学位論文要旨



No 125215
著者(漢字) 坪井,りん
著者(英字)
著者(カナ) ツボイ,リン
標題(和) 明治期における日本近代「美術」概念の成立とその受容
標題(洋)
報告番号 125215
報告番号 甲25215
学位授与日 2009.07.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学際情報学)
学位記番号 博学情第31号
研究科 学際情報学府
専攻 学際情報学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 橋元,良明
 東京大学 教授 姜,尚中
 東京大学 教授 石崎,雅人
 東京大学 准教授 北田,暁大
 東京大学 准教授 丹羽,美之
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、以下の2点を検証することを目的としている。日本で明治期に近代美術が成立する過程において、作り手と観客の関係がどのように変容していったか。美術の「価値観」はどのように形成され、誰がどのような基準で美術の価値を決めてきたのか。その際、主な考察の対象を、明治期において大々的に輸入された西洋に源をおく美術、すなわち西洋画とする。

長い間、美術に関する研究の蓄積は、「作家」ないし「作品」をその理念の支柱とする美学・美術史学研究にゆだねられてきた。しかし、美術の担い手、受け手および美術をとりまく諸制度成立の歴史は、美術という制度自体がはらむ近代性を考えずとも、同時代の社会的、政治的、文化的背景と密接に結びついていた。近年になってようやく、視覚芸術としての美術の確立を、その諸制度(施設や装置)の確立と対応させ、国家による美術の制度化という観点から検証するものや、あるいは「美術」という言葉そのものに着目し、美術概念の変異を考察する研究が行われるようになってきた。しかし、それらはいずれも、政府による上からの美術の形成を考察するに止まり、重層的な視点から考察が試みられることは少なく、とりわけ観客の姿はまったく等閑視されてきたといえる。

本論文においては、西洋から輸入された美術の受容とその価値意識の形成の歴史を、美術の制度、作者の対観客意識、観客の受容者層の三つの視点を主軸に検証した。明治初期において、国家も、また当時の作り手も、(西洋美術の)受容者であり、仲介者であり、また同時に(日本美術の)供給者であった。この国家、作り手、受け手の動的な関係こそが、美術後進国として美術を輸入した日本近代美術の成立を読み解く鍵であると考える。このような重層的な構造を読み解くことにより、既存の作家・作品本位の美術史からはみえてこなかった、日本における近代「美術」概念の成立とその受容の過程を明らかにした。そしてまた、そのような試みは美術という枠内だけではおさまらず、博覧会やマスメディア、日本的価値観と西欧的価値観との摩擦という日本の近代化を象徴するものを美術を媒介に検証することとなった。

まず、第2章 「混沌の時代」において、美術という概念が誕生した背景を検証し、官製用語として誕生した「美術」概念が、徐々に今日の美術へと整理されていく経緯を追った。その過程を追うことにより、明治政府による美術の制度化がどのように進められたのか、概略ではあるがその流れを辿った。その成立の契機からして、西洋への視点がそこにあったのは事実だが、政府が積極的に美術を導入し、洋画を奨励したのは、当時の殖産興業政策と合致したからであった。

とはいえ、「美術」が誕生したからといって、そう簡単に広く一般的に受け入れられたわけではない。2節、3節においては、草創期の美術受容の実態を探った。

明治初期の洋画家は、美術を新しい技術と捉え、それが可能にする新しい表現世界を探った。同時に、熱心にかつ驚くべき程の柔軟さをもって、観客に対してもこの新しい「見方」を広げようとした。見世物小屋を活用したことからも明確なように、そこに、明治以前との断絶はなく、あくまでも地続きの美術受容であったといえる。だが、親しみやすい一方、観客はあくまでも見世物小屋=娯楽を享受する枠内でのみ美術を捉え、画一的にその迫真性を楽しみ、技術を評価するに終わった。

次に、近代的な意味で「美術」をみる人々が登場した内国博覧会を検証した。博覧会に設置された「美術館」において、人々は初めて美術作品を、鑑賞の対象として見る事を求められたのである。これは、見世物小屋における、あくまでも受動的な娯楽としての美術受容からの大きな転換である。その持ちうる意義と実際の観客の受容実態を考察した。

第3章 「模索の時代」では、明治9年に政府が美術者=技術者育成のために開校した工部美術学校の卒業生を中心に、政府の美術政策と時に対をなし、時に相反する形で、彼等が「美術」概念成立にどのような役割を果たしたかを検証した。明治政府が大々的に洋画奨励に乗り出し、工部美術学校が開校されると、そこで学んだ生徒たちは国家有用なものとして美術を捉えるようになる。画業を専門にすることによって、実用面からも精神面からも国家/国民に寄与できる、と。

