学位論文要旨



No 125159
著者(漢字) 尹,敬勲
著者(英字)
著者(カナ) ユン,ギョンフン
標題(和) 「解放」以降韓国における 社会教育(生涯教育) 政策の展開 : 社会教育・生涯教育政策の歴史的性格と構造的特質に関する考察を中心に
標題(洋)
報告番号 125159
報告番号 甲25159
学位授与日 2009.05.13
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第153号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 牧野,篤
 東京大学 教授 根本,彰
 東京大学 教授 白石,さや
 東京大学 教授 川本,隆史
 東京大学 准教授 勝野,正章
 名古屋大学 准教授 李,正連
内容要旨 要旨を表示する

1.本研究の問題意識

アジア通貨危機以降の韓国社会は輸出産業の低迷と貿易・資本の自由化による失業者、非正規雇用者の増加と第二の金融危機の到来に対する社会的不安の拡大に伴って、教育と福祉の両面で社会保障制度を維持することが困難な状況となった。そして、このような状況下で、韓国社会では、所得配分の不均衡により生まれる産業・企業と地域間の格差の総合的帰結として「両極化(二極化)」の現象が顕著に現れるようになり、近年韓国において最も深刻な社会問題の一つとして認識されるようになった。特に、所得格差の拡大に起因する韓国社会の「両極化(二極化)」現象は、社会階層間の教育格差をもたらした。そして、「両極化(二極化)」が進む中、貧困層、外国人労働者、そして脱北者に対する教育機会の欠如が問題視されるようになり、彼らは、教育疎外層と呼ばれるようになった。教育疎外層の教育機会の保障の問題が、近年の韓国の社会教育・生涯教育政策の重要な課題として注目されるようになったのである。実際、先行研究の中でも、「両極化(二極化)」における生涯教育政策の課題は、グローバル化と新自由主義による教育格差の拡大であると指摘されている。しかし、本論文では先行研究の見解に疑問を呈している。具体的にいえば、本論文では、教育疎外層に対する教育機会の保障の問題は、先行研究の指摘するように、同時代の時事的要因にだけ起因するものではなく、韓国の社会教育・生涯教育政策の展開過程において、同政策の構造的問題として形成されたととらえ、その仮説を検証することを目的としている。つまり、今日の教育疎外層に対する教育機会の保障という課題は、「両極化(二極化)」が進む中で一時的に浮上した問題ではなく、「解放」以来、韓国の社会教育・生涯教育政策の展開の中で形成された政策の構造的特徴の結果であると考えられるのである。この仮説を検証するために、本論文ではその方法として、第二次世界大戦以降つまり「解放」後の韓国の社会教育・生涯教育政策の展開を通史的に考察し、その過程において示されるその構造的特質を検討し、かつ把握することを試みるものである。すなわち、近年の教育疎外層と関連する生涯教育政策の課題は、「両極化(二極化)」と呼ばれる政治経済的要因という表層的側面の問題ではなく、実際には行政主導型の社会教育政策から民間の教育市場活用型の生涯教育政策へと構造的転換が進められる過程で、全ての人々に教育機会を保障しようとする韓国の社会教育・生涯教育政策の歴史的性格が継承されることがなかったことに遠因があることを明らかにしようとするものである。

2.本論文の構成と内容

第1章では、1945年8月15日に日本の植民地統治から「解放」され、米軍政による南側の信託統治と朝鮮戦争を経て、復興の時期までの社会教育政策の展開を踏まえて、1950年代の社会教育政策の特徴と課題について述べた。「解放」当時、朝鮮半島の約80%の国民が非識字者であったため、米軍政と大韓民国初代政府の李承晩政権は、識字教育を最優先政策として推進した。そして識字教育は、国民の基礎教育の推進と共産主義に対抗する民主主義理念の普及という政治教育的目的が内包されていた。しかし、この時期の識字教育を中心とする社会教育政策は一定の成果をあげながらも、社会教育法整備には至らず、体系的な社会教育政策を推進するための制度的整備が構築されなかったという課題が残されていた。

第2章では、1960年代の社会教育政策の特徴と問題点を考察した。この時期の社会教育政策は、朝鮮戦争で疲弊した経済の復興という国家課題が依然として重視されていたため、重化学工業と輸出政策を促進させる上で必要な人材確保のための教育政策が推進された。但し、この時期の職業技術教育は都市地域の労働力を確保することに焦点が当てられていたため、農村・都市地域を問わず、地域住民に対して公平な学習機会を保障する社会教育政策の推進にまでは至らず、地域間の学習機会の格差が残存するという課題が噴出した。

