学位論文要旨



No 125273
著者(漢字) ソレマニエ(福元),貴実也
著者(英字)
著者(カナ) ソレマニエル(フクモト),キミヤ
標題(和) イラン・テヘラーンの19世紀半ばから20世紀初頭の変遷 : 「衰微」の時代の都市および建築にみる「融合」
標題(洋)
報告番号 125273
報告番号 甲25273
学位授与日 2009.09.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7117号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 准教授 藤井,恵介
 東京大学 准教授 大月,敏雄
 東京大学 教授 村松,伸
内容要旨 要旨を表示する

19世紀は衆知の通りイランのみならず、産業革命を成し遂げた西洋諸国とその影響下にあったアジア、アフリカ諸国が前近代的国家から近代国家成立に向けて変革を求めていた時代であった。そしてイギリスをはじめとした欧州列強による植民地化が世界規模に広がっていた。こんな中、アジアにおいて数少ない独立国家を守り抜いたイランであるが、当時の王朝・ガージャール朝の評価は、特にイラン国内においてきわめて低いものである。イラン国内の中学校歴史教科書には、「ナーセロッディーン・シャー(1848-96年在位)はその長い在位期間にイラン国民に取り返しのつかない損失をもたらした。諸外国の影響力の増大や無数の利権の売却は彼の時代に行われた。…イラン情勢は衰退の坂を転がり落ちていった。 」とある。建築史に関しても同様であり、イラン建築史の第一人者であるピールニヤー氏(1921-97年)は、「ガージャール朝期の建築スタイルを衰微スタイルもしくはテヘラーン・スタイルと名付けることが出来る。…少なくともガージャール初期まで続いていたイラン的美意識がナーセロッディーン・シャー以降崩壊した。」と述べている。

上記「衰微スタイル」または「テヘラーン・スタイル」の発信地とされるテヘラーンであるが、18世紀末首都に選定された当時の人口は15,000人 と言われており、全長7,000mの市壁に囲まれた一地方都市にすぎなかった 。その後首都として徐々に整備されていくが、1850年代の旅行記にはこの都市が決して繁栄した大都市でなかったことが記されている 。大きな転機は第4代君主ナーセロッディーン・シャーの在位期間に訪れる。それは1867年から始められた旧市壁の取り壊しと、全長19.2kmの新たな濠と市壁 の建設であった 。この計画により旧市街を取り囲むように新市街が建設され、新市街を中心に新たな計画街路が建設されていった。そして上記首都整備に伴い、周辺都市から職を求める人々や、アルメニア人をはじめとした異教徒がテヘラーンに流入した。更に西洋諸国のイラン進出に伴い外交官や諸外国の技術者と商人がテヘラーンに集った。これにより1869年にはその人口が約147,000人にまで増加し 、更に1922年には約196,000人に達した 。この様な急激な都市化とこれに伴う多様な価値観の共存は新たな思想や価値観を生み出したと同時に、従来の伝統的価値観の衰退をもたらした。これこそが「衰微」の時代といわれる所以である。

ではこの「衰微」の時代、文化・経済・政治の中心地首都テヘラーンにおいて上記傾向を支持する王、貴族、官僚および諸外国使者等と、抵抗しながらもこの時代に対応していく市民等はそれぞれ何を求めていたのだろうか。本論文ではテヘラーン旧市壁が取り壊され、街路が整備された19世紀半ばに着目し、その前後における都市と建築の変遷を分析することによって、衰微の実態がなんであったかを明らかにすることを目的とする。

上記目的を追求し、都市の規模が拡張された19世紀半ばのテヘラーンおよびそこに新たに建設された建築物を観察すると以下のような仮説が導かれる。

それは、決して「衰微」の時代として一括りに単純化されるのではなく、

1国民国家形成に伴う古代ペルシア文化への憧憬

2さまざまに生起する社会現象への人々による「無意識」の対応の集積

3西洋、とりわけ、イギリス、フランスへの追随

の複合、つまり「融合」の時代であったとみなせる。本論文ではこの仮説を、王や国家などの権威、諸外国政府、西洋化に反対する宗教指導者と商人、そしてこれ等の中をさ迷う市民などの建築活動の異なる側面から考察し、「衰微」の時代の都市および建築の「融合」のあり方を明らかにした。以下に各章の要約と本論文の仮説を立証に導く手順を示す。

第1章は既往研究および本論文の主要資料を提示した、序章である。また章後半ではガージャール朝期の歴史的位置付けを既往研究より整理し、同時期の社会情勢を再確認することによって第3章以降に述べる都市や建築の変化の社会的背景を提示した。

第2章では本論文の舞台であるテヘラーン市に着目し、歴史資料や既往の研究から、一村落から市壁が廻らされるまでの歴史、更にその後首都に選定され整備されていく経緯を整理した。そしてこれより本論文の焦点であるガージャール朝中期以降のテヘラーン都市史を研究する意義を明らかにした。

