学位論文要旨



No 125185
著者(漢字) 岩佐,健太郎
著者(英字)
著者(カナ) イワサ,ケンタロウ
標題(和) 水素化脱硫触媒に関連する遷移金属錯体に関する研究
標題(洋) Studies on Transition Metal Complexes Relating to Hydrodesulfurization Catalysts
報告番号 125185
報告番号 甲25185
学位授与日 2009.06.18
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7098号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 溝部,裕司
 東京大学 教授 荒木,孝二
 東京大学 教授 畑中,研一
 東京大学 教授 工藤,一秋
 東京大学 講師 北條,博彦
内容要旨 要旨を表示する

[緒言]

水素化脱硫は原油中の硫黄分を除去するために必須なプロセスであり、工業的な規模においては、アルミナに担持されたモリブデンスルフィドやタングステンスルフィドに対してコバルトやニッケルをドープしたものを触媒として用いて、高温、高水素圧下に反応が行われている。しかしながら、環境問題の視点から水素化脱硫の高効率化といった要請があるものの、固体触媒上での反応であるため反応機構は未だ解明されていないことや、6族金属スルフィドとコバルト、ニッケルはそれぞれ単独では触媒活性が低いにもかかわらず、それらを混合することで触媒活性が飛躍的に上昇するという興味深い性質についても知見がないことなど、未知な部分が多い。このような背景から後周期金属錯体によるC-S結合切断反応や、6族金属と後周期金属を含む混合金属スルフィド錯体の合成といった、有機金属錯体を用いた水素化脱硫触媒モデルの構築が検討されてきた。本研究ではコバルトと同族のイリジウムを用いて、カチオン性イリジウム錯体による2-メトキシチオフェンのC-S結合切断反応と、低原子価の6族ヒドロスルフィド錯体を出発原料とする6族-9族混合金属スルフィド錯体の合成について検討した。

[結果と考察]

I. イリジウム-TMEDA錯体による2-メトキシチオフェンのC-S結合切断反応

チオフェンとその類縁体は芳香族性の安定な骨格を持ち、水素化脱硫の重要な素反応であるC-S結合の切断は他の含硫黄有機物と比較して難しい。9族金属錯体によるチオフェンのC-S結合切断反応は、ホスフィンなどのPドナー性の配位子やシクロペンタジエニル系の配位子を補助配位子とする錯体において多く検討されてきたが、Nドナー性の配位子を有する錯体の反応例は少ない。そこで新たなNドナー性の配位子としてTMEDA (TMEDA = N,N,N',N'-tetramethylethylenediamine) を用いたイリジウム錯体において、チオフェンのC-S結合切断反応を検討した。

[IrCl(C2H4)2]2 と2当量のTMEDAおよびNaBF4をアセトニトリル中、室温で反応させたところ、イリジウム単核錯体 [Ir(TMEDA)(C2H4)2(MeCN)][BF4] (1)が生成した。1は空気下不安定であり単離できなかったため、系中で発生させた1と過剰の 2-メトキシチオフェンを70℃で反応させたところ、イリダチアシクロヘキセニル骨格を有する2核錯体 [Ir2(TMEDA)2{C(OMe)CHCHCHS(CMe=NH)}(MeCONH)] [BF4]2 (2) を得た。2は各種測定とアニオン交換した錯体の予備的なX線結晶構造解析の結果から、イリジウム2原子分に対して、2分子のTMEDA、1分子の2-メトキシチオフェン、2分子のアセトニトリルおよび1分子の水が反応して得られた錯体であることが判明し、イリジウムに対して約0.5当量の水を加て反応を再検討したところ収率が向上した (Scheme 1)。反応機構はScheme 2に示すように、[Ir(TMEDA)]+ フラグメントに対して2-メトキシチオフェンがk2-O,S 型で配位した後、イリジウムが 2位のC-S結合に選択的に挿入しながら2核錯体を形成する。次に1価イリジウム中心からの π供与を受けて活性化された5位由来の炭素が、もう一方のイリジウム上に配位したアセトニトリルのシアノ炭素へ求核攻撃することで新たなC-C結合とイリダチアシクロヘキセニル骨格を形成する。最後に2分子目のアセトニトリルが配位、水和により架橋アセタミドを与える。同様の反応は2-アセチルチオフェンを用いた場合にも観測されたが、チエニル基のC-H結合切断も同時に進行し、また2-メチルチオフェンを用いた場合にはC-H結合の切断のみが観測された。

