学位論文要旨



No 125274
著者(漢字) 韓,志晩
著者(英字)
著者(カナ) ハン,ジマン
標題(和) 韓国高麗時代における禅宗寺院の伝来と展開
標題(洋)
報告番号 125274
報告番号 甲25274
学位授与日 2009.09.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7118号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 藤井,恵介
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 難波,和彦
 東京大学 教授 村松,伸
内容要旨 要旨を表示する

本研究の目的は、中国で禅宗伽藍が成立する時期及び南宋・元時代までの変化の様相を把握して、伽藍配置を中心に禅宗寺院としての特徴を究明し、なお、韓国の高麗時代における中国との仏教交流に焦点を置いて、高麗に禅宗寺院がどのような形で伝来されて、どのように展開・発展していったかを究明することである。本研究の通して得られた成果を要約すると次のようである。

□中国における禅宗寺院の成立と展開

唐代において禅宗寺院が独立する以前には、多院式伽藍の一院として、一般的に伽藍の西側に禅院という修禅の院があり、禅宗の僧侶もその禅院において修行していた。また、唐代寺院の庫院は、その機能、建築構成と伽藍配置上の位置において、後の宋代の禅宗寺院の庫院と共通している。これらより、宋代の禅宗寺院の伽藍配置を特徴付ける西僧堂・東庫院という伽藍配置は、唐代の寺院における西禅院・東庫院の伝統の上で生まれたものと理解される。百丈懐海は、それまで一部の禅院に立てられていた僧堂、方丈、法堂の諸堂宇を、彼が制定した清規に従って一つ寺院に構成し、また各堂于における教化・修行と生活までの一切の作法を定めた人物として位置づけられる。また、百丈による「不立仏殿」の提唱は、百丈の直後の早い段階から守られなくなり、その背景には当時に寺院の建立と維持を支えていた世俗檀越による礼仏の要求があったと考えられる。なお、百丈が建立した寺院を始め、唐末から五代十国にかけって建立された有力な禅宗寺院の多くが山中に立地していた。

『禅苑清規』と大(〓)山密印寺から窺える北宋代の禅宗寺院は、『五山十刹図』に見られるような禅宗最盛期の南宋代における伽藍の体裁をほぼ整えていた。北宋代の禅宗寺院は、当時の他宗寺院と比べると、伽藍中心部を回廊で囲む構成、羅漢堂、経蔵、鐘楼、庫院などの存在、廨院と荘院の運営、そし寺院の経営を司る役職の存在、などは両者における共通点であった。これに対して禅宗寺院は、多院式伽藍ではないこと、仏殿が極めて少ないこと、法堂に仏像が安置されないこと、方丈と寝堂による住持領域の構成、修行僧と行者の修行・生活の場としての僧堂・衆寮と行者堂・行者寮の存在、そして衆僧の修行の面を助ける諸頭首とその寮者の存在などにおいて、他宗の寺院と異なる伽藍構成上の特徴を持つ。南宋代の禅宗寺院における伽藍配置は、仏殿・法堂と寝堂・方丈からなる中心軸上を仏の領域、僧堂と衆寮を中心とうする伽藍西側を修行の領域、そして庫院・行者堂・行者寮を中心とする伽藍東側を寺務の領域とする、という配置概念の下で行なわれた。

宋代の禅宗寺院における寝堂は、法堂における正規の上堂説法以外における住持接衆の場として、小参、普説、接客、住持葬式などの時に使われた。寝堂が方丈と共に中心軸上に立てられることは、住持を仏祖に代わった存在として尊ぶ、という禅宗特有の住持観の具現であった。元代の禅宗寺院では、寝堂が独立した建物として建てられることなく、方丈の内の一部に寝堂の空間が構成される形に変わった。

