学位論文要旨



No 125188
著者(漢字) 田子内,進
著者(英字)
著者(カナ) タコナイ,ススム
標題(和) 模倣から創造へ : インドネシアのポピュラー音楽、ダンドゥットの発展
標題(洋)
報告番号 125188
報告番号 甲25188
学位授与日 2009.06.25
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第919号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古田,元夫
 東京大学 教授 山下,晋司
 東京大学 准教授 石橋,純
 東京大学 教授 加納,啓良
 桃山学院大学 教授 小池,誠
内容要旨 要旨を表示する

ダンドゥットはインドネシア全域で最も人気のあるポピュラー音楽のひとつで、極めてインドネシア的な音楽と認識されている音楽である。ムラユ音楽にインド映画音楽やアラブのポピュラー音楽、西洋のロック音楽らの影響が融合した音楽形態であり、パフォーマンスの特徴として女性歌手によるセクシーなゴヤン(ダンス)が指摘できる。ダンドゥットは事実上、インドネシアの国民音楽であるが、その人気はマレーシアとブルネイまで広がっており、ムラユ世界共通の文化形態として発展している。この音楽の歴史については、ムラユ音楽起源説が有力であるが、この説にもムラユ音楽の内容を巡って二つの説が存在する。即ち、北スマトラ地方のムラユ音楽であるムラユ・デリ説と、マレー半島のムラユ音楽説である。ムラユ・デリとマレー半島のムラユ音楽は音楽学的にはほぼ同一の音楽と認識されているため、ダンドゥットの起源をどちらのムラユ音楽に求めるかの議論は一見無意味のように見える。しかしこれは、ムラユ音楽の「ムラユ」を政治社会的にどのように定義し理解するかという、つとめて政治イデオロギー的な議論と密接に関係する。このようなムラユ音楽起源説に対して音楽学的立場からムラユ音楽とダンドゥットの連続性を否定し、インド映画音楽起源説を主張する見方もある。本稿では、ダンドゥットの発展をインドネシア近現代史の文脈の中で描き出し、その中で、ムラユ音楽の「ムラユ」に対する認識がどのように変化してきたのかを、各時代の政治経済・社会文化との関係から明らかにすることを目指す。それによって、ムラユ音楽とダンドゥットの連続性及びムラユ世界に浸透するダンドゥットの人気に対する議論にも答えることができるであろう。

ダンドゥットの歴史を描く出発点は、マラッカ海峡周辺部の音楽であるムラユ音楽がインドネシア(時にジャワ)に定着した経緯の解明にある。19 世紀末から20 世紀初めはインドネシアとマレーシアにとって近代演劇の黎明期と言われている。この時期、植民地期インドネシアではスラバヤでコメディ・スタンブル、英領マラヤでは海峡植民地のペナンでバンサワンと呼ばれるムラユ大衆演劇団がそれぞれ結成された。これらの劇団は従来の伝統演劇の形態とは全く異なり、西洋近代演劇の影響を強く受けて成立・発展した。コメディ・スタンブルで演奏された音楽は、当初、スタンブル・ソングと呼ばれる西洋音楽に近い音楽であった。しかし、バタビアのクロンチョン楽団がスタンブル・ソングを演奏し、また、コメディ・スタンブル自身もクロンチョン歌手を積極的に採用した結果、クロンチョン音楽とスタンブル・ソングの融合が起り、それがコメディ・スタンブルの演奏音楽の主流になっていった。一方、バンサワンで演奏された音楽は、当初はインドのボンベイ(現ムンバイ)で結成されたコメディ・パルシの音楽の影響を受け、タブラやハルモニウムのインド系楽器を用いたインド音楽やムラユ音楽を演奏していた。しかしその後、西洋音楽を積極的に取り入れた結果、ムラユ音楽と西洋音楽の混成・融合がバンサワンの主流音楽になった。19 世紀末から20 世紀初めにかけて、コメディ・スタンブルとバンサワンは国境を越えてそれぞれ巡回公演を行った。その結果、バンサワンではスタンブル・ソングやクロンチョン音楽が、そしてコメディ・スタンブルではムラユ音楽やインド音楽などがそれぞれ取り入れられていった。ムラユ音楽はこのような文化衝突と文化融合の中でインドネシア、就中ジャワに浸透・定着していった。