II. モノスルフィド-dppe架橋6族-9族混合金属2核錯体の合成

硫黄架橋6族-9族混合金属多核錯体は、モリブデンスルフィド-コバルト系の水素化脱硫触媒モデルとしての機能が期待されるが、低原子価の6族モノヒドロスルフィド錯体を前駆体とする6族-9族混合金属多核錯体の合成法は未知である。そこでまず2価の6族金属単核前駆体の合成を検討した。

[Cp'MH(CO)3] (Cp' = Cp (=n5-C5H5), Cp* (=n5-C5Me5); M = Mo, W) と1/8当量のS8を反応させ、系中で [Cp'M(SH)(CO)3] を発生させた後、小過剰の dppe (dppe = 1,2-bis(diphenylphosphino)ethane) を加えて紫外光照射することにより、6族モノヒドロスルフィド錯体 [Cp'M(SH)(CO)(dppe)] (3, Cp' = Cp, M = Mo; 4, Cp' = Cp*, M = Mo; 5, Cp' = Cp, M = W; 6, Cp' = Cp*, M = W) を得た (Scheme 3)。1H NMRではSHプロトンがリンとのカップリングを伴ってダブルダブレットとして観測され、IRにおいては1820-1829 cm-1 にCOの強い吸収を1本示す。5および6のX線結晶構造解析から、6族金属まわりは歪んだ4脚ピアノ椅子構造をとり、dppe はシスに2座配位していることが判明した (Fig. 1)。次に3、4と9族金属錯体の反応による2核錯体の合成を検討した。

塩基存在下、3および4と [RhCl(PPh3)3] を低温から反応させたところ、モノスルフィド-dppe架橋2核錯体 [CpM(CO)(μ2-S)(μ2-dppe)Rh(PPh3)] (7, M = Mo; 8, M = W) を得た。構造はX線結晶構造解析により決定した (Fig. 2)。2核錯体の形成に伴い、3および4において6族金属に2座配位していたdppeの一方のリンがロジウムへと移り金属間を架橋することにより、6族金属まわりは3脚ピアノ椅子構造、ロジウムまわりは歪んだ平面4配位構造となっている。6族金属まわりの配位数の減少に伴い、IRでCOの吸収波数は150 cm-1程度高波数シフトして観測された。またMo-C(6)-O(1)およびW-C(6)-O(1) の成す角度は約152-155° であり、CO配位子はロジウムの反対側へ屈曲し、ロジウムとCOの π電子との間での相互作用が推定される。さらに、7および8は形式30電子の電子欠損性の錯体であり、Mo-Rh、W-Rh間距離は他のスルフィド架橋錯体と比較して短く、金属間の多重結合性が示唆される。イリジウムアナログ [CpM(CO)(μ2-S)(μ2-dppe)Ir(PPh3)] (9, M = Mo; 10, M = W) は [IrCl(coe)2]2 (coe = cis-cyclooctene) とPPh3をIr:P = 1:1の条件で反応させ、3および4と強塩基で処理することで生成が確認された。これらの2核錯体は6族金属と9族金属の間に水素化脱硫の反応点を有する場合の構造モデルである。

7および8はPPh3の解離によって縮合反応が進行し、ラフト型の4核スルフィドクラスター[(CpM){Rh(dppe)}(μ2-CO)(μ3-S)]2 (11, M = Mo; 12, M = W) を与えた。構造の詳細は11のX線結晶解析によって決定した (Fig. 3)。dppeはロジウムに2座配位し、COは典型的な架橋カルボニルの構造をとることで、ロジウムまわりの平面4配位構造は2核錯体に見られた歪みを解消している。Mo2Rh2中心は平面でありμ3-スルフィドは2つのモリブデンと1つのロジウムをそれぞれ架橋し、平面を挟んで反対に位置している。また、反応前後で金属の形式酸化数に変化は見られなかった。

III. 4座ホスフィン配位子を有するビススルフィド架橋モリブデン-9族金属3核錯体の合成

水素化脱硫の反応場が6族スルフィドに配列した複数の9族金属上という場合のモデル構築を目的とし、直鎖状4座ホスフィン配位子P4 (P4 = meso-o-C6H4(PPhCH2CH2PPh2)2) を有する単核モリブデンビスヒドロスルフィド錯体の合成と、9族金属錯体との反応によるスルフィド架橋3核錯体の合成を検討した。P4配位子の特異な立体効果は、モリブデンまわりが6配位の構造をとった場合に残り2つの配位座を隣接しやすくするという性質を持つため、まず単核ビスヒドロスルフィド錯体の合成を検討した。

