学位論文要旨



No 125250
著者(漢字) 石崎,安洋
著者(英字)
著者(カナ) イシザキ,ヤスヒロ
標題(和) 水同位体大循環モデルを用いたアジアモンスーン域における降水同位体比に関する研究
標題(洋) Variation of stable water isotopes in precipitation over the Asia monsoon region with an atmospheric general circulation model
報告番号 125250
報告番号 甲25250
学位授与日 2009.09.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7102号
研究科 工学系研究科
専攻 社会基盤学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 沖,大幹
 東京大学 教授 小池,俊雄
 東京大学 教授 花木,啓祐
 東京大学 教授 木本,昌秀
 東京工業大学 准教授 鼎,信次郎
内容要旨 要旨を表示する

これまで降水同位体比は過去の気候の復元や水循環を解明するために用いられてきた。この降水同位体比は時間的にも空間的にも大きく変動し、特に高緯度では気温と強い相関関係があることが知られている。この気温との強い相関関係からグリーンランドや南極などのアイスコアに含まれる降水同位体比を用いて最終氷期などの過去の気候の復元が行われてきた。

一方、低緯度の降水同位体比は、初期の研究においては、観測地点の気温よりも降水量と負の相関関係(降水量効果)があり、この降水量効果が支配的であると考えられてきた。しかし、近年では、この降水量効果だけでなく、エルニーニョ/南方振動( ENSO )やモンスーンなどの大規模な大気循環の変動とも大きく関係することが指摘されている。そして、この大規模な大気大循環と降水同位体比の関係から、南米のアンデス山脈やチベット高原のアイスコアに含まれる降水同位体比を用いて、過去の低緯度の気候を復元する研究が活発に行われるようになっている。

しかし、上述した古気候プロキシから得られた降水同位体比を用いて、過去の大気大循環を復元する研究は、その根拠となる関係が経験的であいまいである。また、得られた降水同位体比がどの程度の空間代表性があり、現象をどの程度復元できるのかといった検証も不十分である。このような問題が生じてしまう原因は、これまでの研究では、アジアモンスーン域の降水同位体比の主要な変動要因が定量的に理解されておらず、そのため、観測により得られた降水同位体比が本来何を反映しているのかということが十分に理解されていないためであると考えられる。

そこで、本研究では、同位体物理が組み込まれたCCSR/NIES/FRCGC水同位体大循環モデルを用いて、以下の目的で研究を行った。

1) アジアモンスーン域の降水同位体比の経年変動における主要な変動要因の寄与率を定量的に明らかにする

2) この地域の降水同位体比と大規模な大気循環の変動との関系がどの要因により生成されているかを明らかにする

3)この地域の降水同位体比をどのような指標として用いるべきであるのかを明らかにする

まず、研究の第一段階とて、CCSR/NIES5.4gを基本モデルとした水同位体循環モデルの再現性を全球規模でGlobal Network for Isotope in Precipitation(GNIP)観測値と比較検証し、全球規模の降水酸素同位体比を研究するために有用なツールであることを示した。

次に、水安定同位体の分別過程を組み込んだCCSR/NIES/FRCGC AGCMとGNIP観測を用いて、アジアモンスーン域での降水酸素同位体比と気候との関係を、特にENSOとモンスーン循環に注目し調べた。

はじめに、アジアモンスーン域における降水量や大気場、降水酸素同位体比の気候値と経年変動及び降水酸素同位体比と気候の関係を観測と検証した。その結果、モデルは、基本的な大気場や各地点の降水酸素同位体比の年平均値を比較的良く再現していた。また、ある特定の場所の降水酸素同位体比と気温や降水量、大規模な大気大循環との間の夏季(JJAS)における経年変動の相関係数についてはおおよそ類似していたため、相関係数を用いて、この地域の降水酸素同位体比と気候との関係を調べた。その結果、以下のことが判明した。

1) ある特定の場所における夏季(JJAS)の降水酸素同位体比と気温の経年変動は、モデル、観測ともに、ほとんどの地域で統計的に有意な相関関係は見られなかった。

2) ある特定の場所における夏季(JJAS)の降水酸素同位体比と降水量の経年変動は、モデル、観測ともに、低緯度の地域で統計的に有意な負の相関が見られた。しかし、低緯度のすべての地域で統計的に有意な負の相関関係がみられるわけではなかった。

3) ある特定の場所の夏季(JJAS)における降水酸素同位体比とENSOの経年変動の相関関係は、モデルでは、海洋大陸やインド亜大陸、インドシナ半島、中国南部、オーストラリアなど、広い地域で統計的に有意な正の相関がみられた。一方、観測においても、バンコクやシンガポール、ホンコンといった西太平洋周辺の沿岸部の地域やインドのムンバイで、ENSOと降水酸素同位体比との間に統計的に有意な正の相関関係が見られた。よって、この地域の降水酸素同位体比は、熱帯のSSTにより、大きく影響を受けていることが判明した。

