学位論文要旨



No 125210
著者(漢字) 易,平
著者(英字)
著者(カナ) イ,ヘイ
標題(和) 戦争と平和の間 : 発足期日本国際法学における「正しい戦争」の観念とその帰結
標題(洋)
報告番号 125210
報告番号 甲25210
学位授与日 2009.07.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第230号
研究科 法学政治学研究科
専攻 総合法政専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡辺,浩
 東京大学 教授 中川,淳司
 東京大学 准教授 寺谷,広司
 東京大学 教授 中谷,和弘
 東京大学 教授 高原,明生
内容要旨 要旨を表示する

本稿は、十九世紀末頃から二十世紀初頭にわたる日本国際法学者の言論活動を中心に、その時代の戦争観を理論的次元と実践的次元の両面から考察した。その時代は、日本国際法学の発足期であり、従来「無差別戦争観」が支配的であった時代とされる。しかし、本稿の考察を通じて発見したのは、その時代、戦争違法化の動きが未だ本格的に現れていないにもかかわらず、そこには戦争を肯定する契機と否定する契機がともに含まれ、決して「無差別戦争観」の用語で一括りにできるものではなく、むしろ多様な戦争観が噴出した時期であった、ということである。本稿は、「正しい戦争」観念(本稿において、国際法上の戦争制限意識に等しい)を中心軸に据え、「正戦論」、「無差別戦争観」、「戦争違法化」などの既成の概念枠組に拘らず、当時の国際法理論上の多様な戦争観を実証的に解明し類型化した。他方、理論的観点は生の政治力学の磁界において変形しかねず、観念の理論的様相と実践的様相との間にズレが生じることも十分あり得る。したがって、その時代の戦争観を全面的に解明するためには、理論的次元における分析だけでは物足りず、さらにその時代特有の国際法観ないし国際情勢の現実認識と連動し、国際法学者の理論が実践において如何に適用されたかを考察することも必要である。しかし、そのような視点は従来希薄であり、それに関する先行研究はほぼ皆無であった。それゆえ、新しい視点を以てその時代の戦争観を見直すことは、本稿の主な課題であった。本稿の考察を通じて発見したのは、国際法理論上、「正しい戦争」観念が終始存在しているにもかかわらず、その論理構造は危険な帰結も孕んでおり、それらの法理論が戦争の実践に応用されていくとき、「正しい戦争」観念に含まれた制限意識が影を潜め、あるいは歪んだ形で現れ、その論理構造に孕んだ問題性が現実化してしまった、ということである。こうして、本稿は、発足期の日本国際法学における「正しい戦争」の観念とその帰結に重点を置いて議論を進めた。

本稿の考察時期は、日清戦争直前(一八九四年頃)から、日露戦争及び二回のハーグ平和会議を経て、第一次大戦が勃発する(一九一四年頃)までの約二十年間にほぼ限定した。取り上げる人物は、東京大学、京都大学、早稲田大学、一橋大学などで国際法講座を担当する専門国際法学者―有賀長雄、高橋作衛、中村進午、寺尾亨、千賀鶴太郎の五人―を中心に据えた一方、大学や専門学校で国際法を教える専任教師ではないが、国際法を専攻したことがあり、かつ国際法的戦争観に関する研究書や学術論文を公刊した広義の国際法学者も視野に入れた。研究素材としては、当時の国際法教科書・専門研究書・講義録、そして国際法関連の学会誌や専門誌に掲載された学術論文・時論・講演などを網羅的に取り上げた。

本稿の概要は以下の通りとなっている。

第一章は幕末から明治末期にかけて日本に舶来した欧米国際法書物に示された戦争観を整理した上で、日本国際法学における戦争観の形成過程を辿り、当時の戦時国際法研究の概況を解明した。欧米からの戦時国際法知識の受容は、国家政策に奉仕し、緊迫した国際情勢に活用しなければならないという形而下なる目的に動機付けられることが多く、実用主義的な態度が顕著に現れた。他方、1890年代を境として、輸入された欧米国際法学的戦争観に大きな転換が見られる。それ以前に翻訳された国際法体系書は、戦争原因追究論に立脚する形で説いているものが多かったが、それ以降は、原因不問論や戦争法外視の主張が主流となった。しかし、欧米から受容した国際法知識は、日本の国際法学者の学説形成において重大な意義を有するにもかかわらず、彼等の法観念を完全に規定したものではなかった。専門国際法学者と広義の国際法学者は、自国の状況に応じて欧米学説を解釈し修正を施しながら自らの学説を練り上げていくことが多かった。