20世紀初め、植民地期インドネシアの大衆文化は大きな転換期を迎える。大量複製技術時代の到来である。グラモフォンの録音及び流通とラジオ放送の開始、そして映画の制作は、コメディ・スタンブル時代とは異なる流行歌の普及パターンを生み出した。1930年代及び40年代のラジオからは、クロンチョン音楽やムラユ音楽、中国音楽、アラブ音楽、地方音楽の他に、世界的に流行していたハワイ音楽やルンバ、エジプト音楽が流れていた。この事実は、インドネシアの音楽文化がコスモポリタン的で多様性に富んでいたことを示している。外部音楽の流入はインドネシア音楽に様々な刺激を与えた。例えば、ルンバの流行はピッチカート・チェロの導入やクロンチョン・ルンバという新しいスタイルを生み出した。また、ウム・カルスームに代表されるエジプト音楽はアラブ系住民の音楽活動を刺激し、ガンブス楽団の発展に影響を与えた。そのなかで、地域の壁を越えて全国的に人気の高かった音楽がクロンチョン音楽であるが、ムラユ音楽もラジオからも頻繁に流れていた。1930年代のムラユ音楽は、英領マラヤで活躍するバンサワンの人気俳優兼歌手達の歌が圧倒的に多く、この時期のムラユ音楽は英領マラヤのムラユ音楽とほぼ同義であった。しかし1940年代に入ると、ムラユ音楽を演奏する楽団がインドネシアでも多数結成され、彼らの演奏がラジオから頻繁に流れた。ムラユ音楽とガンブス音楽の融合であるハルモニウム音楽という新しいジャンルも生まれた。このように、この時期のムラユ音楽がイメージする地理的空間は1930年代のそれより広く、英領マラヤのみならずインドネシアを含むより広範囲なものであった。

1950 年代前半、シンガポールで制作されたマラヤ映画がインドネシアでも大流行した。映画の挿入歌はインドネシアの音楽文化に大きな影響を与え、演奏スタイルを模倣するオルケス・ムラユが続々と結成された。この挿入歌はムラユ音楽と認識されていたが、その内容はアラブ音楽やインド音楽、西洋音楽、ラテン音楽などの影響を受けた雑種性の強いムラユ音楽であった。オルケス・ムラユの「ムラユ」は、マレーシア発のこのようなムラユ音楽を主にイメージしていた。このようなムラユ音楽の影響を受け続けたオルケス・ムラユは、1950 年代後半のオルケス・ムラユ・ブキット・シグンタンの活躍でマレーシア発のムラユ音楽の影響から徐々に脱却し、1950 年代末のサイド・エフェンディの成功で逆にマレーシアのムラユ音楽に影響を与えるまでになる。

1950 年代末以降、スカルノ大統領による「指導される民主主義」体制の下で西洋文化排斥運動及び民族音楽振興政策が強調されると、オルケス・ムラユの演奏も変化を余儀なくされた。雑種性や柔軟性が消え、伝統性を強調したムラユ音楽が好んで演奏されるようになった。マレー半島を含む広範な地理的空間をイメージしていたムラユ音楽の「ムラユ」は、民族文化振興政策の中でスマトラの一地方のみをイメージする「ムラユ」へと閉じ込められてしまった。

政治イデオロギー性が強まるこのような雰囲気の中で、大衆の嗜好に合わせた音楽を模倣し、その中から新しい音楽スタイルを創造する試みが一部のオルケス・ムラユの中で行われた。大衆の嗜好とはインド大衆映画の挿入歌であった。クラナ・リアが1961 年に発表した処女作『隊商』はこのような試みを体現したものであったが、このアルバム制作の背景には、インド大衆映画挿入歌を模倣し歌っていたエリヤ・アグスの試みと、それに対する大衆の支持があった。このように、オルケス・ムラユの担い手達は、マラヤ映画音楽とインド大衆映画音楽の流行の中で模倣と創造を繰り返しながら、自分たちの音楽の方向性を探究し続けた。

