学位論文要旨



No 125230
著者(漢字) 松永,幸子
著者(英字)
著者(カナ) マツナガ,サチコ
標題(和) 近世イギリスの自殺把握にみられる人間・生命・モラリティの史的展開 : 自殺論争と王立人道協会(Royal Humane Society)の誕生を中心に
標題(洋)
報告番号 125230
報告番号 甲25230
学位授与日 2009.09.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第157号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川本,隆史
 東京大学 教授 今井,康雄
 東京大学 教授 小玉,重夫
 東京大学 教授 金森,修
 東京大学 教授 佐藤,学
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、近世イギリスにおいて激烈な様相を呈した自殺論争を分析し、そこに見られる人間・生命・モラリティの観念を抽出することを試みるものである。また、その自殺論争の最中に設立されたイギリス初の自殺防止協会ともいえる王立人道協会(Royal Humane Society、以下RHSと略記)について、特にその誕生にさいし、背景に設立者のどのような思想があったのか、具体的活動内容、社会的評価も含めて詳らかにする。この作業により、現代における自殺把握を成立させた歴史的基盤や、そこにどのような自殺・生命把握の史的変容、ないし重層が前提されていたのかを抽出することを試みる。そこでは、自殺把握の変容に伴い、"self" , "life" , "morality", "(in)sane"といった概念との関連で人間観(ひいては人間形成観)や生命観・モラル観の近代的特徴と構造が、家族や教育や医学的配慮との関連も含め明らかにされ得るだろう。

自殺論の史的展開をことさらにイギリスに辿ろうとするのは、一つには、上述のような自殺論争の華々しさの故にイギリスが「自殺大国」と呼ばれ、また自殺が「イギリス病」と呼ばれていた事実に由っている。だがそれだけではなく、17・18世紀イギリスにおける自殺論争の顕著な盛況という理由の他に、「自殺(suicide)」という言葉の由来にも理由がある。というのは、"suicide" はイギリスをその発祥の地とするものだからである。17世紀以前は"self-murder"、 "self-killing" など、自殺が「殺人」であることを直接表現する語が使用されていた。ところがそこに、必ずしも罪責性ある殺人のみを含意しない"self-homicide" という語が、最初の自殺擁護論ジョン・ダン『ビアタナトス』(1647年)によって使用され始める。これを継いで、1651年にウォルター・チャールトンによって最初に使われたとされているのが、"suicide"なのであり、この言葉は18世紀以降自殺を言い表す一般的な言葉として普及することになった。したがって、「自殺(suicide)」観の歴史を考察しようとすれば、その発祥の地における17・18世紀という時点での言葉の変遷が背後に有していた意味を読み取り得る分析がまずは必要とされるのである。

そこで、論争に関わる自殺言説を一まとまりの史料として収集・分析し、そこに見られる人間・生命・モラリティの観念を抉り出したい。具体的作業としては自殺論を擁護論・批判論・医学論に分類し、それぞれの系譜における自殺把握の論点を内在的に明らかにしつつ、同時にRHSについては、設立者の著作や年次報告書、更には当時の代表的な新聞や雑誌記事等の検証を行い、全体としての自殺・人間把握の史的変容構造の解明を試みる。

第1章では、イギリス初の自殺防止協会である王立人道協会(Royal Humane Society)の全容の解明を試みた。本協会がいかなる意味を持って誕生し、存続したのか、人間・生命把握について社会にいかなる影響を与えたのかを解明すべく、設立趣意書、王立嘆願書、協会での説教、年次報告書、新聞記事などの詳細な分析をおこなった。これまで自殺との関係では殆ど注目されてこなかった本協会は、じつは設立当初から自殺者救助が目的とされていたことも判明し、イギリスで初めて人工呼吸法を実践し、普及させ、生命保存を前提に生命の枠を広げ、生の価値をテクノロジーの土俵の上で宣揚する自覚的なムーヴメントであったことが確認された。

