学位論文要旨



No 125171
著者(漢字) 李,京僖
著者(英字)
著者(カナ) イ,キョンヒ
標題(和) 日本浪曼派と「方法」としての岡倉天心 : 保田與重郎、龜井勝一郎、淺野晃を中心に
標題(洋)
報告番号 125171
報告番号 甲25171
学位授与日 2009.05.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第915号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅原,克也
 東京大学 教授 井上,健
 東京大学 講師 徳盛,誠
 東京大学 教授 エリス,俊子
 国際日本文化研究センター 教授 稲賀,繁美
内容要旨 要旨を表示する

本論文の目的は、日本浪曼派を論じる方法として「岡倉天心」に着眼し、日本浪曼派が掲げた「浪曼」と「日本」の関係に焦点を据えながら、昭和における彼らの文芸・批評観と世界・文明観とを明らかにすることである。

<研究目的>

日本浪曼派は、昭和10年3月、同人誌『日本浪曼派』の創刊とともに始まった。創刊メンバーは、保田與重郎、龜井勝一郎、神保光太郎、中島榮次郎、中谷孝雄、緒方隆士ら6人であるが、廃刊時(昭和13年8月)の同人数は、50人以上にのぼっている。プロレタリア作家同盟ナルプの解散(1934年2月)など、プロレタリア文学の退潮の前奏が鳴り、転向作家たちによる「転向文学」が相次いで発表され、また「文芸復興」が唱えられる時代となった。そうした中、日本浪曼派は主にコギト派(保田ら)と旧左翼派(龜井ら)との二つの系統を背景にした作家たちによって誕生した。反時代・反俗精神といった浪曼主義を唱えながら誕生した彼らは、徐々に時代の子として昭和10年代に文芸活動の全盛期を迎えていった。

戦後、所謂戦争責任論期を経て、日本浪曼派再論の気運が起こるのは、民族という問題が公共の議論の対象として再び浮かび上がってくる昭和25年頃である。日本浪曼派の執筆活動が再開されるのもこの頃である。当初は日本浪曼派体験を持つ戦中派の党派的論争が際立っていた日本浪曼派論史であるが、それから半世紀が過ぎた今日に至るまでには、注目すべき文章や著書も多く発表されてきた。

ところで、日本浪曼派論には大きく二つの論法が見られる。一つは、日本浪曼派の文学運動を、日本における特殊な土着的・伝統的美意識及び同人の気質などに還元させるものであり、もう一つは、日本浪曼派のような浪曼主義は特殊なものではないという立場で理論的解明を優先させるものである。前者は、日本の土着的・伝統的美意識に訴える傾向が強く、日本浪曼派に関する総合的観点の提示に欠けるという弱点がある。後者については、それがある面で鋭い見方を提示しえたとしても、はたしてそれで十分に日本浪曼派そのものについて語りえたといえるのかという疑問が残る。こうした二つの論法のいずれにも偏らぬ一貫した観点を保持しつつ、丁寧なテキスト分析に即した、より総合的な日本浪曼派理解が必要だと思われる。

<研究方法>

本論文では、そのような二つの論法の間に均衡を取るための装置として、次の幾つかの条件の下でその方法を見出した。まずは、「日本」と「浪曼」という二つの要素を含んでいることである。ここで、「浪曼」的要素の確認については、それが「浪曼」的な要素を持っていることを日本浪曼派側が認めていることに依拠した。二つ目は、日本浪曼派を代表する保田與重郎のみならず、旧プロレタリア文学作家及び転向作家の同人の作品を読む上にも適用できることである。三つ目は、昭和10年代に限らず、戦後作品にまで範囲を広げてもなお有効であることである。最後は、土着的情緒概念にも普遍的理論概念にも規定されぬ、具体的な実体を持っていることである。

