学位論文要旨



No 125225
著者(漢字) 金,成恩
著者(英字)
著者(カナ) キム,ソンウン
標題(和) 19世紀東アジア宣教における翻訳と啓蒙 : 韓日比較を中心に
標題(洋)
報告番号 125225
報告番号 甲25225
学位授与日 2009.07.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第926号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 齋藤,希史
 東京大学 教授 菅原,克也
 東京大学 教授 ロバート,キャンベル
 東京大学 准教授 月脚,達彦
 上智大学 教授 宮本,久雄
内容要旨 要旨を表示する

本論文では、19世紀の東アジアにおけるキリスト教文献について、特に宣教師が現地での布教のために手がけた翻訳作品を取り上げ、彼らが漢字文化圏に従来から根付いていた翻訳の方法論をどのように活用し、また解体していったのかを考察していく。

漢字文化圏である東アジアにおいて、最初にキリスト教文献が中国の書き言葉、すなわち漢文で翻訳されたことは、中国のみならず日本や朝鮮で布教が成功した重要な要因であった。すなわち、中国の古典を翻訳によって受容してきた長い歴史を持つ日本と朝鮮においては、キリスト教文献が最初に漢文で翻訳されたことによって、それぞれ日本語と朝鮮語への速やかな翻訳が可能となったのである。しかも日本と朝鮮では、自国語に重訳される以前に漢訳聖書が流布しており、漢文の素養を持つ知識人の間で広く読まれていたこともその受容を後押ししたと言えよう。

本稿は、このような背景を前提としながら、東アジアにおける宣教の歴史を原点に立ち戻って再検討し、韓日におけるキリスト教の宣教と受容の相違点が生まれた背景とその過程を明らかにしていくことを目的とする。具体的には「Godの翻訳をめぐる宣教師間の用語論争」「宗教小説「天路歴程」の翻訳」「キリスト教新聞「七一雑報」の読書層と言文一致の試み」「李(イ)樹(ス)廷(ジョン)訳聖書の文体」「在日宣教師ルーミスによる渡米斡旋」といったテーマを取り上げ、キリスト教文献の翻訳のあり方そのものを、言語・文学史・メディア・知識人・学校教育という観点から多面的に検討した。

その結果明らかになったのは、第一に宣教師たちが布教にあたって従来の漢字文化圏における翻訳の方法論を積極的に活用していたという事実である。例えば、本論文において検討してきた『天路歴程』に関しては、それまで歴史的に中国の小説が朝鮮語と日本語にそれぞれ翻訳されてきた形態をそのまま踏襲し、同様のジャンルと文体を採用することによって、翻訳者の負担を減らすだけでなく、読者の違和感を軽減させることに成功しており、この方法が東アジアにおけるキリスト教宣教の成功を導く大きな要因となったと言える。

しかし、Godという唯一神の概念の訳語に関しては従来の漢字文化圏の翻訳の方法論を活用するだけでは不十分であった。そこには非キリスト教地域でどのようにすればキリスト教の唯一神の思想を伝えることができるかという宣教師たちの慎重な配慮と工夫が凝らされるからである。それゆえ在朝鮮・在日宣教師は、それぞれ朝鮮固有語・和語と苦闘しながら聖書の翻訳を試みた。

漢字とハングル、漢字と仮名という二重の表記法を持っている点で、朝鮮と日本は類似しているが、Godの訳語問題は「〓」(ハナニム)と「神(かみ)」のように、両国でそれぞれ朝鮮固有語と振り仮名付きの漢語に翻訳され、異なる展開を見せた。これは、漢字に対するハングル、仮名の位相が、それぞれの言語体系において異なっていたことを示唆している。

