学位論文要旨



No 125398
著者(漢字) 山,順
著者(英字)
著者(カナ) タカヤマ,ジュン
標題(和) 線虫Caenorhabditis elegans 味覚神経ASEにおける左右非対称性の解析
標題(洋) Analysis of left/right asymmetey in the ASE gustatory neurons of the nematode Caenorhabditis elegans
報告番号 125398
報告番号 甲25398
学位授与日 2009.10.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5438号
研究科 理学系研究科
専攻 生物化学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 坂野,仁
 東京大学 教授 中井,謙太
 東京大学 教授 能瀬,聡直
 東京大学 教授 飯野,雄一
 東京女子医科大学 教授 三谷,昌平
内容要旨 要旨を表示する

動物の行動は、多様な神経細胞が複雑に相互作用する神経系によって引き起こされる。個々の神経細胞が形態的・機能的に多様な個性を有することは、神経系が全体として調和のとれた機能を発揮するために必要である。細胞の個性はそこで発現する遺伝子群により規定されると考えられる。したがって個々の細胞ごとに発現遺伝子群を同定することは、細胞の個性獲得・維持、またその細胞固有の機能発現メカニズムを解明する上で重要である。特に感覚神経系は環境の様々な刺激を感知するために、個々の神経が多様な機能・形態を備えており興味深い解析対象の一つである。

線虫Caenorhabditis elegansは神経系を構成する神経細胞がすべて同定されていることと、全ゲノム塩基配列が解読されていることから、神経細胞の遺伝子発現プロファイリングを行うのに適したモデル生物である。これらに加えて種々の分子遺伝学手法が可能であることと、体が透明であり蛍光レポータータンパク質を発現させた細胞をin vivoで観察できることから、個々の細胞の発生・機能解析が容易に行えるという利点がある。

線虫のアンフィド感覚神経は機能および発生メカニズムが詳しく解析されている。アンフィドは線虫の頭部にある主要な感覚器官であり、左右一対の2細胞を一組とした12種24細胞から構成される。このうちのASE感覚神経は塩やアミノ酸等の水溶性物質を受容する味覚神経であり、左側のASEL細胞と右側のASER細胞からなる。興味深いことにASEL細胞とASER細胞は形態が同一であるにもかかわらず、発現する遺伝子や機能に差異があることが知られている。例えば膜貫通型グアニル酸シクラーゼをコードするgcy-5遺伝子はASER神経に、gcy-6およびgcy-7遺伝子はASEL神経にそれぞれ特異的に発現する。またナトリウムイオンは主にASEL神経で、塩化物イオンやカリウムイオンはASER神経でそれぞれ受容される。左右非対称な遺伝子発現を制御する機構は詳しく調べられてきたが、どのようなシス制御により実現されるか、またそれぞれの細胞に固有の機能がどのような発現遺伝子群により実現されているかは不明な点が多かった。私は本研究で単一の神経細胞から転写産物を選択的に濃縮する手法を確立し、'マイクロアレイと組み合わせることでASE神経において左右非対称に発現する遺伝子を複数同定した。またASE神経における左右非対称な遺伝子発現を実現するシス制御メカニズムの解析、および左右非対称に発現する遺伝子の機能解析を行った。

単一の神経細胞からの選択的な転写産物の濃縮は、mRNA tagging法を適用することで実現した。mRNA tagging法は、mRNAの3'末端にあるポリA鎖に結合するポリA結合タンパク質(PABP)の性質を利用した抽出法である。エピトープタグを融合したPABP(FLAG::PABP)を細胞特異的プロモーターにより標的細胞に発現させ、標的細胞内で形成されたFLAG::PABP/mRNA複合体を架橋後、エピトープタグを手がかりに免疫沈降する。ここからRNAを溶出することで、標的細胞で発現する転写産物を選択的に濃縮する。本手法はこれまで筋肉や腸など比較的大きな組織に対して適用されてきたが、私はmRNA tagging法が一個体当たり一個しか存在しない神経細胞に対しても適用可能であることを示した。