宋・元代の禅宗寺院における僧堂は、当時の禅宗寺院の伽藍を特徴づける代表的なものであるが、僧侶全員が集まる一つの空間であること、内部に聖僧が安置され、長連床(単)が設けられていること、そして食事の作法などの側面で、唐代の寺院における食堂と非常に類似しており、僧堂が唐代寺院の食堂を建築的原形として作られたと考えられる。また、南宋代の『五山十刹図』よる窺える南宋径山寺の僧堂、詰組形式の組物を備えており、僧堂内における修行僧一人当たりに与えられた単の幅は2.5尺であって、僧堂の内堂は最大で462人程の僧を受容できる規模であったことが明らかになった。

宋・元代における禅宗寺院の修行僧は衆寮と僧堂の両方において掛搭を行い、各自の単位が定められていた。そのため、衆寮の建築規模は僧堂の内堂に収容できる人数に合わせて計画されたと考えられる。僧堂が坐禅修行の場であれば、衆寮は経典祖録の看読の他に、私物の保管や身の回りのことをする日常生活の場としても使われた。このような機能と建築構成を備えた衆寮は、北宋代には既に成立していた。南宋代からは衆寮で夜の食事(薬石)、楞厳会、住持の普説(曹洞宗)なども行われるようになった。伽藍配置上において衆寮は、伽藍西側の僧堂に近くに位置する。また伽藍東側には行者のための行者堂と行者寮があり、行者寮も衆寮と同様に看読の機能があった。

□高麗時代における禅宗寺院の成立

統一新羅末から高麗初期に掛けて、入唐留学僧を開(山)祖にして成立した禅宗九山派寺院は、全てが山に立地しており、伽藍中心部は中門、石塔、仏殿、講堂(法堂)で構成され、場合によっては回廊で囲まれていた。このような立地や伽藍構成自体は、当時までの朝鮮半島における他の寺院とそれほど異なるものではなかったが、その理由の一つとして、9世紀前半頃の唐には、未だ百丈懐海によって創られた禅宗寺院がそれほど広く普及されていなかったことが考えられる。一方、九山派寺院は、宝林寺が開山される9世紀中葉頃を境にして、寺院の立地と伽藍配置が変わっていく傾向が見られる。828年開山の実相寺から859年開山の宝林寺までの前期に属する寺院の殆どは、山においても平坦地を選んで立地することによって、従来のような整然とした配置を取る双塔式または一塔式伽藍を造り上げた。879年開山の鳳巌寺から高麗初期の932年開山の広照寺までの後期の寺院は、会昌の廃仏のため以前とは異なって開山祖の殆どが入唐留学の経験ができなかった。この時期に開山された寺院は、山の傾斜地に立地して、比較的自由な配置を成していた。しかし、禅堂と禅室、法堂、方丈、祖師堂、そして開(山)祖の浮図などは、禅宗寺院の伽藍構成要素として、唐から新たに導入されたものと考えられる。

高麗時代の中・後期の禅宗は、禅僧の往来による宋代の禅宗からの直接的な影響が殆どない状況の中で内在的な展開を成し遂げて行った。安和寺と高達寺を事例として見た高麗中期の12世紀頃における禅宗寺院の伽藍は、当時まで高麗の寺院の一般的な形であった多院式伽藍の中に、禅宗伽藍の要素として法堂、方丈、修禅施設、祖師堂などが備えられる程度であり、高達寺の場合は、伽藍の中で法堂と修禅施設を中心とする修禅院が別院を成していたと考えられる。

高麗後期の13世紀初頭の修禅社は、当時の武士執権崔氏の積極的な支援を受けて造営・拡張され、高麗禅宗の中心道場となったが、伽藍構成の内容からみると、それ以前の中期までの禅宗寺院とそれほど異なるものではなかった。「泰安寺仏像間閣記」に見られる13世紀頃の泰安寺の伽藍は、修禅社より充実しており、宋代の禅宗寺院の伽藍構成と通じる点が多い。一方、僧堂はあるものの食堂もあり、未だ宋代の禅宗寺院における僧堂制度と建築形式がまともに導入されていたとは考え難い。

