学位論文要旨



No 125326
著者(漢字) 瀬川,泰知
著者(英字)
著者(カナ) セガワ,ヤストモ
標題(和) 新しいボリル金属種の合成と性質
標題(洋) Syntheses and Properties of Novel Boryl-Metal Species
報告番号 125326
報告番号 甲25326
学位授与日 2009.09.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7170号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 野崎,京子
 東京大学 教授 相田,卓三
 東京大学 教授 川島,隆幸
 東京大学 准教授 西林,仁昭
 東京大学 教授 溝部,裕司
内容要旨 要旨を表示する

典型元素アニオンの金属塩は、アルキルリチウム、リチウムアルコキシドなど、合成化学において求核剤として非常に有用である。これに対し、ボリルアニオンのリチウム塩であるボリルリチウムを合成し観測した例はなかった。ボリルアニオンはホウ素上に空のp軌道を持ち、1重項カルベンと等電子体である。

ホウ素は炭素以降の第二周期典型元素に比べ電気陰性度が低く、アニオン性の状態を取りにくい。また、一般的なアルキルリチウムの合成法である塩基による脱プロトン化反応およびハロゲン化物の還元反応は、ホウ素に適用することが難しい。なぜなら、ホウ素と結合した水素はヒドリド性を持つため塩基との反応ではホウ素への求核攻撃が進行し脱プロトンは困難である。また、ハロボランの1電子還元体であるボリルラジカルは速やかに2量化することが知られている。これまでに中間体としてボリルアニオンが提唱されている例はいくつかあるが、いずれもボリルアニオンの構造解析はもとよりスペクトル等による確認もされていない。

ボリルリチウムの発生法は、対応するブロモボランの還元反応を選定した。前駆体となるブロモボランは、ホウ素の両側に窒素を有する5員環構造を持ち、窒素上に嵩高い2,6-ジイソプロピルフェニル基を持つ。窒素の非共有電子対からホウ素の空のp軌道へのπ供与および5員環の芳香族性によるボリルリチウムの安定化が予想され、嵩高い置換基は1電子還元中間体であるボリルラジカルの2量化の抑制が期待できる。

低温下でブロモボランをTHF中リチウムナフタレニドによって還元すると、ボリルリチウムが定量的に得られた。ボリルリチウムは11B NMRにおいて45.4 ppmという、前駆体より25 ppm程度低磁場シフトした幅の広いシグナルを与える。これは窒素置換ボリルアニオンと等電子体である含窒素複素環カルベンにおけるカルベン炭素と同様の傾向であり、ボリルアニオン等価体の発生を示唆している。ボリルリチウムの同定は最終的にX線結晶構造解析によって行った。

ボリルリチウムは、ブロモボランだけでなくクロロボランおよびヨードボランからも同様の還元反応によって合成できた。また5員環の炭素-炭素結合が単結合もしくはオルトフェニレンのブロモボランもボリルリチウムへ変換できることから、5員環の芳香族安定化効果はボリルリチウムの発生には必ずしも必要ではないことが分かる。窒素上の置換基はメシチル基でも問題なく還元が進行するが、t-ブチル基やフェニル基ではボリルリチウムの発生は確認できず、2量化体やプロトン化体が得られたことから、ボリルリチウムの発生にはメシチル基程度の嵩高い置換基は必須であると考えられる。

ボリルリチウムをヘキサンに溶解させ-45℃に冷やすことで、反応溶媒であるTHFもしくはジメトキシエタン(DME)がリチウムに配位したボリルリチウムの結晶を得ることに成功した。また、5員環構造の違う2種のボリルリチウムも同様の方法で結晶を得た。X線結晶構造解析によって、これらの生成物がホウ素-リチウム間に結合を持ち、ホウ素がsp2混成軌道を取るボリルリチウムであることを明らかにした。

全てのB-Li結合長はホウ素とリチウムの共有結合半径の和よりも長い。また5員環構造に着目すると、対応するヒドロボランと比較してB-N結合長は長く、N-B-N角は小さくなっており、これはNヘテロ環カルベンにおける傾向と一致する。またDFT計算によって得られたボリルアニオンの構造ともよく一致した。これらのことから、ボリルリチウムにおいてホウ素-リチウム結合はイオン結合的であり、ボリルアニオンとしての性質を強くもつことが分かった。