第二章と第三章は、当時の国際法理論上の戦争観を分析した。そのうち、第二章は、後世の学者がその時代を「無差別戦争観」の時代と考えがちな理由、すなわち当時の二つの学説――戦争原因不問論と戦争状態説――を分析した。結論として、第一に、原因不問論は、必ずしも戦争制限意識の欠如を意味するものではない。原因不問論者のうち、独特の論理を以て、または留保をつけながらも、原因不問を主張する者が多数存在している。程度の差こそあれ、それらの理由づけから戦争制限意識を垣間見ることができる。第二に、戦争状態説は当時の主流的な理論体系「二元構造論」と同一視されてはならず、「二元構造論」も「無差別戦争観」を必然的に含意するものではない。むしろ「平時」と「戦時」との関係をどう捉えるかによって、「二元構造論」から複数の戦争観を導き出す可能性がある。こうして、第二章は、その時代が「無差別戦争観」の時代と見られがちな理由を検証することによって、「正しい戦争」観念のいくつかの側面を浮かび上がらせた。

第三章は、「二元構造論」の複数の帰結に関する分析を踏まえた上で、当時の戦争観を類型化した。ここにおいて、戦争の発動は平時国際法上の権利義務関係に根拠づけられることが必要か否か、必要なら、どのような形でどこまで必要なのか、という戦争発動原因に対する平時国際法上の規制のあり方を以て分類基準とし、当時の戦争観を(a)「法的枠外派」、(b)「裁定手段派」、(c)「執行手段派」に分けた。そのほか、戦時国際法による戦争原因の規制、国際法以外の法的要素による戦争原因規制およびそれが国際法規制のあり方に及ぼし得る影響、戦争発動の時機や方法に対する戦時国際法上の規制、および国際法体系における戦争の位置付けなどの問題も視野に入れ、「正しい戦争」観念の理論的様相の解明に努めた。具体的には、三類型の法理論からそれぞれ、「正しい戦争」観念を読み取ることができるか、読み取れるとしたらその本質は何か、また、個々の論者の考え方を支える根拠はどこにあるか、彼等の共通点と相違点は何か、それらの相違をもたらす原因はどこにあるか、その中にどのような意義と問題性はあるか、等の問題を分析した。結論から言えば、戦争制限意識は、(a)類型から(c)類型へと順次強まっていく、ということである。

そのうえ、第四章は、日露戦争を素材として、三類型の戦争法理論が実践において如何に展開されていったかを考察し、「正しい戦争」観念の実践的様相の解明に努めた。三類型の論者は、日露戦争に際してほぼ皆自衛権の「表現」を用いた。しかし、彼等が唱えた自衛権概念の中身は、必ずしも同一のものではなかった。そもそも戦争違法化の原則が未だ確立されていないその時代において、国際法上の自衛権概念は、今日の認識と根本的に異質であり、かつ多様な意味において用いられた。三類型の言う自衛権は、程度の差こそあれ予防戦争を許容する点において共通しているが、それぞれの特徴を要約すれば、(a)類型の自衛権は、きわめて広範な意味において用いられる傾向が見られ、(b)類型の自衛権はどちらかと言えば「緊急行為」に近く、それに対して、(c)類型の自衛権は本質からいえば「正当防衛」に近い、ということである。すなわち三類型の自衛権理論は、彼等の戦争観と同様の論理構造を有している。しかし、日露戦争をめぐる三類型の言論を詳細に分析すれば、法理論上の相違にもかかわらず、日露戦争を正当化しようとする際に、三類型の主張は奇妙なまでに一致し、相互間の境界線も曖昧になった。そして、三類型はともに国家政策を支持するナショナリスティックな一面があり、理論と事実を意識的に歪曲するまで自国の行動を弁護しようとする傾向が見られ、法学者としての一貫性を欠いた。そのような現象をもたらす原因として、要件設定の不十分さと事実認定の恣意性のほかに、当時の国際法学者は皆国際法学者としての側面と国家の公法弁護士としての側面とを併せ持ち、いわば「二つの顔」を持つ、ということもある。