第二に、翻訳語、翻訳文体の問題とは別に、新聞や翻訳者が布教の拡大に大きな役割を果たしていることが挙げられる。キリスト教文献の翻訳は、新しい宗教を伝えようとする発信者の側が、その地域のことばを自ら身に付けて翻訳するという特徴を持っている。また、そのような翻訳を行う宣教師はキリスト教の布教だけでなく、文明開化を同時に目指していた。それゆえ翻訳という行為は、文書伝道や教会という閉ざされた空間に留まらず、新聞やミッションスクールなど、メディアと教育を通して社会に開かれていったのである。

しかし『七一雑報』の例が示すように、紙面の翻訳文体や読者層は庶民への布教という宣教師の創刊意図から離れていった。宗教としてキリスト教を受け入れるというよりも、文化、思想、教養として受け入れて、文明開化を果たそうとする知識階級の読者層の影響力から逃れることはできなかったのである。

これには庶民層の低い識字率とも関わって翻訳書や新聞などの文字媒体の普及には現地の知識人の媒介が不可欠であったという事情も存在する。しかし、彼らは宣教師の意図を越えて徐々に主体的な行動を見せ始める。特に日本のクリスチャン知識人の多くが、近代国家の力学に導かれて、外国人宣教師からの自立を図っていることは見逃せない。すなわち、日清戦争(1894年~1895年)と日露戦争(1904年~1905年)の勝利を経て、日本の知識人は早い時期から宣教師に代わって教会やミッションスクールの実権を掌握していったのである。また「天路歴程意訳(てんろれきていいやく)」の例で示したように、日本では新聞メディアに翻訳が載った時期も早く、それは明治9年(1876)から同10年(1877)にかけてのことだった。

一方、朝鮮では李樹廷という人物が、キリスト教を社会に伝えるメディアになった。当時、朝鮮の近代化のために視察に来た知識人たちの一部が日本でキリスト教信者になっているが、その一人である李樹廷は、在日宣教師に協力して米国系宣教師の朝鮮派遣を実現させるとともに、朝鮮語による聖書の翻訳を行っている。彼にとって信仰とは、自分一人の救いに留まらず、朝鮮宣教を目指すものであり、朝鮮の近代化を図るものでもあった。このように、宗教解禁の時期に海外に出てキリスト教にいち早く触れた知識人は、自ら翻訳者となって自国の社会にキリスト教宣教と近代化の道を拓いたのである。

第三に、キリスト教の翻訳は宣教師主導の宣教から現地知識人主導の受容へと移行しながら社会に向けて開かれていった。この傾向がさらに顕著に現れたのは、学校教育においてである。

日本では『七一雑報』の読者層が示すように、同志社を中心にするミッションスクールの学生たちが、「脱儒教主義」「平民主義」「良心の自由」というキリスト教主義教育に基づいた知識人グループを形成しており、これは当時の「儒教主義」「国家主義」「天皇主義」に基づく公教育とは一線を画していた。そして明治12年(1879)6月に同志社英学校予科(神学課)から第1回の卒業生が輩出され、ミッションスクールの卒業生たちが日本のキリスト教界の重鎮として活躍するようになる中で外国人宣教師からの自立の気運が高まっていった。さらに、明治23年(1890)の教育勅語や明治32年(1899)の文部省訓令12号の発布など、キリスト教主義教育に対する日本政府からの干渉や統制が厳しくなるにつれて、ミッションスクールは学校運営のために国家主義と妥協する道を選択することになる。

こうして日本のクリスチャン知識人たちは、「教育と宗教の衝突」という問題に直面して「日本的キリスト教」の形成を模索するになり、宣教師に代わって教会や学校の実権を掌握し、日清戦争(1894年~1895年)や日露戦争(1904年~1905年)を経て、愛国的で帝国主義的な論調に傾斜していく。ちなみにキリスト教文献の翻訳において、振り仮名付きの漢語や訓読体漢字仮名交じり文が定着していった背景にも、このような日本の知識人の実権の拡張があったと考えられる。