ボリルリチウムの求核種としての反応性を調査するため、ボリルリチウムに対し様々な求電子剤を反応させた。アルキル求電子剤との反応では、メチルトリフラートや塩化ブチルを用いると収率良く求核置換生成物が得られるが、塩化ベンジルや臭化ブチル、臭化ベンジルの場合はハロボランが主生成物として得られる。これはホウ素が大きく負に帯電しているためにハロゲンへの攻撃もしくは1電子移動が炭素への求核攻撃より優先して起きたと考えられる。また種々のカルボニル化合物とボリルリチウムとの反応はスムーズに進行し、アルデヒド・酸塩化物・エステル・酸無水物・二酸化炭素のカルボニル基へ求核攻撃した生成物を収率よく得た。またフルオロベンゼンおよびヘキサフルオロベンゼンとの反応によってアリールボランが得られた。

以上より、ボリルリチウムは様々な求電子剤に対し求核的に反応するホウ素求核種であることを明らかにした。

遷移金属ボリル錯体は、1963年に初めてボリルマンガン錯体が合成されて以来、これまでに5族から11族のボリル錯体については合成が報告されている。遷移金属ボリル錯体の合成法は次の3法に大別される。(1)低原子価錯体へのホウ素-ヘテロ元素結合の酸化的付加、(2)カルボニルを配位子に持つアニオン性金属錯体とハロボランとの脱塩反応、(3)一部のアルコキソ錯体とジボロンとのσボンドメタセシスである。このため酸化的付加の活性の低い金属、アニオン性カルボニル錯体を形成しない金属におけるボリル錯体合成は困難であった。

ボリルリチウムはホウ素求核種であるため、錯体へのアニオン性配位子導入法として最も一般的な方法である求核的導入が可能になると考え、種々の金属塩化物との錯形成反応を試みた。ボリルリチウムと銅、銀、金のクロロカルベン錯体およびPPh3AuClを反応させたところ、それぞれ対応するボリルカルベン錯体およびボリルトリフェニルホスフィン金錯体を得た。これらはそれぞれボリル銀錯体、ボリル金錯体の初めての合成・単離例であり、また求核反応によってボリル配位子を遷移金属上へ導入した初めての例である。しかし9族10族といった、様々な触媒反応に用いられている金属へのボリル配位子導入は達成できなかった。原因はおそらくボリルリチウムから金属への電子移動が起き、生成したボリルラジカルと低原子価金属がその後分解もしくは凝集してしまうためと考えている。また合成した金錯体に対しいくつかの反応を試行したが、いずれの場合もボリル基の脱離を伴い、ボリル配位子の電子的特性を活かした触媒反応開発への応用は非常に困難であると結論づけた。ボリル錯体はボリル化反応への応用しかこれまでなされておらず、その最も大きな原因はこの金属からの脱離であり、この抑制には全く別のアプローチが必要である。

ボリル配位子は反応性が高いため、遷移金属ボリル錯体の応用はボリル化反応に限られていた。一般に反応性の高いアニオン性配位子は、多座配位子として金属に配位させれば支持配位子として扱えることがすでによく知られている。特に、PCPピンサー型と呼ばれる、アニオン性炭素配位子の両側にホスフィンを持つ配位子は、遷移金属に3座メリディオナル型に強く配位し、その高い電子供与性によって金属への炭素-水素結合など不活性な結合の酸化的付加を加速し、様々な触媒反応や興味深い量論反応へ応用がなされている。そこで、ボリル配位子を中心に持つPBPピンサーイリジウム錯体を合成すれば、その高い電子供与性を活かした様々な応用が初めて可能になると考えた。

リガンド前駆体としてリン上にt-ブチルおよびシクロヘキシル基を有するヒドロボランを市販の試薬から4段階で合成した。合成したヒドロボランに対し1価のイリジウム錯体を反応させたところ、ホウ素-水素結合の酸化的付加が速やかに進行し、目的のPBPイリジウムヒドリドクロロ錯体を得た。X線結晶構造解析より、得られた錯体は狙い通りPBPピンサー配位子が3座メリディオナルに配位した単核錯体であり、ホウ素-イリジウム結合長はこれまでに報告されている単座のボリルイリジウム錯体のものと同程度の値であった。

PBPヒドリドクロロ錯体の溶液に一酸化炭素ガスを吹き込むとカルボニルが配位した錯体が生成した。同様の配位子の組み合わせを持つPCP錯体と比較すると、イリジウム-塩素の結合長がPBPの場合の方が長くなっている。これはPBP配位子がPCP配位子と比べ高い電子供与性を持つことを示している。PCPイリジウム錯体は置換基の変更によって電子供与性を高めた方がより炭素-水素結合活性化に有利であることがすでに明らかになっているため、PBP錯体の有用性が示唆される。

