学位論文要旨



No 125178
著者(漢字) 金子,裕介
著者(英字)
著者(カナ) カネコ,ユウスケ
標題(和) 動機説の観点から見た倫理的判断の諸相
標題(洋)
報告番号 125178
報告番号 甲25178
学位授与日 2009.06.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第702号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 一ノ瀬,正樹
 東京大学 教授 高山,守
 東京大学 准教授 榊原,哲也
 東京大学 准教授 鈴木,泉
 立命館大学 教授 伊勢,俊彦
内容要旨 要旨を表示する

1.以下の要旨に関わる限りでの目次

第1部 動機の彫琢

第1章 何故、動機説の立場を採るのか

第2章 動機とは何か

第3章 因果関係に対する信念と意志

第4章 帰納論理と帰納的正当化

第2部 動機の評価

第1章 格率と道徳法則

第2章 ヒュームと倫理の根底的問題

第3章 カントの国家論

第4章 道徳性と動機説

2.内容の説明

本論文は、私達が倫理的に判断する仕組みを、動機説の観点から、哲学的に解明しようとするものである。だが、読者の方は、それが、一体、誰の研究であるのか、あるいは、どのような(現在盛んに議論されている)トピックに属しているのか、ということを、一番初めに知りたいのかも知れない。

しかしながら、臆面も無く言ってしまうと、本論文は、私が、自分で問題設定をし、自分でその問題を追究して行ったものである。それでも、読む前の予想として、準備してもらうとするなら、カント的な動機説が、分析哲学の手法で、現代的に再定式化される、と考えてもらえば、問題無いと思う。

では、私の問題意識は何処にあったのか、できる限り素朴に述べて見るならば、それは、「倫理的に振る舞ったり、振る舞わなかったりする時、その人の内面は、どのように成っているのか」ということである。

人は、普通、倫理に反する行為をしてしまったことを隠したがる。罪を隠すことはもちろん、小悪党の様なことをしてしまった場合も、そうである。「隠す」ということには、その行為自体を隠滅してしまうことも含まれようが、私がここで考えているのは、例えば、人を殺しておきながら、自分には責任が無かった、と言う様な場面である。私はまず、その様な場面を、「行為記述のレベル」という言葉で捉え、現代の行為論の観点から、次の通り、分析する。

アンスコムやデイヴィドソンの分析的行為論が明らかにした様に、一つの行為は、それが原因と見做される出来事から、翻り、様々に再記述される。(本論文では「再記述の原理」と呼ばれる。)例えば、「ハンドルを切る」という行為は、その因果関係から「車の車線変更」と再記述される。だが因果の考えられる場面によっては、「割り込み」だとか「危険運転」と再記述されるかも知れない。

人を殺しておきながら、その「殺害」という行為を隠そうとする人は、偏に、この因果関係の文脈において、「自分のした行為は、被害者の死の原因ではない」と言い張っていると考えられる。そしてこれが、殺害という行為において、倫理的に振る舞わなかった人の、一つの内面描写に成る、と私は考えるのである。

もちろん、意図的に悪を犯す人、あるいは、精神障害から倫理に反する行為をしてしまう人、こういった行為者の内面を分析することも、大いに重要である。だが本論文では、倫理的判断を問題とするために、その様な行為者を考察から外さざるを得なかった。何故なら、意図的に悪を犯す人は、(反省まじりに)行為者自身が悪いと思っているのだから、わざわざ私達が、倫理的に判断したり、評価したりする必要はない。また、行為者が精神障害を患っていたならば、その人に倫理を問うことは難しいと思われる。

本論文で問題に成っているのは、あくまで、健常者でありながら、自分の犯した悪を素直に認めようとしない人間に対する、倫理的判断の仕方なのである。(もちろん、意図的に悪を犯す人でも、入り組んだ仕方で、自分の行為を正義と考えているのならば、本論文の考察の範囲内に入って来る。)そしてその様な人の内面の分析、そして倫理的に判断するための仕組みを考えるには、動機説の立場に立つのが最適だと、私には思われたのである。

本論文の第1部(動機の彫琢)は、以上の問題意識の下、書かれている。その第1章から第3章までは、既に触れた、アンスコムとデイヴィドソンの行為論が参照される。第4章では、「当該行為に纏わる因果関係こそが、その行為に対する倫理的な是非の分かれ目に成る」という、(上に再記述の原理の観点からも述べられた)見解から、その、行為に纏わる因果関係が、それに対する信念の次元で考察される。その信念は、更に、確率(ラムジーの主観説から確率=信念と考えている)としても捉えられ、カルナップの帰納論理が適用される。

以上の通り、第1部では、悪を犯しておきながら、自分は悪くない、と言い張る人の内面が、その動機から考察される訳だが、では、実際にその人が悪いと、動機において暴かれた時、私達は何を根拠に「悪い」と評価しているのだろうか。これを考えるのが、第2部(動機の評価)である。第1部では、ひたすら哲学的な分析の態度がとられ、分析的行為論、帰納論理、確率の哲学、といった問題が、少々煩瑣な仕方で論述されるのであるが、それに対して、第2部では、完全に議論は倫理的なものに成る。そしてそのために、カントとヒュームの倫理学が参照される。これは、彼らが動機説の立場を採ることから、自然であると私には思われる。だが、他方で、第1部は、彼らの動機に対する哲学的な議論の形式化としても、読むことができるのである(序文参照)。

