学位論文要旨



No 125172
著者(漢字) 國分,功一郎
著者(英字)
著者(カナ) コクブン,コウイチロウ
標題(和) スピノザの方法
標題(洋)
報告番号 125172
報告番号 甲25172
学位授与日 2009.05.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第916号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 森山,工
 東京大学 教授 山脇,直司
 東京大学 教授 増田,一夫
 東京大学 准教授 原,和之
 東京大学 准教授 鈴木,泉
内容要旨 要旨を表示する

スピノザが『知性改善論』の中で提示しようとした方法〔methodus〕とは何かを明らかにすることが本稿の目的である。

本稿は三部構成となっている。各部について、議論の流れを紹介した後で、その内容要旨を提示する。

【一】

まず論文全体の議論の流れを紹介する。筆者は次のような道筋で論述を組み立てた。

第一部

最初に『知性改善論』における、方法についての説明を細かく分析した。そもそも、スピノザの方法の何が問題であるのかを明らかにしなければならなかったからである。すると、その分析を通じて、この方法がもつ奇妙な性格、すなわち、それが、方法であるにもかかわらず、方法としての役割が果たせないように思われるという逆説が明らかになった。スピノザの方法の解明は、スピノザの方法を巡る逆説の解決として定式化された。

第二部

スピノザの方法は観念の獲得・導出に関わっている。それは観念を適切に獲得・導出するための方法である。しかし、これまで、この方法を論じてきた論者たちは、実際の観念の獲得・導出から離れて、この方法を論じようとしたのだった。そこで、筆者はまず、スピノザの観念についての思想を明らかにする必要があると考えた。さらに、『知性改善論』の分析より、スピノザの観念思想がデカルトの観念思想の乗り越えとして構想されているという目算が立てられた。そこで筆者は、スピノザがデカルトについて書いた書物『デカルトの哲学原理』の分析を通じて、この課題に取り組むこととした。

第三部

『デカルトの哲学原理』の分析より明らかになったのは、スピノザがデカルトの観念思想を、表象論的な観念思想としてとらえているということ、そして、そのような観念思想に大きな疑問を感じていたということであった。この疑問をヒントに、再び『知性改善論』の読解を試み、スピノザの構想する観念思想が、どうのようにしてスピノザの方法の逆説を解決するものであるのかを検討した。スピノザの方法は、スピノザの観念思想そのものである。最終的にはそれが『エチカ』の体系において実現される。同書第一部冒頭の分析を通じて、『エチカ』という書物が、『知性改善論』の抱えていた矛盾を乗り越えて、どうやってその方法を実現したのかを最後に明らかにした。

【二】

続いて、各部の内容要旨を提示する。

第一部

第一部は、『知性改善論』においてスピノザが提示しようとした方法に、いかなる問題が存在しているのかを明らかにしている。

スピノザは、方法探求の根幹に、無限遡行の問題を置いている。これは次のようなものだ。方法の探求には、方法の探求のための別の方法が必要である。だが、この別の方法を探求するためにも、さらに別の方法が必要である。こうして方法の探求は無限遡行に陥る。しかし、当然ながら、これでは方法が手に入らないから無限遡行に陥ってはならない。方法の探求において、無限遡行は避けられないが、避けねばならない。

この課題はまず、方法を巡って現れる道具の形象によって与えられる。精神は道具を必要とする。だが、道具を作るためには道具が必要である。さらにその道具を作るためにも道具が必要である…。ここに無限遡行が現れる。では、この無限遡行をいかに回避するか。

無限遡行を禁止するため、スピノザは、方法を巡るもう一つの形象に言及する。それが標識である。精神の必要とする道具とは、具体的には観念のことだが、この観念の正しさを真理の標識によって得ようとしてはならない。真理の標識を得るためには、真理の標識の真理性を明かし立てる別の真理の標識が必要になってしまうからである。

ここに、スピノザの方法を定義する三つ目の形象が現れる。然るべき順序で観念を獲得していけば、獲得された観念の真理性が疑い得ない、そのような観念の連なりとしての方法、すなわち道としての方法である。方法は道であるというのがスピノザの方法の定義である。

だが、ここに言われる道とは、精神がたどった跡である。あらかじめ道を示すのであれば、無限遡行に陥るのは明らかだから。道としての方法は、精神の活動に先立って存在しない。すると、ここに大問題が生ずる。この方法は、精神の活動を指導することも、制御することもできない。本稿ではこれを方法の逆説と呼んだ。

