学位論文要旨



No 125391
著者(漢字) 洪,淳康
著者(英字)
著者(カナ) ホン,スンガン
標題(和) 差別対価における違反要件の法構造 : 日米欧の略奪的廉売型差別対価を中心に
標題(洋)
報告番号 125391
報告番号 甲25391
学位授与日 2009.10.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第233号
研究科 法学政治学研究科
専攻 総合法政専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大渕,哲也
 東京大学 教授 白石,忠志
 東京大学 教授 斉藤,誠
 東京大学 教授 中谷,和弘
 東京大学 教授 高原,明生
内容要旨 要旨を表示する

ある供給者が、他の供給者との競争が激しい市場とそうでない市場とでそれぞれ異なる対価を設定することにより、他の供給者を排除しようとすることは自然な現象である。

このような行為は、差別対価行為者が安い対価で被排除者を排除することから、略奪的廉売型差別対価と呼ぶことができる。

「私的独占の禁止及び公正取引の確保に関する法律」(以下、独禁法)において差別対価を規定しているものは、一般指定3項であるが、ここには、略奪的廉売型差別対価以外に、もうひとつ、差別対価によって特定の需要者が、検討対象市場となる川下市場において他の需要者との競争で不利益を被ることが問題となる「準取引拒絶型差別対価規制」が存在する。

この2つの差別対価の違反要件のひとつの大きな違いは、費用基準を適用するかどうかであるが、日本においては、これらが一括して差別対価として扱われることもある。しかし、米国やECにおいてはそれぞれ「売手段階の差別対価」と「買手段階の差別対価」として別々に扱われている。

差別のない、単なる一律的な廉売については、コスト割れが違反要件になるということで意見の一致があるが、略奪的廉売型差別対価(以下、差別対価)については、コスト割れを違反要件とするか(以下、コスト割れ違反要件説)またはコスト割れでなくても違反とされる場合があるとするか(以下、コスト割れ不要説)という、日本のみならず欧米でも論争のある大問題がある。

コスト割れ不要説の土台となる根拠は、差別対価の「独自性」を認めようとする考えである。

日本におけるコスト割れ不要説の見解は、費用基準に関する検討なしに「不当な」差別対価があればそれのみで違反に成り得るという極端なコスト割れ不要説から、原則的にはコスト割れ違反要件説であるものの、「慎重」に例外を認めようとするものまでその程度は様々である。公取委によるガイドラインの中にもコスト割れ不要説の立場を採っているものがあり、差別対価を正面から扱った唯一の判決例(ザ・トーカイ事件及び日本瓦斯事件の控訴審判決)も、限定された条件のもとでの消極的でものではあるが、コスト割れ不要説の立場を採っている。そのほかにも、公取委は、日本郵政公社(民営化後は「郵便事業株式会社」)の民営化関連法案の施行に伴って作成した、「郵政民営化関連法案の施行に伴う郵便事業と競争政策上の問題点について」(以下、郵便事業問題点)において、競争分野の事業を行う場合の費用は、当該分野の事業のみを単独で行うと想定した場合の費用基準によって引き出されるとして(スタンドアローン方式)、実質的にはコスト割れ不要説を採択した。

米国におけるコスト割れ不要説の見解は、価格差そのものを容認しないRobinson-Patman法の適用や参入阻止価格(Limit Price, 利益は以前より減るものの、コスト割れではない対価の設定による新規参入の阻止)の制限、同じように、損失を被るのではない対価への引き下げによる「現在」の被排除者への牽制の制限、その他、公平な競争の観点からの立場などがある。事例においては、Utah Pie判決などによって、「意図」の重視により差別対価が違法とされたものがある。

ECの見解は、選択的割引(支配的事業者である差別対価行為者が被排除者を検討対象市場から追い出すため、コスト割れにならない範囲で同被排除者と競合する需要者に対してのみ割引を行い、そうではない者に対しては、相対的に高価格を維持する行為のこと)や合わせ技一本による排除の制限、その他、効率性の劣る被排除者に対する保護などがある。事例においては、費用基準が考慮されなかったもの(Eurofix-Bauco事件)やコスト割れではないにも拘わらず、支配的地位にある事業者の特殊な責任及び海運業の特殊性をもって違反とされたCEWAL事件、その他、コストに関する検討はなされず、支配的地位から違反とされたIrish Sugar事件がある。

