学位論文要旨



No 125226
著者(漢字) 南,玲子
著者(英字)
著者(カナ) ミナミ,レイコ
標題(和) スタンダールの《民族学》 : 《人間研究》から《文学的創造》へ
標題(洋)
報告番号 125226
報告番号 甲25226
学位授与日 2009.07.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第927号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,啓二
 東京大学 教授 石井,洋二郎
 東京大学 教授 宮下,志朗
 東京大学 准教授 森山,工
 中央大学 教授 小野,潮
内容要旨 要旨を表示する

スタンダール(本名アンリ・ベール)の作品には《国民性》への言及が非常に多い。スタンダールとヨーロッパの諸国、諸都市を表題に掲げた研究は雑誌論文からモノグラフィーまで枚挙に暇がなく、近年はアプローチも多様化している。だが《国民性》に関する発言の一定量が、彼が現地に足を運んで行った《観察》を自ら《分析》した成果である点に着目し、その活動が作家の活動とどのように結ばれているのかを解明する研究はなされてこなかった。本研究は《民族学》を切り口としてその欠落を埋め、スタンダールにとっての《人間研究》と《文学的創造》の意味を考究するという新しい試みである。

ルネサンス以来身体研究と精神研究に分裂していたフランスの《人類学》に統合の動きが生じ、全学問の争点として学者たちの注目を集めたのは18世紀末のことである。当時は国立学士院の最重要部門に集ったイデオローグの影響下に、人間の心身の関係に基づく《人間研究》という新パラダイムが学問世界を席巻していた。この学問再編の時代に出現した人間観察者学会にも多彩な顔ぶれが揃い、イデオローグとは対立しつつも彼らと同様に《事実》と《観察》を重視しながら《人類学》の構築を模索した。そうした《人間研究》が広く議論の的となり進展をみた1800年前後は、フランス人類学のいわば黎明期に当たる。他方、ヨーロッパで《国民》の概念が強く意識されるようになったのは18世紀、特に大革命以降である。同世紀末にスイスで新語《民族学》が提案されるが、フランスでも世紀後半から、《習俗》や慣習に注目して地域性ないし《国民性》を《観察》、記述する動きが起きていた。1748年に出版された『法の精神』は、18世紀的な《国民性》研究の典型として、その後の《人間研究》に多大な影響を及ぼした作品である。二次資料の多用や政治的妥協等の難点はあるが、吟味された《事実》、有機的かつ知的な構成、対象地域の広さ、テーマの多様性、相対主義の精神を特徴とする同書は、民族学に向かって開かれた総合的《国民性》研究と呼ぶことができる。そして著者モンテスキューが《国民性》を分析する際に《精神因》と並んで利用した《自然因》、特にその中核をなすクリマ理論の流行により、その後半世紀以上にわたって、《国民性》を研究する者は『法の精神』のクリマ理論に対する立場の表明を迫られることになった。『法の精神』の《国民性》研究の方針を受け継いだ例としては、スタール夫人の『文学論』が挙げられる。モンテスキューやスタール夫人の実証性の尊重と体系の追求、そして何より《国民性》に関する総合的研究に対する意欲には、《人類学》と同じく黎明期にあった《民族学》の息吹が感じられる。

1783年にグルノーブルで生まれたアンリ・ベールは、祖父と中央学校の教育を受けて将来の《人間研究》の素地を作る。パリで現実の厳しさを知ると、彼は作家の名声、女性に対する成功、社会での出世という三種類の《幸福》を求め、大量の書物に向き合うなかで自分に必要な情報や方法を取捨選択するための腕を磨いていく。1803年には「フランス最高の詩人」になる準備として「人間を知ること」を自身の目標に掲げているが、アンリ・ベールが飽かず繰り返していた《情熱》と《性格》の研究と描写は、革命後の世界にふさわしい喜劇の登場人物を創造するため、そして同時代の観客を喜ばせるための作業だった。1804‐1805年の冬に読んだトラシーの『イデオロジー提要』は、青年の思想の根底にあった経験主義的方法の有効性を再認識させ、科学への信頼、真理への愛、誤謬への警戒を特徴とする彼の《人間研究》に新たな道を拓く。さらにイデオロジーの「人間学」を「自己の学問」と読み替えることで、彼は学問的《人間研究》のなかに、自己探究と《幸福》追求の場所を確保することにも成功した。

