学位論文要旨



No 125176
著者(漢字) 七木田,文彦
著者(英字)
著者(カナ) ナナキダ,フミヒコ
標題(和) 健康教育教科「保健科」成立の政策形成過程
標題(洋)
報告番号 125176
報告番号 甲25176
学位授与日 2009.06.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第154号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 衞藤,隆
 東京大学 教授 武藤,芳照
 東京大学 准教授 勝野,正章
 東京大学 教授 小玉,重夫
 東京大学 教授 佐藤,学
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、1920年代から1947(昭和22)年までを対象に、日本の学校において健康教育教科「保健科」が教育課程中に位置づけられる過程を歴史的に考察することを主題とした。

学校における健康教育の導入は、これまで「保健科」成立史として検討されている。しかしながら、戦後に「保健科」といった教科名が選択されたことによって、その議論は、戦後教育改革における史実の枠内に閉じ込められている。これに対して、本研究の視点は、健康教育教科「保健科」の成立過程として検討することにより、これまでの「保健科」成立史とは区別して、健康教育教科が教科目として教育課程に位置づけられるプロセスを、戦前・戦中にまで拡張させて考察することを意図した。

健康教育教科の成立史として再検討を必要とする理由は、「保健科」の成立史が見落としてきた健康教育教科の導入による構造転換に着目したからである。

医学の成果により疾病に対する罹患の予測可能性が明確になることは、予防や健康増進を介して現在の生活を規定することでもあり、そのことにより、人々の生活が均質化された健康的ライフスタイルとして確立することをも意味していた。

「健康教育」は、特定の病弱児童から予防的にコントロールできる可能性をもった一般児童を対象に、健康で合理的な生き方を推進する機能として、また、後の健康的生活を積極的に獲得するために導入された。

以上の主題を、文献的史料の調査・収集・分類・資料批判・読解・分析を中心とする方法により、健康教育教科「保健科」の成立史として叙述した。

本論は、全3章で構成されている。

第1章では、戦前昭和期に展開された健康教育運動を概観し、健康教育教科成立の基盤形成過程として叙述した。

日本における健康教育運動の萌芽は、1920年代に展開された第一回明治神宮競技大会(1924年)や第一回全国体育デー(1924年)といった文部省の体育政策、そして体育研究所の設置(1924年)等、第一次世界大戦を背景とした体育・体力政策に起点を持っている。

体育政策が展開される中で、文部省は欧米の健康教育実態調査を行い、米国'Health Education'の考えに注目して、学校における「健康教育」導入の機会が検討された。

1920年代の健康教育運動は、帝国学校衛生会の協力による「健康教育」の全国的普及基盤が形成されると、「健康教育」機会の確保から、地域の疾病状況を踏まえた「健康教育」内容が検討され、各学校において衛生教授訓練要目が作成された。

さらに、衛生教授訓練要目の発展は、1936(昭和11)年頃までに、健康習慣の「心得」から、要目の学年別編纂・月別編纂がなされ、細目化された。

健康教育運動の展開にインパクトをもった米国C.E.ターナーの健康教育論は、吉田章信、野津謙、大西永次郎といった文部省・厚生省関係者により積極的に受容された。

健康教育運動は、(1)それまでの学校衛生を教育的機能のもとに再編成すること(「広義健康教育」)、(2)'Health Instruction'の役割を強調し、衛生教授訓練要目の充実を図る役割(「狭義健康教育」)の二つの展開に影響を与えた。

第2章では、健康教育運動の戦時下改革過程について検討した。

戦時下における改革は、(1)特定の病弱児童を対象として展開されている学校衛生を、「健康教育」の導入により多数の一般児童へと対象を拡大し、(2)身体検査規程の改正によって、一人ひとりの発育と身体的特徴を把握した上で検査結果を活用できるように規程が整備された。また、(3)個人の身体状況把握による「健康教育」の働きかけは、それまで学校衛生の中心で活動をしていた嘱託の学校医、学校歯科医、学校看護婦から担任教員へとその担い手を移し、新たな教育職員として養護訓導を誕生させた。そして、(4)家庭、担任教員、養護訓導、学校医、学校歯科医の「連繋」を強化することにより、個々の身体を取り巻く環境を組織・整備した。

戦時下政策は、身体検査による外形的身体管理だけではなく、身体の機能としての「体力」にも関心が向けられ、身体の訓練として「衛生訓練」が注目された。これにより、1941(昭和16)年、国民学校の誕生とともに「衛生」の教育内容が体錬科体操中に位置づけられた。体錬科体操「衛生」は、「知識教授」よりも「衛生訓練」による実践が重視され、「知識教授」の内容は、国民科修身、理数科理科、芸能科家事に位置づけられている「衛生」関連内容として取り扱われた。

「衛生訓練」は、1930年代から40年代にかけて、「身体の訓練」から健康生活を建設する「態度」の訓練へとその内容を変化させた。そして、その「態度」は、「皇国に捧ぐる身体錬成の態度」へと接続され、学校衛生施設・設備設置による「外的身体管理」から健康の「自己内在化」による「内的身体管理」へと変化した。

第3章では、戦後教育改革によって誕生した「保健科」の成立過程について、制度的成立として、1947(昭和22)年の学校体育指導要綱が示されるまでの政策形成過程を検討した。

明らかになった点は、以下の二点にまとめることができる。

第一に、戦後「保健科」の成立に影響を与えたとされる第一次米国教育使節団報告書の項目は、終戦直後に文部省が行った自主改革「第一次文部省機構改革」に規定されながら改革案としてまとめられた。