[Mo(P4)(dppe)] はH2Sと反応し、ビスヒドロスルフィド錯体 [Mo(P4)(SH)2] (13) を与えた (Scheme 4)。固体状態では13はS-P(末端)-P(末端)、S-P(内部)-P(内部)で構成される2つの三角形を底面とする三角柱構造をとり、2つのヒドロスルフィド基は隣接しているが (Fig. 4)、1H NMRでは等価なSHプロトンを観測し、溶液中での動的挙動が示唆された。次に13へ9族カルボニル錯体の集積を検討した。

塩基存在下、13と1当量の [RhCl(CO)2]2 を低温から反応させたところ、スルフィド架橋3核錯体 [Mo(P4)(μ3-S)2{Rh(CO)2}2] (14) を得た。再結晶により2種類の結晶が得られ、それぞれのX線結晶構造解析から、モリブデンまわりは三角柱構造であるが、底面の三角形を構成する原子が異なる異性体と判明した。すなわち、三角形S-P(末端)-P(末端)、S-P(内部)-P(内部) を2つの底面とし、13の立体を保持している14a (Fig. 5(a))、および2つの三角形S-P(末端)-P(内部) を底面とし、P4配位子の配向が異なる14b (Fig. 5(b))である。ロジウムまわりはいずれも平面4配位構造であり、2つのロジウム間には弱い相互作用が存在する。14a、14bはスペクトル的に同一であり、構造の違いは結晶のパッキングに起因する。また、イリジウムアナログ [Mo(P4)(μ3-S)2{Ir(CO)2}2] (15) は2当量の [IrCl(CO)2(p-toluidine)] を用いることで得られたが、X線結晶構造解析から15は14aと同じ構造のみを選択的にとることが判明した。

13-15の温度可変NMRスペクトルにおいては、P4の擬似回転による動的挙動が観測され、13の1H NMRでは20℃において観測されるSHプロトンの等価な5重線は-10℃でブロード化し、-70℃においてはコアレスして観測される。また、31P{1H} NMRにおいてもピークのブロード化のみが観測された。一方、14、15の31P{1H} NMRでは、-70℃において2種類のブロードなシグナルへと分裂した。14と15では14の方で早くピークのブロード化が起きており、相対的な回転速度の順は14<15<13となる。推定される異性化の機構はScheme 5に示すような8面体型の中間体を経由する機構である。MoS2部位を固定した場合、13、14aおよび15に見られるP4配位子の配向は、P4が1/4回転することにより14bに見られる配向となる。さらに1/4回転すると、錯体分子のCs対称性から元の錯体と等価になる。

Scheme 1

Scheme 2

Scheme 3

Fig. 1. ORTEP drawing of 5.

Fig. 2. ORTEP drawing of 7.

Fig. 3. ORTEP drawing of 11.

Scheme 4

Fig. 4. ORTEP drawing of 13.

Fig. 5. ORTEP drawings of 14a (a) and 14b (b).

Ph groups except for ipso carbons are omitted for clarity.

Scheme 5

審査要旨 要旨を表示する

化石燃料中に含まれる有機硫黄化合物は、燃焼と同時に大気汚染物質であるSOxを放出するため、燃料中の硫黄分を厳密に除去することが必要である。工業的水素化脱硫反応は原油中の有機硫黄化合物を水素を用いて還元し、硫化水素として除去するためのプロセスであり、世界的に最も大規模に行われている触媒反応である。用いられる水素化脱硫触媒はアルミナに担持したモリブデンスルフィドおよびタングステンスルフィドであり、コバルトまたはニッケルを添加することにより高活性な触媒作用を達成している。異なる遷移金属を混合することで、これらの金属種が単独ではなしえない高活性化を実現し、触媒作用が増加するメカニズムを解明することは、学術的見地からも興味深いだけでなく、近年の排出ガス規制により求められている深度脱硫の観点からも重要である。しかし、水素化脱硫プロセスは固体表面上における高温・高圧の反応であるため、直接的な反応の観測は難しく、有機金属錯体を用いて均一系脱硫モデル分子を構築し、反応場の構造や機能に関する研究がなされてきた。本論文はモリブデンスルフィド-コバルト系触媒の金属組成に注目し、コバルトと同族金属であるイリジウムを用いた、原油中の主要含硫黄成分の1つであるチオフェンの新たな炭素-硫黄結合の切断反応について、また6族金属錯体と9族金属錯体を用いた新規な脱硫触媒モデルとしての硫黄架橋多核錯体の合成についての研究の結果をまとめたものであり、5章より構成されている。

