学位論文要旨



No 125177
著者(漢字) 相澤,真一
著者(英字)
著者(カナ) アイザワ,シンイチ
標題(和) 戦後教育における学習可能性をめぐる言論の変容過程 : 新制中学校の黎明期から1960年代までの教育運動を中心とした歴史社会学的研究
標題(洋)
報告番号 125177
報告番号 甲25177
学位授与日 2009.06.10
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第155号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 苅谷,剛彦
 東京大学 教授 恒吉,僚子
 東京大学 教授 今井,康雄
 東京大学 教授 秋田,喜代美
 東京大学 准教授 橋本,鉱市
内容要旨 要旨を表示する

本稿は、「戦後日本の中学校は、どのようにして、前期中等教育で与えられる内容を、ほぼ全ての生徒が学習可能であるということにしたのか」という問いを明らかにする。戦後、新制中学校が義務教育となり、国民が教育を受ける期間が延長した。だが、戦後直後、義務教育となった中学校に通う生徒達の能力の分散の大きさに教員達は戸惑いを隠さなかった。この戸惑いと混乱の中から、新制中学校において、何を、どの程度、誰に学習させていくかについて語られたことに注目する。

本稿は、主に文書資料に依拠し、新制中学校の黎明期から1960年代までを対象とした歴史社会学的研究である。この歴史的変容の叙述にあたり、教員や教員組合の動きを中心に注目した。教育実践については、数学科と外国語科を中心としながら、単なる教育目標論、当為論だけでなく、具体的な能力観、学級編成、教育方法などを検討対象とした。

第1章では、「教育運動言説」と「学習可能性」の概念的検討を行った。その結果、「教育運動言説」は教育社会学の「教育言説」と社会運動の社会学の「運動言説」の統合概念として位置づけられることを示した。その上で、本稿では、学習可能性の議論を動かした「聖性」を保持した言説を「教育運動言説」として扱った。また、本稿では「学習可能性」の概念を用いて、「陶冶」の概念を含む教育可能性とは別に、シンプルに内容を習得できるか否かという水準で議論した。その結果、学習可能性を社会学として検討するとき、「学習可能性の社会学は、学習内容を「制度」が同定する作業を起点とする」というテーゼが導出された。

第2章では、学習可能性という視点を持つことによって、光の当たる問題群が具体的にどこにあるかを、1945年以前の欧米の中等教育の事例のレビューを通じて明らかにした。

当初は、学習内容自体を固定化させた状態で、教育を受ける側の学習可能性を知能検査などをもって測定し、就学に適さない者を排除していく方法が取られた。その後、アメリカの学校で大規模に知能検査が応用されていくことによって、知能検査の結果が、学校内外での選別に用いられるようになった。この時、近代学校教育制度が、教育可能な者から不可能な者までを一元的な軸に並べつつ、段階に応じて包摂していく技術の萌芽が見られた。そして、産業構造の変化による社会変動と並行して生じたアメリカの中等教育拡大によって、学習内容を習得するという個々の学習必要性と学習可能性に応じた中等教育へと根本的に考え方に根本的に変化した「コペルニクス的転回」がもたらされた。

以上の点に加え、当時のハイスクールとジュニア・ハイスクールの特質の違いについて検討した結果、ジュニア・ハイスクールをジュニア・ハイスクールたらしめていたのは、職業訓練ではなく、ガイダンスとしての職業指導であったことを確認した。以上の、第2章までの検討によって、本稿全体の検討対象の布置連関の妥当性を歴史的に明らかにし、第3章以降の戦後日本の新制中学校の検討対象の設定を行った。

第3章では、政策側の新制中学校の初期構想からカリキュラムの具体化までの過程と、具体化された新制中学校において、絶対的に資源が不足する中で学習内容を学習させるために教員側が用いた「メディア」としての知能検査および知能検査の実施を通じた教育実践を検討した。

新制中学校の教育内容の構想では、(1)全員が同じ教育内容を受けるべきだ、(2)勤労教育が中学校に必要だ、(3)中学校の三年間で分かれていくようなカリキュラムであるべきだという三点があったことを示した。この(1)から(3)が根本的に矛盾を抱えながら、(3)の分かれていく時期を構想段階で曖昧にしたことによって、問題を先送りさせた楽観的なものであった。

