学位論文要旨



No 125220
著者(漢字) 小森,謙一郎
著者(英字)
著者(カナ) コモリ,ケンイチロウ
標題(和) ジャック・デリダと生産の概念
標題(洋)
報告番号 125220
報告番号 甲25220
学位授与日 2009.07.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第921号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 湯浅,博雄
 獨協大学 教授 若森,栄樹
 東京大学 教授 宮下,志郎
 東京大学 准教授 星埜,守之
 東京大学 教授 山田,広昭
内容要旨 要旨を表示する

ジャック・デリダの著作や論文において、「生産」という概念は控え目なままにとどまっている。それは「脱構築」ないし「差延」「余白」「散種」等々のごとく、積極的に語られているわけではない。しかし、デリダ自身はこの概念が「非常に重要だった」と述べており、たとえ主題的に論じたことが一度もなかったとしても、生産という語はたしかに彼の主要なテクストの片隅で無視できない重みをもっている。だとすれば、生産の概念はデリダにとっていかなる意味において「非常に重要だった」のか? 彼はこの概念にどのように取り組み、どのような思考を展開していたのか? 三部からなる本稿では、とりわけ六〇-七〇年代のデリダに着目しつつ、問題の所在を検討した。以下、順を追ってその要旨を示す(各部は三つの章に、各章は三つの節に、それぞれ分けられている)。

第一部

まず最初に、本稿のなかで検討される問題の枠組みを説明するとともに(第一章)、その検討のための予備考察を行った(第二章および第三章)。

第一章では、デリダにとって生産の概念がいかなる問題として提起されているかを示した。(一)一九六七年に公刊された『グラマトロジーについて』のなかで、デリダは「生産する」という語の意味について、ごく簡潔な定義をおこなっている。すなわち、生産なるものは「言語の変形のなかに含まれて」おり、「私たちが生産と呼ぶものは必然的にひとつのテクストである」。この定義は十分に明確ではないが、しかし(二)それはデリダにとって一時的なものではない。というのも、約二〇年後の八八年に発表された質疑応答のなかで、彼は当の定義を回顧しつつ、生産が意味するのは「創造性でもなく明示化でもない」と述べているからである。(三)さらにデリダはその翌八九年に行なわれたインタヴューのなかでも、上述のごとく生産概念が「非常に重要だった」と回顧している。六〇年代の彼はマルクス主義の生産概念に疑念をもっており、正面から異議を唱えることはできなかったにせよ、内心では反対していたのだという。そこで彼は自分自身にとって重要だと思われた「予備作業」に着手した。生産概念の「哲学的な系譜」が多くの問題を提起したのである。

以上のことから、次のような仮説を立てることができる。

1、デリダにとっても生産の概念は「非常に重要だった」のだが、しかし当時の彼を取り巻いていたマルクス主義の生産概念には納得できなかったこと。

2、だからこそ彼は「哲学的な系譜」においてなされた概念規定を考察し、「創造性」や「明示化」とは異なる意味を探求しようとしていたこと。

3、そのようにして彼が探求しようとしていた意味とは、「生産とは必然的にひとつのテクストである」という定義と無関係ではないであろうこと。

そしてまず第一部の残りの第二章と第三章において、上記の1を論証した。

第二章においては、先に言及した八九年のインタヴューから出発して、(一)六〇年代のデリダが違和感を抱いていたアルチュセール的生産概念がいかなるものであったのかを確認し、(二)その違和感が抱かれた背景を考察するとともに、(三)当時の彼が置かれていた状況を明確にした。

また第三章においては、九三年のマルクス論に着目し、(一)生産概念に関するデリダの思考がどのような方向性をもって展開されることになるのか、(二)そして九〇年代に彼はこの概念についていかなる問題を提示することになるのか、(三)さらにマルクス自身はそもそも生産の概念について何と言っているのか、それぞれ具体的に検討した。

こうした予備考察によって、第一部では生産の概念に対するデリダの取り組みの起点と終点とを押さえた。つまり一方において、マルクス主義的な生産概念とそれに対するデリダの違和感を、他方において彼にとって重要であったその概念に関してデリダ自身が四半世紀後のマルクス論のなかで述べることになる考えを、それぞれあらかじめ確認したのである。