他方、本稿の趣旨は、今日の視点に立って当時の戦争観に対して単純な批判を行うことではない。むしろ、それへの内在的な理解に基づいて、当時の戦争観を支える意識の根底にある危険な部分を暴き出すとともに、現代社会の一般通念と異なりながら興味深い部分を抉り出したいことにある。実際、十九世紀末頃から二十世紀初頭までの世紀転換期は、あらゆる問題が「平和vs. 戦争」「正義vs. 邪悪」「理想vs. 現実」に還元される、という単純な図式が成り立ち難い時代であった。当時の国際法学者の言論を批判的に見なければならない一方、彼らの生きた時代の緊迫した国際情勢、不安と緊張に満ちた彼等の現実認識を内在的に理解することができれば、そこから現代に対して示唆的なものを見出すことも不可能ではない。彼等は、社会現実の複雑性と国際関係における権力作用の不可避性に対して常に鋭敏な感覚を持ち、戦争と平和とを単純な二項対立ではなく相互に絡み合うものとして捉え、具体的な状況との関連において力の運用と規制を考えている。彼等の理論的観点は様々な欠陥を抱き、生の政治力学の磁界において変形を避けることができなかったものの、何らかの固定的なイメージを持って国際社会を見続けることを拒絶する点において、彼等の見方は現代の我々にとって示唆的と言えよう。

戦争違法化の原則が国際法上の揺るぎない地位を獲得した現代においても、戦争の法的性質と法的機能をめぐり思考を停止してはならず、むしろ法と力の交錯、原理性と状況性の拮抗関係の中で、常に問いかけ続けなければならない。それと同時に、当時の国際法学者の理論が現実において変形した(あるいは変形せざるを得なかった)理由を問い詰めることによって、彼等が残した負の遺産から、有意義な教訓ないし積極的な啓発を見出さなければならない。そうしてはじめて、歴史は過去の重荷ではなく、未来に通ずる道を開く可能性を秘めている宝物となる。本稿の存在意義も、まさにそこにあると信じている。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、19世紀末から20世紀初頭にかけての日本の国際法学者の戦争観を理論と実践の面から分析する。現代の支配的学説はこの時期を無差別戦争観、すなわち戦争に訴える権利の無差別許容の時代と把握しているが、本論文は、当時の学説の丹念な分析を通じて、そのような単純な性格付けには大きな問題があり、むしろこの時期は多様な戦争観が噴出した時代ととらえられることを明らかにしている。

序章第一節で筆者は以上の基本的な問題意識を明らかにし、続く第二節で本論文の分析における鍵となる「正しい戦争」の観念を提示する。筆者は、戦争に対して何らかの法的条件を設定し、その条件に基づいて戦争を評価するという意識がある場合、「正しい戦争」の観念があると定義するのである。この観念は、戦争原因の追究によって戦争の発動そのものを規制しようとする正戦論と異なり、戦争原因、戦争開始の時機や方法、武力行使の限度など、jus ad bellumの次元における多様な要素に着目して、戦争を法的に規制しようとするのである。

第一章は、幕末から明治末期にかけて日本に導入された欧米の国際法学説における戦争観を整理した上で、日本の国際法学の発足期における戦時国際法研究を概観する。本論文でその言説を詳細に検討する5人の専門国際法学者(千賀鶴太郎、寺尾亨、有賀長雄、高橋作衛、中村進午)については、その事績を含めて比較的詳細に紹介している。

第二章は、この時代が無差別戦争観の時代と見られがちな理由を考察する。筆者によれば、それは当時の支配的な二つの学説に対する誤解に起因する。第一に戦争原因不問論、第二に戦争状態説である。戦争の正当原因を問わないという意味での戦争原因不問論は当時の学説の支配的見解であったが、その内容を仔細に見れば、手続法の観点からは戦争の原因を問わないが、実体法の観点からは正当原因が問われるとする千賀鶴太郎、戦時法規の平等適用を確保するために戦争原因不問論を唱えた高橋作衛、国際社会においては戦争原因の正不正を究明する機関・基準が存在しないとして戦争原因不問論を説いた秋山雅之助、国民発達という上位目標のための戦争である場合には具体的な戦争原因の正不正は問わないと説いた有賀長雄などのヴァリエーションがある。これらを一括りに無差別戦争観とみなすことは適切ではない。次に、戦争を行為ではなく状態と見る説(戦争状態説)は当時の支配的見解であり、石本泰雄は、戦争状態説が平時から戦時への転換すなわち戦争開始が国際法の規制を免れるという無差別戦争観を導くと説明した。しかし、筆者によれば、この説明は、戦争状態説が戦時と平時の二元論に直結するとは限らず、仮に戦時と平時の二元論がとられたとしても、それが無差別戦争観に直結しない場合があることを見落としているのである。