1945(昭和20)年9月5日の「第一次文部省機構改革」において文部省に再設置された体育局は、同局の対応部局として、CIE内にPhysical Education Divisionが設置(1946年1月)されたことや、教育使節団に保健・体育担当としてマックロイが選出されたことと連続性を持ち、戦後教育改革を規定した。

第二に、「保健科」の成立は、1946(昭和21)年9月10日より開催された学校体育研究委員会、同委員会「整理委員会」、そして、同年9月26・27日に開催された学校衛生事務打合会の議論によって「体育科」との合科型教科「保健体育科」として、方向が定められた。

学校体育研究委員会と同委員会「整理委員会」では、「体育」を「体育運動」と「衛生(保健)」を含む概念(「広義体育論」)としてとらえ、学校衛生事務打合会では、「体育」に「衛生(保健)」は含まれず、「体育運動」のみを示す概念(「狭義体育論」)として受け止め、「保健科」の独立論を提案した。

両会議における意見の相違に対し、学校体育研究委員会委員で学校衛生事務打合会の首班として両会議に参加した岩原拓は、少数の意見としながらも、学校衛生事務打合会の結論を「広義体育論」として調整した。ここに「保健科」と「体育科」の合科型教科「保健体育科」誕生の方向が決定し、教育内容として学校体育指導要綱(1947)が作成された。

学校体育研究委員会と学校衛生事務打合会の示した方向性は、後の「中等学校保健計画実施要領(試案)」(1949)、「小学校保健計画実施要領(試案)」(1951)、学習指導要領(試案)といった改革をも規定した。

戦後「保健科」は、体錬科体操「衛生」の枠組みにより「保健」と「体育」の合科型教科「保健体育科」として成立するが、戦時下と戦後に選択された内容を比較すると、体錬科体操「衛生」は、実践訓練を目的とした「衛生訓練」であったのに対し、戦後「保健科」の内容は「知識教授」が強調された。戦時下改革において、「体育」と「衛生(保健)」は「訓練」を介して接続されたが、戦後の改革では、第一次米国教育使節団の勧告によって「知識教授」が重視された。これにより、「訓練」を介して接続される「体育科」との接点が不明確となり、「保健科」の授業は実施率低迷といった状況を生み出すこととなった。

以上のように、健康教育教科は、戦前昭和期に展開された健康教育運動を基盤として、戦時下改革により体錬科体操「衛生」としてナショナルカリキュラムに位置づけられた。戦時下に形成された教科体制は、戦後教育改革を通して、さらに健康教育教科「保健科」として制度的に成立した。

健康教育教科「保健科」の成立は、以上のプロセスにより、「演繹される生活態度の諸原理(医学や科学)に従属させようとする個人」を形成する機能として学校教育中に位置づけられた。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、戦後、学校教育課程に位置づけられた「保健科」の成立について、新たに1920年代から1947年までを対象に、戦前・戦中・戦後の動態の中で形成された健康教育教科「保健科」の成立としてとらえ直すことにより、自明とされてきた教科成立の意味と構造を明らかにしている。健康教育教科「保健科」の成立は、予防や健康増進の観点から生活を予測可能性の中に規定し、均質化された健康的ライフスタイルを確立させた。そして、健康教育は、特定の病弱児童を対象にした学校衛生から予防的にコントロールできる可能性をもった多数の一般児童へと対象を拡大させ、積極的に健康を獲得するシステム、さらには合理的な生き方を推進する機能として導入されたことを本論文では明らかにしている。

序章と結章を除く本論部分は、3章で構成されている。第1章「戦前昭和期における健康教育運動の興隆過程」では、第一次世界大戦後に萌芽した健康教育運動の展開について、米国健康教育思想の受容過程を、吉田章信、野津謙、大西永次郎の健康教育理解と普及活動について明らかにしている。その上で、全国各地の小学校に健康教育が普及する過程を各学校が独自に作成した衛生教授訓練要目の発展過程に求め、健康に関する内容が「心得」から「学年別配当」、「月別配当」要目として細目化されたことを約170編の学校史料を収集し、実証している。

第2章「戦時下健康教育運動の改革過程」では、非合理的な側面を持ちながら、「合理化」、「綜合化」、「連繋」の改革が進められ、「衛生教授」よりも実践を強調する「衛生訓練」が重視・選択された。訓練の理解は、「身体の訓練」から積極的に健康を獲得する主体を形成する「態度の訓練」へと変容した。身体検査規程の改正により検査結果の活用が規定され、健康教育の担い手として担任教師、そして新たな教育職員として養護訓導を誕生させた。本章では、個々の身体を取り巻く効率的な環境組織について戦時下改革を整理している。

第3章「戦後教育改革における「保健科」の成立」では、戦後、第一次文部省機構改革によって体育局が再設置され、第一次米国教育使節団C.H.マックロイの選出、Civil Information and Education Section(CIE)のHealth and Physical Education Divisionの設置がこれに対応していたことを指摘している。そして、学校体育研究委員会や各種関係委員会によって「衛生(保健)」と「体育運動」を含む概念の「広義体育論」と両者を分離する「狭義体育論」の意見が調整・整理され、前者の選択により今日に続く教科体系が形成された過程を描きだしている。

本研究は、精緻に政策形成過程を追いながら、健康教育教科の成立について戦前、戦中にまで対象を拡張し、健康教育教科「保健科」の成立といった新たな視点にもとづいて実証を行ったところに大きな成果が認められる。以上のことから、博士(教育学)の学位として水準を十分に充たす論文として評価された。

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