学位論文要旨



No 125222
著者(漢字) 永岡,都
著者(英字)
著者(カナ) ナガオカ,ミヤコ
標題(和) 音楽的意味論の比較考察 : 二十世紀後半から現在に到る音楽的意味の分析と記述の変遷
標題(洋)
報告番号 125222
報告番号 甲25222
学位授与日 2009.07.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第923号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 長木,誠司
 東京大学 准教授 大堀,壽夫
 東京大学 准教授 ゴチェフスキ,ヘルマン
 東京大学 教授 渡辺,裕
 東京大学 元教授 杉橋,陽一
内容要旨 要旨を表示する

音楽が意味あるものとして体験される事象は、これまでの音楽美学の主要なテーマの一つであったが、その音楽的意味musical meaningをめぐって、近年、欧米の音楽学を中心に活発な議論が続けられている。しかし、その議論の領域は、論者によって様々に観点が異なり、解釈も多岐にわたっていることから、もはや互いの接点を見出し得ぬほどに錯綜している。本論文は、音楽的意味という概念が音楽思想や音楽理論の重要な概念として登場してきた経緯をふまえ、音楽固有の「意味性」について考察することを通して、二十世紀後半から現在に到る音楽論の展開を音楽的意味論の思想的な系譜として描き、さらに現在の音楽的意味論がどのような理論と方法論をもって展開していくのか、その課題と可能性を描くことを目的としている。論文全体の構成は、序章と終章を含む7つの章から成る。

序章では、1980年以降の音楽的意味論の諸相を4項目に分けて記述し、論文全体の予備的考察とした。音楽的意味をめぐっては、ハンスリックの『音楽美論』(1854)以来、音楽の構造を意味として定義する形式主義が自律音楽美学を確立し、西欧芸術音楽の理論を牽引してきたが、その形式主義が衰退し、これまで構造分析が厳密に規定してきた「音楽的意味」に異なるレベルの意味が持ち込まれるようになってきた。そうした傾向を「形式主義の衰退と新しい潮流」として指摘した後、「記号学から記号論へ」では、1960年代から70年代にかけて流行した音楽記号学musical semiologyに替わって、パースの記号論の流れを汲む新しいアプローチが台頭していることを指摘した。また、「音楽における感情解釈の論争」では、音楽美学者の間で、音楽と感情の関係が再び注目を集めていること、それらが近年の感情心理学や認知の台頭とも関連していることを指摘した。そして「音楽的意味の拡がり」では、音楽から生成される意味を、他の作品との関連や、音楽から喚起されるイメージや記憶といった「音楽外的」意味へと拡大する、新しい解釈の登場について指摘した。

第1章では、「音楽的意味」の前史として、ハンスリックの『音楽美論』を中心に、それ以前の感情美学、それ以後の20世紀前半の音楽美学の流れを概観した。ハンスリックの『音楽美論』については、「音楽表現の特性」と「感情解釈」の2つの側面から精読し、彼が、音楽から聴き手が実際に把握できるのは、個々の作品の形式と一体化した音楽固有のイデーの「運動」であり、音楽によって一定の感情を引き起こされるのは、音楽の運動の仕方がその運動を属性としている感情を「類推」させるからである、と主張していたことを確認した。また、ランガーのシンボル理論についても検討した。彼女もハンスリックと同じように、音楽の諸形式と人間の経験のパターンに類似があると見做したが、聴き手の感情反応は考慮しなかった。しかし、今日の音楽的感情の議論では、音楽が実際に聴き手の情動反応を引き起こすことを前提としている。

第2章では、現在の音楽的意味を解釈する視座として「意味」「記号」「メタファー」「感情」の4つの視座を掲げ、音楽的意味論の固有の領域を明らかにしようとした。音楽の意味は、言語学的な「意味論semantics」ではなく、「あるものを、単にそのものとしてみないで、何か別のものとみること」と広くゆるやかに捉え、情動的経験や、空間や時間に関する現象学的な知覚を分析することによって、その固有の意味性にアプローチすることが可能となる。また、音楽の意味論では、自律音楽美学=音楽内的意味論と、他律音楽美学=音楽外的意味論の2つの意味解釈の対立が続いてきたが、この2つを統合することが意味論の大きな課題となっている。さらに、メタファーや感情も、音楽の表現性にアプローチする重要な切り口であることを指摘した。