もっとも、本稿がデリダのテクストを直接読解しながら検討するのは、彼がその起点と終点とのあいだで行なっていた「予備作業」にほかならない。つまり、「哲学的な系譜」に関して行なっていた生産概念の検証作業と、デリダ自身による生産概念の練り直しである。この検証作業と練り直しとは、さきほど論証すべき点としてあげた仮説のうち2と3とに相当するのであるが、これらはそれぞれ本稿の第二部と第三部において考察されることになる。

第二部

それゆえ、仮説2を論証しながら考察されるのは、デリダが「哲学的な系譜」に関して行なっていた生産概念の検証作業である。

まず第一章においては、七五年の論文「エコノミメーシス」をとりあげた。カントの『判断力批判』を論じたこの論文において、デリダは「ミメーシスとしての生産」というテーマを掲げている。そこでデリダの読解の論点を、以下の三つに分けて整理した。すなわち、(一)カントは自然と芸術とを対立させているが、ひとつの存在論-神学によってその対立を最終的に解消していること。(二)この解消を可能にしているのは生産的構想力であり、『判断力批判』はこれを天才という形象のうちに託していること。そして(三)最高の天才は詩人であり、カントの言説において天才詩人の言葉は「諸価値の価値」とみなされていること。こうした読解からわかるのは、デリダが構想力の生産性を「創造性」として捉えていたということであり、このことは八八年における回顧と一致する。創造性としての生産性を、デリダはたしかに批判的に論じていたのである。

次に第二章においては、デリダのそうした議論がすでに六八年の論文「竪坑とピラミッド」のうちに見出されることを確認した。彼によれば、生産的構想力の概念はヘーゲルにとっても不可欠であった(一)。しかし、生産的構想力を基盤とする存在論-神学は、ヘーゲルにおいては歴史哲学的な射程をもっており、創造性としての生産性がヘーゲルの体系のなかに登場するのは、ギリシア的段階においてであって、エジプト的段階では決してない(二)。デリダ自身はしかしそうした規定や歴史哲学を批判的に論じており、そのことをここでは七四年の『弔鐘』における一節をもって検証した。その一節はまたマルクス主義的生産概念に対するデリダの異議を暗に含んでいるかもしれず、デリダは創造性としての生産性に反対することで、おそらく唯物論的な生産性からも距離をとっていたのである(三)。

以上の二つの章によって、創造性としての生産性は構想力の概念とともに培われてきた、ということが理解される。デリダは構想力が自発性と受動性の統一であると述べているが、そうした考え方はハイデガーに遡る。そこでデリダがハイデガーに対して保っていた両義的な関係を指摘することから、第三章を開始した(一)。さらに『芸術作品の根源』を論じた七八年のデリダの論文「返却=復元」を取り上げ、そのなかで論じられているフェティッシュ化の問題が生産概念と関係していることを示した(二)。しかし『芸術作品の根源』は、生産性をその伝統的な規定から解放する一方で、古典的な形而上学を復興してもいる。producereなる語について独特な解釈を提示しているハイデガーは、批判以前的なひとつの贈与に依拠しており、一種の盲信がその言説を先導しているのである。この点において、デリダは「明示化」を目指したハイデガーの言説にも懐疑的であったと言えるだろう(三)。

こうして第二部の全体を通じて、デリダが「哲学的な系譜」を念頭において行なっていたのは、生産性を創造性として捉えるカントやヘーゲルに対する批判的検証であり、さらに生産の概念を贈与の問題へと関係づけたハイデガーに関する批判的分析であったことが理解される。少なくとも六八年から七八年の十年のあいだに、デリダはそうした検証作業に着手していたのである。