クラナ・リアは、左傾化が強まる政治的雰囲気の中で活動停止に追い込まれた。しかし、「新秩序」体制に移行した1960年代後半以降、政治的圧力から解放されたオルケス・ムラユは再び演奏活動を活発化させた。ジャカルタを中心に新しいオルケス・ムラユも結成された。インド大衆映画音楽のスタイルを模倣していたオルケス・ムラユは、楽器や演奏、歌唱方法などの面で様々な工夫を施し、インドネシア独自の音楽スタイルへと発展させていった。このようなムラユ音楽は、1960年代後半以降にロック音楽などの西洋音楽が多数流入してきた音楽市場の中でも一定の人気を保持していた。中でも、エリヤ・アグス(カダム)は1960年代後半以降も第一線で活躍した。

1970年代前半、ムラユ音楽はダンドゥットという新しい呼称を得た。ジャカルタ北部のAM局、アグスティナ・ユニオル局は、インド大衆映画音楽の要素を大胆に取り入れたオルケス・ムラユの音楽をムラユ音楽と呼ぶことは出来ないと考え、代わりにダンドゥットという新しい呼称を普及させようとした。このような試みの背景には、「ムラユ」に対する認識の変化がある。ムラユ音楽の「ムラユ」がイメージする地理的範囲は、1950年代前半と1950年代末以降では異なっていたが、スハルト体制はこの変化を更に強化した。「ムラユ」はインドネシアの地方文化の一部として識別されるようになり、それが国民の間で共有されるようになった。1950年代の「ムラユ」に対する理解であれば、インド映画音楽の影響を受けた音楽でもムラユ音楽として受容されていた可能性があるが、1970年代は不可能であった。

ダンドゥットの呼称が普及し始めた時に活躍していたのが、エリヤ・カダムである。ダンドゥットはロマ・イラマが創作したとのフレデリックの主張は誤りで、クラナ・リアをはじめとするオルケス・ムラユの様々な試行錯誤の蓄積が昇華した結果、ダンドゥットが生まれた。1970年代半ば以降のロマ・イラマの活躍はこのような継続的な音楽文化の延長線上にある。ロマ・イラマは衣装や楽器編成、コンサート・パフォーマンスなどにロック音楽のスタイルを導入し、またメッセージ性の強い歌詞はダンドゥットにひとつのトレンドを生み出したが、歴史的観点からみれば、ロマ・イラマのこのようなスタイルは必ずしもダンドゥットの主流とはいえず、むしろ例外といえる。

ラジオ放送、カセット、映画という大衆メディアに支えられて人気を拡大させたダンドゥットは、1970年代末に人気のピークを経験する。ロマ・イラマとエルフィ・スカエシという二人のスーパースター、そして、ロック音楽とダンドゥットの融合を図ったグループ、タラントゥラを擁したダンドゥットは、フェスティバル、娯楽場、ディスコ、ナイトクラブに続々と参入していった。

ダンドゥットの人気は、1970年代中頃以降マレーシアにも拡大した。この背景として、ダンドゥットが政治イデオロギー色の強い「ムラユ」の定義から解放されたことが指摘できる。マレーシアでは、1969年の「人種対立事件」を契機に国民文化政策が導入された。1970年代前半以降、排他的なムラユ文化及びアイデンティティが強化され、公共空間でのムラユ文化とイスラームのプレゼンスが拡大した。その一方で、インド文化と中国文化は移民者の文化として排除された。そのような雰囲気の中で、インド大衆映画音楽の影響を強く受けた音楽が依然としてムラユ音楽と呼ばれていたなら、この音楽はマレーシアで容易に受容されなかったであろう。しかし、ダンドゥットという新しい呼称が生まれたことで、新しい音楽ジャンルとして受容されたのである。