第1章では、遷移金属錯体を用いた脱硫モデル錯体構築に関する研究例を概観し、水素化脱硫プロセスにおいて重要な2つの素反応である、炭素-硫黄結合の切断反応、および水素分子の活性化について、単核錯体からスルフィドクラスターに至る反応例を用いて詳述している。また、脱硫反応が還元反応であることを念頭に置き、低原子価の金属で構成され、高い還元力を持つと期待される硫黄架橋多核錯体の合成を、新たな脱硫触媒のモデル錯体構築のための指針として述べている。

第2章では、窒素ドナー配位子を補助配位子とする9族金属錯体を用いたチオフェンの炭素-硫黄結合の反応例が少ないことに着目し、容易に入手可能な窒素ドナー配位子であるテトラメチルエチレンジアミン (以下TMEDA) を補助配位子とするイリジウム錯体を用いると、2位が置換された一連のチオフェン対して位置選択的な炭素-硫黄結合の切断が進行するばかりなく、2座配位子TMEDAを有する配位不飽和なイリジウム中心が溶媒分子のアセトニトリルを取り込み、さらに2つのイリジウムが協同的に反応して炭素-炭素結合を生成する特異な反応が進行することを明らかにしている。これは増炭反応として合成化学的見地からだけでなく、脱硫とともに燃料のオクタン価を向上させるという石油化学的見地からも興味深い反応である。

第3章では、モリブデン-コバルト複核サイトを反応点とすると推定される脱硫触媒の構造モデルとして、還元状態の6族金属と9族金属が構成する反応場の構築を目指し、2価の6族金属モノ(ヒドロスルフィド)錯体を合成し、1価の9族金属錯体との反応によりモノ(スルフィド)架橋6族金属-9族金属2核錯体を合成し、さらにそれらを4核スルフィドクラスターへ変換した結果について述べている。前駆体である6族錯体にキレート配位している2座ホスフィン配位子は、2核化に伴い6族金属と9族金属間を架橋し、さらに9族金属へ移動することで2核錯体の縮合反応が進行して4核スルフィドクラスターが得られることを明らかにしている。これらを用いた含硫黄有機物からの脱硫反応は進行しなかったが、ここに得られた2価の6族と1価の9族金属からなるスルフィド架橋錯体は他に例を見ないものである。

第4章では、モリブデン-コバルト多核反応場という観点から、低原子価の6族-9族3核クラスターの合成を目標とし、その前駆体としての直鎖状4座ホスフィン配位子(以下P4配位子)を有する新規な2価のモリブデンビス(ヒドロスルフィド)錯体の合成と、それを1価の9族金属錯体とさらに反応させることによりビス(スルフィド)架橋モリブデン-9族金属3核クラスターを合成した結果について述べている。P4配位子に特徴的な立体効果が、モリブデン中心が4価のビス(スルフィド)種へと酸化されることを抑制しており、P4配位子が低原子価のスルフィドクラスター合成における優れた補助配位子であることが示されている。

第5章では、第2章から第4章までの研究について総括するとともに、その成果をもとにした今後の研究の展望を述べている。

以上のように本研究ではまず、窒素2座配位子を有するイリジウム錯体を用いたチオフェンの炭素-硫黄結合の切断と炭素-炭素結合の生成が連続的に進行する興味深い反応を見出ている。また6族金属スルフィド化合物の化学は3-6価の高原子価錯体においては詳しく検討されているものの、0-2価の低原子価錯体では研究例が少なく、ここに得られた、前駆体としての新規なヒドロスルフィド錯体を含めた硫黄配位子をもつ一連の低原子価錯体合成の成果は、有機金属化学、錯体化学の領域における重要な知見であり、多電子還元触媒としての利用を目的とした硫黄架橋多核錯体合成の今後の指針となる結果である。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

以上のように本研究ではまず、窒素2座配位子を有するイリジウム錯体を用いたチオフェンの炭素-硫黄結合の切断と炭素-炭素結合の生成が連続的に進行する興味深い反応を見出ている。また6族金属スルフィド化合物の化学は3-6価の高原子価錯体においては詳しく検討されているものの、0-2価の低原子価錯体では研究例が少なく、ここに得られた、前駆体としての新規なヒドロスルフィド錯体を含めた硫黄配位子をもつ一連の低原子価錯体合成の成果は、有機金属化学、錯体化学の領域における重要な知見であり、多電子還元触媒としての利用を目的とした硫黄架橋多核錯体合成の今後の指針となる結果である。

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