一方、コスト割れ違反要件説の土台となる根拠は、差別対価の「独自性」を否定しようとする考えにある。

日本におけるコスト割れ違反要件説の見解は、差別対価と不当廉売の間に基準の差はなく、廉売が一律的か差別的かの差に過ぎないものとする。この考えによると、既存の不当廉売事例と言われたものも、実はその廉売が差別的なものであれば、差別対価の事件として扱うことが可能となる。その例として、濱口石油事件及びシンエネコーポレーション・東日本宇佐美事件を挙げることができる。これらにおいてはそれぞれ、違反要件としての平均総費用と弊害推認根拠としての平均可変費用を下回る、または弊害推認根拠としての平均可変費用を下回るということで違反とされた。

米国におけるコスト割れ違反要件説の見解は、2008年司法省報告書(Competition and Monopoly: Single-Firm Conduct Under Section 2 of the Sherman Act, September 2008, 以下、司法省報告書)によって明らかになっている。司法省は、同報告書において、費用基準として平均回避可能費用または平均可変費用を採り、これを上回る対価は違反にならないとした。事例においては、Brooke Group事件での連邦最高裁判決によって、コスト割れ違反要件説が確立された。但し、同事件の判決においては、具体的な費用基準そのものには言及されなかったとされる。その他、大手の航空会社による新規参入の格安航空会社への対抗のための価格引き下げ(但し、コスト割れではなかった)が問題となったAmerican Airline事件や病院による特定の保険会社向けの治療費優遇が問題となったPeaceHealth事件において連邦高裁は、それぞれ平均可変費用を費用基準とすることを明確にした。

ECのコスト割れ違反要件説においては、欧州委員会による、EC排除型濫用ペーパー(DG Competition discussion paper on the application of Article 82 of the Treaty to exclusionary abuses, December 2005)及びEC排除型濫用ガイダンス(Guidance on the Commission's Enforcement Priorities in Applying Article 82 EC Treaty to Abusive Exclusionary Conduct by Dominant Undertakings, 3 December 2008)において、平均回避可能費用もしくは平均長期増分費用が弊害推認根拠としての費用基準とされた。そして、平均総費用が違反要件としての費用基準とされた。事例においては、欧州司法裁判所によって、AKZO事件にて平均総費用が違反要件としての費用基準に、平均可変費用が弊害推認根拠としての費用基準とされた。この基準はその後のWanadoo事件においても踏襲され、その後のDeutsche Post事件においては弊害推認根拠としての費用基準は平均長期増分費用が採られたものの、違反要件としての費用基準にはやはり平均総費用が採られた。

これらのことから、日米欧において、差別対価の独自性を否定し、できるだけ競争を促進させる方向に競争当局や裁判所が動いていることを知ることができる。

一方、コスト割れ不要説の中でコストを考慮要素にするもの及びコスト割れ違反要件説においては、差別対価行為者によって設定された対価の判断のために具体的な費用基準を用いることになる。日本及びECは、弊害要件としての費用基準と違反要件としての費用基準の2層構造から成る費用構造を用いている一方、米国は弊害推認要件としての費用基準と違反要件としての費用基準が同一の高さであり、それらが混在した、単層の費用基準を用いている。

このような構造の違いによって、実は、日本及びECでは、コスト割れ違反要件説及びコスト割れ不要説の両見解において、違反要件としての費用基準(平均総費用)を超える対価のみが議論の対象範囲となる。一方、米国においては平均可変費用または平均回避可能費用は上回るものの、平均総費用を下回る対価が議論の対象範囲であり、平均総費用はセーフハーバとして認識されている。従って、米国におけるコスト割れ不要説の対象範囲は、日本及びECのような2層構造の費用基準のもとでは、議論の対象外の範囲であるということになる。

これらのことから、コスト割れ違反要件説とコスト割れ不要説のうち、どちらがより妥当であるかは、平均総費用を上回る対価をどのように判断するかによって決まることになる。