第2章~第4章では、RHS設立の背景にあった自殺論争について、擁護論、批判論、医学的自殺論に分けて分析した。第2章では、自殺把握のキリスト教的伝統を概観したうえで、まず、イギリスで最初の自殺論『自殺に対抗する生命の保存(Lifes Preservative against Self-Killing)』(1637年)を検討した。アウグスティヌス、トマス・アクィナスの自殺思想の流れの上で、ジョン・シムは初めて体系的な自殺論を著した人物であると言われている。その後の17・18世紀に展開された激烈な自殺論争の前奏ともいえる初期自殺論は、全体としては自殺を批判しつつも、「例外的自殺(免責される自殺)」についても詳細に述べており、また、食養生の重要性についても説くなど全体として養生論的色合いも含んでいた。そのような点で18世紀に登場する決定的な「自殺批判論」とは様相を異にしていたことが明らかになった。

続いて擁護論であるが、最初の自殺擁護論として先陣を切ったのは、英国国教会牧師ジョン・ダン(John Donne)による『ビアタナトス(Biathanatos)』(1647年)である。この著書によりダンが最も論証しようと試みたことは、「全ての自殺が必ずしも罪であるというわけではない」ということであった。ダンは、一般的に自然法の基盤とされている「自己保存(Selfe-preseruation)」概念を基礎に、その本質は善への自然な情動と嗜好にほかならないから、善を信じ希求した自殺であれば自然法に反しているとは言えないと主張した。その場合「自己」は自殺によって保存される。個人は「彼自身の帝王(Emperor of himselfe)」なのである。この二つの論点、つまり保存されるべき「自己」とは何か、生命の所有権は誰に属するか、をめぐってその後激しい論争が繰り広げられることになった。自殺擁護論の系譜には、チャールトン(Walter Charleton,1619-1707) 、ブラウント(Charles Blount,1654-1693)、ギルドン(Charles Gildon,1665-1724)、ヒュームらが名を連ねる。これまでギルドンは殆ど注目されてこなかったが、彼の論が自殺論争勃発の引き金になっており、その後、自殺批判論者に徹底的に攻撃されることからも自殺論争において重要な人物の一人といえるだろう。また、ヒュームの道徳論・教育論の分析により、自殺擁護論者である彼が、教育と理性の関係において、自殺批判論者とは決定的に異なる考えを持っていたことも明らかになった。

自殺は犯罪だという当時の「常識」を打ち破って登場した自殺擁護論に、牧師たちを中心とした自殺批判論者・モラリストたちは激しく動揺した。ここに自殺大論争が勃発する。そこで第3章では、自殺擁護に対抗する形で登場した自殺批判論を検討した。国教会牧師アダムス(John Adams, 1662-1720) 『自殺論(An Essay concerning Self-Murther )』(1700年)を筆頭に、聖職者ら多数の批判論者が反撃を開始する。そこでは主に、「自己保存」は生命の保存にほかならないこと、「人間の生命(Humane Life)」 の 「Propriety(所有権・管理権)あるいは支配権(Dominion)」は神に属し人間には使用権だけが属していることが主張されると同時に、自殺と「狂気」・「モラル」の関連、そして「教育」との関連が議論されたことが明らかになった。

しかし、このような擁護論者・批判論者の論争の挟間を縫って進行し、かつこれら論争を規定した事態、それは自殺者の検視において「自己殺害」ではなく「心神喪失」と判定する事例が増加していったという事態であった。同時に論争の動向を規定するファクターへとせり上がってきたのは医師たちだったのだ。そこで第4章では、17世紀以前の医師たちのメランコリー論を踏まえたうえで、18世紀当時の医師たちの代表的な自殺論について検討した。その結果、自殺が、メランコリー把握の変化を通して、悪魔憑きや体液論的規定から解き放たれて神経病による規定へとその様相を変容させていった過程が明らかにされた。そこでは、悪魔への対処と神への信仰、食餌療法などの養生論的要素が払拭され、自殺が神経病の一種とみなされるようになった。ここにいわば自殺の医学化が完結した。

