学位論文要旨



No 125248
著者(漢字) 多田,洋平
著者(英字)
著者(カナ) タダ,ヨウヘイ
標題(和) 現場殻成長実験に基づく冷湧水性二枚貝シロウリガイの生活史特性
標題(洋) Life history characteristics of the cold seep bivalve Calyptogena by means of in-situ shell growth experiment
報告番号 125248
報告番号 甲25248
学位授与日 2009.09.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5431号
研究科 理学系研究科
専攻 地球惑星科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 大路,樹生
 東京大学 教授 棚部,一成
 東京大学 教授 茅根,創
 東京大学 教授 川幡,穂高
 海洋研究開発機構 主任研究員 藤倉,克則
内容要旨 要旨を表示する

マルスダレガイ目オトヒメハマグリ科二枚貝のシロウリガイ類(Calyptogena spp.)は,化学合成細菌を一次生産者とする化学合成生態系の主要構成種として知られている.シロウリガイ類は鰓に硫黄酸化細菌を共生させて,堆積物中に伸ばした足の表面から硫化水素を摂取する特異な生活様式を持つことが先行研究によって明らかにされている.しかしながら,自然状態における生態を現地観測することが困難なことから,成長様式や生殖活動時期などの生活史に関わる経時的な生態情報はほとんど明らかにされていない.本研究の目的は,新たに開発した非接触式貝殻染色法と現場飼育装置を用いて自然状態でのシロウリガイの成長速度・寿命を求め,シロウリガイ類の成長戦略に関する生態学的特徴を明らかにすることにある.化学合成生態系におけるバイオマスは,局所的には浅海域における光合成生態系のそれを数十倍も上回っており,微生物の非常に高い一次生産量によって支えられていることが予想される.しかしながら,化学合成生態系内における一次生産量や消費量の変化は,経時的な議論が困難であった.貝殻や二枚貝軟体部の成長速度変化を求められれば,化学合成生態系内における物質生産・消費量の変化を経時的に見積もることの一助となると考えられる.

シロウリガイの貝殻成長速度を推定する目的で,本研究では潮間帯で一般的に用いられている非接触式貝殻染色法を,深海底において行う手法を開発した.相模湾初島沖のシロウリガイ(C. soyoaeとC. okutanii)コロニーにおいて,密閉型培養装置内でカルセイン蛍光色素を用いて殻を染色して目印をつけ,一定期間経過後に標本を回収した(図1).得られた標本の貝殻断面を走査型レーザー顕微鏡下で観察を行い,期間中の成長量を求めた.このように新たに開発した手法によって,シロウリガイの現場染色に初めて成功した.

この方法を用いて,270日間の長期飼育した23標本の断面に,いずれも明瞭な蛍光縞を確認することができた.それぞれの個体について,270日間の成長量と殻サイズとの関係から,Walfordの定差図により,成長式のパラメータを求め,これまで提唱されている絶対成長曲線に当てはめたところ,殻の成長様式はvon Bertalanffyの成長曲線で最も良く近似できることが分かった.この成長曲線に当てはめて,得られたシロウリガイ標本(殻長42.2 ~ 106.6 mm)の年齢を推定したところ,比較的若年齢(5 ~ 25 齢)の個体であることが分かった.この事実から,この場所で確認された最大殻サイズ(約120 mm)に到達するまでの年齢(寿命)は約60年ときわめて高いことが示唆された(図2).

本研究によって,用いた手法を統一することで,深海性のシロウリガイ類と浅海性二枚貝類の成長速度を直接比較することが可能となった.シロウリガイは幼齢期には潮間帯に生息する一般的な二枚貝類と似た速度で殻を成長させるが,最大殻長(120 mm)に達するのは60齢と,潮間帯の多くの二枚貝種と比べて遙かに長寿命である.

様々な手法で求められた他の化学合成細菌共生二枚貝類の成長曲線と比較すると,今回得られた標本は,従来考えられてきた「急速に殻を成長させ,寿命は10 ~ 20年」とは異なり,「長寿命で,比較的緩やかな成長速度」を示し,多回産卵型の戦略を取っていることが考えられる.本研究を行った相模湾初島沖では,定点観測によって年間に10回以上のシロウリガイによる放精・放卵現象が確認されており,生殖活動に多くのエネルギーを費やしていることが伺える.本研究により,深海の化学合成生態系を構成する二枚貝類の繁殖戦略や寿命などについて信頼できる情報が得られ,化学合成生態系における物質循環に関わる基礎資料や化石シロウリガイ類の生活史復元のための糸口が得られた.