これらの条件をみたした方法は、日本浪曼派の作品の中から見出された。戦中の日本浪曼派の作品の中には、時代を代表する面を著しく現わしたことで、後に特に問題となったものがある。すなわち、岡倉天心批評である。昭和10年代に活発に行われた岡倉天心論は、当時の時局論に引きずられた面が少なくない。それ故、戦後、天心を待っていたのは、まずウルトラ・ナショナリスト、天皇制ファシズムの代弁者、全アジア主義者といったイメージであった。そうしたイメージを創出した戦中の知識人として欠かさず言及されるのが日本浪曼派である。本論文は、そのような日本浪曼派の天心論が、客観的表象の世界を拒み、批評対象に対して批評家の主観を意識的、且つ積極的に働きかける彼らの批評・文芸観を知る上で重要であると考えた。

本論文が岡倉天心に着目するまでの過程において、示唆をうけたいくつかの指摘がある。まずは、日本浪曼派が掲げた天心像から天心を切り離すことの方が、戦時中に広がった天心に対するファシストというイメージを払拭することよりも困難であるとした竹内好の発言(「岡倉天心」『朝日ジャーナル』、1962年5月27日)である。昭和初期の彼らによる岡倉天心の発掘に「近代の超克」の意味を読み取った坪内隆彦の見解も重要なものとしてあげられる(『岡倉天心の思想探訪』、勁草書房、1998年)。さらに、彼らによる天心像がありのままの天心を写したものではないことに注目し、そこで方法としての天心批評への手掛かりを提示した橋川文三の見解(「〈座談〉混沌の詩精神」(『祖父 岡倉天心』中央公論美術出版、1999年)も特記しておきたいものである。これらの指摘は、日本浪曼派による岡倉天心論への着目を通して、昭和10年代に誕生したこの重要な文学運動の解明が可能であることを提起したと思われる。これらの先行する論考を通じて、本論文の方法として見出されたのが「岡倉天心」である。

日本浪曼派の中で、戦後にいたるまで天心について語り続け、さらにそこから各々の独自の思想を繰り広げたのは保田與重郎、龜井勝一郎、淺野晃である。保田や龜井は先述した二つの系統を各々の出発点とした日本浪曼派の創立メンバーだった点で、また、淺野晃は正式な同人ではなかったものの、同派と思想的に近いところにいた多くの知識人の一人であり、現に同人と見なされる事が多い点で、日本浪曼派理解のためには欠かせない三人である。

<各論の概要>

本論文の第1部においては、昭和10年代から盛んに発表された保田、龜井、淺野の岡倉天心批評を取り上げ、各々の天心像を通して日本浪曼派としての文芸・批評観がどのように実践されたかを解明している。

第2部においては、保田、龜井、淺野ら3人のそれまでの作業の集大成といえる作品を取り上げる。それらの作品の中においても天心の行方を追いつつ、彼らの文芸・批評観に通じる世界・文明観の形成及び完成の過程を明らかにし、さらにその意味を昭和という時代の中で検討した。

第1部第1節においては、保田の岡倉天心批評(「明治の精神」(『文芸』昭和12年2月)等)を取り上げる。天心が初めて言及されている「日本の橋」(『文学界』昭和11年10月)の「架け橋」の相を手掛かりとして、保田の日本浪曼派としての文芸・批評観及びその特徴を追究している。第1部第2節においては、龜井の天心批評(「岡倉天心」『作家論』(昭和14年)所収、等)を支えている彼自身の〈再生の詩学〉において、日本浪曼派としての批評・文芸観とその実践的面とを検討した。第1部第3節においては、「東洋の理想と現実」(『新評論』昭和12年12月)等、数多くの天心論を書いた淺野の天心批評を取り上げ、そこに現われている日本浪曼派意識を浮かび上がらせた。そして、彼が、天心の著書における「剣」の精神を自らの、そして昭和の「剣の歌」として特化していく有様とを明らかにした。