第3章では、1970年代の社会教育政策の特徴と課題を論じた。1970年代の社会教育政策では、重化学工業の軸として産業化・工業化を展開する中で、全ての人々の貧困からの脱出と都市及び農村地域の均等な発展を目的とした地域社会開発が促進された。特に、この時期の社会教育政策は、セマウル運動という国家事業の潮流にうまく乗り、封建的・前近代的思考からの脱皮を目的とする国民意識啓発を中心に実施された。そして国民意識啓発教育は、すべての国民を対象として推進され、「解放」後の最も大幅な層に教育機会を提供した社会教育事業となった。しかし、この時期の社会教育政策は、国家の経済発展を急激に向上させる手段として国民意識啓発に重点をおいたため、行政主導型の社会教育に対して国民の義務的参加を促し、国民が学習内容を自由に選択する権利を保障しないという問題を噴出させた。同時に、経済発展を促進する手段として国民意識啓発を重視する政策を展開するあまり、国民の自由な学習内容の選択の機会を剥奪する問題が現れるようになった。

第4章では、高度経済成長が頂点に達した1980年代の社会教育政策の内容と課題を検討した。1980年代の社会教育政策では、経済的に豊かな学習者が増え、彼らは生活の質を向上させる手段として社会教育を活用しようとし、その結果、余暇・教養的内容中心の社会教育活動が推進された。すなわち、この時期の社会教育政策は、所得増大に伴い、学習者が自らの個人的関心事(個人の趣味・教養の内容)を学べる機会が保障されるようになったということが肯定的評価を得られるようになったのである。当時の政府は、市民の政治的問題関心事を趣味・興味本位の文化・教養的関心事へ移行させようとする意図を持っていた。そのため、学習者は、社会・政治問題に関する学習への関心が薄れ、趣味・興味本位の学習内容へ偏るようになった。結局、1980年代の社会教育政策は、内在的側面では「解放」後の韓国の社会教育政策の主流を形成した行政主導型の社会教育政策の性格を継承しながらも、外在的側面では民間の社会教育機関を積極的活用するなどの複雑な構造の中で実施されたことが特徴的であったといえる。

第5章では、1990年代以降の社会教育・生涯教育政策の内容と特徴を検討した。まずこの時期から社会教育という言葉の代わりに、生涯教育という言葉が普遍的に使われたことが特徴の一つである。この時期の政策は、教育政策の理念的背景として新自由主義を掲げ、規制緩和の潮流のなか、生涯教育政策は過去の行政主導型の社会教育政策の伝統からの脱却(民間の社会教育機関の積極的な活用による行政主導型の社会教育の役割の縮小)を試みた。すなわち、1990年代以降の生涯教育政策は、韓国の社会教育・生涯教育政策の伝統である行政主導型の社会教育政策の役割と機能を衰退させ、相対的に民間の教育市場活用型の生涯教育政策の比重が増大したことが特徴的であるといえる。しかし、1997年のアジア通貨危機以降、「両極化(二極化)」が進む中、教育疎外層が急激に増加する問題に発展し、教育疎外層に対して学習機会を保障する政策の推進が問題視されるようになったことは、この時期における政策の問題点であった。

第6章は、「解放」以降、今日に至るまでの韓国の社会教育・生涯教育政策を通史的に考察することにより、同政策の構造的特質と問題を検討した。まず、韓国の社会教育・生涯教育政策の歴史的性格は、行政主導・行政支援の性格が強く、その結果、全ての人々に教育機会を保障することが同政策の源流であることを確認した。そして1990年代以降、学習者の自己負担を原則とする民間の教育市場を活用する政策の展開は、政府の生涯教育予算の削減の穴を埋める意味を持っていたが、この時期の民間の教育市場を活用する生涯教育政策には、「両極化(二極化)」が進む中で急増した脱北者や外国人労働者の増加など韓国社会の教育疎外層のための教育機会の保障には対処できないという問題が内包されていた。このような問題が浮き彫りにされることによって、社会的弱者のための教育機会を保障するためには、「解放」後の韓国の社会教育・生涯教育の伝統的性格である行政主導型の社会教育政策の問題点を省察的に検討し、行政支援型の生涯教育政策への転換を模索することが必要となった。そして、その必要性に対する回答として、教育格差の解消と新たな社会的弱者(外国人労働者や脱北者)に教育機会を提供するためには、韓国の社会教育・生涯教育政策の歴史的特徴の一つである行政主導型の社会教育政策を省察的に検討し、行政支援型の生涯教育政策の推進(「平等な教育内容・機会を保障する社会教育政策の形態」の役割の再考)を議論することが課題であることを指摘した。

3.本論文の意義

本論文の意義は、第一に、韓国の社会養育・生涯教育政策の歴史的性格と特質を構造的に示したことである。元来、「解放」後の韓国の社会教育・生涯教育政策の歴史的・構造的特質は行政主導型の社会教育政策に基づき、全ての人々に教育機会の保障を促すことであった。この特質は、軍事政権下において社会教育政策の軸を形成していたという事実を確認することができた。しかし、行政主導の社会教育政策は、学習者の自由な学習内容の選択と推進とともに、民間の教育機関の活用という視点が欠如しており、その結果、韓国の社会教育政策において行政の関与が学習者に対する抑圧と誤解されるきっかけを作ったという問題点も指摘されるようになった。その結果、この社会教育政策の歴史からみると、近年の教育疎外層の問題は、社会教育・生涯教育政策が推進される上で行政の役割を負の側面として誤認し、行政支援の政策を敬遠し、他方学習者負担の民間教育市場に軸をおくという政策の構造的展開によるものであることが明らかとなった。従って、教育疎外層のための生涯教育政策はその問題解決の方向を失う遠因となったという点が析出された。

