学位論文要旨



No 125392
著者(漢字) 信岡,朝子
著者(英字)
著者(カナ) ノブオカ,アサコ
標題(和) 自然をめぐる対話 : 20世紀日米間における〈環境〉表象の交錯
標題(洋)
報告番号 125392
報告番号 甲25392
学位授与日 2009.10.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第934号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 今橋,映子
 東京大学 教授 井上,健
 東京大学 教授 金森,修
 東京大学 准教授 矢口,祐人
 筑波大学 教授 宮本,陽一郎
内容要旨 要旨を表示する

本論は、20世紀という時代における日米間での自然、あるいは〈環境〉というトピックをめぐる多彩な表象群が、時代毎にどのような交錯を見せ、またそうした交錯の様相が、現代の日本における自然観、あるいは環境保護イメージの形成にいかなる影響を与えてきたのかという点を、主に3つのケーススタディーを通じて多角的に検証するものである。

1980年代以降、「環境問題」なるものがより無国籍化、グローバル化する過程において、欧米、特に北米・カナダを中心とする「アングロサクソン系の諸国での議論の蓄積」(鬼頭秀一)をもとに構築されたいわゆる「環境思想」というものが、日本国内にもさかんに流入するようになってきた。しかし、ロマン主義以降の北米で構築された「原生自然=ウィルダネス」のイメージに強く影響された環境思想の理念が、日本を含む非欧米圏においても応用可能な普遍的原理であると言えるのかという疑念も、主に非欧米圏の研究者らの間で次第に浮上しつつある。

とりわけ、北米を起源とする近代的な〈環境〉をめぐる諸概念の多くは、ユダヤ・キリスト教的原理に規定された西洋の「搾取的」自然観と、また仏教をはじめとする東洋宗教の世界観に基づく、東洋の「調和的」な自然観との二項対立という、東西二元論的な思考モデルを基盤として構築されている。この東西二元論的モデルに基づく自然観認識を、「環境の時代」と呼ばれる1960年代以降に広く世に知らしめたのが、北米の歴史家であるリン・ホワイト・ジュニア(Lynn White Jr.)が1967年に『サイエンス』誌上に発表した、「今日の環境危機の歴史的起源」("The Historical Roots of Our Ecological Crisis") という小論であったと言われる。このリン・ホワイト的な、世界の多様に存在する自然観を東西で二分類するような思考モデル、またこうした東西二元論に基づき、非欧米圏の人々を「エコロジカルな他者」として理想化するような傾向は、しかし1990年代以降、主に人類学者らを中心に「緑のオリエンタリズム」などと呼ばれ、西洋中心主義的なオリエンタリズムの一形態として批判されるようになる。

こうした動向を踏まえ、本論は、19世紀末以降、主に北米の自然観を基盤に派生した〈環境〉にまつわる近代的諸思想が、文学作品や写真などの表象群を通じて、日本を含む非西欧圏に具体的にどのような経緯を経て流入し、その自然や環境についての認識にどのような影響を及ぼしてきたのかという点を、3つのケーススタディーをもとに検討しようとするものである。

論文全体の大まかな流れとしては、まず欧米、特にカナダ・北米を中心とするアングロサクソン的な自然観を色濃く反映していると言われる「環境思想」なるものの成り立ちを、歴史的・イデオロギー的起源に遡ってまとめていく。その上で、アングロサクソン的自然観に基づく「環境思想」を基盤として派生した、〈環境〉をめぐる多様な表象群が、20世紀という時代に日米間でどのような交流の様相を見せてきたのかという点を、具体的事例を通じて通史的に描写することを目指す。その際、いわゆる従来論が依拠しがちであった、東西二元論的な日米文化論のモデルを意識的に脱却する意図から、本論は特に、各事例が置かれた時代的・社会的文脈を、できる限り詳細に描写することを重視する。これによって、自然や〈環境〉にまつわる多様な価値観が、実際の文化的事象が展開する中で、想定や予測を超えた、互いに複雑な交錯を見せている様を実感することができるであろう。