上京して自国における首都と《地方》の対立に目を留めたアンリ・ベールは、《地方》と距離を置く一方、パリのサロンに集う上流階層を《観察》し、「最高度の文明」を誇るフランスの《国民性》は虚栄心だと断定する。なおドイツ長期滞在を経験する前に読書に頼って思い描かれたヨーロッパ諸国民の像は、概ね偏見の域を出ない。1803年以降は、《習俗》が彼の学問的考察の対象に昇格する。「汝自身を知れ」という銘の重視やイデオロジーの直接的、間接的影響から見て、アンリ・ベールも《人類学》、《民族学》の黎明期の脈動を遅まきながら共有したと考えられる。二十代の《人間研究》のテーマや関心との連続性が認められる1817年出版の『イタリア絵画史』で著者の相対主義的主張を支えるのは、《人類学》や《民族学》の学説である。この著者はクリマ理論と気質理論を結んでヨーロッパの諸国民像を提示するが、後年の『恋愛論』とは異なり、他人による《観察》と《分析》の結果を自己流の言説に応用したに過ぎなかった。

ところでアンリ・ベールは1800年に始まるイタリア滞在時から既に、通過する町の地勢や《習俗》の記録を残していたが、そこに学問的な方法論の影響は見られなかった。その後、故郷やマルセイユでも《観察》への意欲は空回りする。彼が旅行の技術に開眼したのは、民族学的現地調査の先駆者ヴォルネーの『シリア・エジプト旅行記』をドイツで読んだ1807年頃のことである。約二年を過ごしたブラウンシュヴァイクでは深刻な《人間嫌い》にも拘わらず意欲が持続し、こと恋愛に関する《習俗》に限れば、アンリ・ベールはドイツ人を十分に《観察》したといえる。1808年春に執筆された「ブラウンシュヴァイク旅行記」は、この町に関する総合的研究の試みである。自身の《観察》に基づいて執筆されている点が高い評価に値する反面、ドイツ語能力の未熟さ、主観の支配、《習俗》という概念の混乱、唐突な執筆中断という結末は惜しまれる。

アンリ・ベールは1807年にスタール夫人の『コリンヌ』を読み、イタリアへの思いを募らせた。1810年以降、彼は「イタリア的性格を研究するため」の旅行の準備に取りかかる。1811年秋に敢行された旅の記録である「イタリア周遊記」によれば、《観察》への意欲は出発当初から高揚していたものの、再会したピエトラグルーア夫人への恋に翻弄された結果、彼は学問的な《観察》から遠のいたことを自覚する。しかし実際のところ、彼は愛人を情報提供者としてミラノ社交界における恋愛作法の《観察》を蓄積していた。1811年の経験や考察が多く利用された『1817年のローマ、ナポリ、フィレンツェ』には、語り手「ド・スタンダール氏」にヴォルネー的な現地調査者の姿を認めることができる。この作品は、ヨーロッパ諸国の《国民性》が織りなす座標系にイタリアを位置付けた、ヨーロッパ人による《民族学》的旅行記なのである。

1822年に出版された『恋愛論』は、主題に《国民性》を交差させる仕組みを『法の精神』、『文学論』と共有しており、議論における《精神因》の存在感や、《民族学》、《人類学》といった学問の言説で《国民性》研究を補強する試みであることから見ても、黎明期の《民族学》の延長線上にある。その一方、著者自身による《観察》の成果が議論の中核をなしている点で、『恋愛論』は先達の作品とは一線を画す。『恋愛論』第2編ではフランス、イタリア、イギリス、スペイン、ドイツから合衆国、中世プロヴァンスやアラビアまで、密度に差はあれ、大規模な比較恋愛論が展開される。諸国民の恋愛の特徴の比較対照をとおして「我々」の恋愛を見直すことに第2編の存在意義があるとスタンダールは述べているが、《他者》との関係において自己の本質を見つめるという方針は、《民族学》的研究の問題意識とも重なるものである。同時代の学問を意識し、《他者》に対する客観的な分析と自省を反復しながら執筆された『恋愛論』、なかでも同書第2編は、先駆的な《民族学》の書物と見做すことができる。