平均総費用は、当該対価にかかった共通費用をすべて含んでいるが、そのような対価が設定されたにも拘わらず、それでも排除される既存の被排除者または将来の被排除者まで保護しようというコスト割れ不要説の考え方は、競争そのものの存在を脅かす危険性を孕んでいると言える。

従って、平均総費用を上回る対価に関しては、コスト割れ不要説を適用すべきではないと思われる。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、略奪的廉売型差別対価の競争法上の規制、すなわち、ある供給者が特定の需要者に対して通常よりも安く売ることによって競争者を排除する行為に対する、日本独禁法、米国反トラスト法、EC競争法の対応を論じたものである。その際、特に、当該廉売価格が当該供給者の費用を下回っている(コスト割れである)ことを違反要件とすべきか否かという問題に注目している。

本論文第1章「独禁法における差別対価の領域」は、競争法上の差別対価規制には略奪的廉売型差別対価規制(上記)と準取引拒絶型差別対価規制の2種類があることを指摘し、米国およびECにおいて両者は「売手段階の差別対価」と「買手段階の差別対価」などという名称のもとで区別されて議論されてきていることを確認したうえで、本論文は略奪的廉売型差別対価規制に着目して論ずるのであることを宣言する。

本論文第2章「差別対価を巡るコスト議論の基本構造」は、日本・米国・ECの資料を渉猟し横断的に俯瞰しようとする本論文の中核をなす章である。

差別のない、単なる一律的な廉売については、コスト割れが違反要件になるということで意見の一致があるが、略奪的廉売型差別対価については、コスト割れを違反要件とするコスト割れ違反要件説と、コスト割れでなくても違反とされる場合があるとするコスト割れ不要説といずれを採用すべきかという点が、日本のみならず米国・ECでも論争の対象となっている。

コスト割れ不要説は、誰に対しても安く売る単純な廉売の規制とは異なる「独自性」を、略奪的廉売型差別対価規制に認めようとする考え方である。日本におけるコスト割れ不要説は、コストに関する検討をすることなく差別対価があればそれのみで違反となり得るという極端な考え方から、原則的にはコスト割れ違反要件説であるものの、「慎重」に例外を認めようとする考え方まで、その程度は様々である。公取委によるガイドライン等の文書のなかにもコスト割れ不要説の立場を採っているのではないかと見られるものがあり、差別対価を正面から扱った唯一の判決例(形式的には2つの事件に分離されたザ・トーカイ事件および日本瓦斯事件の各控訴審判決)も、限定された条件のもとでの消極的なものではあるが、コスト割れ不要説の立場を採っている。米国におけるコスト割れ不要説は、価格差そのものを容認しないRobinson-Patman法を代表者とするものであり、事例としては、Utah Pie判決のように、「意図」の重視により差別対価が違法とされたものがある。ECの事例にも、費用基準が考慮されなかったEurofix-Bauco事件、コスト割れではないにもかかわらず支配的地位にある事業者の特殊な責任および海運業の特殊性をもって違反とされたCEWAL事件、コストに関する検討はなされず支配的地位を根拠として違反とされたIrish Sugar事件がある。

他方、コスト割れ違反要件説は、差別対価の「独自性」を否定し、差別のない単純な廉売においてコスト割れを違反要件とする考え方が確立していることにも鑑みてそれと同等の違反基準を適用すべきだとするものである。日本におけるコスト割れ違反要件説は、電力ガイドラインなどに見られ、体系書や判例評釈における簡単な意見表明のレベルではむしろこちらが有力と言ってよい状況にある。米国におけるコスト割れ違反要件説は、2008年司法省報告書に象徴される。同報告書は、基準コストとして平均回避可能費用または平均可変費用を採り、それ以上の対価が違反となることはないとした。米国の事例としては、Brooke Group事件の連邦最高裁判決を代表者として、大手の航空会社による新規参入航空会社への対抗のための価格引下げが問題となったAmerican Airline事件、病院による特定の保険会社向けの治療費優遇が問題となったPeaceHealth事件、の各連邦控訴裁判所判決を挙げることができる。ECのコスト割れ違反要件説は、EC委員会による2005年の排除型濫用ディスカッションペーパーや2008年の排除型濫用ガイダンス(その後、2009年に軽微な修正を加えたうえで最終化されている)に象徴されている。そこでは、平均回避可能費用あるいは平均長期増分費用が弊害推認根拠としての費用基準とされ、平均総費用が違反要件としての費用基準とされた。以上のことから、日本・米国・ECにおいて、差別対価の独自性を否定し、できるだけ価格競争を萎縮させないようにする方向での競争当局や裁判所の動きも有力であることがわかる。