いずれにしても、キリシタン禁制の高札撤去を契機にキリスト教が黙認され、宣教師の布教が本格化したのが明治6年(1873)だったことを鑑みると、明治10年代半ばに外国人宣教師からの自立を目指したのは時期尚早だったと言えるだろう。この早すぎた自給独立論の影響で農村地域の教会は自給が叶わず衰退に向かい、信者は大都市の教会を中心とした中産層以上の階級に限られることになった。一方で、注目すべきことには教会が自給独立した後もミッションスクールは外国から経済的支援を得ており、その結果今日の日本においては、布教の足跡が教会よりもむしろミッションスクールに関わった形で残っている。こうした宣教師主導の宣教から現地知識人主導の受容に移る時期の早さは、朝鮮と日本のキリスト教普及率に差が生まれた大きな原因であると考えられる。

それに対して朝鮮は、アンダーウッドが朝鮮に入国してプロテスタント宣教を始めた1885年から間を置かずに日清戦争(1894年~1895年)や日露戦争(1904年~1905年)が勃発し、列強の対立へと巻き込まれていく。結局1910年に植民地時代に突入し、朝鮮では「キリスト教主義の近代教育」が朝鮮政府や朝鮮の国家主義と正面から衝突する時機を逸することになる。むしろ、米国留学経験のある朝鮮の知識人たちが米国系宣教師や米国の政治性を背負いながら、日本の植民地支配権力を相対化し、朝鮮の独立を図る勢力として成長していった。

朝鮮が宣教師の教権から離脱するまでにはプロテスタント宣教開始から半世紀以上の歳月を要している。1935年の皇民化政策による神社参拝の強要、また1941年の太平洋戦争の開始をきっかけとして米国系宣教師たちが朝鮮からの撤収を余儀なくされるまで、彼らは教会及びミッションスクールにおいて実権を保持していたのである。これは宣教師が教権に固執した、もしくは朝鮮人が宣教師に依存したという訳ではない。キリスト教が朝鮮において世界でも類例がないほど短期間に高い普及率を達成した歴史的背景には、米国系宣教師の政治性を活かして日本の支配を相対化しようとした朝鮮人の選択と、それによって生じた宣教師から現地知識人への主導権移行の遅れが大きな要因として働いていたと考えられる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「19世紀東アジア宣教における翻訳と啓蒙―韓日比較を中心に―」は、19世紀の東アジアを舞台として行われたキリスト教宣教師たちの翻訳および啓蒙活動に焦点をおき、韓日比較という視点を導入して、その歴史的意義の解明を試みようとするものである。

中国大陸およびそれを半円型に囲繞する東アジア地域の近代化にとって、キリスト教宣教師たちの果たした役割が大きいことは贅言を要さない。翻訳・出版・教育・建築など、布教にともなって行われたその活動はきわめて多岐にわたり、近代東アジアの文化基盤の形成に寄与したことは、よく知られている。従って、この分野における研究にも一定の蓄積はあり、聖書の翻訳語の成立過程や宣教師の布教活動の実態など、個別事例に即した解明も進んでいる。

しかしながら、本論文のように、19世紀東アジアという時空間を設定し、その時空における宣教師や協力者たちの翻訳および啓蒙活動を検証しながら、朝鮮半島と日本列島における伝統世界から近代世界への言語的文化的変容を、韓日を往還しながら位置づけようとする研究は、これまでなされてこなかった。また、キリスト教宣教が東アジアにおいて果たした役割を、漢字文化圏という俯瞰的視点を持ちつつ、圏域内における地域ごとの固有性に降り立って比較論証する作業も、充分には為されてこなかった。本論文は、こうした点で、この分野の研究に新しい局面を拓くものと評価できる。