さらにもう一つの逆説が出てくる。方法が精神の活動に先立って存在しないなら、そもそも方法についてあらかじめ論じることができない。つまり、方法論という企てそのものが疑問に付される。これが方法論の逆説である。『知性改善論』は方法論だが、そこに説かれているのは、方法論という企てそのものを否定する方法である。

スピノザの方法にはこれら二つの逆説がまとわりついている。スピノザの方法の解明は、二つの逆説を解決する試みとして継続された。

第二部

第二部では、論述の対象を変更し、スピノザがデカルトについて著した書物である『デカルトの哲学原理』の読解を通じて、上の課題の継続を試みた。(1)スピノザの方法は、徹頭徹尾、観念に関わっているので、スピノザの構想する新しい観念思想の有り様が分かれば、逆説は自ずと解決するのではないかと思われたこと。(2)第一部での『知性改善論』の分析により、それを構想するにあたってスピノザが、デカルト哲学を乗り越えの対象としていると思われたこと。以上がその理由である。

だが、同書は、スピノザが自らの思想を思いのままに語ったものではなく、デカルト哲学を独自の仕方で再構成したものであるため、その読解は一筋ではいかなかった。まずは、この本をどう読み、どう位置づけるかという問題が取り組んだ。

分析を進めた結果分かったのは、スピノザの再構成は、デカルト哲学を首尾一貫した体系にすることを目指しているのだが、その際に、デカルト哲学から確かに引き出すことはできるもののデカルトが実際に口にしたわけではない論理、いわばデカルト哲学に潜在する論理を用いているということである。

この潜在的論理は、デカルト哲学の顕在的な内容と競合することすらあった。その主要な争点の一つは、デカルト哲学を貫く説得の要請である。スピノザによる再構成は、デカルト哲学が自らの課題としていた、懐疑論者(および懐疑してしまうデカルト本人)の論駁と説得とを、完全にそぎ落としてしまっている。スピノザによれば、説得の要請は、デカルト哲学の体系にとって余計であるばかりか、その体系的完全性を損なうものですらある。それはスピノザの真理観とも合致した。スピノザは、真理を獲得したものだけが、真理の真理性を理解できると述べていたからである。真理を獲得していない人には、真理の真理性を説明することはできない。そこでは説得は何の役にも立たないのである。

以上をもとに読解を進めた結果、デカルトが観念を表象と見なしていることへのスピノザの疑問が浮かび上がってきた。観念を表象と見なすとは、観念の原因を実在する事物に求めるということである。表象論的観念思想からの脱却が、スピノザの構想する新しい観念論の方向性であると予想された。

第三部

脱表象論的観念思想、それは一般に平行論と呼ばれるスピノザの思想と一致する。それは、観念の原因を事物に求めず、ただ他の観念にのみ求める観念思想である。平行論の考え方でいけば、我々は、諸事物の連結に完全に対応(平行)する諸観念の連結を形成することができる。

これは『エチカ』における神についての考え方によって基礎づけられている。すなわち、神とは無限に多くの属性を有する実体であり、事物と観念は同じ一つの実体の変状に他ならず、その変状が延長の属性において捉えられれば事物と、思惟の属性において捉えられれば観念と呼ばれる、そのような考え方である。

方法の逆説の解決は、ここから得られた。知性は観念の連結を形成し、この観念の連結は一定の法則をもって行われる。したがって、確かに知性がこの連結を形成するのだが、この連結自体が法則に基づいて行われる。しかもこの法則は知性に内在する法則である。いわば、知性の活動を知性が制御・指導するのである。

ここから方法論の逆説も解決されることとなる。というのも、知性は、観念を獲得するにつれて、自らに内在する法則をも同時に理解していくことになるからである。方法論とは一般に、いかなる方法が用いられるべきかを、方法の実際の適用に先立って示すものである。だが、スピノザの方法においては、いかなる方法が用いられるべきか、つまり、いかなる道が歩まれるべきかが、方法の適用と同時に示される。すなわち、知性が、観念を獲得していきながら、自らで自らに対し自らの歩むべき道を示すのである。

かくして方法および方法論の逆説が解決された。残る問題は、この平行論を可能にする神の観念が、『エチカ』において、いかにして獲得されるのかを検討することであった。ここには、起源・原理・基礎についての議論一般が直面する問題があった。すなわち、神の観念はあらゆる事象の起源であり、原理であり、基礎であるが、この観念が直ちに与えられるものではなく、何らかの手順によって獲得されるものであるならば、その獲得のための手順は、別の起源なり原理なり基礎に属していることになる。無限遡行の回避という課題がここでも現れるのである。

