学位論文要旨



No 125173
著者(漢字) 李,垠庚
著者(英字)
著者(カナ) イ,ウンギョン
標題(和) 羽仁もと子の思想・生活・戦争 : 近代日本女性キリスト者とその時代
標題(洋)
報告番号 125173
報告番号 甲25173
学位授与日 2009.05.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第917号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 黒住,真
 東京大学 教授 木村,秀雄
 東京大学 教授 川中子,義勝
 自由学園 教授 大貫,隆
 上智大学 教授 宮本,久雄
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、羽仁もと子(1873-1957)の思想及び活動を、近代日本という多難な時代を背景にしてとらえた研究である。従来の研究は大部分羽仁もと子について、雑誌『婦人之友』の創刊者、<自由学園>の創設者として重んじ、主に女性啓蒙運動家・教育者など彼女の幅広い活動を各論的に取り上げる傾向が著しかった。さらには、彼女を慕い敬う一方、または彼女から学ぼうとするためだけのものが多く、彼女を歴史的な観点から捉えようとはしなかったとも言える。従って本稿では、羽仁もと子が、女性キリスト者として、いかに近代日本という時代に適応し、自分の思想と活動を発展させて行ったか、または、15年戦争期にはどのように対応して行ったかを追跡する考えである。言い換えれば、近代日本に輸入されたキリスト教が、一人の女性キリスト者を通して、近代日本社会にどのように働きかけて行ったかという視点から、1945年の終戦で終結する近代日本の流れを追跡し、その背景をなしていた思想・生活の実状に関する理解を深めようとしたものとも言える。

羽仁もと子を研究対象としたのは、彼女の生涯が持つ歴史的代表性、女性ジャーナリストとしての社会的影響力、キリスト教を当時の日本社会の状況に適用しようとした思想的特殊性のためである。彼女のキリスト者としての特色は、宣教師に接することなく、日本の福音主義の柱である植村正久からキリスト教を教わったこと、それ以来、それを自分のものとして独創的に発展させて行ったこと、その思想を棚上げせずに日常の生活に浸透させ、または当時の社会・政治・戦争にまで適用しようとしたことなどにある。これらの特色の持ち主である羽仁もと子の全貌を捉えるために、本稿では、彼女の文章から時間的流れに沿って変化の推移を捉えること、彼女が毎日聖書を精読・黙想する一方、それとともに毎日欠かさず新聞を通覧しつつ、キリスト教思想と社会問題の調和を計り動いた事実に注目することに加え、もと子個人的にも、そして日本及び国際情勢においても1930年代前半が大きな転機になったとみなし、この時期に重点をおいて見ることを、基本的視座とする。

第一章では、『家庭之友』の創刊(1903)前、その準備段階としての幼年・学生・青年期の成長過程及びその背景を考察することにより、羽仁もと子という人物の性格と彼女の問題意識の原点を見つける。そのために、もと子を作り上げた四つの要素について、彼女の思想・活動への影響を中心として考察する。第一は、彼女の育った地域的・家庭的・教育的な環境である。幼い頃の記憶は、その後、都市中心の活動、家庭生活・家庭教育におけるアイデア、詰め込み教育反対及び生活と一体化した教育実施という問題意識の原点となっているからである。第二は、一生涯の仕事と問題意識を具体的に見つけるきっかけになった巌本善治との出会い及び明治女学校での生活である。巌本との出会いと、明治女学校での寮生活を通して、もと子は何か不満を感じるおぼつかない問題意識を一層具体化する。執筆という自分の適性を見出し、都市中間層の生活問題、キリスト教精神に基づく新たな教育事業という生涯の仕事を見つけたのである。しかし、その一方では、男女の性差による役割分担を強調し、男女平等の実現を時期尚早とする巌本善治の思想、及び1890年前後の天皇中心国体を強調する国粋的教育風潮の影響をも一緒に受けたと考えられる。