□高麗時代末における桧巌寺の復原研究

高麗末の入元留学僧の懶翁が拡張した桧巌寺は、朝鮮時代に入って数回の修理が行われたものの、伽藍の構造が変わる程度の修理や、伽藍全体が焼失して再建されることはなかった。これは即ち、桧巌寺は朝鮮時代に数回の修理が行われたが、懶翁が拡張した当時の伽藍配置や殿閣の構成を多く維持しており、現在発掘された遺構を通じて、高麗末桧巌寺の姿を推定することができることを意味する。

高麗末に懶翁が拡張した桧巌寺の正庁と東・西方丈は、元代禅宗寺院の方丈制度に従って造られたものである。その中で正庁は住持の講礼や儀式の空間である寝堂、西方丈は住持の居処としての方丈、そして東方丈は他院の住持や賓客が留まる客位に当る。建築構成の側面において、中央に(〓)を敷いた正庁をおき、その左右両側にオンドル部屋を連接させた構成方式は、それまで高麗において行礼と居処の機能を備えた多様な種類の建物に多くに使われていたであった。高麗末に懶翁が重創した桧巌寺は、懶翁が十年間に渡った元留学を通じて経験した元代禅宗寺院の伽藍制度を導入し、それを高麗建築文化の土台の上で再構成し具現した結果といえる。

桧巌寺址における仏殿址の西側で検出された一連の遺構は、内堂と外堂及び明楼と明堂を備えた一棟の典型的な禅宗寺院における僧堂遺構であり、その反対の仏殿址の東側で検出された「日」字型の遺構は、内部に二つの中庭(天井)を設けた衆寮の遺構であることが明らかになった。

高麗末に懶翁が拡張した桧巌寺には、彼が長年の留学を通して直接経験した元代の禅宗寺院の伽藍が積極的に導入されていた。伽藍の構成要素においては、正庁(寝堂)と方丈から成る住持領域、僧堂と衆寮・把針、行者堂(東・西雲集)、諸知事の寮・香積殿・庫などから成る庫院領域、諸頭首の寮、そして羅漢殿の存在など、宋・元代の禅宗寺院に見られる伽藍要素が充実に揃っていた。また、伽藍配置において、中心軸が設定されていることと、伽藍中心部が東西対称を成していることも、中国からの影響をよく現している。

一方、方丈、僧堂、行者堂、寮舎、客室など人々が睡眠を摂る堂宇には全てオンドルが設けられており、中国的な伽藍形式に高麗固有の生活様式を取り入れられて、自国化していたことがわかる。そして、衆寮が僧堂と同じく伽藍の西側ではなく、反対の東側に配置されていることも、宋・元代の禅宗寺院と大きく異なる点であるが、これは南北に細長い寺地の制約によるものと考えられる。また、このように衆寮が仏殿の東側に配置されることで、庫院も僧堂と対称する位置でなく、南側に下って配置されるようになり、結果的には宋・元代の禅宗寺院と多少異なる形の伽藍配置が造られた。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、「韓国高麗時代における禅宗寺院の伝来と展開」と題されたものである。

第1部では、中国で誕生した禅宗の寺院建築の成立を論じ、第2部、第3部では、韓国の統一新羅末から高麗時代(918-1392)において、中国から伝来した禅宗が韓国内でどのように発展し、どのような寺院建築が誕生したのか、実証的に明らかにしたものである。