4) ある特定の場所の夏季(JJAS)における降水酸素同位体比とインドモンスーンや北西太平洋モンスーンの指標との経年変動の相関関係についても、モデルでは、かなり広い地域で統計的に有意な相関関係が見られた。一方、観測では、ENSOほど多くの場所で統計的に有意な関係は見られなかった

5) ある特定の場所の降水量と大規模な大気大循環との間に統計的に有意な相関関係がなくとも、降水の起源からの輸送経路と推定される地域の降水量と大規模な大気大循環の変動と相関関係が見られた場合、ある場所の降水酸素同位体比と大規模な大気大循環の間にも相関関係が見られた。

以上の結果を踏まえ、アジアモンスーン域における夏季(JJAS)の降水酸素同位体比の経年変動が、観測点の降水量の変動と起源から観測点に到達するまでの輸送中の降水量の変動のどちらが定量的に大きいのかをバックトラジェクトリー解析と感度実験により調べた。その結果以下のことが判明した。

1) バンコクの降水酸素同位体比は、バンコクの降水量と統計的に有意な負の相関関係が見られたが、バンコクの気温とは相関関係は見られなかった。

2) ムンバイの降水量ならびにムンバイの気温とは有意な関係は見られなかった。

3) バックトラジェクトリー解析によりバンコクとムンバイの降水の起源から観測点までの輸送経路上の降水量を算定したところ、両地点の降水酸素同位体比と両地点の降水の起源から観測点までの輸送経路上の降水量の間には統計的に有意な負の相関関係が見られた。

4) ある場所の降水量の変動と起源から観測点までの輸送中の降水量の変動が、それぞれどの程度降水酸素同位体比の経年変動に寄与しているかを調べるために、二つの感度実験を行った。その結果、バンコク、ムンバイともに降水酸素同位体比の経年変動に対するある場所の降水量の変動の寄与率は、分散で評価して、それぞれ、37%、32%であった。一方、バンコク、ムンバイの降水酸素同位体比の経年変動に対する起源と輸送経路上の降水量の変動の寄与率は、分散で評価して、それぞれ、60%と61%であった。このことから、バンコク、ムンバイの降水酸素同位体比の経年変動は、ある場所の降水量の変動よりも起源から観測点までの輸送中の降水量の変動のほうが重要であることが明らかになった。

5) バンコクとムンバイにおいて、標準実験と降水量効果を除いた感度実験のエルニーニョとラニーニャの年、インドモンスーン、北西太平洋モンスーンの強い年と弱い年の降水酸素同位体比の差を評価したところ、いずれにおいても、その場所の降水量効果は、変動幅のおおよそ20パーセントほどであった。このことから、バンコクやムンバイにおける降水酸素同位体比と大気大循環の変動の関係においても、バンコクやムンバイの降水量の変動よりも、降水の起源から観測点までの輸送中の降水量の変動がより重要であることが示された。

これらの研究結果と提言をまとめると以下である。

1. アジアモンスーン域における降水酸素同位体比の経年変動における最大の要因は、少なくとも、バンコクとムンバイにおいては、起源から観測点までの輸送中の降水量の変動である。過去に定性的に示した研究は存在したが、定量的に示したのは、本研究がはじめてである。また、バンコクとムンバイは、経年変動の時間スケールでは、降水の起源が大きく変化しない場所であった。そのため、経年変動の時間スケールで降水の起源が大きく変化する場所では、起源の違いについても調べる必要がある。

2. アジアモンスーン域における降水酸素同位体比と大規模な大気大循環の変動の関係は、少なくとも、バンコクとムンバイにおいては、降水の起源と観測点までの輸送中の降水量の変動のほうが重要である。過去の研究では、降水同位体比と大規模な大気大循環の関係においては、大規模な大気大循環の変動に伴うその場所の降水量の変動が重要であるとする研究が多かったが、本研究により、大規模な大気大循環の変動に伴う降水の起源から観測点までの輸送中の降水量の変動のほうが重要であることが示された。

3. アジアモンスーン域の西太平洋周辺の地域では、降水酸素同位体比はENSOの影響が大きく、この地域の降水酸素同位体比の経年変動は熱帯の海面水温に大きく支配されている。

4. モデルは各地点の降水量とENSOとの関係をそれほど精度よく再現できないが、バンコクなどで降水酸素同位体比とENSOの間には強い相関関係がみられた。これは、降水の起源から観測点までの輸送中の降水量という広域な地域の降水量とENSOの関係をモデルが比較的良く再現できていためである。こうした結果から考えて、この地域の降水酸素同位体比はローカルな指標というよりは、起源から観測点までの輸送中の降水量を反映した大規模な指標として用いるべきである。

5. 観測による降水同位体比を用いた古気候研究は、復元したい現象に伴い降水量が変動する領域から、前方トラジェクトリー解析などの手法を行い、復元したい現象を反映している降水同位体比が得られる地域を推定し、その推定に基づいて観測地点を選ぶべきである。

以上、本論文により、観測により得られた降水同位体比を解釈する際に、バックトラジェクトリー解析など、降水の起源から観測点までの輸送経路を推定する方法と組み合わせて用いることで、水同位体大循環モデルが非常に有用なツールであることが示された。