このような人気にもかかわらず、インドネシア音楽文化におけるダンドゥットの地位は依然として低かった。ダンドゥットは"田舎者の音楽"とみなされ、二級音楽の扱いを受けていた。一部の人気歌手を除いて報酬も低く抑えられ、オルケス・ムラユのメンバーや歌手、作曲家達の社会的地位は必ずしも高くなかった。しかしこのような状況は1980年代後半以降、一変する。工業製品輸出振興政策に牽引された経済成長の結果、ある程度の富を手に入れた大衆はダンドゥットの強力な消費者として表舞台に登場した。「商品」価値の高いダンドゥットにテレビ業界やカセット業界などが群がり、それまでマージナルな扱いを受けてきたダンドゥットは、一躍、インドネシア音楽文化の最前線に躍り出た。1990年代以降、ダンドゥットは国営テレビ(TVRI)の音楽番組からFMラジオ局、そしてナイトクラブへと活動範囲を拡大させていった。なかでもTVRIの音楽番組への登場はインドネシア社会に大きなインパクトを与えた。これまでアンダーグラウンド的に行われてきた女性歌手のダンスパフォーマンス(ゴヤン)、体の線を強調した派手な衣装と化粧は、下品であるとしてエリート層から批判された。TVRIはこのようなパフォーマンスを規制しようとしたが、音楽番組コーディネーター制度という特殊な制度をかかえるTVRIが、音楽番組の内容を規制することは事実上不可能であった。1990年代前半以降、テレビの規制緩和及び多局化が進み、ダンドゥットのプロモーションの場もTVRIからTPIに移っていった。TPIは生き残りをかけてダンドゥット中心の番組編成を行い、これが視聴者から支持を得た。

1990年代前半、あらゆるメディア産業をダンドゥットが独占する状況が続いたが、ダンドゥットに対する"田舎者の音楽"というネガティブなイメージは依然として残ったままであった。ダンドゥットのコンサートに対するイメージも、"下品"で"汚らしい"というものだった。ダンドゥット業界団体のPAMMI(インドネシア・ムラユ音楽家連盟)はこのようなイメージを変えるために様々な取り組みを行った。その一つが大規模コンサートの開催であった。PAMMIは"格式の高さ"と"秩序正しさ"を強調したコンサートを実施し、これに政府高官を関与させる戦略をとった。ダンドゥットの魅力を維持しながら、政府との距離を縮めることで、上からイメージアップを目指した。ロマ・イラマの東京コンサート、そして海外発のダンドゥット、「デンパサール・ムーン」の大ヒットもこのようなPAMMIの戦略を後押しした。そしてこのようなPAMMIの取り組みは、1995年の独立50周年記念行事の一環として開催された「ダンドゥット・フェスティバル」の成功で結実した。

このフェスティバルは政府側とPAMMIの思惑が一致して開催されたイベントであり、政治色の強い内容のイベントであった。PAMMI側からみれば、ダンドゥットのイメージアップを図るという一連の戦略の総仕上げとも言うべきイベントであり、ムルディオノ国家官房長官という大物政治家を巻き込んだことは大きな収穫であった。一方、政府側も「ダンドゥット・フェスティバル」に関与する必要性があった。1980年代後半以降、急速に支持層を広げたダンドゥットは海外の音楽家も注目し始めていた。実際、海外発のダンドゥットがインドネシアで流行することもあった。このようなダンドゥットを政府が公認することは、政治面でも治安面でも重要であった。事実上インドネシアの国民音楽になったダンドゥットを無視することによって生じるリスクよりも、公認することによって生じるリスクの方がはるかに小さかった。フェスティバルの成功で見せた政府側とPAMMIの蜜月関係はその後も続き、ロマ・イラマPAMMI会長は1997年の総選挙前に与党ゴルカルより立候補する旨表明し、世間を驚かした。

