キノコ体自体がJHの標的器官の1つとなっている可能性がある。さらにキノコ体の中でも大型ケニヨン細胞内では、JHDKをはじめとしたカルシウム情報伝達系の因子の亢進が起こっており、キノコ体の可塑的な変化に寄与していると考えられる。今後JHとカルシウム情報伝達系の関連を解析することで、ミツバチの社会性と高い記憶学習能力の関わりが明らかになることを期待する。

審査要旨 要旨を表示する

社会性動物ではしばしば高度な個体間分業と、個体間コミュニケーションが見られる。論文提出者が研究対象としたセイヨウミツバチは社会性昆虫であり、雌が女王蜂と働き蜂に分化し、働き蜂は羽化後の加齢に伴って育児から採餌へと分業する。さらに採餌蜂は、「尻振りダンス」により餌場の位置を巣仲間に伝達する。ミツバチがこうした高次行動を示す背景として、脳の記憶・学習の高次中枢である「キノコ体(上向きの2つの傘をもつ)」の顕著な発達が要因の1つと考えられている。ミツバチのキノコ体は、2種類の神経細胞(大型と小型の「ケニヨン細胞」)から構成されるが、その形状は働き蜂の分業に伴って変化する。従ってキノコ体の機能解析はミツバチの高い記憶・学習能力や、働き蜂の分業の神経基盤を知る上で重要な手がかりを与えると期待される。これまで、キノコ体の機能解明を目的に脳でキノコ体選択的に発現する遺伝子の解析が行われてきたが、タンパク質の解析例はほとんどない。論文提出者はキノコ体の新しい特性を見出すことを期待して、ミツバチ脳でキノコ体選択的に発現するタンパク質のプロテオーム解析を行った。

論文提出者は修士課程において、「視葉(視覚中枢)」に比ベキノコ体選択的に発現するタンパク質を検索し、脱皮を司る幼若ホルモンの代謝酵素、Juvenile hormone diol kinase-(JHDK)を同定している。博士課程ではJHDKの遺伝子発現を解析すると共に、プロテオーム解析を継続し、同定したタンパク質の遺伝子発現を解析している。本論文は全編が大きな1章立てで、要旨・序論・材料と方法・結果・考察・図表・引用文献・謝辞から構成されているが、結果と考察は各々対応する4つの段落を含む。

第1段落ではJHDK mRNAの脳での発現パターンを調べる目的でin situハイブリダイゼーション法を行い、mRNAもキノコ体選択的に発現することを示している。第2段落では、キノコ体選択的タンパク質として新しくJH合成酵素[Farnesoic acid O-metyltransferase(FAMeT)]と、小胞体カルシウム結合タンパク質であるレティキュロカルビンとカルレティキュリンを同定している。これらはその機能から2つに大別できる:1)JH代謝に関わるJHDKとFAMeTと、2)小胞体カルシウム貯留に関わるレティキュロカルビンとカルレティキュリンである。第3段落では、これらの遺伝子発現を解析している。

FAMeT mRNAはキノコ体の傘直下に局在する神経分泌細胞で選択的に発現していた。JHDKの結果と併せるとミツバチ脳ではキノコ体近傍でJH代謝が起きていることが示唆される。JHは働き蜂の分業の制御因子であるが、どのように分業を制御するかは不明である。この結果はJHが「ニューロホルモン」としてキノコ体近傍で合成され作用した後、そこで代謝される可能性を示唆している。

レティキュロカルビンmRNAはキノコ体の大型ケニヨン細胞選択的に発現していた。カルレティキュリンについても定量的RT-PCR法とイムノブロット解析の結果、mRNAは視葉よりキノコ体で有意に高く発現しており、タンパク質の翻訳後修飾を示すキノコ体に選択的なスポットが見出された。カルシウム情報伝達系は神経可塑性に関わることから、これら因子のキノコ体選択的発現がミツバチの高い記憶・学習能力の基盤となる可能性がある。頭足類ではJHDKが小胞体カルシウムチャネル、リアノジン受容体(RyR)に結合してカルシウム放出を促進する。ミツバチ脳でのRyR mRNAの発現を調べた結果やはりキノコ体の大型ケニヨン細胞選択的に発現しており、JHDKとRYRが小胞体からのカルシウム放出に働く可能性が支持された。

第4段落では2つの小胞体カルシウム関連タンパク質と、カルシウムと関連しない3つの小胞体タンパク質についてキノコ体と視葉で遺伝子発現を比較した結果、前者はキノコ体で有意に発現が高い一方で、後者の発現には両者で差は見られなかった。このことは、キノコ体では小胞体のカルシウム放出・貯留機能が亢進していることを示唆している。

以上、本論文ではミツバチ脳ではキノコ体で、分業に関わるJHの代謝が起きる可能性、大型ケニヨン細胞で小胞体でのカルシウム放出・貯留機能が亢進している可能性を初めて示した。ミツバチの高次脳機能や分業の神経基盤の解明の糸口を与えると共に、昆虫の脳機能の進化を考える上でも興味深く、神経科学や社会生物学の進展に寄与すると考えられる。なお、本論文の研究は藤幸知子・森岡瑞枝・竹内秀明・久保健雄との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験を計画し、遂行したもので、論文提出者の寄与が十分であると判断できる。従って、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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