第三は、もと子のキリスト教信仰の師だった植村正久のキリスト教思想及び活動上の特色に伴うもと子との関係である。日本の正統的福音主義の柱である植村の思想には、「贖罪」信仰のみならず、人間の自己形成の努力である「志」信仰の性格が共存する。さらに、都市中間層を対象に組織的に活動すること、教育による人材養成と雑誌による啓蒙活動を並行して行なうことなど、もと子としては社会への働きかけ方においても、植村から至大な影響を受けたと見られる。第四は、もと子の私的・公的生活を一生涯ともにした夫の羽仁吉一の存在である。吉一が嘱望されるジャーナリストから、もと子を影で支え助ける人生へと変身したのは、彼の社会への働きかけ方の一つであった。女性向けの活動であるだけに、同じ女性であるもと子をあくまでも前面に立てながらの二人三脚の形で、説得力と実践力を一層増加させようとした戦略的な選択をしたのである。

第二章では、羽仁もと子の独創的なキリスト教思想に関する考察である。もと子は、神を、人間及び自然と繋がっている「大いなる力」ととらえ、聖書は人間の使命を教えてくれる「暗示」と受け止めた。人間の使命は、「自然な世界」を実現することであり、それは、「おのずから」成し遂げられるのではなく、「意志の自由」のある人間の努力が必要であり、人間の絶えぬ「進歩」によってこそ実現可能なものと見たのである。そして、人々がともに生きて行くためには、「自由」と「同情」が必要であり、その自由は、(1)自主・独立な人間として生きる、(2)本当の自由は正しい権威(神)と目的に向かっているうちにのみあり得る、(3)自由意志を行使する権利とともに、責任の義務がある、との三つの性格を持っていると考えていた。キリスト教における「原罪」の象徴である「智慧の木の実」は、退屈な生活から脱して生活の進歩を果たすための象徴として受け入れていることも注目に値する。

もと子は、理想の社会を実現するにあたって、個人ではなく「家庭」をその基礎単位として想定していた。問題意識の出発点は、人々が一緒に過ごす最小単位の「家庭」であり、そこでの「生活」であった。<個人 ― 家庭 ― 社会 ― 日本(―世界)>のように、家庭を充実にすることにより、より良い社会を作る。また、良い家庭を作るためには、常に社会とのつながりを保たなければならない。また、「日本」の問題については、日本における開港と明治維新、そして国際社会への進入は、神の手により「バベル塔」が壊れる事件のようなものとして受け止めた。さらには、自国中心の愛国心のみでは不十分で、誰もが神の子である事実に注目するように唱える。が、その一方では、「万世一系の皇室」に誇りを覚え、民族(日本)を神(樹)と個人(葉)をつなぐ「枝」にあたるものとみなすなど、キリスト教の中で日本への愛国心を擁護してもいる。

第三章では、日本社会にキリスト教の精神に基づく「理想の世界」を実現させるために行なった具体的な内容を、当時の社会風潮を考慮しながら家庭・教育論を中心として考察する。『家庭之友』は、もと子の関心が都市中間層の「家庭」であり、「生活」であることを明らかにしていることに意義がある。そして、それを継いだ『婦人之友』には、内容的に豊富になると同時に、本来の問題意識を発展させ、その解決を図るために、積極的にキリスト教精神を導入する変化を見せたことに特色がある。他にももと子は、都市俸給生活者のための「家計簿」の創案、教育に母親の役目と朝に・社会生活を導入した自由学園の創設、政治力に頼らない女性の社会活動のための<友の会>組織を実現させている。彼女は、キリスト教を知識・思想として受け入れることに止まらず、実際の生活・仕事に適用して行き、当時の男性知識人のキリスト教受容とは比べようがない、近代日本における新たな形のキリスト教受容の様相を広く見せたのである。

第四章では、羽仁もと子の教育思想と活動が、15年戦争期に入ってからは、国体論を支持しつつ戦争協力の道へと進展して行く過程を考察する。1932年の世界新教育会議参加及びその後の世界旅行は、もと子の関心が「家庭」を中心とする運動から、「日本」問題へと移る大きな転機となったとの観点である。その旅行を通じて、日本が国際社会で危機にさらされていると意識し始め、日本人としての愛国心を煽りたて、銃後の支援に携わって行くようになる。その過程で、もと子は、家族と国家を大事にする「ヤコブ型の人間」が、昨今の日本に必要であると呼びかけ、戦争による領土拡張を神により許された適者生存と受け止める。そして、戦争は、進歩のための「智慧の木の実」のような「荒療治」として理解され、もと子は、「家族日本」の旗印の下に、国家総動員体制の各政策に積極協力する言動を披露して行く。もと子が長い間続けてきた生活合理化運動、東北地方の深刻な凶作に組織的に対処した<友の会>の活動経験や自由学園内の男子部の創設、南京陥落直後に行なわれた北京生活学校の設立は、戦時下、日本当局の必要とあいまって、日本の戦争を支持・支援するものとして吸収されて行ったと理解し得る。

