学位論文要旨



No 125362
著者(漢字) 鈴木,覺
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,サトル
標題(和) 東京湾の価値に関する研究
標題(洋)
報告番号 125362
報告番号 甲25362
学位授与日 2009.09.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(環境学)
学位記番号 博創域第524号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 社会文化環境学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 磯部,雅彦
 東京大学 教授 鬼頭,秀一
 東京大学 教授 味埜,俊
 東京大学 准教授 黄,光偉
 東京大学 講師 鯉渕,幸生
内容要旨 要旨を表示する

本研究は東京湾の自然の保全や再生にはどのような価値あるいは重要性があるかを明らかにすることを目的として行った.研究は,経済的・非経済的な価値を研究対象としたが,本研究は以下の観点から,非経済的な価値あるいは重要性に重点をおくものとする.すなわち,人々に東京湾の利用に関する選好を把握して経済的な価値を測定する前に,東京湾の自然から人々が享受することができるであろう精神的な価値や,地域社会の形成に果たしてきた機能を明らかにし,それ自体の価値を明確にするとともに,人々の選好に依存する経済価値評価は,このような重要性の提示をふまえたものとしてされるべきであろうと考えた.

本研究は,以下の事項を把握し,東京湾の経済社会的重要性について考察したものである.

■沿岸地域の人々の東京湾との関わりの変遷とかつての物質循環の検討

■沿岸の暮らしと生業の意味

■現代における東京湾利用の特性

■考察

(1) 沿岸地域の人々の東京湾との関わりの変遷とかつての物質循環の検討

近世の東京湾利用は生態系サービスからの利用が主要なものであった.江戸時代中期に漁家数は5千戸以上であると想定され,水産物の流通や漁網製造や船大工等の関連産業を考慮すれば漁業は主要な産業の一角を占めていたとも考えられる.また,海藻や雑魚貝類は里山を持たない沿岸農村にとり,田畑の肥料として必須のものであった.

生業にはその文化的な側面があり,漁業活動は都市住民にも水辺の景観として愛され,釣りや舟遊び,潮干狩りなどレクリエーション活動場としても活発に利用された.また,東京湾の漁獲物は江戸前の食文化の形成と発展を支えた.

東京湾は沿岸地域の村ごとの占有と湾中央部は入会という形で利用され,東京湾の資源利用を通じた集落共同体が形成された.また、沿岸全体は漁業者間の協議により管理されるなど自治的な枠組みが存在し,漁業者は生産の主体となって活動することができた.こうした枠組みは漁場をめぐる漁業者間の激しい紛争を通じて形成され,東京湾の資源管理につながった.

かつての東京湾の集水域における物質循環(明治20年統計資料より)を図-1に示す.農地では年間約2万t(50t/日)近い窒素肥料が必要であり,里山,都市のし尿,東京湾,九十九里の干しかなどあらゆるところからこれを確保した.最終的に東京湾に流出する栄養塩類は東京湾の漁獲生産を支え,漁獲は流入量に比べ量的には少ないものの,栄養塩類を陸側に還元する機能を担った.東京湾の生業や副業・レクリエーションなどの利用は,単に海から資源を取り出すというだけでなくそれを通じて栄養塩を陸に回収し,資源を循環的に活用する意味を持っていたのである.

(2)沿岸のくらしと生業の意味

近代の東京湾では,漁業の発展と工業用地確保の埋立と港湾開発が平行して進んだ.近世の埋立等の開発目的の多くは新田を耕作するなど,沿岸地域の自然の人口増加に対応して生産の場を確保する目的が多く,廃棄物の埋立地も新田として多くが利用された.しかし,近代に入りそれまでの海の生業的利用から,賃貸や売却を目的とした海の利用や埋立造成が急速に増加した,

港湾整備と沿岸部の用地需要の拡大は,首都圏の人口増と経済発展が続いた高度成長期まで続いた.その結果,沿岸の埋立地域の経済規模はそれまでの生業利用とは比較にならないほどの巨大な規模となった.

近世から続いた漁村共同体は戦後経済成長期まで受け継がれたが,漁場の権利は埋立とともに買収され,漁村集落は急速に衰退していった.生業としての漁業がわずか残るだけになった.

生業に関連する地域のかつての生活ぶりについて,聞き取り調査を実施した.その中で語られた発言を抽出して,以下の観点から分析を行った.

・第一に,発言内容の現実性,客観性について関連する歴史資料,他の発言者(既存資料を含む)の発言内容を含めて評価した.

・第二に,発言の中での行為の動機が,一般的に解釈が可能であり,他の生業や暮らしの発言とも矛盾することなく理解できるかどうかについて検討した.

・第三に.里山などを含む他の場所での生業についての解釈・評価と照らし合わせて矛盾無く理解できるかどうかについて検討した.

これらの検討を行った結果,以下に示すように生業には経済的側面と同時に精神的な重要性があること明らかになった.

