学位論文要旨



No 125175
著者(漢字) 中村,塑
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,ソウ
標題(和) 近世両総地域における土地取引証文に関する研究
標題(洋)
報告番号 125175
報告番号 甲25175
学位授与日 2009.06.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第3471号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 農業・資源経済学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松本,武祝
 東京大学 教授 谷口,信和
 東京大学 教授 木南,章
 東京大学 教授 谷本,雅之
 東京大学 准教授 万木,孝雄
内容要旨 要旨を表示する

第1章では、近世支配権力及び土地取引証文に関する研究史を整理した。これまでの研究は、土地取引証文の表題と契約文言が、永代売買を禁じた支配権力の政策に逆らわない範囲で選択されていたことを明らかにしている。ところが、研究史が対象としている支配権力は、すべて将軍や大名のような幕藩体制における「上位領主」であった。これは、俸禄制へ移行することにより地方知行が廃止された、或は廃止されなくとも「擬制的」、「形骸化」した地方知行制が基本であったとする説の影響によるものと考えられる。それに対し、旗本に代表される近世「下位領主」による地方知行は、形骸化することなく、積極的に知行所の支配に取り組んだと考える説がある。つまり、近世支配権力の中に重層性がみられたことを評価する研究である。筆者は、近世支配権力の中に重層性が存在したことを重視し、旗本等の下位領主の政策も土地取引証文の表題と契約文言に影響を及ぼす可能性があったことを指摘した。さらに、近世在地における土地取引慣行に関する研究史においては、土地取引の際の百姓間の契約が、慣習法的な効果を有していたことが明らかにされている。それは、売渡した土地は、請け戻すことができないと定めた村法が存在したこと、質流地は請け戻すことができないという前提の下、村存亡や小農経営の危機の際は請け戻されたこと、「金子有合次第請戻」文言が証文に書かれている場合、年季が明けても質入主に請戻し権が強固に存在したこと、から窺うことができる。研究史を踏まえた上で、土地取引証文の表題及び契約文言は、支配権力との関係で規定される部分と百姓同士の関係によって規定される部分の2局面において理解しなくてはならないという、本論文の課題を提示した。

第2章では、近世両総地域の概要を農業生産と地主制を中心に述べた。近世期、両総地域は生産力が低く、米作が中心の地域であった。生産力の低さは近代以降も変わりなく、昭和初期に至るまで、反収2石を越えることはなかった。これに関連し、巨大地主が誕生することもなかった。不十分ながらも金肥を用いて、手作地の経営に熱心に取り組み、米穀の販売を主たる収入源とする在村地主が多く存在した。しかし彼らの土地集積は進展しなかった。質入人からの請戻し請求や、知行主からの圧力により、地主は質取地を手放すことが多く、両総地域における地主的土地所持は未成熟であった。しかし、そういった中で、僅かながら地主として土地を集積する動きがみられた。

第3章は、相給知行主と村落共同体との関係を分析した。平山家が居住した鏑木村も、前嶋家が居住した台方村も、複数の知行主が分割して支配する相給村であった。両村のみが相給村であった訳ではなく、それは両総地域に広くみられた知行形態であった。下位領主が知行する際は、相給になる傾向が強かった。

相給村における知行主は、村内にある自身の知行地とそこに付属する知行付百姓を支配した。ところが、百姓の再生産は、個々の知行所で完結せず、集落や村落共同体の存在を必要とした。そのため知行主の関心も、集落や村落全体へ及んだ。ところが、知行主には、集落や村落全体を掌握する術がなかった。相給村では知行所が一筆ごとに錯綜している場合が多く、知行所がまとまった空間として存在しなかったからである。法度を知行主の連名で村に発布した例にみられるように、知行主は自身の知行所支配を第一としつつも、他の知行主と共同して、集落及び村落全体を空間として把握することを試みたのである。