明治美術会はターゲットとする支持基盤を学識者、財政界の有力者といったエリート層に絞った。一転洋画弾圧の嵐が吹く中、そうした人々の権威を借りて、自らの正当性、必要性を証明しようとしたのである。さらに明治美術会を舞台に、当時の知識人や財政界を巻き込み、結果的に美術概念の形成に重要な一役をかうこととなるさまざまな美術論争を繰り広げるのである。美術とは何なのか、日本の絵画は何を描くべきなのか、そうした今日にも通じる問いかけを真剣に行ない「表現としての美術」を模索していたのである。

彼らはそうしたエリート層と共同で美術概念を模索したが、あくまでもそれは受け身の姿勢であり、やはり美術家を広く社会的に確立するのには失敗した。すなわち、美術概念を論じる際には、そうしたエリート層が中心となり、その論争が世間の関心をひいたものの、描き手自らが美術を規定し、それを提示するという事態にはならなかった。そうした共同の模索が表現としての美術に結びつく前に、黒田と白馬会が登場し、西洋の美を規範とした「美術」を確立してしまったのだ。

また、今日、ジャーナリズムと美術との密接な共存関係はよく知られることだが、そうした密接な関係が始まったのは、このとき「美術」概念とは何なのかを社会問題の一つとして新聞が報じていた可能性が大きいことを指摘した。

第4章 「制度化の時代」において検証したのが、日本における美術家と観客の誕生である。草創期の美術家および明治美術会の模索を断ちきる形で登場したのが、「近代洋画の父」黒田清輝であった。フランスで長らく絵画を学び、サロン入選の権威を掲げ、家柄にも恵まれた黒田が、高らかに「個人表現の発露としての美術」を謳い上げると、それまでの日本的といっていい美術への模索は断ち切られ、ここに技術ではなく表現としての美術、画工ではなく美術家が誕生する。

さらに黒田は東京美術学校の西洋画科に教授として赴任し、制度の中枢を担うようになる。裸体画という日本の伝統的価値観とは対立する西欧絵画を効果的に用い、ジャーナリズムと世論の高い関心を呼び覚まし、裸体画が是認されるべき美術という制度と、それを担う「画家」を広く社会に確立する。そしてその時から、一般大衆は啓蒙すべき相手であり、作品制作にあたっての観客は、西欧ないし西欧の美の規範を理解する同じ作り手となっていくのである。

さらに、白馬会展覧会を報じる新聞記事を分析し、始めはそれをニュースとして報じ、さらに年を経るごとにその「価値」を論じるようになった過程を検証した。そうした新聞批評は良くも悪くも「素人」批評が多かったのだが、積極的な美術に対する発言を評価するが、一方でそうしたジャーナリストも一美術の受容者として、黒田によって提示された価値観に影響されていたことを指摘した。

日本において、あらゆる職業の大衆が美術展覧会に行くようになったのは、政府が開催した文部省美術展覧会であった。会場内で作品に相対する観客の様子を報じる当時の新聞や雑誌の記事を検証すると、時には周囲の人と会話を交わしながら、作品の細部について意見を交換したり、画意を推察したりと、稚拙ながらも自由に自らの価値観で以て絵画を鑑賞しているように見受けられるようになる。しかし一方で文展においては巧妙かつ重層的な、観客の志向と視線を制御する様々なシステムが機能していた。それによって、観客は意識的にというよりは、むしろ無自覚に、だが明確に制度的価値体系に巻き込まれてしまったのである。

最後に第5章において、本論を総括した。明治期の観客と作り手の関係性にまつわる一連の動きを考察すると、近代美術の制度は、観客に価値判断を求めない美術受容モデルを作り上げることにより成立したとわかる。その結果、日本においては、美術家が経済的自立を得ずに「美術家」となり、日本的画壇システムを初めとした、限定された美術界を中心に活動する事となったのである。

この状況は現在に至るまで、本質的に変わることはない。それに対する打開策は、美術先進国である西洋において現在活発な観客教育・啓蒙活動の後追いだけにあるのではなく、そうした美術受容のモデルからの脱却にある可能性を提示した。その時ヒントになるのが、本稿で検証したような美術制度成立以前の作り手と観客の関係である。すなわち観客と対等の視線を持っていた高橋由一や、(一部のエリートであったとはいえ)観客と共同で美術の価値観を築き上げようとした明治美術会の姿勢であり、それらを改めて問い直す必要があるのではないか。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、日本の明治期に近代美術が成立する過程において、(1)作り手と観客の関係がどのように変容していったか、(2)日本における美術の「価値観」はどのように形成され、誰がどのような基準で美術の価値を決めてきたのか、という2点を問題意識として、明治政府、美術の作り手、観客の三者関係の形成過程を動態的に分析しようとしたものである。