次にPBPイリジウム錯体の1価への変換を試みた。ヒドリドクロロ錯体にエチレン雰囲気下で塩基を作用させると、塩化水素の還元的脱離によって1価PBPエチレンイリジウム錯体が生成した。また1価エチレン錯体の合成中間体であるエチレンヒドリドクロロ錯体は、リン上シクロヘキシルのPBPヒドリドクロロ錯体にエチレンガスを吹き込むことで生成を観測した。しかしリン上がt-ブチルのものではエチレン雰囲気下でNMRスペクトルに変化は見られなかった。リン上の置換基のかさ高さの違いによってエチレンの配位・解離の平衡定数が大きく異なっていることが示唆される。

以上より、合成したPBPイリジウム錯体において、ボリル配位子は対応するPCP錯体のアリール基よりも高い電子供与性を持ち、また塩基やアルケンといった反応剤に対して安定であることが示された。

著者は、新しいボリル金属種であるボリルリチウム、金・銀ボリル錯体、および3座ボリルイリジウム錯体の合成に成功した。またこれらの構造や反応性を明らかにし、ボリルリチウムにおけるホウ素のアニオン性と求核性、PBP錯体におけるボリル配位子の高い安定性といった新たな性質の発現を観測した。

審査要旨 要旨を表示する

学位論文研究において、「新しいボリル金属種の合成と性質」を題材として研究を行った。

第1章では、当該分野を概観し論文の総括を述べた。ボリル金属種とは、sp2ホウ素の置換基であるボリル基と金属との間に単結合を有する化学種の総称である。これまでに報告されているボリル金属種の化学には大きく2つの解決すべき課題があった。ひとつは、アルカリ金属はアルカリ土類金属といった電気陰性度のとても低い金属についての合成例がないこと、もうひとつは、ボリル遷移金属種の触媒反応への応用がボリル化反応に限られていたことである。アルカリ金属とホウ素との結合はホウ素を負に分極させ、ホウ素が求核剤として振る舞うことが期待される。ホウ素反応剤は合成化学においてつねに求電子剤であったため、合成できる含ホウ素化合物に大きな制限があった。ホウ素求核種はそのような含ホウ素化合物合成における革新的な手法となるであろう。ボリル遷移金属種は、そのボリル基の高い電子供与性のために通常不活性な炭素水素結合の活性化に有利である。しかしボリル配位子は同時に反応性が高いために金属から容易に脱離してしまい、そのためボリル基を生成物に導入する反応においてしか応用されていない。この問題を解消し様々な官能基化反応へ応用するためには、ボリル配位子の安定化が必須となる。

第2章では、ボリルリチウムの合成・構造・性質と反応性を詳細に検討した。ボリルリチウムを世界に先駆けて合成し、構造解析に成功した。またX線結晶構造解析、NMR等による測定と、計算化学によるサポートによって、ボリルリチウムがボリルアニオンとしての性質を強くもつことを明らかにした。次に置換基や構造を変更した前駆体を合成しボリルリチウムの発生の有無を調査することで、ボリルリチウム発生に必要な構造的要素を明らかにした。また、ボリルリチウムと求電子剤との反応を行うことで、アルキルハライド・カルボニル化合物・フルオロベンゼン類といった広範囲にわたる求電子剤に対しボリルリチウムがホウ素求核種として振る舞うことを見いだした。

第3章では、ボリルリチウムを用いた11族遷移金属ボリル錯体の合成を行った。ボリル錯体の合成法にはこれまで大きな制限があったため、合成できるボリル錯体が限られていた。ボリルリチウムは前章で明らかになったように有機求電子剤に対し求核剤として振る舞うが、11族金属塩化物に対しても同様に求核剤として反応し、それらのボリル錯体を得た。ボリル金錯体、ボリル銀錯体としての初の合成・構造解析例であり、ボリルリチウムが金属へのボリル配位子源として活用できることを明らかにした。また構造やNMRによる議論を詳細に行い、ボリル配位子の電子供与性を他の様々なアニオン性配位子と比較した。

第4章では、ボリル配位子の両側にホスフィンを導入したPBPピンサー型の配位子前駆体を合成し、それらとイリジウム錯体との反応によってPBPイリジウム錯体の合成を行った。得られたPBPイリジウム錯体は、その後の配位子変換反応を検討することで、これまでのボリル錯体とは違い高い安定性をもつことが明らかになった。またX線結晶構造解析やIR測定を用いて、合成したPBP配位子が既報のPCP配位子よりも高い電子供与性を持つことが示された。

第5章ではこれらの総括およびこれらを踏まえこの研究におけるさらなる発展の可能性を提唱した。

以上の成果は、新しいボリル金属種を合成し、それが合成化学において有用であることを示した点において学術的に重要な知見である。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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