第三章は、この時代の日本国際法学者の戦争観を法的枠外派、法的枠内派に二分し、後者をさらに裁定手段派と執行手段派に分類して整理し、各々の戦争観における「正しい戦争」観念を分析する。戦争発動に関する平時国際法上の制限を否定する法的枠外派(有賀長雄、中村進午)も、国家存在の目的に照らした内在的な自制、あるいは国益の理性的計算に基づき、戦争発動に対する制限を肯定する。法的枠内派のうち、戦争を平時国際法上の権利義務関係の裁定手段とみなす裁定手段派(高橋作衛ら)は、戦争の開始が法的権利に基づかなければならないという当事者の立場と、権利の内容は戦争の結果に依存するので権利の正不正は判断できないという第三者の立場を混在させており、特に前者において「正しい戦争」の観念を看取できる。執行手段派(寺尾亨、千賀鶴太郎)は戦争を法執行手続(国際法違反への対応)とみなす。戦争は正当な権利を防御するためにやむを得ない場合に限って許され、三類型の中では「正しい戦争」観念が最も鮮明に現れる。

第四章は、第三章で取り上げた国際法学者が日露戦争に際して展開した主張を分析し、彼らの「正しい戦争」観念の実践的様相を明らかにする。筆者は、当時の日本の国際法学者が皆、自衛権を援用して日露戦争を支持する議論を展開したこと、ただし、その意義や範囲は各類型により異なっていたことを明らかにする。その上で筆者は、彼らが日露戦争については、様々な角度から自らの理論に合致する「事実」を作り上げたり、法理論を都合の良いように使用したりして、一致してその正当化に務め、彼らの理論に見られた「正しい戦争」の観念は後退し、日露戦争に対する法的制限が主張されなかったことを指摘する。筆者はこの原因を、当時の国際法学者が「正しい戦争」の法的条件を十分に明確にはしなかったこと、自らの理論に合致するよう恣意的な事実認定を行ったこと、国際法学者としての顔とは別に国益の擁護者(国家の公法弁護士)としての顔を持っていたことに求める。

こうして、本論文は、19世紀末から20世紀初頭にかけての日本の国際法学者の戦争観を、理論的次元と実践的次元の両面から考察した。理論的には彼らの戦争観は法的枠外派、裁定手段派、執行手段派に三分され、程度の差こそあれ「正しい戦争」観が看取される。その一方で、日露戦争という実践に直面すると、三類型の主張は奇妙に一致し、「正しい戦争」観に含まれる戦争制限意識は薄れてしまった。

以上紹介した本論文の意義は以下の3点にまとめられる。第一に、従来は概括して無差別戦争観の時代と理解されてきた19世紀末から20世紀初頭にかけての日本の国際法学者の戦争に関する学説を緻密に分析し、多様なニュアンスを持った「正しい戦争」観念が展開されていたことを初めて明らかにし、従来の教科書的記述の書き直しを迫る新しい知見を得た。第二に、これまでほとんど研究のない日本の発足期の国際法学について、膨大な資料を網羅的に調査し、明晰に分析し、日本国際法学説史研究の先鞭を付けた。第三に、これらの国際法学者が日露戦争という実践に直面すると、彼らの「正しい戦争」観に含まれる戦争制限意識は薄れ、一致して日本の行動を弁護する言説を展開したことを明らかにし、当時の学説に対する鋭いイデオロギー批判を展開した。

しかし、本論文にもなお望まれる課題がないわけではない。第一に、この時期の日本国際法学と欧米の国際法学説との関係については、大陸法諸国や英国の国際法学説について若干の言及はあるものの、論文の中心的テーマである「正しい戦争」観念との関係においては必ずしも明らかでない。第二に、理論的には三類型に分類される当時の国際法学説が日露戦争の実践においては一致して日本の立場の弁護に回った原因ないし理由については、理論に内在する原因(要件の明確化が不十分であったこと、事実の曲解)と実践的意欲(国家の公法弁護士としての発言)が指摘されているが、説明がやや概括的であり、さらに掘り下げた説明があってもよい。とはいえ、以上は国際法学説史の対象に関わるやや外在的な指摘あるいは過大に過ぎる要求であって、先に指摘した本論文の高い評価を本質的に損なうものではない。

以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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