かつての東京湾での生業には,2つのなりわいがあった.一つは生存のなりわいであり,好不況はあったが生活を維持していく稼ぎが人々にもたらされた.もう一つは精神的ななりわいであり仕事上の危険や不安定な漁獲に対して,随所に存在する稲荷や神社等への日常的な祈りや信仰,漁業活動の暦(スケジュール)に応じた儀式や祭礼を行なうことで安心を得た.また,漁業活動は自己責任で自分の工夫・努力が漁獲につながり,自分の労働と生産物は直接つながっているので,疎外感といったものはなく精神的な充足感を得られるものであったと考えられる.また,漁業活動は単独で行なう場合は少なく,海苔養殖ももやいといった小集団で協力しながら実施した.精神面でも信仰の対象には個人の家庭を守る屋敷稲荷や地域で支えるべき様々な神社等があり,地域を守る神として共同で祭り,祭礼におけるみこし担ぎは地域の団結を確認する絶好の機会であった.地域社会や連帯組織への帰属は,人々の心に安心感をもたらしたと考えられる.

東京湾は,図-2に示すように経済活動を支える自然の生産基盤であるとともに,精神的ななりわいをささえるいわば地域コミュニティを形成する基盤を形成していたと考えることができる.

(3) 現代における東京湾利用の特性

現代における東京湾利用は,生態系サービスの経済効果よりも,産業や物流,商業的利用が雇用や沿岸経済を支えており膨大であることを整理した.しかし,干潟等の利用者に関する来訪者数等のデータを分析し,もし沿岸の貝類生産力が数万tあった過去の実績を回復すれば,潮干狩り人口だけで1,000万人を越える潜在需要があるなど,居住地の50km圏内に適切な活動場が存在すれば膨大な需要が見込めることが明らかになった.

一方,現代における東京湾とその沿岸の様々な人間活動を既存資料から抽出し,東京湾利用の非経済的価値の研究を行なう上で,市民らによる環境保全活動や環境教育活動の分析が重要であることを都市社会学・都市工学的な文献資料から整理した.

環境保全や環境教育活動において,参加者への聞取りやアンケート,ともに行動しての観察,ネット上で行なわれる活動などを通じて活動の意味について考察した.その結果,(1)参加者が社会に何らかの形で貢献できていること,(2)社会貢献する場を多くの人々と共有できたこと,(3)最終成果を得るまでのプロセスにかかわり達成したことで,ある種の満足感・充足感・充実感が得られていること,(4)衰退しつつある沿岸住民コミュニティに様々なネットワークの再編も生まれつつあること,などが明らかになった.

こうした充実感や人と人とのつながりの広がりや強化といった精神的な効果は,東京湾の自然との関わりの中で生まれたものであり,かつての暮らしで生業に従事していた人々にあった精神的価値と共通するものがあると考えられる.精神的な効果は,東京湾の自然にある次のような特性によるものと考える.

・自然との関係は筋書きがなく,起こりえる様々な問題に対処する必要があること.

・東京湾の環境修復課題が明確であり,誰でも目標を共有することができる.

・生物の生活史に応じて様々な課題が生まれるので,それに対処する作業が必要になること

・自然と触れ合いながらの活動は,高度な役割とともにだれでも参加できる作業もあり多くの人々により分担ができること.

・食につながる生物を取り扱いながら,多様な生き物を同時に観察できることで楽しく活動に参加することができること.

(4)考察

東京湾の生業が衰退し,自然と人とのかかわりが薄れてしまった今日,かつての東京湾が有していた「地域コミュニティ形成の基盤」という機能も非常に小さなものになってしまった.

本研究で見てきた市民的な活動は,活動自体に参加する市民が意義深さを感じ,自ら進んで(主体的に)海草や藻類の生長にかかわり,その生産物を味わうことや,そこで出会う人々と新たにつながり,親密な紐帯も生まれていることが分かった.こうした特性は,生産の主体となって活動し,地域の絆に結ばれていたかつての生業のあり方にきわめて類似している.異なる点はかつて生業は生存のための仕事と,よりよく生きるといった精神的な価値を目指した二つのなりわいが統一されていたことである.

このような利用は,図-3に示すような東京湾がコミュニティ形成基盤としての機能を果たしていると考えることできる.また,環境保全活動の実践の場では,東京湾をどのようにすべきか?会の運営はどうあるべきかなど,様々な議論が参加者や団体の会員間で行われる.公共哲学の分野で純粋に私的な分野であるオイコノミア(家政・経済)が公的領域を覆いつくしたところに現代の問題があるという指摘がある.その議論の正否はともかく,少なくとも東京湾の自然への市民のかかわりは,公的領域の復権につながる可能性を有しているのである.

以上,東京湾の価値について検討を行い,(1)東京湾の自然再生は潮干狩り等のレクリエーション需要に応える可能性があり経済性も必ずしも低いものではないこと,(2)東京湾の生態系サービスの活用は東京湾の集水域全体の物質循環に位置づけられること,(3)生態系サービスの活用は,地域コミュニティの形成基盤となり,暮らしの充実感といった精神的な価値をもたらすことを明らかにした.さらに非経済的な価値の発現には従来漁業という生業が東京湾の利用者として担ってきた.現代においては市民の環境活動が非経済的な価値を高めていく可能性があることを示した.