第3章ではマクロな視点から、都市としてのテヘラーンに着目し、都市の拡張と建設を通じて王が求めていた理想都市と、当時のテヘラーンの実態との相違を明らかにした。ガージャール朝期の2枚の測量地図(1857年と91年)に描かれている街路と街路沿いの全ての建築物を一覧化し、新市街と旧市街の開発と成長の傾向を分析した。

上記地図の分析より、旧市街内においても政府の開発とは異なる活発な建設行為が確認された。それは旧市街中心の商業地区における商業施設の建設と旧市壁と濠の崩壊によってできた新たな空地に移り住んだ地方出身者や異教徒の街区建設であった。

第4章では第3章より明らかとなった商業地区バーザールの成長に着目し、新市街整備後もなお成長し続けるバーザールをよりミクロに分析するため、その商業施設の建築形態を分析した。

上記分析より保守的な立場の商人等が集う商業建築が、新市街の建設や西洋からの工業製品の輸入に伴う急速な社会の変化に機敏に対応し、より多くの貸室数と商談や接客空間を備えた施設へと変化していったことが明らかとなった。その結果としてバーザール西に有蓋通路と小中庭および有蓋小中庭が面的に広がる商業区域が発展した。

第5章では旧市街中心の宮殿街区内に建つ宮殿建築および市外の離宮を分析し、王の対外的な姿勢、または個人の理想とした空間の実態を追求した。

18世紀までのイランは隣国オスマン朝を意識し、イスラーム教シーア派の国家としての立場保持に努め、これを前面に出すことにより国政の強化に努めてきた。一方18世紀末トルコ系遊牧民族からイランの君主へと上り詰めたガージャール朝は、シーア派的血脈を持つサファヴィー朝と異なり、先ずイラン・ペルシアの王としての正当性を示し、国民の団結を図る必要があった。その表れがファタリー・シャー(1797-1834年)以降の宮殿建築にみられる古典復興的モチーフの多用である。しかしその後、ロシアとの戦争における敗北(1804年、1826年)や、領土の縮小、そして欧州列強との様々な不平等条約の締結により、西洋化が進められた。一方古典復興の動きはペルシア帝国とローマ帝国の共存の歴史から、西洋諸国と古代の共有を求める動きへと変化していった。この様な時代を反映して、宮殿建築にも古典復興的要素と西洋的要素の共存と融合が確認できた。

第6章では市民がその担い手である住宅建築に着目した。現地調査資料を基に現存する19世紀後半の住宅建築を考察し、これらの平面計画、立面および意匠の変遷から、「衰微」の時代に建設された住宅建築の実態を明らかにし、当時の市民の生活様式や理想とした空間を考察した 。

考察の結果、平面計画では従来の公的空間と私的空間の概念が薄れ、更に建物へのアクセスを振り分ける空間や通路の省略が多く確認された。これらは過密化する都市生活と近代化に伴う住宅計画の変化であり、これに伴って血縁関係にない他者との同居や他宗教の信者との共存がみられ、生活スタイルが大きく変化した。

立面や装飾においては、特に外観に西洋の影響を受けた円弧や半円形アーチが多用され、加えて、ペルセポリス遺跡を連想させる石柱や古代君主の姿が描かれたタイルが使用された。更に上記西洋的要素およびペルシア的要素と並行して、内観装飾ではサファヴィー朝期までのイラン・イスラーム的要素であるムカルナス(鍾乳石飾り)や尖塔形アーチが用いられた。

第7章ではこれまで明らかにしてきた、19世紀半ば以降の西洋化と近代化を意識した都市計画や、古典復興主義と西洋化が融合した建築の傾向が、20世紀に入っても引き継がれ、更に加速していった様子を明らかにした。都市全体の開発としてはナーセロッディーン・シャー期に始められた都市計画街路と広場の整備を述べ、20世紀初頭の都市計画がナーセロッディーン・シャー期の開発の延長線上にあったことを示した。また18世紀から続く旧市街中心の商業地区バーザールの開発と商業施設の建設に着目し、1891年の地図に見られたバーザール西の開発の延長線上に現在のバーザール中心地およびパーサージュ(商業施設)群があることを明らかにした。

結章である第8章では第3章以降示してきた都市や建築の変遷を振り返り、ガージャール朝後期の都市と建築が、仮説にて挙げた3項目の融合から生まれたことを示した。

しかし、20世紀に入ってから上記西洋化と古典復興主義が一人歩きを始め、パフラヴィー朝期にはペルシア帝国2500年祭に代表される過剰なまでの過去への回帰やテヘラーン北の急激な近代化が推し進められた。その歪みが1979年のイスラーム革命であると私は考えている。その反省を一助として、様々な要素が融合しながら、共に発展の道を築こうとしていた19世紀半ば以降から20世紀初頭を掘り起こし、「融合」の姿を人々に提示することが必要であると考えている。そして、今こそガージャール朝期の建築や街並みが、過去の一記憶として見直され、保存されるべきではないだろうか。