第2部第1節においては、保田の『日本の美術史』(昭和43年)を通して、「東西」という相剋する二者の描出や、「美としての日本」の完成について検討し、その際に欠かせない系譜作りの有様などを、著者の天心への意識との関連から解明している。第2部第2節においては、龜井の『大和古寺風物誌』(昭和18年)から『日本人の精神史研究』(昭和41年)に至るまでの作品群、「美術遍歴」及び「古典美鑑賞」に関わる作品群を取り上げた。そこでは相剋する二者の問題をめぐる彼の思想が、「奈良」(東洋)とローマ(西洋)という参照枠から始まり、より本質的な思想軸として新たな二者を確立していく過程を確かめた。なお、彼の場合は、それらの主要作品の周辺を逍遥する天心の姿を通して、彼の第一主題及びその思想的な体系化をより明瞭にした。第2部第3節においては、戦後になって初めて刊行される淺野の全12詩集を取り上げた。作品の中に表現されている「西洋」的なものを明らかにし、さらには「橋」をテーマにした作品群と天心が意識された複数の作品を読みながら、詩人の中に内在する西洋的なものと「日本」の歌における逆説の完成との関連を解明している。

反リアリズム・写実主義の「浪曼」を掲げた保田、龜井、淺野ら日本浪曼派の批評・文芸は、批評対象を通して批評家自身を語るという主観の実践であるという点で共通する。さらにその延長線上で、彼らは相剋する二者の問題への弁証法論的アプローチへの反措定としての文明・世界観を独自の姿で示した。すなわち、「東西」という二者関係を超越した第三者(日本)の想定及びその完成(保田)や、「東洋」と「西洋」という相剋関係から徐々に離れ、「美」と「信仰」とを新たな相剋関係に置いて、二者の「骨肉の争い」を積極的に抱えるものとしての日本思想の体系化(龜井)や、昭和に内在化している西洋的なものの表現とそれを可能にする逆説の精神を完成していった日本の歌(淺野)である。こうしたそれぞれ独自の完成に至った三人の思想的営為であるが、そこには共通の出発点・問題意識があった。すなわち、明治の文明開化期においてはまだ絶対的他者としてあった「西洋」が、己(日本)の中から見出されるに至った昭和、そうした昭和にあって、己の中の「近代」(西洋)をどう扱うべきか、言い換えれば「近代の超克」の対象を、己の中に見つめるところに立っていたことである。

本論文は、分析の方法としての岡倉天心を選択したことで、以上のような日本浪曼派論を昭和の〈近代意識〉の思想化及び完成期として捉える観点を提供することができたと考える。

審査要旨 要旨を表示する

李京僖氏氏の「日本浪漫派と「方法」としての岡倉天心―保田與重郎、龜井勝一郎、淺野晃を中心に」は、昭和十年代に日本の文壇、論壇で大きな影響力を奮った日本浪漫派の言説について、岡倉天心への言及と天心の為した仕事への意識という切り口によって迫った好論文である。日本浪漫派の中心的人物として活躍した保田與重郎と龜井勝一郎、及び『日本浪漫派』の同人ではなかったものの、彼らときわめて近い位置にいた淺野晃らが、岡倉天心の残した仕事の何に着目し、どのような思想的立場を継承しようとしたか、また天心との距離をいかに意識したか。それを論じることが、日本浪漫派の思想史的意味の解明を可能にすると、李京僖氏は考える。表題にある「「方法」としての岡倉天心」とは、この著者の立場を端的に表現したものである。その成果は十分な説得力をもち、議論として斬新な視点を提示し、日本浪漫派を考察する新たな糸口が提供されたと評価できる。

李京僖氏の論文は、保田與重郎、龜井勝一郎、淺野晃の文芸観・批評観を扱った第一部と、その世界観・文明観を扱った第二部に分かれる。第一部、第二部ともに、それぞれ一章ずつが保田與重郎、龜井勝一郎、淺野晃に充てられており、きわめてバランスの取れた構成を示している。また、ともすれば昭和二十年以前の活動への言及でおわる傾向のある日本浪漫派について、戦後の言論活動にまで視野を広げて論じた点は特筆に値する。以下、論文の構成に従って、内容を要約する。