これまでこの種の美術に関する研究は、「作家」ないし「作品」をその理念の支柱とする美学・美術史学研究に委ねられてきた。しかし、美術の担い手、受け手および美術をとりまく諸制度成立の歴史は、同時代の社会的、政治的、文化的背景と密接に結びついている。本論文では、そのような重層的な構造を読み解くことにより、既存の作家・作品本位の美術史からは見えてこなかった、日本における近代「美術」概念の成立とその受容の過程を明らかにした。

本論は以下の5章からなる構成をとる。

第1章では、本論の問題意識、研究目的が述べられ、日本の美術概念成立に関する先行研究が紹介されている。これまで美術史学的観点から美術を取り巻く政策や作家論を中心とした分析はあったものの、作り手、受け手、政府をからめた重層的な視点からの考察はほとんどなされてこなかった。第2章では、ウィーン万博出展を契機とする「美術」という言葉の誕生、明治初期における殖産興業政策の一環としての美術行政が論じられている。一方で、見せ物としての西洋画、技術としての西洋画法の普及等、「混沌の時代」の様相が活写されている。第3章では、政府による工部美術学校が設立され、本格的に美術教育が開始される一方で、国家有用な美術の探究、フェノロサらによる伝統絵画賞賛の影響等から、洋画が排除されはじめ、明治22年に創設された東京美術学校には.西洋画がいっさい教授対象からはずされるという「洋画冬の時代」について記述される。その反動として洋画家を中心に組織された「明治美術会」は、学者や官吏を巻き込んで日本的サロンのひな形を提供し、外山正一、森鴎外らの美術論争を惹起した。第4章では、「個人表現の発露」としての美術観を全面的に押し出した黒田清輝の活躍を中心に、西洋の美を規範とした「美術」概念が制度化される過程が論じられている。この時期から、作り手によって一般大衆は「啓蒙すべき対象」となり、文部省美術展覧会(文展)における明治政府の対観客意識や、文展をめぐる新聞報道も、観客の視線・志向を制御するシステムの一部として機能することになる。終章第5章では、混沌―模索―制度化という美術概念成立の流れを総括し、こうした日本における美術概念の受容、価値観を押しつけられありがたがる「観客」の誕生が、今日の美術受容のあり方にも影響を与え続けていると論じられている。

明治期の観客と作り手の関係性にまつわる一連の動きを考察すると、近代美術の制度は、観客に価値判断を求めない美術受容を作り上げることにより成立したと推断される。その結果、日本においては、美術家が経済的自立を得ずに「美術家」となり、日本的画壇システムを初めとした、限定された美術界を中心に活動することとなった。この状況は現在にいたるまで、本質的に変わることはない。それに対する打開策は、美術先進国である西洋において現在活発な観客教育・啓蒙活動の後追いをすることだけにあるのではなく、そうした美術受容のモデルからの脱却にある可能性が提示されている。

なお、本論には以下のように、今後さらに探求すべき課題も残している。

本論文では、明治期における美術制度の確立およびその受容が、現在美術をとりまく状況と深い関連をもっているように記述されているが、本論で分析対象とされていない大正期、昭和期の美術受容にかかわる状況変化まで分析した上でないと、論理的関連が十分に捉えられない。また、既存のオーディエンス論との関連、あるいは映画等、他のメディアとの共通性や相違を今後明らかにすべきである。さらに、本論で論じられたようなプロセスが、日本独自のものなのか、あるいは一部の西洋文化以外の場所で普遍的に言えることなのか、モデルの普遍性の検証も今後の課題である。と同時に地域特有の社会的文脈との関わりも一層探求すべきであろう。

とはいえ、本論は、日本の近代化を美術という枠組みから検証し、その中で作り手・観客・政府の位相の変遷を明らかにしようとした野心的な論考であり、これまで美術史学と社会学の狭間で抜け落ちていた研究領域をカバーしようとするものでもあることが審査でも高く評価された。

本論文は、今後分析を深めるべき課題も多々残しているものの、本論文で示された成果と研究手法をさらに発展させるならば、当該研究領域においうて多大な功績を残すことになろう。そのために必要な視座と学識は、本論においてすでに十分披瀝されている。

よって、本審査委員会は、本論文が博士(学際情報学)の学位に相当するものと判断する。

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