個々のシロウリガイが何齢から放精・放卵を行うのかは,同種の適応・放散戦略を議論する上で不可欠な情報である.二枚貝類は生殖活動を行う際に貝殻の成長を停止させることで,成長障害輪を形成する.シロウリガイ類は水温上昇を引き金として生殖活動を行うため,障害輪前後の水温変化を復元できれば,貝殻より生殖活動の履歴を復元することが可能となる.本研究では相模湾初島沖の底層水及び間隙水の安定酸素同位体比(o(18)O値)を分析することで,湧水がより多く海水と混合すると,周辺海水は高水温・低o(18)O値を示し,貝殻のo(18)O値を低下させることを明らかにした.殻の断面に関して高精細微量同位体分析を行った結果,シロウリガイの成長障害輪直前で殻のo(18)O値は大きく低下しており,水温上昇を引き金とした生殖に伴う成長障害輪を認定することに成功した.このことから,様々な齢の個体に関して殻断面の連続o(18)O値分析を行うことで,生涯を通じた生殖頻度の変化を追跡できる手段が得られた.

図1.貝殻染色用現場培養装置の概観.トリガーを引くとシリンジに取り付けた針が飛び出して水風船を破裂させ,染色液が拡散する.

図2.実験期間中の貝殻成長量と殻長から求めた成長曲線.横軸tは貝の年齢を,縦軸Ltは時間tにおける貝の殻長をそれぞれ示す.計算で求められた予想最大殻長は119.9 mmで,実際に初島沖にて確認されている大型個体のサイズと整合的である.

審査要旨 要旨を表示する

本論文はプレート境界付近の冷湧水湧出域に特徴的に分布する化学合成細菌を一次生産者とする化学合成生物群集の主要構成種であるシロウリガイ類の生活史特性を考察したものである。

本論文は4章からなる。第1章では、海洋底熱水噴出孔や冷湧水湧出域、とくに海洋研究開発機構の長期観測ステーションがある相模湾初島沖の冷湧水サイトに分布するシロウリガイ類の生息環境、分類、食性、生殖行動、および成長に関する先行研究のレビューがまとめられ、シロウリガイ類の生活史解析に対しての現場長期成長実験の意義が述べられている。

第2章では、潮間帯で一般的に用いられている非接触式貝殻染色法を深海生貝類に適用するために開発された密閉型培養装置の概要と、その適用結果が述べられている。学位申請者は、海洋探査機を用いて、この装置を初島沖冷湧水サイトのシロウリガイ類(Calyptogena soyoaeとC. okutanii)コロニーに設置し、装置内でカルセイン蛍光色素を用いて生貝の殻を染色した後、一定期間経過後に標本を回収した。得られた標本の貝殻断面を走査型レーザー顕微鏡下で観察した結果,染色後生理的なストレスである成長障害輪を形成せずに殻を成長していることが確認され、非接触式貝殻染色法が深海生貝類の成長解析に有効であることが実証された。

第3章では、第2章で述べられた手法を用いて,初島沖冷湧水サイトで行われたシロウリガイ類の270日間にわたる長期成長解析結果が述べられている。長期飼育後回収された23個体の殻断面に認められた成長データに基づき,Walfordの定差図により成長式のパラメータを求め、これまで提唱されている絶対成長曲線に当てはめたところ、殻の成長様式はvon Bertalanffy曲線で最も良く近似できることが示された。この成長曲線に当てはめて、上記サイトで確認された最大殻サイズ(約120 mm)に到達するまでの個体の年齢を求めた結果、約60年ときわめて長いことが示唆された。また、回収されたシロウリガイ標本は殻長42.2 ~ 106.6 mmで,比較的若年齢(5 ~ 25 齢)であることが分かった.

第4章では、初島沖冷湧水サイトで採集されたシロウリガイ個体の貝殻の安定酸素同位体比分析結果がまとめられている。貝殻中の同位体比は1.25‰から3.11‰の間で変動し、とくに強い成長障害輪のある場所で著しく軽い値(約1.25‰)を示すことがわかった。このような急激な酸素同位体比の変動は、約4℃の海水温の上昇、もしくは約30PSUの塩分濃度の低下で生じるが、生息場所の堆積物中の間隙水と低層水の塩濃度の年変動幅は3PSU程度であることから、貝殻中の急激な酸素同位体比の低下は冷湧水の活動に伴う水温の急激な上昇によってもたらされたと解釈された。初島沖サイトのシロウリガイ類は水温の上昇に応答して年間に10回以上の放精・放卵を行うことが確認されていることから、酸素同位体比の低下を伴う障害輪は放精・放卵によるストレスを記録している可能性が強く示唆された。

本論文の独創性は,非接触式貝殻染色法と密閉型培養装置を組み合わせた現場成長追跡実験によって、これまで未解明であったシロウリガイ類の生活史特性が長寿命、比較的緩やかな成長速度,多回産卵型の繁殖によって特徴づけられることを世界で初めて明らかにした点にある。本研究の結果、化学合成生態系における物質循環に関わる基礎資料が示されるともに、化石シロウリガイや他の現生・化石化学合成貝類の生活史復元のための糸口が得られた。

なお,本論文の第2,3章は藤倉克則、北里 洋、小栗一将、および棚部一成との共同研究であるが,論文提出者が主体となって解析し考察を行なったものであることから,論文提出者の寄与が十分であると判断する。

これらの点を鑑み、審査委員全員は本論文の独創性・萌芽性と今後の地球生命圏科学の研究への新たな前途を開拓した点を高く評価し,本論文を博士(理学)の学位に受けるに値すると判断した。

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