終章では、終戦前後のもと子の言動を第一章~第四章の内容などと照合しながら、戦時中の戦争協力と彼女の信仰・理想との関係について考える。そして、戦後日本の戦争責任問題の流れの上で、羽仁もと子の戦争責任、またはそれに関するもと子の沈黙の意味についてとらえる。敗戦が確実になる瞬間までも日本の勝利のために祈り、人々を励まし続けていたもと子は、戦後、自由民主主義を謳歌する風潮にはかえって違和感を覚えたようである。彼女の戦争協力行為の背景として、彼女の「自由」の認識と共に時事問題を先取りする手腕が裏目になったこと、国際情勢及び戦争の性格をとらえるには力不足という現実を悟らなかったことなどが挙げられる。また、戦後、もと子が自分の戦争責任問題を深く認識し得なかったことには、戦時下で自分の受けた圧力と損害の記憶、「摂理信仰」が響いたからである。さらに、近代日本の「無責任」になりかねない「無限責任」体制の下での、そして何よりも「心情倫理」による行動であったのも、自分の戦争責任問題に関する認識を鈍らせる一因になったと言えよう。

彼女の全生涯にわたる思想と活動を把握する場合、その特色を以下の五つにまとめられる。第一、思想・活動の原点は、日本社会の発展に対する強い熱望から生れた。女性の立場を生かし、女性関係の問題に携わったが、究極的には女性のための運動ではなかった。第二、もと子は、「革命」ではなく、「改善」を図ろうとした。第三、以上、二つの特色のゆえに、彼女の主張は主に、女性に現実追随と犠牲を求めることになりかねなかった。第四、以上の三つの特色が社会的・政治的な領域にまで拡大された結果、もと子は社会的弱者・被支配者ではなく、強者・支配者の利益に符合する立場に立っての主張を繰り広げた。第五、彼女にとってキリスト教は、生涯の思想・活動を支える基礎になるものの、第一の動機、つまり日本社会の発展という目標に逆らうことが出来なかった。自分の属している社会と国家に対して、罪を指摘する預言者的な役割を果たすことが出来ず、それに追随し正当化する理論として使われたのである。

本論文の意義としては、羽仁もと子について、日本の歴史的・思想的な脈略の上での把握を図ったこと、彼女の生涯を捉えることにより、キリスト教が近代日本において受容され、実生活に働きかけた様相を捉えたこと、女性キリスト者の戦争協力の理由と戦争責任問題について多様な視座から解釈を試みたことが挙げられる。本論文において、同じ時期の韓国(当時の朝鮮)の女性キリスト者の思想・生活・戦争協力問題は取り上げなかったが、韓国研究者として今後、視野を広げて研究を続ける必要があることを痛感する。

また、「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」と要約される羽仁もと子の精神は、過去の歴史としてのみならず、現代社会においても求められ得る現在・将来の問題として再吟味されるべき必要があろう。現代社会の抱いている様々な問題の解決のために、羽仁もと子の思想が「智慧の木の実」として据えられているのであり、そこに羽仁もと子研究のもう一つの意義があると痛感する次第である。

審査要旨 要旨を表示する

本論文(「羽仁もと子の思想・生活・戦争――近代日本女性キリスト者とその時代」)は、近代日本すなわち明治維新後から戦後へと至る状況において、女性キリスト者・羽仁もと子(1873-1957)が、キリスト教思想を懐きつつ生活をとらえ活動した在り方を、歴史的に遡ってこれを把握し考察した研究である。従来、近代日本キリスト者についての研究は、多くは男性知識人の様態をとらえていく傾向があった。女性キリスト者についても、個別論になるか、ややイデオロギー的前提をもった把握となる傾向もあった。これに対して本論文は、家庭をもつ女性の生活・教育等がキリスト教と結合しながら具体的に方向づけられていく状態をとらえる。羽仁もと子の人生、その雑誌出版・学校教育・会合参加等の活動を辿りながら、そこにキリスト教信仰が展開する在り方をとらえていく。

序章では、本論文の課題とその構成を位置づける。羽仁もと子は、女性キリスト者だが、近代日本女性が日常生活の中で活動する在り方をかなり一般的に示してもいる。これをとらえることは思想史的に重要だが、従来の研究は、羽仁もと子周辺の個別論・女性学・没歴史的把握等にとどまる。しかし、女性キリスト者としてのその活動を具体的かつ総合的にまた歴史的に捉えることこそ必要である。またその問題は、いわゆる十五年戦争期に、とくに状態が集中してあらわれている。だが、それも従来やはり十分捉えられていない。この空白の歴史をこそさらに探り出すべきだと、本論文の課題を方向づける。

第一章「問題意識の醸成と学習の時代」では、羽仁もと子が生まれた青森県八戸での幼年期の環境や家族の在り方、そこでの彼女の先天的・後天的な能力・意識の形成過程をとらえる。上京して巌本善治(1863-1942)による女性教育とその生活に目覚めるが、帰郷後に結婚しまた離婚する。さらまた上京後、ユニテリアン・羽仁吉一(188-1955)と社内結婚する。そして出産後、『家庭之友』を創刊するが、次女死亡後に改めて「回心」しさらに「信仰」を持ち始める。そこに植村正久(1858-1925)が信仰上の師となる。この羽仁もと子・吉一の家族としての活動は、さらに信仰を成熟させ、『婦人之友』と自由学園という雑誌・教育において、キリスト教信仰の理想を実現せんとする営みとなる。――これら従来必ずしも十分とらえられていなかった、羽仁もと子の家族・社会関係と信仰形成の歴史を、本論文はきわめて具体的・実証的に把握している。

第二章「キリスト教思想の受容と独創的な展開」では、第一章の内容にさらに思想的に踏み込み、キリスト教徒としての具体的な体験を背景に、神また天国の信仰が形成される状態をとらえる。それは、教理や教会の伝統に依拠することなく、さらに宇宙・万有の生命の一部としての自己自身とあらゆる生命への愛への意識であった。またそこでは、天地草木にも神のみ業があり、それに人間としての自己の啓発、進化・進歩が結合する。その際、羽仁もと子にとって、死や罪や悪は、神人関係の本質や原罪となるものではなく、人間生活上の倫理となり、生活改善の動機になる。それが自主・自由・独立の人生の営み、また同情・協同を説く家庭・生活また教育論となって、一貫して彼女によって説かれ続ける。さらに第一次世界大戦後は、民族としての「日本」を、「大きな生命」への通路として位置づけもする。このあたりの把握は、大きくは近代日本に流れる「生命主義」の流れに繋がるものでもあり、高く評価できよう。

第三章「キリスト教思想に基づく生活と教育」は、以上のようなキリスト教思想が、いかに生活・教育上の実践となって展開するか、その様態を、昭和初期まで具体的にとらえる。それは、中流家庭における婦人の修養であり、また家庭における出産・育児・食事・運営・家計簿・行事など、当時における健全な生活様式の形成であるが、それが、みずからを社会的に成長させる自由学園の理念と活動となり、さらに全国組織としての理想社会構築への働きにもなる。これらがまた持続する日本共同体をつくる活動となる。このような形成史を本論文は具体的にとらえる。

第四章「15年戦争期の活動と戦争協力」では、以上の羽仁もと子の活動が、1931 年、満州事変以後、また1932 年 世界新教育会議の参加以後、天皇崇拝の国体論に結び付き、キリスト教信仰がこれに習合する方向をもつに至ることをとらえる。そこには様態としては、天皇を戴く「家族主義」があり、また「東亜を導く使命」観のもとでの戦争協力活動があった。とくに1937,38 年頃から、羽仁もと子は、「国体」「家族日本」に関する文章を次々と書き、国民の力をヒットラー、ムッソリーニが率いる能力に比して評価さえする。それがさらに銃後の生活改革・戦争協力となって展開し、男子部の創設(1935)、友の会の「奉公運動」(1937)、また北京生活学校の設立(1938)といった活動となる。これら、十分知られていなかった戦時中羽仁もと子の活動を、本論文は具体的に見出し位置づけている。