フェスティバルの成功以降、ダンドゥットを取り巻く状況は徐々に変化した。ダンドゥットの放送に消極的だった一部の民放テレビ局はダンドゥットを放送し始め、"田舎者の音楽"という代名詞は、メディア上から徐々に消えていった。また、地方音楽とダンドゥットが融合した新しいスタイルの音楽も創作されている。これは、長い時代を経て発展したダンドゥットがインドネシア各地でしっかりと根を張り、国民文化の一形態としてインドネシア国民と不可分の関係をすでに作り上げている証左とも言える。

その一方で、ダンドゥットはマレーシアにも確実に浸透している。1990年代後半以降、マレーシア・ダンドゥットというジャンルが誕生し、音楽ジャンルの一つとしての地位を確立している。国民のアイデンティティとしてムラユ文化が強調されているマレーシアでは、ダンドゥットのようなポピュラー音楽が生まれにくい状況にある。そのため、マレーシアの音楽家達はインドネシアからダンドゥットを導入し、独自のジャンルとして発展させている。このような行為を単純な模倣とみなすのは適当ではない。ダンドゥットは、ムラユ世界の共通文化であるムラユ音楽がインドネシアで独自に発展した音楽形態であり、このプロセスは19世紀末以降インドネシアとマレーシアの間で繰り返された相互影響の延長上にある。インドネシアとマレーシアは相互に模倣と創造を繰り返しながら、それぞれの音楽文化を育んできた。1950年代にピー・ラムリの歌うムラユ音楽がムラユ世界の共通文化として機能したように、現在では、ダンドゥットが共通文化として機能している。マレーシア・ダンドゥットの誕生と浸透は、このような歴史的相互関係の延長線上にあるのである。

ムラユ音楽を母体に、模倣と創造の繰り返しからダンドゥットが生まれたように、ムラユ世界で新たな模倣と創造が行われ、ダンドゥットから新しい地域共通の音楽文化が生まれる可能性がある。それは必ずしもインドネシアを舞台に行われるとは限らない。そして今度はどのような魅力的な音楽文化が創作されるのであろうか。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、現代インドネシアを代表するポピュラー音楽であり、マレーシアでも人気のあるダンドゥットの成立と発展の歴史を、19世紀末以降のムラユ音楽の歴史的展開の流れの中に位置づけことによって、ダンドゥットの通史を描くことを目指したものである。

論文は8章から構成されている。まず第1章では、序論として、本論文の課題設定と研究史の整理がなされている。ここでは、ダンドゥットの起源については、ムラユ音楽起源説(北スマトラのムラユ音楽を重視するムラユ・デリ説とマレー半島のムラユ音楽を重視する説がある)とインド映画音楽起源説があることを指摘しつつ、これが「ムラユ」という概念の意味が歴史的に変化していったことと関連する問題であるとし、ムラユ音楽における「ムラユ」の意味の変化を、各時代の政治的社会的文脈の中に位置づけつつ、ムラユ音楽とダンドゥットの連続性を明らかにすることを、本論文の課題として設定している。

第2章「近代演劇の成立とムラユ音楽」では、マレー世界の近代演劇の黎明期である19世紀末から20世紀初めにかけて成立した、インドネシアのコメディ・スタンブル、英領マラヤのバンサワンといったムラユ大衆演劇団を取り上げ、その演奏音楽として、前者においては西洋音楽とクロンチョン音楽の融合が、後者においてはインド音楽、ムラユ音楽、西洋音楽の融合が見られ、コメディ・スタンブルとバンサワンの国境を越えた交流があったこと、こうした文化融合の中でムラユ音楽が、インドネシア、特にジャワに浸透していったことが指摘されている。