このような論争の流れの上で設立されたのが、RHSなのだ。そこで第5章では、RHSにより具現化されたと考えられる自殺論争の延長上の議論を見届けるためにも、協会の思想を設立者で医師コーガンと、生涯を通じてRHSに貢献した牧師グレゴリーを中心にして検討し、その他協会の記念祭で説教した牧師たちの論も取り上げた。本協会は自殺論争・自殺把握において対立していたはずの牧師と医師の協力によって運営された。すなわち、自殺を「狂気」(=「心神喪失」)のなせるわざとみなす医学的自殺論をベースにそこに自殺行為それ自体を「大罪」(=「自己殺害」)とみなす自殺批判論が癒着した枠組みが出現し、それを体現したものがRHSだった。イギリス初の自殺防止協会ともいえるこの協会設立の立役者である医師たちにおいては自殺は「過剰な(尋常でない)情念」の帰結と認識されており、自殺防止の手段として、情念の統制・精錬としての教育のあり方・改善に期待がかけられていた。この点で、自殺抑止のために情念を制御し共感・正義・慈愛等を教える学校教育の必要性を主張する牧師らが、自殺抑止や自殺未遂者の「改心」を促すRHSの事業に積極的に関わっていったのである。この癒着による枠組みが、自殺をすぐれて精神衛生の問題とみなすその後の自殺防止対策の源流を形成することになる。

以上により、近世イギリスにおける自殺論の主要な柱が「自己保存」・「狂気」・「モラリティ」であったこと、そしてこの流れの上に誕生したイギリス初の自殺防止協会の思想や活動をも通した生命把握の変容とそこに見られる人間・生命・モラル把握の史的展開が、自殺抑止のための家族・教育・治療論の具体相とともに明らかにされた。

審査要旨 要旨を表示する

本研究は、17世紀から18世紀にかけてのイギリスにおいて激烈な展開を見せた「自殺論争」を分析し、そこに見られる人間・生命・モラリティの観念を抽出することを企図するものである。さらにその論争の最中に設立された国内初の自殺防止協会ともいうべき「王立人道協会」(Royal Humane Society――以下RHSと略記)の設立を促した思想的背景や具体的活動内容を、当時の社会的評価にまで踏み込んで解明することにより、考察対象および方法の面で思想史と社会史に相わたる作品となっている。

本論文は序章および結章を含む7つの章および表・文献リストより構成される。序章では、研究の課題と方法が定位され、先行研究および史料についての予備的考察がなされる。第1章では、RHSの全容が解明され、この協会が設立当初から自殺者救助を目的としており、イギリスで初めて人工呼吸法を実践しその普及を図ることで、生の価値をテクノロジーの土俵の上で宣揚する自覚的なムーヴメントであったことを確認する。

第2章~第4章では、RHS設立の背景にあった自殺論争について、(1)擁護論、(2)批判論、(3)医学的自殺論の順に検討が加えられる。まず自殺擁護論の系譜をたどった第2章では、自殺把握のキリスト教的伝統を概観したうえで、イギリス初の自殺論であるジョン・シムの『自殺に対抗する生命の保存』(1637年)、最初の自殺擁護論であるジョン・ダンの『ビアタナトス』(1647年)、さらにヒュームの「自殺論」(1783年)が彼の道徳論・教育論との関連において精査される。第3章では、アダムスの『自殺論』(1700年)を嚆矢とする自殺批判論の動揺と反撃の実相が、「家族」や「教育」(Education)というキー概念に注目しつつ記述される。第4章では、17世紀以前の医師たちのメランコリー論を踏まえながら、18世紀の医師たちの代表的な自殺論について検討し、自殺が悪魔憑きや体液論的規定から解き放たれて神経病による規定へとその様相を変容させていった過程が活写される。

第5章では、自殺論争の延長上に位置するRHSの思想史上の位置価を見定めるべく、設立者で医師コーガンおよび牧師グレゴリーを中心にして協会の思想を精査する。彼らにおいて自殺は「過剰な(尋常でない)情念」の帰結と認識されており、情念の統制・精錬を旨とする「教育」の改善が自殺防止の手段として有効であると評価されていた。こうした枠組みが、自殺をすぐれて精神衛生の問題とみなすその後の自殺防止対策の源流を形成することになったのである。結章では、論点の総括と今後の課題が述べられている。

以上のように、近世イギリスにおける自殺論が「自己保存」・「狂気」・「モラリティ」という論争軸をめぐって展開されたことを本研究は明らかにしえた。諸史料の扱いにいくぶんかの精粗のばらつきが見受けられるものの、「自殺論争」の思想とRHSの実践との吟味を複数の《ユニット・アイデア》を軸に接合しようとする方法的意図は壮大であり、これまでの思想史・教育史の空白を埋める作業として高く評価されてよい。その点で、今後の教育研究に少なからぬ貢献をなすことが期待される。以上により、博士(教育学)の学位論文として十分な水準に達しているものと認定した次第である。

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