しかし,市民的な活動は規模も小さく,活動基盤そのものも脆弱であり,東京湾のコミュニティ形成基盤としての機能をより有効に活用していくためには,活動が活性化するためのハード面,ソフト面の対策が一層求められる.

また,東京湾が上記の機能・価値を有しているとしてそれを有効に活用するための条件(どのような地理的な条件が必要で,どのような水質・底質環境が求められ,場の自然特性と地域の社会環境との関連性は何か等)を今後明らかにしていく必要があると考える.

図-1 かつての東京湾集水域における物質循環

図-2 生産基盤・コミュニティ形成基盤としての東京湾

図.3 コミュニティ形成基盤としての東京湾

審査要旨 要旨を表示する

閉鎖性内湾では赤潮や青潮に象徴されるような水質汚濁、生態系劣化を始めとする環境問題が日本の高度成長期に顕在化し、現在でもその解決が重要な課題となっている。閉鎖性内湾の環境問題の背景として、埋立などを通じた産業的利用が経済成長に不可欠であったために、環境保全に対する配慮が十分とは言えなかったという面がある。しかし、経済成長の安定期をむかえた日本にとって、経済という一面的な尺度ではなく、社会文化を含めた多面的な尺度を用いて今後のあり方を意思決定していく必要がある。すなわち、この問題の解決に向けた社会の共通認識を形成するためには、経済的利用のみならず非経済的価値を含めて閉鎖性内湾が有する価値を明らかにし、問題の構造を明らかにすることによって、将来の方向性を提示する必要がある。本論文は、日本の閉鎖性内湾の代表である東京湾を対象として、その多面的価値を明らかにするとともに、将来に向けた東京湾と人々との関係の萌芽的事象を具体的に提示したものである。

第1章は概要であり、研究の背景および研究内容が述べられている。東京湾では自然再生が重要課題として取り上げられ、努力がなされているが、その際の課題を東京湾の重要性および自然再生の技術・手法の面から論じている。そして、経済的・非経済的価値を含めて東京湾の価値に関して近世、近代、現代の歴史をたどりながら行う研究の内容と方法の概要が述べられている。

第2章は東京湾沿岸の利用の経済的価値を多面的に評価している。まず、地域の物流および経済規模を概観した後、生態系サービス等の種々の価値を評価している。そのうち、水産生物育成機能、レクリエーション機能、水質浄化機能、砂浜・干潟の造成に対する潜在的価値、物流コスト低減効果等を見積もった結果、物流機能に比べて、他の機能の相対的価値も小さいとは言えず、中でも水質浄化機能やレクリエーションの潜在的価値が高く評価された。しかし同時に、非経済的価値である、精神的・社会的価値の重要性を明確にする必要性も明らかになった。

第3章は東京湾の利用の変遷を、近世、近代、現代に分類して詳細に分析している。また、第4章においては、その背景となる東京湾の物質収支を時代区分別に評価している。近世においては、漁業の振興を中心に、漁場や漁法を巡る紛争を繰り返しながらも、共同体を形成して東京湾を管理しながら、食文化に貢献するとともに、物質循環の中でも機能を果たしていた。近代においては、埋立の需要に対応して、海の利用権が売買された。その結果、漁獲高は高水準であり、漁村の共同体意識は強いままであるものの、物質循環において流入負荷に対する浄化機能が下回るようになった。レクリエーションでは、海水浴などの保養地としての環境産業化が進んだ。現代においては、漁獲高が低迷し、同時に地域のつながりが希薄化した。

第5章においては、現代の東京湾と人々との関係について、聞き取り調査および著者の体験に基づいて論じている。漁業権の放棄による東京湾と人々とのかかわりの希薄化の中で、稚魚の放流や清掃活動などが行われている。そして、東京湾の市民的利用に着目して、江戸前の食文化の見直しや海辺とのかかわりを求める市民活動が始まっていることに着目して、その内容を記述・分析している。その中で、市民活動における非経済的価値や人と人とのつながりについて、アンケート結果や当事者のコミュニケーションを素材として分析を行い、非経済的価値の具体的な内容を抽出するとともに、人々のネットワークが構築されていることを見いだした。これは、将来の東京湾と人々とのかかわりにおける重要な萌芽的側面と位置づけられる。

第6章は考察であり、第5章までの成果をとりまとめて、結論を導いている。特に、現代の市民的な活動における東京湾とのかかわりと、近代までの生業におけるかかわりとの類似点おより相違点を指摘している。その上で、現代の市民的活動が、東京湾への働きかけと、東京湾からの供給サービスの享受の両輪を通じて、新たなコミュニティ形成を図る可能性があることを指摘し、潜在的な経済価値が存在することと相まって、非経済的な価値を高めていくことにより、かかわりの全体性が構築される可能性があると結論している。

以上の研究成果は、東京湾を対象として、学融合による社会文化的な観点からその価値の歴史的視点からの評価と将来への方向性を示したものであり、博士(環境学)の学位を授与できると認める。

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