この問題の先送りと楽観視を含んだ構想が、統一的な学校制度と選択制の少ないカリキュラムに具体化された。ただし、本来重視するはずの勤労教育は概念の共有において混乱をきたし、実践的な内容も含めた入学試験も低い正答率しか到達しない状況にあった。そのため、日本の新制中学校は、アメリカのジュニア・ハイスクールをジュニア・ハイスクールたらしめていた職業指導を理念としては導入しようとしたものの、実際には十分、機能させることができなかったことが明らかになった。

一方、教育を実践した側にも第3章にて注目した。特に、新制中学校において知能検査が行われ続けていたことに注目した結果、50年代特有の知能・能力観として、児童・生徒の学習可能性を知能や能力の側面から明らかにしようとする見方であることを示した。

第4章では、本稿全体で最も重要な歴史的な変化を扱った。それは、教育運動言説として、生徒が学習できないとは言わない状況としての「学習可能性を留保する状況」が成立していった過程である。

第4章前半では、新制中学校を構想する側が、改革案として示した1958年の学習指導要領改訂の制定過程を確認した。この学習指導要領は、新制中学校生徒に対する学習可能性について、限定的かつ「現実的」な見方が示されたものであった。すなわち、自分から学習内容を切り下げることを望む人には切り下げた上で、教育内容全体は切り上げるという路線としての「進路、適性に応ずる教育」が取られることとなった。

第4章後半では、運動側における対抗言説の形成過程を検討した。特に日本教職員組合の全国教育研究集会の議論に注目し、数学分科会において、学習指導要領改訂の結果として、政策の対抗上、高水準の数学教育の学習必要性が訴えられ、学習可能性を乗り越えようとする運動言説が構築されたことを明らかにした。さらに、外国語教育分科会において、外国語を学習することは、あくまで「その外国語を使う能力の基礎を養う」だけでなく、「諸国民との連帯を深める」ことや「思考と言語との密接な結び付きを理解する」ことに寄与することに学習の意義があるとして、勤評闘争や国民教育運動などと結びつけられながら、だから皆が学習できるし、学習必要なものであるとされた。ここに、学習可能性を留保する状況――生徒が必ずしも学習できないということは言わないことにする状況(名指すべき問題状況が存在しながら意図的に言葉として表明されない状態)――が生じてきたことを示した。さらに、学習可能性を留保する状況の中で、運動側が学力を再定義する試みを見てきた。しかしながら、『学力とは生きる力』であるとの意見に一致を見たように、個別課題解決のレベルでの学習可能性の議論を留保しつつ、加入率が低下傾向にあった運動組織内で抽象度と共鳴性の高い意味内容を保持した言論が増殖することに議論がとどまったことを示した。

第5章では、第4章における政治的関係の中で登場してきた学習可能性を留保する教育運動言説が、具体的に、どのような教育実践内部への変化をもたらしたのか、特に、能力別学級編成を否定する過程と教育運動内の「自主編成」に注目した。

能力別編成の否定過程については、基本的には、第4章で見てきた学習可能性を留保する議論の構図と同型の議論を展開した。すなわち、能力別編成に保持されがちであった能力の固定性を批判する見方と実践によって直面する生徒達の劣等感を問題視する見方という2つの見方を教員達に提供することによって、能力別学級編成が否定されてきた。

その上で、自然学級の中で教えるために、どのような教授法の工夫が行われたのかを教育運動内の「自主編成」に注目して検討した結果、みんな学ぶことのできる平等な中学生ということが「建前」にとどまらず、平等に高い教育達成を目指す実践もさまざまに試みられていたことを確認した。それらの教育実践は、運動としての先鋭的な主張も含みながら、日々の教員たちの工夫が積み重ねられていった。しかしながら、ここでさまざまな工夫をしようとも、教員の悩みは依然として解消されないものであった。