本論文第3章「2種類の費用基準の構造と差別対価」は、日本・ECでの議論と米国での議論とが、その想定する基準コストの構造において大きく相違していることを指摘する。すなわち、日本・ECにおいては弊害推認根拠としての費用基準と違反要件としての費用基準の2層構造があるのに対し、米国では、弊害推認根拠としての費用基準と違反要件としての費用基準とを区別するという発想がなく両者が同一の高さで混在した単層構造の費用基準が想定されている。

その結果、日本・ECでは、平均総費用以上の対価のみを想定しながらコスト割れを違反要件とすることの適否を論じているのに対し、米国においては、平均可変費用または平均回避可能費用は上回るものの、平均総費用を下回るような対価を想定しながら議論がなされている、という違いがある。日本・米国・ECを平板に並べ、米国でのコスト割れ不要説を日本・ECでのコスト割れ不要説の援軍とすることは、議論の進め方として必ずしも適切でないことが、示唆される。

本論文第4章「平均総費用と差別対価」は、以上のような整理のもとで、平均総費用を上回る対価をどのように取り扱うべきかを論ずる。平均総費用は、当該商品役務と他の商品役務とに共通して要した共通費用(のうち当該商品役務に配賦されるべき部分)をすべて含んでいるが、そのような平均総費用以上の対価にさえ対抗できず排除されてしまうような競争者まで保護しようというコスト割れ不要説の考え方は、価格競争を萎縮させ競争法の存在意義をむしろ脅かす危険性を孕んでいることが指摘される。

本論文第5章「結論」は、略奪的廉売型差別対価規制においてはコスト割れ違反要件説が採られるべきであるという結論を述べている。

本論文には、以下のような長所がある。

第1の長所は、略奪的廉売型差別対価規制においてコスト割れを違反要件とすべきか否かという問題について、日本・米国・ECの状況を横断的に俯瞰し、既存の研究の欠けている部分を埋めた点にある。この問題に関する法域横断的・俯瞰的な業績は、米国やECにおいても必ずしも十分ではない。日本においては、体系書や判例評釈において単発的で簡単な意見表明がなされるのみであった。

第2の長所は、本論文第3章にみられるように、基準コストが単層構造をもつ米国と、基準コストが重層構造をもつ日本・ECとでは、「コスト割れ」「コスト以上」と述べる際に暗黙のうちに前提としているコストのイメージに大きな懸隔があり、その点が従来の議論の混乱をもたらしていることを明確に指摘した点にある。

第3の長所は、以上のような議論が、観念的・抽象的なものにとどまらず、具体的事例に即した実際的な資料に根差しておこなわれている点である。実務の影響力が強いこの分野において、実務から一定の距離を保ちつつ理論的・実務的な貢献をなすための条件を、本論文は備えているように思われる。

他方で、本論文には以下のような点があることも否めない。

第1に、個々の立法や事例の背後にある歴史状況・政治状況・社会状況に対する踏み込みがいま一歩足りず、個々の資料に表れた法的基準のみを抽出して論じているという面がないわけではないため、その論述が必ずしも深みをもたないように見える箇所が散見される。

第2に、本論文で指摘されたような日本・ECと米国との間の差異を、略奪的廉売型差別対価規制のみならず、取引拒絶等の規制をも含めた競争者排除規制の全体のなかへと昇華させ、競争法に関する各国ごとの基本的考え方の違いをめぐる理解の深化へと繋げていこうとする視点を、やや欠いているきらいがある。

もっとも、以上のような点は、先に掲げた長所を損なうものではない。そして、母国語が日本語でも英語でもない筆者が、自国語・自国法によらずこのような研究をまとめたことは、多とすべきであるように思われる。

以上から、本論文の筆者が自立した研究者あるいはその他の高度に専門的な業務に従事するに必要な高度な研究能力およびその基礎となる豊かな学識を備えていることは明らかであり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

以上

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