第4章は、下総国香取郡鏑木村(現千葉県旭市、旧香取郡干潟町)の平山家を取り上げ、土地取引証文における「表題」と「契約文言」の変遷を分析した。鏑木村は近世期、5給の相給村であった。平山家は、主として永代売証文、売渡証文、質地証文、流質地証文の4種類の土地取引証文を用いていた。

土地取引が開始された頃、平山家は、永代売証文を用いていたが、1687(貞享4)年を境に売渡証文へと変化した。これは近隣で発生した田畑永代売買禁令違反による処罰事件が影響したものと考えられる。平山家は土地取引証文の表題及び契約文言から「永代売」の文言を消去することで対応したが、証文の文面にそのものに大きな変化はみられなかった。よって事実上の永代売は継続したといえる。禁令を意識したのであれば、当時公認されていた質地証文を作成してもよいはずである。しかし質地証文は、質流してはじめて土地の所持権が質取人へ移動した。当時幕府は、質流を公認していなかった。質取人にとっては、質地証文は土地の所持権獲得には結びつかなかったといえる。そのため売渡証文に固執したと考えられる。

1695(元禄8)年に幕府が質流を公認した後は、売渡証文の使用を控え、流質地証文を用いるようになった。それと同時に「年季明時に借入金返済不可の場合質流」を明記した質地証文も作成されるようになった。「質地関係を経た後の質流」という幕府が公認した土地取引へと変化をしたといえる。

しかし、これは明治初年の永代売買解禁まで全面的に継続しなかった。1731(享保16)年、鏑木村5給の内、それまでの幕府領が、旗本本目氏の知行所へと変化した。これを契機として、一度使用が控えられていた売渡証文が再増加した。同時期、流質地証文を装った事実上の売渡証文も登場したが、他村(主に上代村)での土地取引に限られていた。1740(元文5)年、鏑木村5給の内、榊原氏が改易になると、それまでの榊原知行所は、幕府領へと変化した。これを境に、1731年以降再増加していた鏑木村内の売渡証文は消滅し、上代村での土地取引に限られていた流質地証文を装った事実上の売渡証文が、鏑木村でも用いられるようになった。鏑木村の隣村である、一村幕府領の万力村での土地取引は、近世中期以降、ほぼすべて「質地関係を経た後の質流」という幕府が公認した土地取引であった。

まず、支配権力との関係で規定される土地取引証文の表題及び契約文言について分析した。本論文は、下位領主独自の土地政策の存在を重視したが、それを明らかにできる史料を見出すことはできなかった。しかし鏑木村に関して、近世中期に村内に幕府領が存在しなかった時に売渡証文を盛んに用いていたことを明らかにした。このことから幕府とは異なる、下位領主による独自の土地政策が存在したことを窺うことができる。ところが、再び幕府領が鏑木村内に設定されると、繰り返し述べてきた通り、売渡証文は流質地証文を装った事実上の売渡証文へと変化した。これは、下位領主による独自の土地政策は存在するものの、百姓にとっては幕府法の制約も同時に受けていたことを示唆している。第1章でも触れたように、田畑の売買を認めた地頭法の存在を明らかにし、上位法である幕府法との対立を指摘した研究がある。第4章の事例をみる限り百姓は、相給知行主に幕府代官が存在する場合は幕府法の制約を受け、幕府代官が存在しない場合は地頭法による制約を受けたと考えられる。

次に百姓同士の関係によって規定される土地取引証文の表題及び契約文言について分析した。本文で触れたように平山家には、1784(天明4)年に質流により集積した土地を、1838(天保9)年に元の所持者へ返還した事例がある。元の所持者が平山家へ差し出した契約史料には、元の土地所持者は耕作する土地を失い、本来ならば請戻しできないという前提の下で、平山家の格別の配慮により土地を請戻したと記載されている。この事例は、質入人の生活を犠牲にしてまで質取人は土地の所持権を強く主張することはできなかったことを示している。この点で質取人の質流地に対する所持権は不安定であり、だからこそ、所持権が強固なものとなる売渡証文に可能な限りこだわったと考えられる。