この課題をスピノザは、実体の系譜学によって乗り越えた。実体という原理の論理的な構成を一定の仮定に基づいて証明していくことで、この原理そのものの構築を目指し、そしてそれが構築されるや、今度は構築された原理それ自体によって、最初の仮定を廃棄する。すなわち、仮定されていた内容の正しさを証明するのである。それと同時に系譜学は必要なくなり、今度は構築された原理、すなわち神の観念からの諸様態の発生が描かれる。知性は、系譜学によって、諸様態の発生に追いつき、それと一体化する。

スピノザの方法は、知性自らが自らに内在する法則を理解していくことそのものである。したがって、最終的にはそれは教育に結びつく。スピノザの方法の概念は、スピノザの教育の理念であるというのが本稿の最終的な結論である。

審査要旨 要旨を表示する

國分功一郎氏の学位請求論文『スピノザの方法』は,スピノザにおける「方法」の諸問題に着目しつつ,『知性改善論』から『デカルトの哲学原理』を経て『エチカ』へといたるスピノザ哲学の展開を体系的に跡づけたものである。本論文は序章と結論を除いて三部から構成されており,第一部に二つの章が,第二部に三つの章が,第三部に二つの章が,それぞれ配置されている。ここではまず,この構成に則して本論文の内容を略述する。

序章では,「スピノザの方法」という本論文の主題が明示されるとともに,この主題にかかわる主要な先行研究がサーベイされる。それを受けた第一部は『知性改善論』に焦点を当て,スピノザによってなされる方法の説明を検討することによって,そこにいかなる問題が孕まれているのかを明らかにしている。筆者はここで,スピノザの方法探究の根幹にあるものとして無限遡行とその回避(方法の探究には探究のための別の方法が必要であり,この別の方法を探究するためにはさらに別の方法が必要であり,と,無限に遡及を繰り返す論理とその回避)を見ている。そして,研究者ヴィオレットが『知性改善論』の読解に当たって提起した「創出された方法」と「創出的方法」という対概念を援用しつつ,『知性改善論』における「方法」が精神の活動に先立って存立しうるものでないこと,にもかかわらず同書においては,あらかじめ定立された「方法」による精神の活動の指導と制御が期待されていることを指摘し,これを「方法の逆説」として定式化する。それとともに,「方法」が精神の活動に先行しえない以上,あらかじめ方法について論ずるという挙措も成り立ちえないことを指摘し,これを「方法論の逆説」として定式化する。これにより筆者は,スピノザの方法の解明という本論文の主題を,方法をめぐるこうした二つの逆説の解決として再定式し,本論文の問題構成を明確化している。

続く第二部は,スピノザの方法が精神の活動のなかでも観念の獲得と導出にかかわっていることに注目し,スピノザの観念思想の解明へと歩を進める。『知性改善論』の分析から,スピノザの観念思想がデカルトのそれとの対峙の上に形成されているという着想を得た筆者は,ここにおいてスピノザがデカルト哲学について論じた書物である『デカルトの哲学原理』を取り上げ,それに詳細な分析を施している。これにより筆者は,スピノザがデカルト哲学に顕在する論理を参照しているのみならず,デカルト哲学にそれと明示されていない潜在した論理をも引き出して,デカルト哲学の再構成に当たっていることを明らかにしており,こうした解明の作業を通じて,デカルト哲学の再構成に示されるスピノザ独自の哲学的志向性を二つの点に見いだしている。一つは,デカルト哲学が課題としていた懐疑論者の説得というモメントをスピノザが削ぎ落としており,真理の真理性は真理を獲得した者におのずと知られるとしたことである。もう一つは,デカルトが観念を何ものかの表象と見なし,したがって観念の原因をこの外在する何ものかに求めたことに対してスピノザが批判的な見地に立っており,観念の原因を観念の外には求めないという脱表象論的観念思想をいだいていたことである。

このような論旨展開にもとづき,第三部で筆者は,スピノザ独自のこの観念思想がいわゆる平行論と一致することを確認しつつ,『エチカ』の分析へと進み,こうした哲学的立場が『エチカ』における「神=無限に多くの属性を有する実体」の考え方によって基礎づけられることを論じている。そしてそれを通じて,『エチカ』が先に定式化した方法の逆説ならびに方法論の逆説を解決してみせる哲学的実践となっていることを論証する。それによると『エチカ』は以下の二点を具現化している。第一は,知性が観念を獲得し,観念を導出するのではあるが,知性はこうした作用を営むその場にあって,知性自身に内在する法則にもとづいてそうするのであり,知性の活動は知性自身によって内在的に指導・制御されることである。これは方法の逆説の解決を構成する。第二は,知性が観念を獲得し導出するにつれて,知性はその歩みとともにみずからに内在する法則をも同時に理解するのであり,いわば方法の実践的適用と同時に適用されている方法についての理解が示されることである。これが方法論の逆説の解決を構成する。筆者はさらに,『エチカ』第一部冒頭の諸定理の証明手続きを克明に分析することを通じて,方法をめぐるこのような哲学的姿勢を基礎づける神観念がいかに構築されているかを論じ,『知性改善論』に懐胎されていた矛盾が『エチカ』によって乗り越えられる事態をさらに説得的に示している。

結論において筆者は,スピノザの方法が知性がみずからに内在する法則を理解していくプロセスに存することから,最終的にはそれが教育に結びつくことを論じ,スピノザの方法概念はスピノザの教育理念にほかならないという論点を提起して,本論文を閉じている。

以上の内容と構成を有する本論文の学術的な意義は,次の二点に集約される。第一は,従来のスピノザ研究において正面から論じられる機会のあまりなかった『デカルトの哲学原理』を主要な題材の一つとして取り上げ,それに精緻な分析を施しつつ,デカルト哲学との連続性と差異性の上にスピノザ哲学の位置づけを図ったことである。スピノザ哲学をデカルト哲学という光源によって照らし出す研究はこれまで本格的になされていたとは言い難いため,この点で本論文は独創的な貢献をなすものと言える。第二は,『知性改善論』,『デカルトの哲学原理』,『エチカ』というスピノザの三つの著作を順を追って検討するに当たり,「方法」という概念を基軸に据えたことによって,そこにある一貫した論理の体系とその展開を見いだしたことである。とりわけ,デカルト哲学からの照射によってスピノザ哲学に独自の観念思想を取り出し,それを「方法」概念の考察に組み入れることで,『知性改善論』を起点として『エチカ』へと結実するスピノザ哲学の大きな流れが説得的に示されたことの意義は大きい。

また,本論文はときに禁欲的とも思える粘り強い思考をもってスピノザの諸テクストに分け入り,内在的な読解を施すことをその本領とするものであり,テクストに対するこの内在的な姿勢は本論文の全体を通じて一定の成功を収めているものと評価される。他方でまた,本論文は先行研究を適宜参照し,先行研究がなした貢献を踏まえながら,そこに疑問や問題点を見いだして論を進めるという立論の体裁もとっており,本論文が全体として明快で手堅い論旨展開に裏打ちされていることも高く評価される。

もちろん,本論文に不十分な点があることもまた確かである。審査の席では,以下の点が指摘された。「脱表象論」,「イメージ」,「自律」といった筆者の設定した用語や,「分析/総合」といった概念枠組みについては,吟味や理解が些か性急であり,より入念な検討が望まれること。『知性改善論』が「方法」をめぐって分裂した性格を呈し,そもそも書物としては未完に終わっているという事実それ自体を焦点化する必要があること。デカルトに見られる説得のモメントがスピノザには見られないとする主張は,他者の理解を求め,他者の地平に応じるというスピノザの姿勢に鑑みるとき,より詳細な検討を要すること。デカルトとの対比でスピノザを理解しようとした結果,また,とりわけデカルト哲学研究に関する基本文献の参照が足りないことも相俟って,デカルト哲学の意義が過小評価される傾向にあること。スピノザのテクストに内在的に則そうとするあまり,スピノザの論と筆者自身の論との区別がときに曖昧となるきらいがあること。16~17 世紀にかけての西洋哲学において,真理の獲得と主体の関係に変動が生じたことを踏まえると,「方法」をめぐるスピノザの姿勢はどう位置づけられるのかを踏み込んで考察すべきこと,などである。

しかしながら,以上のような諸点は筆者の今後の研究の進展や概念枠組みの精緻化によって乗り越えられるべきものであり,本論文の基本的な価値を損なうものではないと本審査委員会は判断した。したがって本審査委員会は,本論文提出者が博士(学術)の学位を授与されるにふさわしいものと認定する。

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