スタンダール自身の失恋経験が根底にあるとはいえ、その知的形成過程から考えて、『恋愛論』で繰り返し表明される学問的野心は軽視すべきものではない。『恋愛論』の著者が執着する「結晶作用」という新語は、学問書の成立に不可欠な用語であると同時に、思い出を《告白》に収束させないための仕掛けではないか。スタンダールは思索をとおして学問の視点から《事実》を描写する《哲学者》の才能と、表現によって読者を喜ばせる《詩人》の才能とが二種類の異なる能力であることを強く意識していた作家である。《詩人》には情熱的な人間という意味もある。《詩人》の感性を持つ彼が『恋愛論』に着手する際に敢えて学問書を選んだ理由は、失恋の治癒に《哲学者》の力を必要としたからだろう。『恋愛論』出版後に書かれた「ザルツブルクの小枝」と「エルネスティーヌ」は、「メティルドの小説」を頓挫させた「過度の透明性」を彼が克服し、《人間研究》の学問書を経て小説に向き合うようになる過程を示していて興味深い。二編の逸話には『恋愛論』の《民族学》も巧みに取り込まれる。『恋愛論』とその派生的逸話には、《哲学者》と《詩人》の相克を経て《文学的創造》に向かう作家の姿が映し出されているのである。

スタンダールは、小説家となってからも《哲学者》と《詩人》の葛藤から自由になることがない。彼は両者の役割を兼任しながら、知性と感性を総動員して小説世界を築く作家である。イタリア・ルネサンス期の写本に基づいて発表された『イタリア年代記』と呼ばれる中・短編の分析からも、そのことは裏付けられる。それではスタンダールの小説作品、とりわけ同じ写本から出発した『パルムの僧院』には、彼が《哲学者》として蓄積してきた人間に関する知識、特に《民族学》の成果がどのように反映されているか。それは今後取り組むべき大きな課題である。

審査要旨 要旨を表示する

南玲子さんの学位請求論文『スタンダールの《民族学》―《人間研究》から《文学的創造》へ― 』は、作家スタンダールの内で常に関心の中心を占めていた、「人間の理解」という問題が、いかに同時代の民族学的、人類学的関心と密接に結びついているかを論じた、野心的論考である。本論文で筆者は、小説としての処女作『アルマンス』(1827)を発表する以前、スタンダール=アンリ・ベールが、『イタリア絵画史』(1817)、『恋愛論』(1822)をはじめとする様々なテクストにおいて、フランスを含むヨーロッパの様々な地域の国民性の分析を試みようとしていた、という事実に着目し、経験や事実を重視するスタンダール=アンリ・ベールの方法論と、黎明期にあった当時の民族学的・人類学的方法論の類似性を、膨大な資料にあたって説得的に示した。本論文は、通常、文学プロパーの研究対象となることの多いスタンダールの作品を、同時代の知の動向の中に位置づけようと試みた、完成度の高い、地域文化研究の佳作であると言うことができる。

本論文は、「序論」と、それに続く、「第I部 フランス人類学・民族学の黎明期」、「第II部 スタンダールによる《人間研究》の原点」、「第III部 方法としての旅行」、「第IV部 『恋愛論』に見る《民族学》の可能性」の四部から構成されている。

序論で、論文全体の意図と構成が示された後、第I部では、スタンダールの問題意識の背景となった、1800年前後の、人類学・民族学の動向が述べられる。筆者は、2002年に刊行されたJean-Luc Chappeyの博士論文、La Societe des Observateurs de l'homme (1799-1804)に従いながら、この時期のフランスにおける人類学・民族学の活動が、従来言われてきたように、総裁政府下で国立学士院第2部門の中核をなしていた、デステュット・ド・トラシーら、いわゆるイデオローグたちだけによって担われたのではなく、イデオローグたちと時には対立した、ジョゼフ=マリー・ド・ジェランドら、「人間観察者協会」の会員らも、重要な役割を果たしていたことを明瞭に示した。この第I部ではまた、スタンダールと特に関わりの深い、モンテスキューとスタール夫人による国民性分析についても論じられている。