審査要旨 要旨を表示する

降水同位体比は過去の気候の復元や水循環を解明するために用いられている。この降水同位体比は時間的にも空間的にも大きく変動し、特に高緯度では気温と強い相関関係があることが知られており、グリーンランドや南極などのアイスコアに含まれる降水同位体比を用いて最終氷期などの過去の気候の復元が行われてきた。

一方、低緯度の降水同位体比の変動について、当初は観測地点の気温よりも降水量の変動の影響(降水量効果)が支配的であると考えられてきた。しかし、近年では、負の相関であるこの降水量効果だけでなく、エルニーニョ/南方振動(ENSO)やモンスーンなど大規模な大気循環の変動とも大きく関係することが指摘されるようになり、過去の低緯度の気候を復元する研究が活発に行われるようになっている。特に、アジアモンスーン域では、チベット高原のアイスコアに加え、中国の鍾乳石に含まれる水の安定同位体比を用いて、過去のモンスーンの変動を復元する研究が盛んに行われるようになった。

しかし、水の安定同位体比を用いて過去の大気大循環を復元する研究はその物理的根拠があいまいであり、また、得られる結果の空間代表性がどの程度あるのかといった検証も不十分である。そこで、本研究では、同位体の輸送や分別などの物理過程が組み込まれたCCSR/NIES/FRCGC水同位体大循環モデルを用いて、水の安定同位体比変動がどういうスケールのどんな気候変動の影響を受けているのかについて定量的な検討を行っている。

第1章ではこうしたこれまでの研究の経緯と、本研究の意義、狙いについて述べており、第2章では、水の安定同位体比が水循環においてどのように変化するか、その基礎が丁寧にまとめられている。また、水の安定同位体比の地理的分布に関する従来の経験的な法則などに関しても紹介されている。

第3章ではCCSR/NIES5.4gを基本モデルとした水同位体循環モデルにおける同位体比分別や輸送過程に関して、どのような概念モデルに基づいた数値化がなされているかに関して記述されている。

第4章では、その水同位体循環モデルの推計値をGlobal Network for Isotope in Precipitation(GNIP)観測値と全球規模で比較検証しこのモデルが全球規模の降水酸素同位体比や中・高緯度における降水酸素同位体比と気温との空間的な関係を比較的良く再現しており、全球規模の降水酸素同位体比を研究するために有用なツールであることを確認している。その過程で、大規模凝結雲における同位体比分別過程や、雲底から下での雨滴の再蒸発の際の分別過程を適切に考慮することが必要であることも、感度分析から明らかにし、同位体循環モデルによる観測値の再現精度を高めている。

次に、第5章では、その同位体循環モデルとGNIP観測を用いて、アジアモンスーン域での降水酸素同位体比と気候の年々変動との関係を、特にENSOとモンスーン循環に注目して詳細に解析し、GNIPの観測点(バンコク、ニューデリィー)に対して降水酸素同位体比と気温、降水量、大規模な大気大循環の変動との年々変動の相関関係、また降水の酸素の同位体比の年々変動の分散について、観測とモデルとで同様の傾向を示していることを確認している。

さらに、夏季(JJAS)の降水酸素同位体比と降水量やENSO、インドモンスーンや北西太平洋モンスーンの指標との年々変動に関する相関関係については、観測では必ずしも統計的に有意ではないものの、モデルではアジアモンスーン地域で統計的に有意な正の相関関係が広く見出された。

これらの成果を踏まえ、第6章ではアジアモンスーン域における夏季(JJAS)の降水酸素同位体比の経年変動に対して、その場所の降水量の変動と、起源から観測点に到達するまでの輸送経路上の降水量の変動のどちらが大きいのかについて、バックトラジェクトリー解析と感度実験により定量的に調べられた。

その結果、ケーススタディとして取り上げられたバンコク、ムンバイともに降水酸素同位体比の経年変動に対するその場所の降水量の変動の寄与率は、分散で評価して、それぞれ、37%、32%であるのに対し、起源と輸送経路上の降水量の変動の寄与率は、それぞれ60%と61%であることが示された。また、ENSO、インドモンスーン、北西太平洋モンスーンの各指標との相関関係に対するその場所の降水量変動の寄与率は、変動幅のおおよそ20パーセントほどであることもわかり、降水の起源から観測点までの輸送中の降水量の変動がより重要であることが示された。

これらの研究によって、アジアモンスーン域における降水酸素同位体比の経年変動における最大の要因は、少なくとも、バンコクとムンバイにおいては、起源から観測点までの輸送中の降水量の変動であることが定量的に示された。したがって、この地域の降水酸素同位体比観測結果はローカルな気候の変動の指標というよりは、起源から観測点までの輸送中の降水量を反映した大規模な気候変動の指標として用いるべきであることが明らかとなった。

このように、本論文は、降水同位体比の変動情報をどのようなスケールの気候情報と結び付けて解釈すべきかについて、先端的な同位体大循環モデルを用いて定量的に明らかにしており、グローバルな水循環科学としての水文学、その応用としての水資源工学への貢献は極めて大きい。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク