学位論文要旨



No 125196
著者(漢字) 相澤,憲
著者(英字)
著者(カナ) アイザワ,ケン
標題(和) 海馬歯状回の神経幹細胞における霊長類に特異的な加齢性変化
標題(洋)
報告番号 125196
報告番号 甲25196
学位授与日 2009.06.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(生命科学)
学位記番号 博創域第503号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 先端生命科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 久恒,辰博
 東京大学 教授 山本,一夫
 東京大学 教授 藤原,晴彦
 東京大学 教授 後藤,由季子
 東京大学 准教授 河村,正二
内容要旨 要旨を表示する

序論

海馬は記憶や学習などの脳機能と深く関連する部位であると同時に、成体ニューロン新生が起こる部位としても注目が集まっている。新生ニューロンは、歯状回に存在する神経幹細胞がいくつかの分化段階を経由することで生み出されるが、ニューロン新生の能力は年齢と共に著しく低下してしまう。

このニューロン新生能の加齢性減衰については多くの報告があるが、新生ニューロンの「素」となる神経幹細胞が加齢と共にどのように変化しているのかを解析した研究は驚くほど少ない。また、あったとしてもマウスなどの実験小動物を用いた報告例がほとんどであり、ニューロン新生の知見を再生医学的な治療法として将来的にヒトへ応用する上では、その橋渡しとなる実験大動物を用いたデータが求められている。

そこで本研究では、カニクイザルを用いて上述した問題へアプローチした。また、種間における相違を調べるため、あわせてマウスを用いた。用いた実験動物は、若齢サル(3頭, 平均5.3才)、老齢サル(4頭, 平均22.8才)、若齢マウス(5匹, 6週齢)、老齢マウス(5匹, 2才)である。成体カニクイザルにおいては、その年齢の約3倍がヒトの年齢に対応する。そのため、今回実験に用いた老齢サルは、ヒトで言えば70歳前後に相当する。

実験ではまず、免疫染色法を用いて歯状回最内層における神経幹細胞数の計測を行い、さらにその形態について解析することで、加齢が神経幹細胞に及ぼす影響を評価した。さらに、GABA作動性アゴニストを用いたニューロン新生促進の観点から、歯状回のdiazepam binding inhibitor (DBI)に着目してその発現量の加齢性変化の有無を調査した。

結果・考察

1. 年齢依存的な神経幹細胞数の減少

神経幹細胞の標識は、Sox2(神経幹細胞の未分化性維持に関与する転写因子)、GFAP(アストログリア様神経幹細胞に発現するタンパク)、FABP7(神経幹細胞の形態維持やニューロン分化に関与するタンパク)の三重免疫組織染色法を使用した。

歯状回最内層に存在する神経幹細胞数をサル・マウスそれぞれについて若齢・老齢別に計数したところ、老齢サル群において有意な神経幹細胞数の減少が認められた。ところが、マウスにおいては年齢依存的な神経幹細胞数の減少は見られず、加齢性神経幹細胞数の変化に、霊長類-げっ歯類間で種差が存在する可能性が示唆された(図1)。さらにS100βによるアストロサイト数の検定ではサル・マウス共に年齢間における有意な差はなかったことから、老齢サルでは神経幹細胞選択的に何らかの変化が生じている可能性がある。

2.神経幹細胞の加齢性形態変化

分裂頻度が低く、静止期にある神経幹細胞は、海馬歯状回の顆粒細胞層へ垂直方向に長く伸ばした突起を持つ。そこで神経幹細胞の形態に着目し、神経幹細胞の突起が顆粒細胞層との間になす角度と、その突起長を測定した。その結果、サル・マウス共に、若齢群では顆粒細胞層を垂直に近い角度で横断する長い突起が観察された(図2)。一方、老齢サルでは突起は顆粒細胞層に対して水平に近い角度で走行し、その突起長も短くなっていた。それに対し、老齢マウスではサルで見られた加齢性の形態変化は見られなかった。以上の結果は、神経幹細胞の形態的な加齢性変化が霊長類特異的に生じる可能性を示唆する。