第6章の結論では、「教育運動言説」と「学習可能性」という概念を用いた分析によって見えてきたものを整理し、さらに現代社会に対するインプリケーションを述べた。

本稿の分析全般を通して見てきたのは、生徒の学習可能性に応じた選択制を中学校内部で強めようとした58年の学習指導要領改訂に対抗していくことによって、教育運動の中で共有された教育運動言説が現実を突き動かしたことであった。

戦後、義務教育として発足した新制中学校では、常に生徒の大きな学習可能性の分散に対応することにさらされていた。その中で、能力別指導に対する根強い賛成や指導方法の工夫では限界があるとの指摘はたびたび教員の本音として提出されてきた。ある意味では、生徒の学習可能性を留保していくことにより、学級内での処遇の平等を確保していくことは、政策に対抗するために提示してしまい譲れなくなった「苦し紛れ」の方策であった。しかし、その「苦し紛れ」の方策だったものが、教育運動の中で「聖性」を帯びた言説となり、それに基づく行動を実行することによって、実際には教えにくい多様な分散を持った生徒たちに対して「寛容」かつ「忍耐がある」という二重の意味でtoleranceのある前期中等教育が日本の中で成立してきたのである。

審査要旨 要旨を表示する

戦後日本の教育は、中学校を義務教育に組み入れ、単線系の教育制度を発足させた。この変化は、戦前期の教育制度と比べると、ほとんど全ての生徒に中等教育レベルの学習が可能かどうかと言う切実な問題を引き起こした。そして、この問いを不問に付し、留保することで、「平等」な教育を実現しようとした。本論文は、新制中学校の発足と制度化の過程を対象に、その教育内容をほぼ全ての生徒が学習可能であるか否かを留保、すなわち、この問題を棚上げする見方が、どのように成立したのかを、日本教職員組合の全国教研集会等での議論を主なデータとして、教育社会学の視点から明らかにした実証研究である。

本論文は序章と6章よりなる。序章で研究対象とする時期区分と論文の構成が示された後、1章では分析枠組みとなる「教育運動言説」の概念が摘出される。「社会運動の社会学」に依拠しつつ、教育言説と運動言説を組み合わせることで構成される教育運動言説の概念を用いることで、教育言説に神聖性が付与される過程への注目が可能になることが示される。さらには、学習概念の検討を通じて学習可能性についての定義付けが行われる。

この分析枠組みをもとに、2章では、日本との比較を念頭に、アメリカの中等教育拡大期の議論についての検討がなされ、個々の生徒の学習必要性に応じた学習可能性という考えが出される過程が描かれる。3章では、50年代前半までの学習可能性をめぐる議論が分析される。制度を構想した政策側と教育実践に関わった側の言説を対象に、政策側では、基本的には同じ教育内容を全ての生徒に学習させること、カリキュラムの分化を進めていくことが提唱されるが、実際には分化の時期があいまい化されることで、分岐的な構造に至らなかったこと、実践側では、知能検査を用いることで生徒の学習可能性を能力面からとらえる見方があったことが示される。

4章では、教育内容の切り上げを伴った学習指導要領の58年改訂を契機に、日教組を中心とした教育運動側の言説が対抗言説としての性格を強め、学習すること自体に価値があるというように学習目的をより抽象化することで、学習不可能な生徒がいることを意図的に言明しないようになる過程が描かれる。この分析を受け、5章では、能力別学級編成を否定しつつ、教育実践レベルで、平等に高い教育達成を目指す実践が教研集会の場で議論されたことが示され、教育運動言説と教育実践との関係が明らかにされる。これらの分析を受けて、結論にあたる6章では、各章の知見を整理するとともに、学習可能性を留保することの問題点が議論される。

このように本論文は、学習可能性を切り口に、教育運動言説の変化の分析を通じて、戦後「平等な教育」の信念がいかに生成されたのかを実証的に明らかにした。教育実践の分析にはやや物足りないところが残るが、国の政策への対抗が学習不可能性の留保を導いたという論の展開は重要かつオリジナリティをもつ。その点で、今後の教育研究に重要な貢献をなすものと考えられる。以上により、博士(教育学)の学位論文として十分な水準に達しているものと認められる。

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