まず「はじめに」では、日本浪漫派研究における二つの傾向、すなわち、日本的な歴史現象として限定する見方と、ロマン主義という広い文脈に拡散させる見方のいずれにも与しない、「日本」と「浪漫」それぞれに目配りを利かせた、本論文の立場が明確にされる。また、保田與重郎を代表的存在とする日本浪漫派が、批評・言及対象を語ろうとする行為において、つねに自己自身を語り続けていた点も、論文全体を通して確認されることになる。彼らが強く意識していた岡倉天心に着目する意味は、ここに十分認められる。

第一部第一章では、保田與重郎が、天心の『東洋の理想』の冒頭にある「アジアは一つである(Asia is one.)」を、昭和十年代後半に「アジアは一つであらねばならぬ」と読み替えた情勢論的解釈を繰り返し批判したこと、そこに保田独自の「人工」観、「人為」観が反映していたこと、それにも関わらず天心歪曲の責任が問われることとなった経緯が辿られる。第二章では、龜井勝一郎の天心観が、ヨーロッパ文芸の受容を背景に、「廃墟」とその再生の美学を軸に展開したこと、また戦後、天心を「美の使徒」として再評価したことなどが確認される。第三部では、天心による英文著作の日本語への翻訳者であった淺野晃が、「アジアは一つである」という天心の発言の情勢論的解釈に傾いたこと、また、保田と淺野が、天心に関する発言について相互言及する機会の多かったのに比し、龜井が、この二人の関係から除外される傾向のあったこと、そこには「血統」と「友情」を重んずる独特の人間関係が観察されること、淺野の称揚する「剣の精神」が天心の美学と強い類縁性を匂わせるものであることが記述される。

第二部は、「西洋」と「東洋」のはざまに立つとされる「日本」とその美についての、保田、龜井、淺野それぞれの所論を検討する。第一章では、保田の『日本の美術史』が天心の『東洋の理想』を意識しつつ成立した事情と、保田が「人工」と「自然」をそれぞれ「西洋」と「東洋」に対応させつつ、自然をめざす人工としての「日本」観を鮮明にし、美の認識にあたって観念より情緒を重んじた点が論じられる。第二章では、転向後の龜井が、ゲーテの感化のもと「自国のローマ」としての奈良を発見するに至った経緯と、相容れぬ二者としての「美」と「信仰」の葛藤を、自己の中心的な課題としていった姿が描かれる。第三章では、戦後、数多くの詩集を刊行した淺野の詩業を検討し、そこに聖書的文脈とともに、保田の『日本の橋』を想起させる「橋」のイメージ、さらには天心が語ったアジア観等が融合しているありさまが確認される。

そして、論文の結論部にあたる「おわりに」では、天心がつねに意識した他者としての「西洋」が、日本浪漫派とその周辺の人々にとって、日本という内部に取り込まれたと意識された事態が、鋭く指摘されるのである。

以上のように要約される李京僖氏の論文に対し、日本浪漫派を再検討するにあたり、岡倉天心という補助線を援用した点が、きわめて有効に働いているとの肯定的評価が、審査委員からほぼ例外なく表明された。その上で、保田與重郎に代表される日本浪漫派の主張・行文そのものの晦渋さに引きずられる形で、テクスト解釈の記述にやや分かりにくさが残る点が遺憾とされた。また「方法」として用いられた岡倉天心に関する叙述に、現在の岡倉覚三研究の水準から見ていくつか補うべき部分のある点、引用されるテクストについて、より細やかな評釈が必要とされる場合のある点、なども指摘された。また、日本浪漫派の活動を評価するにあたり、韓国人研究者としての視点をより強く打ち出してもよかったのではないか、との示唆もあった。ただし以上の点は、半世紀以上を経てなお歴史的位置づけの容易ではない日本浪漫派研究に、新生面を開いた本論文の価値を本質的に損なうものではない。

よって本審査委員会は、李京僖氏の学位請求論文が、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものであると認定することに、全員一致で合意した。

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