3. 神経幹細胞の形態変化とニューロン新生

続いて、ニューロン新生過程の次段階である分裂期の神経幹細胞に注目した。分裂細胞マーカーのKi67を用い、サル・マウスについて分裂神経幹細胞数の加齢性変化を評価した。その結果、老齢サル・マウス共に分裂神経幹細胞数が減少していることが判明した(図1)。

加齢性形態変化を生じた老齢サル神経幹細胞は、その性質を変化させ、分裂能に影響を与えている可能性がある。そこで分裂神経幹細胞の突起角度との関係を解析することで、形態変化した神経幹細胞の分裂能を評価した。その結果、加齢性の形態変化を伴った神経幹細胞も、分裂能は保持していることが確認できた。したがって、老齢サルの形態変化を生じた神経幹細胞においても、分裂能そのものは比較的保たれていると考えられた。

次に、ニューロン分化過程への加齢の影響を調べるため、さらに分化が進んだ段階であるneuronal progenitor(ニューロンへ運命決定された前駆細胞)と未成熟ニューロンに注目した。顆粒細胞に発現するProx1とKi67を用いてneuronal progenitorを標識し、年齢群間での計数比較を行ったところ、老齢サルでは若齢サルに比較して33%、老齢マウスでは若齢マウスに比べて26%までneuronal progenitor数が減少していた(図1)。続いて、DoublecortinとNeuroDをマーカーに用いて未成熟状態のニューロン数を解析したところ、サル・マウス共に老齢群においてその数が激減していることが明らかとなった(図1)。

しかしながら、サルとマウスにおいて、若齢群に対する老齢群の細胞数の比率から各細胞の減少率を求めてみると、神経幹細胞数の減少程度に比べてそれほど大きな差はなかった。この結果は、霊長類特異的な神経幹細胞の形態変化が、ニューロン新生プロセスに直接的な影響は持たないことを示唆する。

4. 神経幹細胞における機能性ペプチドDBIの発現量の加齢性変化

本研究では、ニューロン新生過程に注目して解析を進める中で、老齢脳では若齢脳に比べ、未成熟ニューロンの数が激減していることが示された。したがって、老齢脳での未成熟ニューロン数低下を補うことが、加齢性の脳機能減衰の改善へ向けた応用研究に対して意味を持ってくる。未成熟ニューロンはニューロン新生促進をもたらすGABA刺激を受ける細胞である。当研究室の先行研究で明らかになった、GABA作動性アゴニストであるペントバルビタールの投与でニューロン新生が促進される事実は、投薬によって新生ニューロン数の低下を補える再生医学的方法として有望である。ところが同じGABA作動性アゴニストであってもベンゾジアゼピン系化合物、特に抗不安薬として有名なジアゼパムにはニューロン新生に対する促進効果は見出されていない。このことから海馬において、ジアゼパムのGABA作動性アゴニストとしての薬効を阻害する物質の存在が推察できる。そこで本項では、ジアゼパムの拮抗阻害分子であるDBIに着目した。興味深いことに、海馬歯状回において、DBIは主として神経幹細胞に発現する。海馬歯状回の神経幹細胞のDBI発現と、GABA作動性アゴニストによるニューロン新生促進効果との関係を探るべく、若齢・老齢のサルとマウスを用いて歯状回でのDBI発現に注目して研究を進めた。

まずマウスを用いて、GABA作動性アゴニストのペントバルビタール(バルビツール系化合物)とジアゼパムの海馬ニューロン新生への効果を検証した。7日間の薬剤投与後、BrdUとNeuNを用いた免疫染色によって海馬での新生ニューロン数を評価した結果、ペントバルビタール投与群では新生ニューロン数が約1.4倍に増加していたが、ジアゼパム投与群では変化は見られなかった。この結果から、ペントバルビタールとジアゼパムではニューロン新生過程に対する作用機序が異なるといえる。マウス海馬においては、神経幹細胞がDBIを発現しているためにジアゼパムの薬効が阻害されている可能性がある。