第5章では、上総国山辺郡台方村(現千葉県東金市)の前嶋家の土地取引を取り上げた。台方村は4給の相給村であった。前嶋家は、売渡証文、質地証文、譲地証文の3種類の土地取引証文を用いた。売渡証文の契約文言は年季売であり、質地証文とほぼ同一のものであった。質地証文は、年季明時に借入金返済不可の場合「金子有合次第請戻」の契約文言を記載した証文と、「質流」の契約文言を記載した証文が存在した。「金子有合次第請戻」契約は、質入から何年経過しても元金を用意でき次第、質地を請け戻す契約で、質入人の請戻権が強固な土地取引であった。「質流」は質取人側に所持権は移るが、平山家で確認されたように小農経営の危機の際、質入人から請戻しが請求される場合があった。前嶋家では質流地の請戻し事例はなかったが、同様の問題を抱えていたと推測される。請戻し請求に対抗できる土地取引証文は、前嶋家の場合、譲地証文であった。

前嶋家が年季売ではない売渡証文を作成しなかった理由は、台方村内に幕府領が存在したためと考えられる。現存する最も古い土地取引証文が作成されたとき、すでに台方村内には幕府領が設定されていた。譲地証文は第1章で触れたように、綱吉の時代は永代売とみなされ、永代売買禁令違反として処罰された。その後吉宗の時代になると、譲地証文は処罰対象から外され、禁令違反として明文化されなくなる。ところが、それにも関わらず譲地証文を永代売とみなし処罰した事例があった。支配権力の譲地証文に対する禁令適用は、厳格なものから曖昧なものへと変化した。そのため前嶋家は、支配権力の意向に沿えると自ら判断し得たときに限って譲地証文を用いたと考えられる。

譲地証文により取引した土地は、前嶋家の知行主である旗本河野氏の知行地に多くみられ、かつ取引の相手は、主に他村(大豆谷村)の百姓であった。他村百姓による自村内の土地所持、つまり越石を解決する際に前嶋家は譲地証文を用いた。村落共同体の規制は越石百姓に対して十分に及ばないため、越石百姓による年貢未納等のトラブルが生じやすかった。村外に流出した土地を買い戻すことは、知行主の意向に沿う行為である前嶋家は判断したと考えられる。譲地証文が多くみられた時期は、前嶋家が連続して村役人をつとめていた時期と重なっている。前嶋家は村役人として「村の土地は村へ戻し、村人が所持する」という大義名分の下、譲地による土地の所持権獲得を進めたと考えられる。ところで村役人として他村百姓の手に渡った土地を取り戻すのであれば、その土地を元の所持者へ戻すという方法も採りえたはずである。しかしながら譲地証文により取引した土地は、元の所持者へ返されることなく、明治初年に至るまで前嶋家が所持し続けた。1837(天保8)年、河野氏によって前嶋家は処罰を受けている。原因は不明であるものの、譲地による土地集積に対する知行主からの圧力の可能性が考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

日本の近世社会では土地取引の際に証文が広く作成された。現存する土地取引証文を用いて、これまで地主制研究および在地の土地取引慣行に関する実証研究がなされてきた。本研究は、とくに、土地取引証文の表題および契約文言に着目した。近年、表題と契約文言の表記に乖離がみられる事例が分析されており、両者を同時に分析してはじめて、土地取引の実態にせまることができると考えたからである。本研究は、両総地域の2つの地主家を事例として取り上げ、土地取引証文の表題及び契約文言を、支配権力との関係によって規定される部分と百姓同士の関係によって規定される部分の2局面において分析した。