第3章では、1950年代から1970年代にかけての体系的な音楽的意味論の代表として、マイヤーとコーカーの理論を検討した。彼らは、我々が音楽を聴くときのさまざまな意識の流れや方向を、記号の機能や記号過程として描出し、音楽的意味として体系化したが、分析する作品の有機的な統一を支えるため、音楽における第一義的な意味のレベルを「音楽内的意味」に置いた。そのために、音楽作品には意味論的な対象が「音楽内的」と「音楽外的」の2つのレベルで存在することを認めながら、音楽記号に含まれる情動的な要素と音楽構造の関連を体系的に論じることはできなかった。しかし、マイヤーが「参照的意味」について、最初に理論的な輪郭を描き、コーカーも論理記号を用いて、音楽体験における意識の働きを記号の構文的な結合を通して描出し、調性音楽だけでなく、20世紀の前衛音楽や中世の音楽も分析対象とする可能性を示したことは高く評価される。

第4章では、音楽における感情の機能と、表現の関わりについて考察した。近年、音楽と情動という2つの心的状態・心的過程を比較することによって、音楽の表現の本質を解明しようとする気運が高まっている。音楽を聴いて、実際に聴き手の中に引き起こされる情動体験の本質とは何か、今日の音楽的感情論争の中心にいるレヴィンソン、キヴィ、デイヴィスの3人の音楽論を比較検討した。レヴィンソンは、音楽によって引き起こされるのは純粋に生理的で情緒的な連想感情associated feelingであると見做す。これは日常のありふれた感情から対象や因果関係を取り除いたある種の情感のモードであるが、音楽聴取の中の様々な認知の過程と関わっている。これに対し、キヴィは、音楽に感動する、音楽を楽しむといった感情の実体を独自の視点から追求する。彼によれば、音楽には聴き手が認識する情緒的な質が備わっているが、テクストやタイトルを伴わない純粋器楽音楽の場合、それは音楽に備わる「表現的質」expressive property、すなわち、聴き手を感動させる質的特性として機能し、音楽構造を際立たせ、音楽理解を深めることに貢献する。また、デイヴィスは、音楽は情動そのものを表現するのではなく、その性質propertyを顕すと主張する。しかし、この中で、よりリアルな形で音楽体験を描出する可能性は、感情反応を限定的に捉えるキヴィやデイヴィスの解釈より、レヴィンソンが提示した連想感情をベースとして、そこに様々な認知の要素が働くという聴取モデルに見出せるであろう。

第5章では、音楽的意味が生成される状況を体系的に構造分析しようとする最近の理論を考察し、今後の新しい理論的展開の方向を予測した。バークホルダーは、既知のメロディやサウンドに反応して記憶や連想を引き出す現象を「連想的意味」associative meaningと名づけ、それが音楽を聴く過程の中でどのように成立し、展開するかを時系列的な5段階のステップとして描出する方法を提案した。これにより、引用や音楽様式の類型など、音楽聴取の過程に生じる具体的かつ明快な意味について語る一つの方法が示された。また、間テクスト的に拡がる音楽的意味のネットワークを、音楽聴取という時系列上に展開する方法としても有効ではないかと予測される。バークホルダーのモデルが恣意的な連想も含めた聴き手の音楽体験を描出するものであるのに対し、タラスティは、パースの記号論とグレマスの意味論などをベースに、音楽作品を作曲家が経験した意思決定の記録として描出する方法を提示している。彼は、音楽のディスコースを成立させる高次の意味生成の機構として、「語り性」や「モダリティ」といったモデリングシステムの存在を主張し、様相論理学の概念と手法を援用しながら、音楽作品を複数の視点から、多層的に分析していく方法を提示した。この方法は、複雑ではあるが、現代音楽を含めた音楽作品への汎用性の高さ、また、将来的に記号論研究と認知研究が方法論的に融合する可能性を示すという点でも、重要である。さらに、付節として認知言語学の思考モデルを音楽的意味の解釈に援用する試みも検討した。これらは、音楽とテクスト、音楽と映像メディアなど総合的な表現形式に対する音楽的意味論を指向するものとして、今後の展開が注目される。