第三部

最後に上記の仮説3を論証した。問題なのはデリダによってなされた生産概念の練り直しであり、「生産とは必然的にひとつのテクストである」ということの意味である。

第一章においては、『時間を与える』に着目した。七七-七八年の講義に基づくこの著作に関してとくに注目したのは、贈与なるモチーフと生産概念の結びつきである。デリダはボードレールの散文詩「贋金」を読みながら、この作品が文学の「自然化」を行なっていると述べており、以下の問いを提示し答えるべく試みた。(一)デリダはカント的詩人の天才に創造性としての生産性をみていたが、ボードレールのうちに「自然化」という契機を見出すことで、いかなる問題を提起しようとしているのか。(二)その問題が生産の概念と無関係ではありえないのは、デリダがピュシスのピュエインを「根源的な生産性」「贈与的生産」と捉えているからであるが、だとすればボードレールによる「自然化」は、そうした「自然の贈与」からどのように区別されるのか。そして(三)「自然化」なるものがなお「贈与的生産」と関わっているのだとすれば、生産の概念はデリダによっていかに練り直されるのか。

以上の最後の問いに対しては、エクリチュールという契機が見出される。デリダは『時間を与える』のなかで「エクリチュールの贈与」について語っており、すでに六九年にも「エクリチュールによる生産」を問題にしている。それはマラルメを論じた「二重の会」においてであって、この論文はここまで追ってきたデリダの議論を胚胎しているかのようである。そこで第二章ではこの論文に着目し、まずその胚胎の様相を確認した(一)。デリダによれば、マラルメのテクストは「形而上学の閉域」を素描しており、かつこれを解体している。とくに「黙劇」なる作品にはいかなるレファレンスもなく、語たちはたえず置換される状態にある。デリダはこのことを「隠喩的生産」と呼んでおり、ここに前述の「生産とは必然的にひとつのテクストである」ということの意味を読みとった。そしてこの「隠喩的生産」が哲学的な生産概念ともマルクス主義的な生産概念とも異なっていることを論証し(二)、さらにこれをデリダによる生産概念の練り直しそのものとして検討した(三)。

第三章においては、デリダによって練り直された生産の概念が、結局いかなる問題を提起するのかを考察した。そこで九〇年のヴァレリー論「他の岬」を取り上げ、以下の三点を論証した。すなわち、(一)デリダは「精神」をめぐるヴァレリーの諸考察を検討しているが、その語は「哲学的な系譜」における生産概念の伝統に属しているだけでなく、マルクスからアルチュセールへと受け継がれる生産概念を中継しているということ。(二)「他の岬」がとくに問題にしているのはヨーロッパ精神であり、デリダはこれを「キャップの形象」として捉えているが、キャップの論理には還元されないエクリチュールこそが、デリダにとって重要であること。(三)キャップなるものはヴァレリーにおいて他者へと開かれ始めているとデリダは論じているが、他者へのそうした開かれこそが、生産概念の練り直しを通じてデリダが思考しようとしていたものであるだろうこと。

そしてデリダの言う「必然的にひとつのテクストである」生産が、「コーラの唯物論」に通じていることを指摘し、本稿全体のまとめとした。デリダにとって生産性は一種の受容性に関係づけられており、これは既存のいかなる生産概念とも異なっているのである。

審査要旨 要旨を表示する

小森謙一郎氏の課程博士論文は、現代フランスの哲学者・思想家であるジャック・デリダにおける「生産の概念」を主題としたものである。デリダにおいて、これまであまり取り上げられることのなかった「生産」というコンセプトが、この思想家の思索のなかで実は長い間大きなテーマであったことを論証することを目指している。

本論文は三部構成となっており、第一部では、アルチュセール、およびマルクスにおける「生産」の概念を検討している。人間による〈自然の固有化・我有化〉というマルクス主義的な「生産の概念」に対し、デリダは基本的に違和感をもっていたこと、もっと別の生産の概念を練り上げる必要を感じていたことを、本論文はいくつかの論考に即して考察している。第二部では、カント『判断力批判』(第一部「美的判断の批判」)における「生産の概念」を、デリダがどのように批判的に捉えたかを検討している。カントは根本的には自然に対する芸術の優位を主張しているのだが、しかし(芸術における)自発的で、能動的な「生産的構想力」という理念(「再生産的構想力」とは異なる構想力の理念)を重視する過程で、真の創造性は「所産的な自然」をまねるのではなく、「能産的な自然」、「産み出す自然」の創造性そのものを模倣するのであると考える。この思考法によれば、真に創造的である芸術家は「天才」であり、そういう天才は「自然の賜り物、自然の贈与」であって、産み出す自然の能産性を体現している。こういう真に創造的な天才(自然の能産性そのもの)を背後から支え、保証しているのは、〈神〉の創造性であり、〈神〉の真正なる能動性、能産性である。こうしてカントの「生産的構想力」という理念、それに基づく芸術哲学のうちには、人間存在を神的な存在によって支え、存立させる神学的存在論が必然的に内包されている。