イラン・イスラーム共和国中学3年歴史教科書、Vezarat-e Amuzesh-o-parvareshイラン文部省、2000、p.37H.Bahrambeygui,Tehran, An urbanan alysis, National university of Iran,1966,p.181J.Polak, Persien,das Land und seine Bewoner,1865.Translation,K. Kharazmi,1972 ,p.62同上、p.60Y.Zoka & M.H.Semsar, Tehran in Illustration, Sorush,1997,pp.52-56 に掲載されている写真より、実際には濠とその盛り土から作られた土手が都市の境界線を示し市壁は建設されなかったことが確認できる。M.Mo'tamedi, Joghrafiya-ye Tarikhi-ye Tehran , Markaz-e Nashr-e Daneshgahi,2002,p.168S.Sadvandniya&M.Ettehadiye ,Amar-e Dar-ol-khalafe-ye Tehran, Nashre TarikheIran ,1989,p.347J. Shahri,Tarikh-e Ejtemai-ye Tehran,Khadamat-e Farhangi-ye Resa,1999,Vol.1,p.61現存し調査対象となった住宅は、官僚や大商人などの住宅であり、労働者などの一般市民の住宅を確認することは困難である。そのため一般的な傾向や生活スタイルに関しては統計調査や当時の日記などの歴史資料を参考にした。
審査要旨 要旨を表示する

本論文は、19世紀半ばから20世紀初頭、ヨーロッパ列強が植民地化を推し進めた時代を採り上げ、日本同様、主権国家として独立を守り続けたイラン、ガージャール朝の首都テヘラーンに着目し、現存建造物を始めさまざまな史料から、その都市と建築の変遷をとらえようと試みた研究である。

中でも、西欧化を推し進めた第4代君主ナーセロッディーン・シャーの治世に注目し、従来のガージャール朝衰微説を否定し、多様な文化の融合の時代としてガージャール朝期を評価している。そしてこの多様な文化の融合の時代に、現代イラン国民の基盤となっている文化や思想が形成されたと説いており、興味深い点である。

本論文第3章では、ナーセロッディーン・シャーによるテヘラーン拡張工事と首都整備計画に注目し、北の新市街に現れた意図した西欧化の背後に、イスラーム教シーア派国家としての伝統を尊重した南の新市街建設が隠されていたことを読み解いたことは大きな成果といえよう。そして王自身がそれを自覚し、北に向かう西欧化と南に向かう伝統を使い分けたことを指摘している。

更に、ガージャール朝期に作成されたテヘラーンの数葉の古地図を丁寧に解析し、全ての記載事項を一覧化し、これ等を整理しながら都市の解析を試みたことも評価に値する。解析の結果、実際の都市計画では意図されていなかった旧市街と新市街の隙間部分に、イラン各地からテヘラーンに流れこんだ様々な人々が定住し、新街区を形成していたことを指摘している。これは興味深い発見であり、大きな成果である。

第4章では、当時のバーザールの建造物の解析を通して、商人層やイスラーム学識者層が、伝統的な旧市街に固執した意味を、単に伝統だけではなく、建築空間の変遷から考察している。更に本章では、商人達が富の集積に固執した姿勢を明らかにし、商業区域の中での中心の動きを明確に解明している。

第5章では宮殿建設に着目し、ナーセロッディーン・シャーによる西欧化を意識した宮殿建築の建設を指摘していると同時に、第2代君主ファタリー・シャー以来のペルシア古典復興主義的スタイルが脈々と継承されていることを明らかにしている。加えて、鉄板葺寄せ棟屋根や高層建築、観音開きの扉など新たなスタイルの登場をも指摘し、多様なスタイルの共存と融合を記している。更に、王とヨーロッパ帰りの建築家、そして伝統的工人との関係から、王の西欧建築への憧憬がイランの伝統工人によって達成されたことを指摘している。

第6章では住宅建築を採り上げ、現地調査資料より、19世紀の住宅を解析している。これによって、西欧や古代への視線が王だけではなく、市民階級の人々にも行きわたっていたことを指摘し、彼らが伝統的住宅に新たな要素を無作為にあてはめていく姿勢が明らかにされている。

そして第7章では20世紀初のテヘラーンとその諸建築に着目し、ガージャール朝崩壊後パフラヴィー朝によって、西洋化と古典復興主義の融合が一層加速していった様子を指摘している。そしてこれに伴い伝統文化が軽視され、その歪みがイラン・イスラーム革命に繋がっていると述べている。

更に第4章にて採り上げたバーザールの20世紀以降の変遷を現地調査より解析し、今日のバーザール中心地がガージャール朝期に開発された区域であることを指摘し、今も尚テヘラーンの経済中心地であるバーザールの持続と成長を紐解いている。

上記の項目より、本論文は様々な文化と価値観がバランスを取りながら都市を築いていたガージャール朝期を再評価した新しい研究である。

よって本論文は博士の学位を請求する論文として合格と認められる。

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