終章「戦争経験と戦争責任、今後の展望」は、羽仁もと子の活動、とくに15年戦争期の営みが、その後、どのように認知されていったか、その状態をとらえる。羽仁もと子は、戦時中、終戦近くまで、欧米からの資本主義・帝国主義・科学万能主義は私利私欲であり、戦う敵であるとし、これへの勝利の念願・誓いを語り続けている。戦後になると翻って、「敗戦国」における「悔改め」を通じての新日本の道を模索する。とはいえ、天皇への畏敬はつよく持続するし、その新日本の「道」の内容は十分語られてはいない。羽仁もと子は、やがて老年、夫・吉一の急死に出会い、それ以上の表現なくして亡くなる(1957)。

この「沈黙」をめぐって、本論文は、類比して、日本キリスト教団において、戦争協力問題への取り組みが、1967 年以後、対韓関係によって漸く始まったことを指摘する。では羽仁もと子自身についてはどうか。筆者は、その「摂理信仰」(大貫隆)が、罪を忘れ進歩を目指すものであること、また社会的組織としては「心情倫理」(ウェーバー)による活動の体系であること、罪責論においては、「形而上的な罪」(ヤスパース)に関与しないものであること等を指摘する。ここでは、少なくとも田辺元(1885-1962)のような懺悔道は語られていない。それゆえ、羽仁もと子は人々にその後も課題を残したままである。

ただ、元来のキリスト教は、「救済」のみならず、「救贖(罪の贖い)」をするものであり、その点においてこそ、羽仁もと子は、後世に問題を残している。しかしまた、羽仁もと子の家庭・教育・生活・宗教論は、それが解体されている現代にこそ、そのグローバルかつ具体的な形態の構築にむけた可能性をもつ。この二つの問題を最後に示唆する。

以上のように、本論文は、従来、個別的な関係や関心は持たれても、その把握は不十分であった女性キリスト者・羽仁もと子の人生と生活の有り様を、その誕生から戦時・戦後まで、また大きな社会的組織の在り方として、追ってこれをとらえる。この研究は、近代日本の女性キリスト者の家庭・教育・社会等の在り方を、地域文化史的に位置づけており、それは従来の空白を埋めたものとして高く評価できよう。

またその内容について、羽仁もと子における神また倫理が、進化的創造論を背景に家族的国家論を形成するとき、権力に対して批判をもたず、天皇との関係を乗り越えることが出来ず、また罪意識も深まることなかった。結局、戦時期には戦争協力の活動をし続けたが、この問題は戦後も空白のまま残存することになった。――このような重要な指摘は、韓国キリスト教を背景にもつ李垠庚氏にしてはじめて、はっきりとらえたものと言えるかもしれない。その倫理的・宗教的な意味においても、本論文の意義は大きい。

とはいえ、いくつかの問題が残る。使用する雑誌・テクストの信憑性の吟味に不十分さが残る。それらが、そもそも羽仁もと子自身のものか、羽仁もと子像の表現なのか、あるいは、とくに戦時期における検閲をどこまで経た出版なのか。そのあたりに遡及すべき問題が残っている。ここにさらに入っていくことが、可能ならば必要であろう。

またその思想内容の把握について、羽仁もと子の、進歩と結び付いた「摂理信仰」というべき歴史観が本当に何なのか、また戦後どう位置づくべきなのかも問題となる。またその「罪責」について、本論文は、ヤスパースの罪責論によって基礎づける。しかし、羽仁もと子と同様、著者自身キリスト者であるならば、「罪」の内容を、より聖書をも参照しながら、位置づけ・類型化してとらえることが必要だろう。また哲学的にも、羽仁もと子に大きく流れる生命観が、自然内在主義であるならば、これをいかに捉え乗り越えるべきか、問題が残っている。

以上のように問題は残存する。けれどもこれらは当該の論文・研究を越え、そもそも学者・研究者にも問われ続けるものでもある。もとよりそれは本論文の意義を失わせるものではない。本論文は、羽仁もと子という、近代日本の家族・社会等の形成において重要な働きをしたが、従来十分に歴史的に位置づけられていなかった思想家を、きわめて具体的にまた歴史的に、またその空白であった戦時期の在り方にまで踏み込んで、さらにとらえている。またその近代日本のキリスト教思想の天皇制との関連も指摘している。これらは、きわめて創造的な営みであり、今後の研究の問題としての可能性や方向を示すものでさえある。本論文は、当該研究分野において画期的な地平を開くものであり、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものであると認定する。

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