第1部「中国における禅宗寺院の成立と展開」

第1章「唐代後期における初期禅宗寺院の成立」

第2章「宋代における禅宗寺院の伽藍配置特徴」

この二つの章では、中国における禅宗寺院の成立の経過と、その伽藍構成の特徴を明らかにした。唐代の禅僧らは寺院の内部の禅院で座禅修業を行っていた。位置は西側にある場合が多い。また厨房や寺務所の機能をもつ庫院は東側にあるのが一般的だった。独立した禅宗寺院は百丈懐海(749-814)によって創設された。百丈は禅宗特有の僧堂、方丈、法堂などを、生活規則である「清規」に従って一つの寺院に構成し、伽藍形式を成立させた。『五山十刹図』に収録された宋代五山寺院図からは、中心軸が仏の領域、僧堂・衆寮がある西側が修行の領域、庫院・行者堂がある東側が寺務の領域、という明快なゾーニングを読むことが出来る。この起源は唐代の寺院に求められる。

第3章「寝堂に見る元代における禅宗寺院の変化」

第4章「宋・元代における禅宗寺院の僧堂」

第5章「宋・元代における禅宗寺院の衆寮」

この三つの章では、中国の寺院で、禅宗を特徴づける三種類の建築、寝堂、僧堂、衆寮を取り上げ、特に詳細に分析した。寝堂は方丈とともに住持の領域をつくり、法堂と方丈の間にあって、住持の接客、儀礼の場として機能した。僧堂は座禅、食事、睡眠のための施設であり、最も重要な宗教生活の場であった。全員が集まる大きな一つの空間、聖僧像の安置、長連床の設置、などの特徴から、原型を唐代の食堂に求め、宋代の僧堂をその発展と見なす。衆寮は経典看読、喫茶、夜の食事用の施設で、洗濯、縫物、剃髪などの場も含まれていた。厳しい修行場である僧堂とセットとして、それを補完する施設であった。

第1部で明らかにされた中国禅宗寺院の実態は、後に韓国、日本に禅宗が移植されて、寺院が創設されたとき、その起源、規範として常に参照されるべきものであったのである。

第2部「高麗時代における禅宗寺院の成立」

第6章「統一新羅末・高麗初期における禅宗寺院の伝来」

第7章「高麗時代中・後期における禅宗寺院の内在的展開」

この二つの章では、韓国の統一新羅末~高麗時代においての禅宗寺院の実態を検討した。韓国の初期の禅宗寺院は九山派寺院と総称されるが、全てが山岳に立地し、また禅堂・禅室、法堂、方丈、祖師堂などの施設が確認され、唐代の百丈懐海の時代に通ずる内容が確認できるが、本格的なものではなかった。また、高麗時代中期、後期においても禅宗寺院の存在は確認できるが、中国の禅宗との交流が盛んであったことは確認できない。

第3部「高麗時代末における桧巌寺の復原研究」

第8章「序説」

第9章「復原研究1:正庁と東・西方丈」

第10章「復原研究2:僧堂・衆寮と伽藍配置」

この三つの章では、高麗時代末に拡張された桧巌寺を検討する。中国から韓国への禅宗の本格的な移植は懶翁(1320-76)によってなされた。桧巌寺は近年の発掘調査によって遺跡の全体像が明らかになり、その各建築の比定、伽藍全体の性格を確定させることが必要とされていた。本研究によって、中国の宋、元代の禅宗伽藍の実態が判明し、韓国にもそれとほぼ同じ建築群が実現したことが明らかとなった。大変に興味深いのは、方丈、僧堂、諸寮にはオンドルが仕組まれていることである。これは韓国特有の技術であって、中国の禅宗建築を韓国の建築文化に適応させたと言うことが出来る。

本論文は、まず中国における禅宗寺院の実態を明らかにして、次いで韓国における禅宗寺院が、中国からどのように輸入され、それがどのように実現していったのか、高麗時代を中心に実証的に明らかにした。生活規則を示した「清規」、宋代の寺院を具体的に描いた「五山十刹図」などの文献史料を全面的に用い、宗教内容を中心に据えて検討する禅宗建築史研究は、中国、韓国、日本を通じて、初めての先駆的研究といえよう。

東アジアにおける禅宗の伝播と、伽藍・建築の形態・実態を連続的に捉えようとした雄大な企画であって、見事に成功したというべきである。

よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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