最後に、本論文で比較考察した音楽論を「音楽的意味論」の系譜として整理し、以下の4点を結論として総括した。1)音楽的意味論は、ハンスリックに端を発する2つの流れ、すなわち自律音楽美学が牽引する緻密な構造分析を指向する方向と、音楽と感情の関係に焦点をあて音楽の表現性をシンボルやメタファーの意味作用から解釈する方向、において展開されてきた。2)音楽内的意味と音楽外的意味を融合する方法が構造分析的な音楽的意味論の長年の課題であったが、近年、積極的に取り組む音楽論が登場し始めている。3)シンボル、メタファー、感情など、情動体験を切り口に音楽音響が表現するものを分析しようとする意味論の流れは、今後は、心理学諸科学との連携を深めていくことが予測される。4)構造分析を指向する意味論は、聴き手あるいは創作する人間の意識の流れをリアリティをもって構造化する方向といえるが、コーカーやタラスティのように、音楽体験では異なる感情が層構造を成し、同時進行していると捉える方向は、将来的には心理学や認知の音楽体験モデルと重なっていくと予想される。

審査要旨 要旨を表示する

永岡都氏の学位請求論文『音楽的意味論の比較考察─二十世紀後半から現在に到る音楽的意味の分析と記述の変遷─』は、音楽が内包する意味、すなわち音楽的意味(musical meaning)を問うという近代的な問題設定に関して、19 世紀以来の議論の歴史を踏まえながら、ことに1980 年代以降、ごく最近に到るまでの多岐にわたる熱い議論展開を整理するなかから、問題の所在を検討し、音楽的意味論の射程を確定し、その可能性と将来的な展望を得ようとする野心的な試みである。

音楽の意味論は、ことに近年、英語圏で多くの研究者が取り組んでいる領域であり、また理論自体がひとつの歴史を形成している分野でもあるが、少なくとも日本の研究者がそこに参入することはこれまでになかった。永岡氏の論文は、込み入った議論、そしてときにすれ違いに終わる感のある論戦を丹念に読み解いて、それぞれの論者の立場に相互連関を与えることによって、なにが問題として立てられているのかをクリアに整理するにとどまらず、それらの限界を指摘し、また評価することによって、より整合的な意味論の構築を示唆しようとする点で、この領域に一石を投じることになっている。

全体は序章と5つの章、および終章からなる。

序章では、1980 年以降の音楽的意味論の諸相を4項目に分けて記述し、論文全体の予備的考察が行われている。その際、19世紀の自律美学の祖とも言えるハンスリックの『音楽美論』(1854)が、意味論に投げかけた点を指摘しつつ、その提唱する音楽の自律性や「形式主義」がその後の歴史的な展開において衰退し、それまで音楽分析の主眼であった構造分析が厳密に規定してきた「音楽的意味」に異なるレベルの意味が持ち込まれるようになったことが、史的事実に即して検討されている。1960 年代から70 年代にかけての音楽記号学musical semiology の潮流と、続くパースの記号論の流れを汲む新しいアプローチが俯瞰されており、近年ふたたび古典的な議論の枠組みである音楽と感情の関係が注目を集めていること、また音楽から喚起されるイメージや記憶といった「音楽外的」意味へと拡大する、新しい解釈の登場があることが指摘されている。

20 世紀前半の音楽美学の流れを概観する第1章のあと、第2章が本論文のひとつの中心である。ここでは永岡氏独自の切り口で、「意味」「記号」「メタファー」「感情」の4つの視座が採り上げられ、音楽的意味論の固有の領域が確定される。音楽の意味は、言語学的な「意味論semantics」ではなく、「あるものを、単にそのものとしてみないで、何か別のものとみること」と広くゆるやかに捉えられ、情動的経験や、空間や時間に関する現象学的な知覚を分析することによって、その固有の意味性にアプローチすることが可能となる。またそこから、自律音楽美学=音楽内的意味論と、他律音楽美学=音楽外的意味論のふたつの意味解釈の対立を統合することが意味論の大きな課題となっている。さらに、メタファーや感情も、音楽の表現性にアプローチする重要な切り口であることが指摘される。

こうした、基本的な視座を確定したあと、第3章では、1950 ~ 70 年代にかけての音楽的意味論の代表として、マイヤーとコーカーの理論が検討される。永岡氏は両者が意味論に寄与した画期的な成果を認めつつも、両者が音楽における第一義的な意味のレベルを「音楽内的意味」に置いたために、音楽作品の意味論的な対象として「音楽内的」と「音楽外的」のふたつのレベルを認識しながら、情動的な要素と音楽構造の関連を体系的に論じることはできなかったと指摘する。