第二に、上記の意義をさらに突き詰める形で、「解放」後の社会教育・生涯教育政策の歴史的特徴を考察することで、行政主導型の社会教育政策の問題点を省察的に理解し、その政策の伝統とその意義を継承することが、「両極化(二極化)」によって教育格差が拡大した結果、増加している教育疎外層の問題を解決するという、今日の生涯教育政策の課題を考える上で重要な議論の手がかりである事実を示した。但し、問題は、本論文の中で検証したように、韓国の社会教育・生涯教育政策研究(先行研究)では、行政の役割を重視する視点を論じることが禁忌(タブー)視されていたことである。本論文は、既存の先行研究の問題点を、同政策の通史的考察の視点から指摘して、今日の教育疎外層のための教育機会を保障する政策の必要性を論じ、行政支援型の生涯教育政策(「平等な教育内容・機会を保障する社会教育政策の形態」の役割の再考)の推進の可能性を模索することが必要であることを示した。

第三に、今日の教育疎外層の教育機会の保障の問題は、新自由主義とグローバル化という政治経済的状況の変化によってもたらされたと捉える先行研究の理解が、今日の生涯教育政策の課題(教育疎外層の教育機会の保障の問題)をあまりにも表面的に把握するものだと問題を提起した。さらに、教育疎外層の教育機会の保障の問題は、韓国の社会教育・生涯教育政策の通史から見られるように、政策展開上の構造的問題であることを示し、そして、最後に、今日の生涯教育政策の問題を客観的に把握するためには、同政策の中で今注目されている課題を今日の同時代的かつ一時的問題として捉えることなく、政策の通史的視点から検討し、政策史の構造的かつ重層的側面から分析する研究を行うことの重要性を示した。

審査要旨 要旨を表示する

アジア通貨危機以降、韓国社会は財政による富の再分配機能の不全化と労働市場を中心とする流動化により、「教育疎外層」と呼ばれる不利益層を増大させ、二極分化の傾向を強めている。韓国では、それをグローバリゼーションの進展と新自由主義的な政策がもたらしたものとする見解が一般的である。

しかし、本論文は、それは表面的な見方であり、根本的な原因の一つは、戦後韓国の社会教育・生涯学習政策の歴史的な構造にあるととらえ、時系列的に当該政策の推移を描くことで、その特質の解明に力を注いでいる。

本論文の内容は以下の通りである。第1章:日本の植民地から解放された米軍政期・軍事政権下の社会教育政策では、民衆を日本語から解放し、かつ朝鮮半島南側を民主化する必要から、成人男女を対象とした韓国語識字教育、さらに朝鮮戦争を経た後の反共民主化のために思想教育が重視された。第2章:朝鮮戦争以降、貧困克服と産業の発展のための人材育成が重視され、識字教育の基礎の上に職業教育が重視された。第3章:重化学工業のための人材育成が継続される一方で、民衆の意識改革、国家的な凝集力の強化を狙うセマウル(新しい村)運動が展開された。第4章:経済発展の進展にともない民主化要求を強める民衆意識を消費へと誘導するための社会教育政策の実施と消費に関わる自己負担原則の喧伝がなされた。第5章:民主化運動の結果としての文民政府の登場で、社会教育は生涯教育、さらに生涯学習へと組み換えられ、教育事業に市場化の道が開かれた。その結果、生涯学習における格差の拡大を招き、いわゆる教育疎外層の増大にともなう社会的な階層分化を促すことになった。第6章:韓国の社会教育・生涯学習政策はその時々の国家経営の必要に応じて重点が推移してきたが、過去の政策に対する内省的な考察を欠いていた。そのため、経済を基本とする社会環境と民衆の生活向上・民主化への要求などが、社会教育・生涯学習政策をめぐってどのような作用を及ぼしあうのかが政権によってとらえられず、結果的に、昨今の社会的不利益層の拡大と社会の二極化を招いてしまった。この観点から、著者は、社会的不利益層を重視する行政支援型の生涯学習政策の必要性を説くことになる。

本論文は、韓国の戦後社会教育・生涯学習政策の歴史を真正面から取り上げた初めての研究論文であり、韓国の社会教育・生涯学習政策の歴史的な構造と特質の析出に一定程度成功しているという点において、また過去の軍事政権時代の社会教育政策に見られた行政主導型の平等性重視の性格を再評価し、それを韓国社会の構造に引き込んで、行政支援型の生涯学習政策を提言する点において、挑戦的な試みであるといえる。これらの意味で、本論文は、従来の韓国社会教育・生涯学習研究の水準を高めるものであるとともに、今後の研究に基本的なプラットフォームを提供するものであると評価される。

以上の観点から、本論文は博士(教育学)の学位論文として十分な水準にあるものと判断される。

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