第3章「ラジオの時代」では、ラジオの普及がインドネシアの大衆文化のあり方を大きく変えた1930年代、40年代を取り上げ、当時のインドネシアのラジオからは、クロンチョン音楽、ムラユ音楽、中国音楽、アラブ音楽、インドネシアの地方音楽だけでなく、ハワイ音楽、ルンバ、エジプト音楽など、きわめて多様な音楽が流れる、コスモポリタン的な音楽文化が存在した時代であったことが指摘され、その中でムラユ音楽はクロンチョン音楽に次ぐ全国的人気を集めていたこと、1930年代のムラユ音楽がもっぱら英領マラヤで活躍するバンサワンの俳優の歌であり、ムラユ音楽とは英領マラヤの音楽とほぼ同義だったのに対して、1940年代にはムラユ音楽を演奏する楽団がインドネシアでも多数結成され、ムラユ音楽とガンブス音楽の融合であるハルモニウム音楽も生まれ、ムラユ音楽がイメージする地理空間はインドネシアを含む広がりをもつようになったと指摘されている。

第4章「オルケス・ムラユ(ムラユ楽団)の時代」では、1950年代から60年代前半の映画が大きな意味をもった時代が取り上げられ、シンガポールで制作されたマラヤ映画がインドネシアでも大流行し、この映画の挿入歌の演奏スタイルを模倣するオルケス・ムラユと呼ばれる楽団が次々に結成されたこと、この挿入歌がムラユ音楽と認識されていたが、その内容は、アラブ音楽、インド音楽、西洋音楽、ラテン音楽などの影響を受けた雑種性の強いムラユ音楽で、オルケス・ムラユの「ムラユ」は、マレーシア発のこうしたムラユ音楽を主にイメージさせるものだったこと、オルケス・ムラユは50年代末のサイド・エフェンディの活躍で、マレーシアのムラユ音楽に影響を与えるまでに発展したこと、しかし50年代末以降、スカルノ大統領による「指導される民主主義」体制のもとで、文化に対する規制が強まり、西洋文化排斥と民族音楽振興政策で、ムラユ音楽の雑種性や柔軟性が消え、伝統性が強調されるようになり、「ムラユ」のイメージもインドネシアの一部である北スマトラの一地方に封じ込められるようになってしまったこと、こうした中でオルケス・ムラユの一部にはインド大衆映画音楽を取り入れる動向が生まれたことが指摘されている。

第5章「ムラユ・モデルンからダンドゥットへ」では、スハルトの「新秩序」体制が成立する1960年代後半から70年代、80年代前半のことが取り上げられ、スカルノ時代の政治的圧力から解放されたオルケス・ムラユが、インド大衆映画音楽の影響を強く受けたムラユ音楽=ムラユ・モデルンの演奏を通じて人気を獲得していったこと、1970年代前半に、このようなインド映画音楽の要素を大胆に取り入れた音楽をムラユ音楽とは呼べないと考えた人々がダンドゥットという新しい呼称を提唱するようになったこと、50年代のように「ムラユ」がマレー世界全体に広がる開放的なイメージであれば、こうした新呼称の必要性はなかったと思われ、ここには、「ムラユ」という言葉がもっぱらインドネシアの一地方文化と認識されるようになった、「ムラユ」観の変化が反映されていること、ラジオ、カセット、映画という大衆メディアに支えられて人気を拡大したダンドゥットは、1970年代末、ロマ・イラマとエルフィ・スカエシという二人のスーパー・スターを擁し、ロック音楽との融合の試みなどもあいまって、フェスティバル、娯楽場、ディスコ、ナイトクラブなどに広がっていったこと、このインドネシアでのダンドゥットの人気はマレーシアにも拡大したこと、その背景には、文化政策において「ムラユ」文化がもっぱら伝統的で排他的なものとして強調されていたマレーシアでは、ムラユ音楽とインド映画音楽の融合は生まれにくかったこと、そのような音楽が「ムラユ音楽」ではなくダンドゥットと呼ばれたために、マレーシアでも受容可能になったという事情があったことが指摘されている。