カントは第1章と第3章で、中心的に参照される。格率、道徳法則、という彼固有の道具立てはもちろん、そこから更に進んで、彼の国家論が参照される。

何故、動機を論じるのに、国家が論じられねばならないのか。これには、第1章と第3章の間に挿入される、第2章のヒュームの道徳論が影響している。ヒュームの道徳論は、共同体(社会)を形成する所から始まる。このために、たとえ、動機という個人の内面に関わる問題であったとしても、その個人を「社会の成員」として捉える所から倫理が語られる。故に、個人の倫理的な内面意識は、社会そして国家に繋がっていると考えられるのである。また、ヒュームの議論は、カント倫理学には馴染みが薄い、法的正義を、動機説に刻印する役割も果たす。

カントとヒュームの議論から、倫理的判断について一定の見解が形作られて行き、議論は、第4章で、倫理的な善の判断についての考察に至る。それは、「自分で正しい、あるいは善い行為をしたと思っている人は、動機説の観点から見ると、本当にそうだと言えるのだろうか」という問題の考察である。一方で、それはカントらしい、道徳性と適法性の観点から論じられるだろう。だが他方で、私は、本論文で構築した動機説の観点から、倫理的判断について、些か逆説的な結論を与えることに成る。

尚、本論文は、実践的三段論法を道しるべにして議論が辿られる構成をしている。これは、第1部でアンスコムの行為論が参照される所から始まるのだが、私独自の観点から、「過去視線の実践的三段論法」、「未来視線の実践的三段論法」といった考え方も導入される。全体像としては序文の「図示2」、そして末尾の「例文のリスト」を参照してもらえば、本論文の内容を、概観できるはずである。

審査要旨 要旨を表示する

金子裕介氏の論文「動機説の観点から見た倫理的判断の諸相」は、倫理的な善悪の判断は動機に依拠してなされるべきであるとする「動機説」の立場を打ち出し、現代行為論、帰納論理、因果的信念、そしてヒュームとカントの倫理学、といった素材に依拠しつつ、倫理的悪の判断と倫理的善の判断との、ある種の非対称性を浮き彫りにする、という野心的なテーマ研究の試みである。

金子氏はまず、第1部「動機の彫琢」第1章で、なぜ「動機説」の立場を採るべきなのか、を論じる。倫理的判断の基盤となるのは、まずもって殺人などの個別的行為であり、しかも、そうした行為に対して、「なぜそのようにしたのか」という問いを介して倫理的判断は導かれてくる。しかるに、この「なぜ」の問いを介して行為の記述を突き詰めてゆくとき析出されてくるものこそ、「動機」にほかならない。よって、動機説の立場が採用されなければならない。そして第1部第2章で、動機は行為の原因と見なせるが、それは必ずしも一人称的特権によって規定されるような原因性ではない、と論じ進められる。行為とその帰結の間に見出される、私たちが一般的に有する、因果関係に対する信念が、そうした動機の個体化を確定するがゆえに、一人称的特権は廃されるというのである。ここから、犯罪の動機が一定程度客観的に指定できる基盤が成立してくる。さらに金子氏は、第1部第3章において、先の「なぜ」の問いへの解明が「実践的三段論法」において分析され、そこから「意志」が生成してくると論じつつ、そうした意志の中に先の因果的信念は含まれる、とする。しかるに、そうした境位にある因果的信念は決して確定的なものと捉えられているのではなく、「確からしい」という性格のもとで捉えられている。かくして、「確率」が射程に入れられてくる。こうした論脈のもと、金子氏は第1部第4章にて、因果的信念の分析に、カルナップの帰納論理の体系を適用する。本論文中最もテクニカルな部分だが、ポイントは、証拠が積み上がるにつれて、行為とその帰結の因果関係の成立する確率が高まる様子を記述することによって、動機の指定が一層確からしくなり、ついには動機の最終的な帰属に至るありようを解明することにある。

さて、以上の動機の指定について論じたことを踏まえて、第2部にて金子氏はいよいよ「動機の評価」、つまり動機の中身の判定の問題へと論を進める。まず第2部第1章にて、個人の行為ポリシーとしての「格率」と普遍的な道徳法則との連関を、カント倫理学に沿って検討する。道徳法則は格率を改善し、悪い動機をそれとして判定する規範である、とされる。ここで金子氏は、道徳法則の根幹に占有の問題があると主張し、第2部第2章にて、ヒュームの道徳論、とりわけ各人の占有の維持という規範についての議論を検討し、そこに仲裁者や忠誠の概念が介在していること、占有と同じ議論構造が殺人の禁止にも当てはまることなどを析出する。しかし、忠誠の概念に訴えることには現代的対応性がない。そこで金子氏は第2部第3章にて再びカントに訴え、万人が等しい身分で社会契約する「結合契約」を範とする議論に一つの可能性を定位する。そして金子氏は、第2部第4章にて、以上の議論はすべて殺人の際などの悪い動機をめぐるものであり、それは帰納的に因果信念として指定でき、道徳法則と照らし合わせて悪と判定できるが、善い動機つまり倫理的善は、カントの議論に示唆されているように、単なる適法な行為を越えたもので、実際に実現することは叶わない、と論じる。かくして、倫理的善は、私たちがそれをある種の範・理想として目指すことで、本質的な役目を果たすのであると、結論づける。

以上の金子氏の議論は、動機の認定および動機の評価という二つの問題を基軸にして、古典的な哲学者の議論と現代哲学の精緻な議論とにまたがる広い視野から、倫理的判断の核心をえぐり出したもので、議論の根幹をなしている「因果性」そのものの解明がやや不足していること、現代倫理学の中で強力な立場を保持している帰結主義や功利主義との関連づけが欠けていることなど、多少の不満はあるものの、十分に学術論文としての基準をクリアしている。よって、本論文は博士(文学)の学位に値すると判断する。

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