その意味で本論は、日米という関係性に特化しながらも、その対立構造をあえて意識せずに論じるという、いささか矛盾した手法を用いていることにもなる。しかしこうした実験的な取り組みにより、従来論がしばしば陥ってきたような、相互に対称を成す東西文化の存在をむしろ幻出させてしまうような「自然観研究」の在り方を克服し、自然や〈環境〉にまつわる諸思想が、文学作品や写真といった表象群を通じて、より具体的に交錯し影響し合う現場を出来るだけそのまま捉えるような、新しい歴史記述の方向性を提示できるのではないかと考える。言いかえれば本論は、東西、あるいは日米といった枠組みから零れおちてきた、より多彩なレベルの「異文化遭遇」の諸相をあえて拾い上げることを意識している。それにより、いわゆる不変的かつ一枚岩的な「文化」同士の遭遇という図式をはみ出すような、歴史の流れの中で積み重なってきた多様な価値観が、実際の事例の中で時代や文化圏を超え、偶発的に共鳴し合い、相互の思想の変容に加担していく様を、おぼろげながらも確認できるのではないだろうか。

各章の具体的な内容をまとめると、まず第I章「野生への恐れと憧れ――シートン『動物記』と近代自然保護思想の萌芽(1890~1950)」では、日本では動物物語作家として有名なE・T・シートンによる作品の、日米受容の差異について取り上げる。世紀転換期の北米において、動物物語作家として高い人気を誇っていたシートンは、しかし1900年代に動物の生態描写をめぐるある論争に巻き込まれたのをきっかけに、作家としての名声を失い、今日では「忘れられた作家」などと呼ばれることもある。そのシートンの作品は、1910年代に入り、今度は日本で盛んに翻訳・出版され、絶大な人気を博すようになるのである。このように第一章においては、日米におけるシートン作品の受容の温度差、あるいは「シートンの動物物語」という共通の因子が日米間を移動する中で経験した、作品評価の変遷を分析することで、世紀転換期の両国において、自然、あるいは野生動物なる存在について、いかにそれぞれに異なる価値観や時代的コンテクストが用意され、それが作品の社会的位置づけや意味づけにいかなる影響を及ぼしたのかという点を記述していく。

続く第II章「汚染のイコンと物語化――W・ユージン・スミス『水俣』と公害の写真表象(1950~1970)」では、第二次大戦後、「公害先進国」となった日本を象徴するイメージともなった、熊本水俣病の写真表象について取り上げる。日本の高度成長期に顕在化した様々な公害病の中でも、特に熊本水俣病は、いわゆる「フォトジェニックな」現象として多くの人々の関心を集めてきた。とりわけ、水俣病の存在を世界に知らしめ、今日でも人々の記憶の中で強い影響力を発揮し続ける一連の写真を撮影したのが、アメリカのフォトジャーナリスト、W・ユージン・スミス(W. Eugene Smith)である。そのスミスによる水俣の悲劇を捉えた写真、中でも、胎児性水俣病患者である上村智子さんの入浴場面を撮影した一枚の写真は、20世紀の報道写真の中でも最高傑作として、これまでも国際的に高い評価を受けてきた。しかし、この写真に対する賞賛の影に隠れるような形でこれまで見過ごされてきたのが、公害の生き証人としてカメラに収められ続けてきた患者たちの、口にできない意思や想い、あるいは願望の存在である。本章は、ユージン・スミスという偉大なフォトジャーナリストの、公害被害者の苦しみを世界に伝えようという「善意」の産物であるはずの一枚の写真が、様々な社会的・文化的要素との絡み合いの中で、むしろ被写体となった患者家族を追い詰め、苦しめるように作用していくというアイロニーと、そうした皮肉な状況が生み出されるに至った社会的背景や、公害写真の社会的機能に対する世論の認識の歪みなどについて論じる。その上で、最終的には、公害をはじめとする環境破壊の被害を伝達・表現すること全般の問題点や、その限界について考察する。