続く第II部から第IV部が、スタンダールにおける人類学・民族学的関心の分析にあてられる。

まず第II部では、やがて「国民性」の研究へと発展していく、スタンダールの人間研究の原点が詳述される。冒頭で、医師であった祖父アンリ・ガニョンが孫アンリに及ぼした影響の可能性について検討されたあと、人間研究のために厳密な方法論を模索していたスタンダールが、ついに、彼に決定的な影響を与えることになる、デステュット・ド・トラシーの『イデオロジー提要』及び『論理学』の二作と出会うまでの経緯が詳述される。

第III部では、スタンダールの人間研究の中で、「旅行」の果たす役割が論じられる。筆者によれば、スタンダールに、人間観察における旅行の重要性を教えたのは、イデオローグの一人であったヴォルネーの旅行記であった。ヴォルネーは、今から200年以上前に、既に「参与観察」型の現地調査を行った人物であり、スタンダールは、彼の『シリア・エジプト旅行記』や『合衆国のタブロー』などの著作から、大きな影響を受けたという。

この第III部ではまた、スタンダール自身が、フランス国内や、ドイツ、イタリアへの滞在型「旅行」を通じて、どのような観察と記録を実現しえたかが、具体的な作品の分析を通じて示される。

最終の第IV部は、1822年に出版された『恋愛論』の分析にあてられる。従来、この本は、恋愛の様々な型や、恋愛の発生とその心理が叙述される第1部が注目されることが多かった。しかし本論文では、その第2部が主として取り上げられ、その中心を占める、風土や気質の違いによる恋愛の諸相の記述が、この時期のスタンダールの、「民族学」の集大成として示される。

本論文はまた、この同じ『恋愛論』の改訂版に付け加えられた「ザルツブルクの小枝」と「エルネスティーヌ」の二つの小編にも注目し、その中に、スタンダールの民族学的関心が、ついに、文学的創造へと発展していく契機を見て取っている。

以上のように、本論文は、『恋愛論』までの、スタンダールにおける民族学的関心を、様々な角度から、詳細綿密に検討している。

本論文の特筆すべき長所の第一は、従来、少なくとも日本においては、ほぼ常に、文学プロパーの研究対象とされてきたスタンダールの作品を、より広汎な、同時代の思潮の中に置き直そうとした積極的姿勢である。このことによって、これまで、漠然と「人間の理解」への関心としてのみ捉えられてきたこの時期のスタンダールの問題意識が、黎明期の人類学・民族学の問題意識とも通底する、より深い、時代関心に根ざしたものであることが示された。

本論文の第二の長所は、以上の視点からスタンダールの作品を論じる際の、筆者の論述の手堅さである。本論文に誤字・脱字・表記の誤りなど、形式的欠点がほとんど見られないことについては、複数の審査員から言及があったが、資料の分析の的確さ、記述の明瞭さまで含め、本論文はきわめて完成度の高いものとなっている。

審査員の評価はいずれも好意的なものであった。以下、審査員から提出された疑問点のいくつかを列挙する。

1)論文中に、「グローバル化」と、一律の「規範化」を同一視している箇所があるが、この二つの事柄は区別すべきではないか。

2)論文では、スタンダールを含めた、18世紀末・19世紀初頭の、黎明期の人類学・民族学が、現在の人類学・民族学に断絶なくつながっているように叙述されているが、実際にはその間に、様々な断絶が存在しているのではないか。

3)相対主義者であるはずのスタンダールにおける、地方に対するパリの特権視については何らかの説明が必要なのではないか。

しかし、これらの疑問点も、本論文の質の高さを本質において損なうものではない。また、審査員からの様々な質問に対する筆者の回答も、ほぼ満足のいくものであった。

上述の様々な長所によって、今後本論文が、多くの研究者によって参照されるべき、基本的文献の一つとなることは間違いない。

以上から、本審査委員会は、全員一致で、本論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定した。

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