本論文は、序章、第一章「Godの翻訳をめぐる宣教師間の用語論争」、第二章「『天路歴程』の翻訳」、第三章「『七一雑報』における言文一致と読者層」、第四章「李樹廷訳『新約馬可伝福音書諺解』の文体」、第五章「ルーミスによる朝鮮人留学生への教育と布教」、終章の全七章から構成される。構成からも了解されるように、本論文には、大きくわけて三つ、すなわち『聖書』や『天路歴程』などの宗教書における翻訳の問題、近代初頭の宗教啓蒙メディアにおける文体の問題、米国人宣教師らによる東アジア宣教戦略の問題という三つのテーマが内包されている。

第一章は、Godの翻訳における日本と朝鮮の差異を、それぞれの言語における「神」概念の相違、宣教師の翻訳態度の分岐を軸に考察し、さらに、漢字に対して仮名とハングルが異なる位置にあることにまで視野を広げて論じている。翻訳・文体・宣教戦略という三つの視点によって、旧来の翻訳論的枠組みを超えた視野を獲得していると言える。

第二章は、バニヤンの宗教寓意小説『天路歴程』の翻訳をめぐって、その朝鮮語訳の原拠テキストが従来の定説であった「文言訳」ではなく「官話訳」であることを文献学的に実証し、その基礎の上に立って、「官話訳」が原拠として採用されたことの意義を解明し、さらに進んで、キリスト教文献の翻訳における書面語と口頭語の問題、文体とジャンルの問題、宣教師の文体意識の問題を論じる。手堅い実証にもとづいた新鮮な仮説の提示と認められよう。

第三章は、『天路歴程』の日本初訳(『意訳天路歴程』)の文体を論じるために、まずそれが連載された明治期のキリスト教啓蒙新聞『七一雑報』の編者と読者の文体意識のずれを検証し、そこから、宣教師の啓蒙戦略と日本の知識階層読者の意識との齟齬を考察する。宣教師と在地知識人の関係が宣教戦略上重要な意義があることは言うまでもないが、それを文体の問題として論じるのは、斬新な視点である。

第四章は、李樹廷による朝鮮語訳福音書の文体が漢字ハングル交じり文であることに着目し、彼の日本滞在の経歴や在日宣教師ルーミスとの関係を明らかにして、朝鮮における宣教において漢字ハングル交じり文がいかなる背景をもって登場したか、それはどのような意味があったかを具体的に考察する。翻訳論・文体論としてのみならず、東アジアにおけるキリスト教宣教戦略を、新たに発掘した史料にもとづき解明した点においても、功績は大きい。

第五章は、第四章で取り上げたルーミスの宣教戦略をさらに追究し、これまで研究されてこなかった書簡から、その実態を解明する。この時期の米国宣教師が東アジアにおける中国・日本・朝鮮をどのように見ていたか、また米国留学斡旋などの活動がどのように行われていたかを知るための貴重な基礎研究となっている。同時に、朝鮮人留学生たちが日本を経由して米国に行き、さらに朝鮮に帰って独立運動の基礎を為したことの意味を、「米国型の近代的主体の形成による日本の相対化」として捉え直し、朝鮮近代史に新たな展望を拓いたことも、特記されてよいであろう。

上記のように、本論文は、韓日双方にわたる文献を用いて、翻訳・文体・宣教戦略という三つの視点から近代東アジアにおけるキリスト教宣教の歴史的意義を解き明かしたものであり、その着実かつ新鮮な研究は、今後の発展を期待させるに十分なものと思量される。また、本論文のうちの多くの部分がすでに学会誌等に発表され、その研究が韓日双方の学界から注目されつつあることも評価される。

審査委員からは、三つの視点の結びつきが必ずしも明確ではないこと、文体を支える社会階層の規定にやや図式的な面が見られること、宣教師の活動の歴史的位置づけについて不十分な記述があることなどの指摘があった。また、テキスト引用の処理において不適切な場合があること、論述のスタイルが最初と最後では統一が取れていないことなどの指摘もあった。ただし、これらの指摘は、今後の課題として生かしうるものであって、本論文の功績を本質的に損なうものではないことも、全員一致で確認された。

したがって、本審査委員会は、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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