続く第III章「問いかける自然――写真家・星野道夫のアラスカ体験(1970~2000)」では、日本に生まれ、その後北米アラスカに拠点を構えて、現地の野生動物や風景写真を生涯撮り続けた写真家、星野道夫について取り上げる。1996年、星野は、ロシアのカムチャッカ半島においてヒグマに襲われ、不慮の死を遂げた。その死をめぐっては、星野の死が報じられて以後、日米両国で様々な批判が飛び交ってきたのである。

そうした批判の背後には、実のところ、歴史的な時間の積み重ねの中で、都市住民の中に無意識的に醸成されてきた、「都市の敗北」への恐れが隠されている。また星野道夫が生前成し遂げた様々な仕事、とりわけ、彼が生涯をかけて追求し続けたアラスカ狩猟民の世界観や、アラスカという土地自体が持つ思想的意義についての星野独特の解釈というものが、その死後、様々な形の「評価」に晒される中で、本来の思想的「いびつさ」は次第に馴染みのある形に削り取られ、一般大衆の目からは見なれたものへと次第に整えられていく。そうした目に見えない修正が繰り返されたことで、星野が18年間ものアラスカとの関わりの中で到達した独自の思想は、遺された誰によっても明確に把握されないまま、時とともに葬り去られる危機に晒されているのである。こうした前提のもとに第III章では、星野の仕事に対する現代の様々な評価が内包する、星野の世界観に対する「誤解」の存在を見極め、またそれらを、星野が実際に書き記した言葉をもとに丹念に修正していくプロセスの中で、生前の星野が、アラスカにおいて実際に感じ取り、伝えようとしたものが果たして何であったのかを、より正確に測定し、描写することを目指すものである。

そして終章では、特に比較文学・比較文化研究という分野との関連から、「環境」にまつわる研究というものを考えた場合、おそらく最も関連性があると思われる「環境文学」研究、あるいは「エコクリティシズム」と呼ばれる新しい文学批評の可能性と、その限界について論じていく。中でも、文学作品のみならずあらゆる事物を「テクスト」として読みこなし、またクロス・エリアの視点から「異文化理解」という問題に積極的に取り組んできた「比較文学・比較文化」研究の観点から、今後「環境」なるトピックについていかなる研究上の貢献をなしうるのかという点を、「環境」という課題について真に「学際的」な研究状況を実現するには、今後いかなる方向性を模索する必要があるのかという点も含めて、いくつかの具体的提言を行う中で議論していく。

審査要旨 要旨を表示する

本論文「自然をめぐる対話――20世紀日米間における〈環境〉表象の交錯」は、19世紀末以降、北米の自然観を基盤に派生した〈環境〉をめぐる様々な思想や文化現象が、特に文学作品や写真などの表象を通じて、日本を含む非西欧圏にどのように移入し、またそれをいかに読み直すべきかを追究した意欲作である。

1980年代以降「環境問題」が、より無国籍化、グローバル化する過程において、特に北米を中心に構築されたいわゆる「環境思想」が、日本国内にも流入するようになった。しかし、ロマン主義以降の北米で構築された「原生自然=ウィルダネス」のイメージに強く影響された環境思想の理念が、日本を含む非欧米圏においても応用可能な、普遍的原理と言えるのかという疑念が、近年浮上しつつある。

そうした研究動向を受け、本論では、いわゆる従来論が依拠しがちであった東西二元論的な日米文化論のモデルを意識的に脱却するという意図から、各事例が置かれた時代的・社会的文脈の詳細を、徹底的に解明するという手法が取られている。それにより、自然や〈環境〉にまつわる多様な価値観が、実際の文化的事象の中で、本来の想定を超えた複雑な交錯を見せていく様を、できるだけ詳細に記述することを目指すという点に、本論の特徴があるといえよう。