本論文の見方では、デリダはこうした存在論一神学的な「生産の概念」を批判するモチーフを、初期の『グラマトロジーについて』から一貫してもっており、デリダの批判はカントの芸術哲学のみならず、ヘーゲルの『美学講義』における存在論一神学的な産出の観念にも向かっている。その批判の射程は、ヘーゲルを継承しているマルクス主義的な「生産の概念」にも及んでいるというのが、本論文の主張である。

第三部では、デリダが存在論一神学的な「生産の概念」を批判するとき、その基盤となっているのはデリダ的なエクリチュール(書き込み、記載、文字的な次元の先行的形成)およびテクスト(言語の織物、言葉による書くこと、書かれたもの)の理論であることを、「マラルメ論、二重の会」(『散種』)を読解しながら検討している。言語的なものは自然ではなく、実体的なものでもない。根本的なテクネー(アート、芸術)であり、いわゆる自然と文化との区別・分離に先行しており、こういう区別・分離を可能にしている。通念では、文化・芸術はあらかじめそれとして存在している自然を模倣すること(ただし神のような真の創造性をもつ能産的な自然を模倣すること)で成り立っているのであるが、テクスト(言語の織物)を書くことは、初めから決まっている参照項をもたず、ア・プリオリに確定している対象を指し示すことはない。書くことと同時にしか参照項や対象は産み出されない。こうしたテクストの産出とともに産み出される〈意味〉は、書く主体(作者)のものだけではなく、読む者たちによって分有され、独自な仕方で受け継がれていくのであり、けっして作者のもとに戻ってしまうことがない。再固有化されてしまうことはない。テクストは存在論一神学的な生産とはならない。作者(神)による真の創造や生産ではなく、多数の関係性のなかでのみ創造や生産は考えられるのである。本論文は、デリダによるテクスト生産の思想をこのように理解することで、それが伝統的な生産の概念の批判になっていると主張している。

本論文は、『エコノミメーシス』や『へ一ゲルの記号学への序論』、『絵画のおける真理』、「マラルメ論、二重の会」(『散種』)など多くのデリダのテクストを読解しつつ、デリダによる「伝統的な生産の概念の批判」を詳細に考察したものであり、これまで行なわれてこなかった分野を埋める作業となっている。伝統的な生産の概念とは異なって、テクスト的な生産は言語的なものの本性にあくまで忠実な運動であって、存在論一神学的な生産とはならないこと、テクスト的生産や創造は、作者(神のような作者)による「真に能産的な」創造や生産ではなく、多数で多様な「痕跡的しるしの関係性」のなかでのみ考えられることを、多くの例を引きながら論証している。

ただし、本論文には、不十分な点もある。まずカントの芸術論をかなり図式的に存在論‐神学的な生産の概念へと限定していることである。もっと細部を読み取り、デリダがそうした細部まで考慮に入れつつ論じていることを明らかにすべきであっただろう。またマルクス主義的な「生産の概念」に対するデリダの批判に関しては、問題が大き過ぎるためもあって、十分に説得力のある議論を展開できているとは言えない。さらにテクスト理論を根底から支えているデリダの独自の言語論、すなわち原エクリユール(先行的な書き込み、痕跡的しるしの記載、音声言語を可能にしている原・痕跡的なもの)という議論を、もっと丁寧に説明する必要があったであろう。

こうした不十分な点はあるものの、本論文は現代哲学の重要な思想家のある一つの面(伝統的な生産の概念の批判という面)を丹念に追求しており、一つの貢献をなしていると判断される。ゆえに博士(学術)に値すると認められる。

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