続いて、DBIを発現する神経幹細胞数をサル・マウスの若齢・老齢群について計数比較した。その結果、老齢サルにおいて、DBI陽性神経幹細胞数の減少を確認した。一方、マウスでは若齢・老齢群の間にDBI陽性神経幹細胞数の有意な差はなかった(図3)。

さらに老齢サルでは、神経幹細胞のDBIの発現量そのものが低下しており、形態変化の程度が顕著な神経幹細胞ほどDBI発現量が低下していることを突きとめた。以上の結果は、数と形態変化に加え、DBIの発現においても霊長類特異的な神経幹細胞の加齢変化が生じている可能性を示すものである。

結論

本研究では、サル・マウスを対象に、神経幹細胞の加齢性変化を評価した。その結果、老齢サル特有に神経幹細胞数の減少と形態変化、DBI発現量の低下が観察された。加えて、老齢サルの神経幹細胞の形態変化は、ニューロン新生過程への直接的影響はないにせよ、DBI発現量の低下と何らかの関係を持つことが明らかとなった。GABA受容体のモデュレーターとしての働きを持つDBIの発現量が変化すれば、海馬のGABAシグナル回路も大きく変化するだろう。GABA刺激はニューロン新生を促進する効果を持つことから、神経幹細胞の形態変化に伴うDBI発現量の変化によって、海馬でのニューロン新生能が影響を受ける可能性も考えられる。今後は選択的に海馬でのDBI発現量を変化させることで、より直接的なデータを得られるような研究が必要となってくるだろう。

今回の結果は、霊長類-げっ歯類間で、加齢に伴う現象が必ずしも同様に進行してはいないことを示唆する初めての報告である。このことは、加齢研究において、用いる実験動物の種差が結果に重要な相違をもたらす可能性があることを意味する。また、今後ヒトへの再生医学的な応用を展開して行くにあたり、非ヒト霊長類を用いた、実験小動物-ヒト間のギャップを埋めるデータとして貴重な知見を提供するものと言える。さらに今回の霊長類高齢脳でのDBI発現量の減少の結果は、広範に用いられている薬剤であるジアゼパムによるニューロン新生促進効果を利用した、加齢性脳機能減衰の治療へ向けた新しい再生医学的アプローチを提言可能にするデータとして興味深いものとなった。

図1.サル・マウスニューロン新生の加齢性変化

表の数値は、歯状回最内層に存在する各動物個体あたりの細胞数。サル特異的に加齢性の神経幹細胞数の減少と形態変化が見られた。

図2.サル特異的神経幹細胞の加齢性形態変化

(A)顆粒細胞層に対する神経幹細胞の突起角度(α)と突起長(1)を測定。図中点線が顆粒細胞層を垂直に横断する線を表し、粒細胞層に対して垂直に突起が走行している場合はα=0°となる。(B,C)神経幹細胞の突起角度と細胞数の分布。顆外周の数値は突起角度、棒グラフの長さは、その角度の突起を持つ神経幹細胞数を表す。若齢サル(B左;青)では層に対し垂直に近い角度であるのに対し、老齢サル(B右;赤)では突起が顆粒細胞層に対して水平方向を向く傾向があった。一方、マウスでは年齢依存的な形態変化は見られなかった(C)。

図3.DBI陽性神経幹細胞数の加齢変化

カニクイザルではDBI陽性神経幹細胞数が年齢依存的に減少するが(A)マウスにおいては加齢性の変化は見られなかった(B)。

審査要旨 要旨を表示する

本研究論文はカニクイザルとマウスの海馬神経幹細胞の加齢性変化に焦点を当てている。第1章は神経幹細胞の数と形態について、第2章は機能性ペプチドdiazepam binding inhibitor(DBI)の発現量について述べられている。

海馬歯状回の神経幹細胞は、分化して新生ニューロンを生み出し、学習や記憶などの脳機能に深く関与する。しかしながら、海馬ニューロン新生能は年齢と共に低下し、加齢性の脳機能減衰に影響を与えるとされる。高齢脳でのニューロン新生について多くの報告があるが、新生ニューロン産生の出発点である神経幹細胞について高齢脳を用いて調べられた研究は少ない。その多くがマウスなどの小動物を用いた研究であり、将来的にヒト高齢脳の研究へつなげていくための橋渡しとなる大型動物を用いたデータが望まれている。