第4章では、今日の音楽的感情論争の中心にいるレヴィンソン、キヴィ、デイヴィスの3名の論者が扱われている。音楽と情動というふたつの心的状態・心的過程を比較することによって、音楽の表現の本質を解明しようとする気運が高まっているが、音楽を聴いて、実際に聴き手のなかに引き起こされる情動体験の本質とは何か、それを3者の論点を整理しながら明らかにしている。純粋に生理的で情緒的な連想感情associated feeling を重視し、さまざまな認知過程をそこに関連づけるするレヴィンソン、音楽に感動する、音楽を楽しむといった感情の実体を独自の視点から追求するキヴィ、情動そのものを表現するのではなく、音楽は情動の性質property を顕すという視点から展開するデイヴィス。それぞれのモデルが俎上に置かれ、互いの関連をチャート化することによって、論争の構図が明瞭にされる。

第5章ではもっとも新しい議論の展開として、バークホルダーとタラスティが採り上げられる。音楽が記憶や連想を引き出す現象を「連想的意味」associative meaning と名づけ、それを時系列的な5段階のステップとして描出するバークホルダーの方法は、手間はかかるが、音楽のスタイルを選ばない、きめ細かな意味論の構築として評価される。微細な部分でどうしても恣意性が混入するバークホルダーに対し、タラスティは、パースの記号論とグレマスの意味論などをベースに、音楽の言説を成立させる高次の意味生成の機構として、「語り性」や「モダリティ」といったモデリングシステムの存在を主張し、様相論理学の概念と手法を援用しながら、音楽作品を複数の視点から多層的に分析していく方法を提示した。この方法も複雑ではあるが、現代音楽を含めた音楽作品への汎用性の高さ、また、将来的に記号論研究と認知研究が方法論的に融合する可能性を示すという点でも、重要であると永岡氏は評価する。

永岡氏はさらに、認知言語学の思考モデルを音楽的意味の解釈に援用する試みも検討し、音楽とテクスト、音楽と映像メディアなど総合的な表現形式に対する音楽的意味論を指向するものとして、今後の展開が注目される旨を示している。

終章では、本論文で比較考察した音楽論を「音楽的意味論」の系譜として整理し、4点が結論として総括されている。1)音楽的意味論は、自律音楽美学が牽引する緻密な構造分析の方向と、音楽と感情の関係に焦点をあて音楽の表現性をシンボルやメタファーの意味作用から解釈する方向、において展開されてきた。2)近年、音楽内的意味と音楽外的意味を融合する方法が積極的に取り組まれている。3)シンボル、メタファー、感情など、情動体験を切り口に音楽音響が表現するものを分析しようとする意味論の流れは、今後は、心理学諸科学との連携を深めていくことが予測される。4)コーカーやタラスティのように、音楽体験を異なる感情が層構造を成し、同時進行すると捉える方向は、将来的には心理学や認知の音楽体験モデルと重なっていくと予想される。以上である。

審査においては、やはり音楽的意味そのものの把握可能性と、その普遍性に関する疑問が提示されたが、これは音楽的意味論という問題を立てる段階で否応なく入らざるを得ない疑問である。本論文では、それにもかかわらず熱を帯びて展開されてきた議論の所在が検討されている。すべての音楽を網羅する普遍的な意味論は不可能と思われるが、にもかかわらず、なにゆえひとは音楽の意味に関して説こうとするのか、その意志の納得ゆく説明自体が、音楽的意味論の歴史を構成していることも議論された。また、音楽的意味ということばを、近年の英語圏における用法に限定しすぎていること、発話者やその意図、受容者の行動といった連関への指摘がないことなども指摘され、同時に、対象とする音楽のスタイルが、やはり西洋近代音楽に限定されていることも議論された。ただ、それらは永岡氏が対象を近年の意味論に限定した時点で見えている当然の結論であるとも了解され、本論文に内在する議論の展開そのものの密度を損なうものではなく、本論文が現時点での学術的成果としてはきわめて高い水準にあることに関しては審査委員全員の一致した見解であった。

以上をふまえて、本審査委員会は本論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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