第1章では、近世支配権力及び土地取引証文に関する研究史を整理した。これまでの研究は、土地取引証文の表題と契約文言が永代売買を禁じた支配権力の政策に逆らわない範囲で選択されていたことを明らかにしている。ただし、それらの研究が対象としている支配権力は、将軍や大名のような「上位領主」であり、旗本に代表される「下位領主」を含めた議論はなされてこなかった。本研究は、「下位領主」の政策が土地取引証文の表題と契約文言に影響を及ぼす可能性があることに着目した。近世の両総地域には、旗本領が広範に分布しており、この視点からの研究に適している。さらに、近年の在地における土地取引慣行に関する研究は、土地取引の際の百姓間の契約が慣習法的な効果を有していたことを明らかにしている。土地取引証文の表題及び契約文言の分析に際しては、在地の百姓同士の関係も議論に含める必要があることを指摘した。

第2章は、近世両総地域の概要を、農業生産と地主制を中心に述べた。近世期、両総地域は生産力が低く、米作中心の地域であった。巨大地主が成立することもなかった。質入人からの請戻し請求や知行主の圧力により、地主は質取地を手放すことが多く、両総地域における地主的土地所持は未成熟であった。しかし、在地地主として土地を集積する動きがわずかながらもみられた。

第3章は、相給知行主と村落共同体との関係を分析した。ひとつの村を複数の知行主が分割して支配する相給村においては、百姓の生活及び生産は個別の知行所で完結せず、集落や村落共同体の存在を必要とした。ところが、個別の知行主には、集落や村落全体を掌握する術がなかった。法度を知行主の連名で村に発布した例にみられるように、知行主は自分自身の知行所支配を第一としつつも、他の知行主と共同して、集落及び村落全体を空間として把握することを試みたのである。

第4章では、下総国香取郡鏑木村(現千葉県旭市、旧香取郡干潟町)の平山家の土地取引文書を分析対象とした。まず、支配権力との関係によって規定される土地取引証文の表題及び契約文言について分析した。近世中期、村内の知行主が旗本に限られ幕府領が存在しなかった時には、幕府法が禁止していた売渡証文が作成された。このことから、下位領主による独自の土地政策が存在したことが明らかとなった。その後、幕府領が鏑木村内に設定されると、売渡証文は流質地証文を装った事実上の売渡証文へと変化した。以上のことから、平山家の土地取引は、相給知行主のなかに幕府代官が存在する場合は幕府法の制約を受け、幕府代官が存在しない場合は旗本の地頭法による制約を受けていたことを明らかにした。

つづいて、百姓同士の関係によって規定される土地取引証文の形式について分析した。平山家が質取人となった質流地において、困窮した質入人に質流地を返還した事例がある。質入人の生活を犠牲にしてまで、平山家は土地の所持権を強く主張することができなかったのである。質取人の質流地に対する所持権が不安定であったために、平山家は、所持権が強固なものとなる売渡証文による土地取引に可能な限りこだわったのである。

第5章では、上総国山辺郡台方村(現千葉県東金市)の前嶋家の土地取引証文を分析した。前嶋家は、所持権が強固なものとなる譲地証文を多用した。譲地証文は、近世前期には永代売買禁令違反として処罰の対象とされたが、中期以降は、禁令適用が曖昧なものへと変化した。そのため前嶋家は、支配権力の意向に沿えると自ら判断し得たときに限って譲地証文を用いた。譲地証文により取得した土地は、前嶋家の知行主(旗本家)の知行地に多くみられ、かつ取引の相手は他村の百姓であった。前嶋家は、村役人として「村の土地は村へ戻し、村人が所持すべし」という大義名分の下で、それらの土地取引は知行主の意向に沿う行為であると判断して、譲地による土地の所持権獲得を進めたのである。

以上、本研究においては、両総地域の2つの地主家に残された土地取引証文を分析対象として取り上げて、証文の形式が、支配権力との関係および百姓同士の関係という2つの局面によって規定されていることを明らかにした。この分析成果は、学術上、応用上資するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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