第1章では、ヒト代替モデル動物としてカニクイザルを使い、海馬歯状回の神経幹細胞の年齢依存的な変化を数と形態を中心に解析した。今回使用したカニクイザルは、3頭の若齢サル(平均5才, ヒト16歳前後に相当)と4頭の老齢サル(平均23才, ヒト70歳前後に相当)である。また、あわせて若齢マウス(6週齢, 5匹)と老齢マウス(2才, 5匹)を用いることで種間による相違も調査した。

Sox2, GFAP, FABP7を用いた免疫染色法により、海馬歯状回の神経幹細胞数を計数したところ、若齢サルに比べて老齢サルでは神経幹細胞の数が半減していることが明らかになった。さらに神経幹細胞の突起構造の走行角度と長さを計測して比較したところ、若齢サルに比べて老齢サルの神経幹細胞の突起は水平化、短縮化していることが示された。一方でマウスを用いた同様の解析では、若齢-老齢間において年齢依存的な神経幹細胞の数・形態の変化が観察されず、サルとマウスにおいて加齢性変化の出現に何らかの種差がある可能性が指摘された。

第1章での解析の結果、老齢サル特異的な神経幹細胞の加齢性変化に加え、高齢脳での未成熟ニューロン数の激減を確認した。このことから高齢脳においては、激減してしまう未成熟ニューロン数をいかに保護するかが重要な課題と言える。また、未成熟ニューロンはニューロン新生の促進効果があるGABA刺激を受ける細胞でもある。先行研究でGABA作動性アゴニストであるペントバルビタールの投与により、新生ニューロン数が増加することが示されている。その一方で、同じGABA作動性アゴニストでも、抗不安薬として多用されるジアゼパムではニューロン新生促進効果が報告されていない。第2章では、GABA作動性アゴニストによるニューロン新生に注目し、ペントバルビタールとジアゼパムで薬効が異なる理由として、海馬歯状回の神経幹細胞が発現するDBIに焦点を当てて解析を進めた。

海馬歯状回において主に神経幹細胞が発現するDBIは、ジアゼパムの拮抗阻害分子として働く。そこで、神経幹細胞のDBIによってジアゼパムのニューロン新生促進効果が阻害されているという仮説のもと、海馬歯状回で明瞭なDBI発現が認められる若齢マウスを用いて、ペントバルビタールとジアゼパムをそれぞれ投与し、海馬での新生ニューロン数を比較した。その結果、ニューロン新生促進効果はペントバルビタールではみられたがジアゼパムではみられなかった。これより、同じGABA作動性アゴニストでも、ペントバルビタールとジアゼパムではニューロン新生の促進効果において差異があることがわかった。またこの結果は、海馬神経幹細胞の強いDBI発現がジアゼパムの薬効を打ち消している可能性を示唆するものであった。

さらに若齢・老齢のサル・マウスを用いて、歯状回のDBI陽性神経幹細胞数を比較した結果、カニクイザルでは、DBI陽性の神経幹細胞数が年齢依存的に減少していることが明らかとなった。一方、マウスでは年齢依存的なDBI陽性神経幹細胞数の減少が観察されず、数・形態変化に加えて、DBI産生という面においてもサル特異的に神経幹細胞に加齢性変化が生じる可能性が示唆された。

本論文では、動物種によって進行している老化現象に差異がある可能性を、神経幹細胞に注目することで明らかにした。この結果は、今後ヒト高齢者をターゲットにした加齢研究を行う上で、実験小動物とのギャップを埋める貴重なデータを提供すると共に、神経幹細胞の加齢現象が種によって異なる可能性を示した興味深い知見を与えることになった。

なお本論文の内容は、揚山直英、寺尾恵治、および久恒辰博との共同研究である。しかしながら、論文に記した諸データは、論文提出者が主体となって分析及び検証を行った結果得られたものである。したがって、本研究において論文提出者の寄与は十分であると判断する。以上より、博士(生命科学)の学位を授与できると認める。

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