本論は全体が三章で構成され、それがゆるやかに、1900年前後から1980年代に至るまでの通史的な記述としても機能している。

第I章「野生への恐れと憧れ――シートン『動物記』と近代自然保護思想の萌芽(1890~1950)」では、日本でも有名なE・T・シートン(Ernest Thompson Seton)による動物物語の日米受容の問題を論じている。北米ではいまやほとんど忘れられた作家であるシートンが、なぜ1910年代以降の日本でこれほどの人気を得るに至ったか――アメリカの世紀転換期における動物生態描写を巡る熾烈な論争の中で、シートンが意図的に排除されていく様と、一方で日本における平岩米吉をはじめとする「動物物語」の創出へ直接的な影響を及ぼした様を、詳細に描写するとともに、世紀転換期アメリカにおける自然保護思想の問題点を、鋭くあぶり出している。

続く第II章「汚染のイコンと物語化――W・ユージン・スミス『水俣』と公害の写真表象(1950~1970)」では、第二次大戦後、いわゆる「公害先進国」日本を象徴するイメージともなった、熊本水俣病の写真表象が取り上げられる。熊本水俣病の研究は、とりわけ医学や社会学の分野で膨大な研究が蓄積されてきた。またメディア学の中では新聞雑誌報道の言説研究もすでに盛んである。本章で筆者は、そうした従来研究を緻密に解析した上で、公害を象徴し記憶する機能を果たす図像として繰り返し使用されながら、意外にもほとんど手つかずであった写真について、初めてまとまった論述を行っている。

とりわけ、水俣病の存在を世界に知らしめたアメリカのフォトジャーナリスト、W・ユージン・スミス(W. Eugene Smith)、およびスミスと同時代に重要な仕事をなした日本人写真家・桑原史成を取り上げ、雑誌掲載図像から写真集に至る異同、および両写真家における表象の差異とその所以を、テクスト研究の手法で明らかにした功績は大きい。さらに筆者は、ユージン・スミスによる胎児性水俣病患者・上村智子さんを撮影した一枚の写真が、遺族による永久掲載不許可に至った経緯を追究することで、環境破壊の被害を伝達し、表現するアポリアについても考察を深めている。

続く第III章「問いかける自然――写真家・星野道夫のアラスカ体験(1970~2000)」では、日本に生まれ、その後北米アラスカに拠点を構え、野生動物やアラスカの風景の写真を生涯撮り続けた写真家、星野道夫が論じられる。彼が生涯をかけて追求し続けたアラスカ狩猟民の世界観や、アラスカという土地自体が持つ文化的・思想的意義についての星野独特の解釈は、熊に襲われた不慮の死後、様々な形の「評価」に晒され、変質していく。筆者は、アメリカにおける先住民族研究の蓄積を十分に踏まえた上で、日本におけるいわゆる「ネイチャーフォト」の不自然な流行と、星野道夫の写真への皮相的な評価に修正を迫り、生前の星野が18年もの時間をかけてアラスカとの関わりの中で到達した思想を明らかにした。

審査会ではまず一致して、この論文を構成する3つの章それぞれの完成度が極めて高いことが評価された。選び出したテーマの的確さ、一次資料を読み解く力、基盤となる理論への精通、関係文献を渉猟する徹底度と共に、本文を叙述する日本語の正確さやしなやかさも、長所といえよう。

その成果を高く評価し、刊行本となることを期待しつつ、各審査委員からさらなる問題点として指摘されたのは、参考文献の書式の問題をはじめとして、ヨーロッパの世紀転換期の思想や文化をさらに当該論文の文脈に組み込む必要性、エコクリティシズムを扱う関係上フェミニズムの視点を導入する必要性、そして特に、今回並置された3つの章をいかにつなぐかという論理上の必然性について、などである。

完成度の高い三章が、信岡氏が本論で主張するような「実りある具体例」としてより機能するためには、三章の論理的接合力を強化すべきか、あるいは逆に、今後はさらに拡大した独立論考として完成すべきかという点に関しては、審査会でも様々な提言が出された。

しかし以上の指摘は、あくまでも今後の進展への希望として語られたものであり、本論文の価値を損なうものではないことも確認された。

以上の審査結果を踏まえて、本審査委員会は全会一致で、本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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