第6章「主役に踊り出たダンドゥット」では、1980年代後半から1995年に至る時期のことが取り上げられており、ダンドゥットは当初、大衆的な人気にもかかわらず「田舎者の音楽」と見なされ、低い存在とされていたが、このような状況が1980年代後半以降大きく変化したこと、それは経済成長の結果ある程度の富を手に入れた大衆が、ダンドゥットの強力な消費者として登場したこと、「商品」価値の高いダンドゥットにテレビ業界やカセット業界が群がり、それまで周縁的な扱いを受けてきたダンドゥットが、インドネシア音楽文化の最前線に躍り出るようになったこと、テレビへの登場にあたっては、女性歌手の体の線を強調したダンスパフォーマンス(ゴヤン)に対してエリート層からの批判があったが、ダンドゥット業界団体のPAMMI(インドネシア・ムラユ音楽協会)は、こうしたパフォーマンスの基本的あり方を維持しながら、政府高官の支持を取り付けることで、「上から」イメージアップをはかる戦略をとったこと、ロマ・イマラの東京コンサートや海外発のダンドゥットの大ヒットなども、こうした地位向上戦略を助けたことが指摘されている。

第7章「独立50周年記念行事とダンドゥット・フェスティバル」では、1995年の独立50周年記念行事の一環として開催されたダンドゥット・フェスティバルを取り上げ、これがPAMMIから見れば、ダンドゥットのイメージアップ戦略の総仕上げともいうべきものであり、ムルディオノ国家官房長官を巻き込んだのが大きな成果だったこと、政府の側にとっても、インドネシアの国民音楽になったダンドゥットを、無視することによって生ずるリスクよりは、公認することによって生ずるリスクははるかに少なかったこと、フェスティバルの成功は、長い時代を経て発展したダンドゥットが、インドネシアでしっかり根をはり、国民文化の一形態となったのを示していること、一方でダンドゥットは、マレーシアにも浸透しており、音楽ジャンルの一つとしての地位を確立していること、ダンドゥットは、ムラユ世界の共通文化であるムラユ音楽がインドネシアで独自に発展した音楽形態であり、それがマレーシアでの独自の発展を見せていることは、19世紀末以降インドネシアとマレーシアの間で繰り返されてきた相互影響の延長上にあることが指摘されている。

第8章「おわりに」は、本論文での議論が要約されている。

以上のような本論文の意義は、次の二点に要約できる。まず第一に、本論文は、本格的な学術研究が国際的に見てもきわめて少ない、インドネシアのダンドゥットの成立と発展の歴史を、可能なかぎりの一次資料を丹念に収集し分析した労作であり、ダンドゥット成立に関して基本的研究文献とされてきたフレデリックの論文(1982年)の論点を丁寧に検証した上で、その問題点を説得的に提示しており、今後のダンドゥット研究、特にその成立史に関しては、現時点で最も信頼すべき研究になっている。

第二に、本論文は、ダンドゥットの通史を描くために、ムラユ音楽と称される場合の「ムラユ」概念の変化に注目し、現在のインドネシアに限定されずに、マレーシアを含む、広い「マレー世界」の中でのムラユ音楽の変遷をたどっているが、この点が、本論文の議論にきわめて独創的な筋をとおすことになっており、インドネシアとマレーシアのナショナリズムと国民文化の発展を考える上でも、大きな広がりをもつ問題提起となっている。

審査においては、(1)「模倣から創造へ」というタイトルは、本論文の趣旨を十分には反映していないのではないか、(2)「ムラユ」概念の整理が不十分で、特に「ムラユ・デリ」という言葉の意味や、ダンドゥットという言葉が使用されるようになった時点でこれと併用される「ムラユ音楽」概念の意味が掘り下げられておらず、そのためにダンドゥットという呼称にかわることになった過程の分析がなお十分には説得的でないのではないか、(3)関係者へのインタビューという一次資料の意味が十分に示されていないのではないか、(4)先行研究や他の方法論に対する批判で、言葉が過ぎている点があるのではないか、などの問題点も存在することが指摘された。しかし、審査委員会は、こうした点は、本論文の意義を否定するようなものではなく、今後の研究の進展と、論文の公刊の過程で克服されるべき課題であると考えた。したがって、本審査委員会は全員の一致で本論文は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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