ASELおよびASERから選択的にmRNAを濃縮するため、それぞれgcy-7遺伝子およびgcy-5遺伝子のプロモーターの下流にFLAG::PABPをつなげたDNAコンストラクトを作製し、これらを染色体に組み込んだ線虫株を作製した。抗FLAG抗体を用いた抗体染色により、これらの株がFLAG::PABPを頭部の細胞で発現していることを確認した。これらの株からmRNA tagging法によりRNAを抽出し、それぞれの細胞特異的に発現する転写産物の量を定量的RT-PCR法により比較した結果、確かに細胞特異的な転写産物が濃縮されることがわかった。ASELおよびASERで発現する新規遺伝子を同定するため、それぞれの細胞から濃縮したRNAに含まれる転写産物量をマイクロアレイにより網羅的に比較した。濃縮したRNAに含まれる標的細胞由来のmRNA量は比較的少ないと考えられたので、T7プロモーターを用いたin vitro転写による線形増幅を行った。線虫のほぼすべての遺伝子に対応するオリゴヌクレオチドがスポットされたマイクロアレイにハイブリダイゼーションを行った。その結果、左右非対称に発現することが報告されている13遺伝子のうち12遺伝子が期待通りに偏ったシグナル比を示した。またマイクロアレイの結果に基づいて選択した遺伝子のプロモーター領域を蛍光タンパク質に融合して線虫に遺伝子導入することで、ASELまたはASERに偏って発現する9遺伝子を新たに同定した。ASE神経で左右非対称に発現する遺伝子としては、これまでに膜貫通型グアニル酸シクラーゼをコードする遺伝子(ASEL:gcy-6,gcy-7,gcy-14,gcy-20;ASER:gcy-1,gcy-3,gcy-4,gcy-5,gcy-22)や分泌性タンパク質をコードする遺伝子(ASEL: .flp-4,flp-20;ASER:hen-1)が報告されていた。本研究で新たな膜貫通型グアニル酸シクラーゼとしてgcy-19を、分泌性タンパク質としてnlp-5、nlp-7(神経ペプチド様タンパク質)およびins-32(インスリン様ペプチド)を同定した。またTRPCチャネルをコードするtrp-2遺伝子が左右非対称に発現することも見出した。さらに線虫Caenorhabditis属に保存された4遺伝子C39D10.5、EGAP5.1、F08G12.8およびKO7C5.9も左右非対称な発現を示すことを見出した。

新規に同定された遺伝子の発現制御機構を調べるため、これまでに報告されている制御因子であるlsy-6/マイクロRNAおよびlim-6/LIMホメオドメイン転写因子の左右非対称な発現への寄与を調べた。それぞれの機能喪失変異体でASE神経における発現を調べたところ、調べたもののすべてがlsy-6に依存し、ほとんどがlim-6に依存していることがわかった。またASE神経のマスター制御転写因子であるCHE-1/C2H2ジンクフィンガー転写因子の寄与を調べるため、CHE-1が結合するDNA配列(ASEモチーフ)がプロモーター領域に存在するか調べた。その結果、新規に同定したASER神経に偏って発現する遺伝子のプロモーター領域に、ASEモチーフが存在することを確かめた。

ASE神経で左右非対称な発現を実現するためのシス制御メカニズムには不明な点が多かった。私はASEで発現する新規に同定した遺伝子と今まで報告されていた遺伝子について、プロモーター領域に存在するASEモチーフの数を調べた。その結果ASERに偏って発現する遺伝子の1プロモーター領域あたりに存在するASEモチーフの数が、ASELに偏って発現する遺伝子のそれよりも多いことを見出した。またASEモチーフを構成する12塩基対の4塩基目および7塩基目における各塩基の出現頻度が、ASELに偏って発現する遺伝子とASERに発現するものとで異なっていることが示唆された。以上の結果はCHE-1/ASEモチーフによるプロモーター活性と、ASEにおける発現の左右非対称性の間に相関があることを示唆している。

左右非対称に発現する膜貫通型グアニル酸シクラーゼが、ASE神経の左右非対称な機能に関わるか検討した。ASEL細胞に偏って発現するgcy-14遺伝子およびASER細胞に偏って発現するgcy-19遺伝子の欠失変異体を作製し、各種イオンに対する化学走性に欠損が生じるか調べた。その結果gcy-14欠失変異体が、ASEL細胞で受容されるナトリウムイオン等への化学走性に欠損を示すことがわかった。野生型gcy-14遺伝子を遺伝子導入することにより、この欠損はASEL細胞にgcy-14を発現させることで回復することが明らかになった。このことは膜貫通型グアニル酸シクラーゼが細胞自律的に外界の化学物質の受容に関わることを示している。

本研究により単一神経細胞の遺伝子発現を網羅的に調べる手法を確立した。また単一神経細胞の遺伝子発現プロファイリングが、その細胞の発生および機能発現メカニズムの解明につながる有効な手法であることを示した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は6章からなる。第1章は序論であり、研究の主題および手法の背景を概説している。具体的には神経細胞の個性獲得メカニズムの解析に線虫Caenorhabditis elegansを用いることの利点が述べられ、ついで線虫の感覚神経系の構成・機能とその分化メカニズムについて、および細胞特異的遺伝子発現プロファイリングを行う既存の手法について述べている。また研究の対象として左右一対の味覚神経AS肌細胞とASER細胞が異なる機能を持つことを挙げ、その運命決定メカニズムおよび機能的差異を実現する分子メカニズムの解明を目的としている。第2章は材料と方法である。主に単一細胞からの転写産物の抽出方法、プロモーター融合蛍光レポーター実験の方法、DNAモチーフ解析の原理、化学走性アッセイおよび遺伝子導入による表現型レスキュー実験について述べられている。第3章は結果と考察であり、大きく分けて以下の5点について述べられている。第一に単一神経細胞からの転写産物抽出の戦略について述べられている。すなわちRNA結合性タンパク質を特定の細胞に発現させ、免疫沈降法により抽出したRNA・タンパク質複合体から転写産物を精製する手法にいて説明し、本手法を単一の感覚神経細胞に適用した際の評価を行っている。第二にマイクロアレイ法および蛍光レポーター実験による、細胞特異的な発現を示す新規遺伝子の同定について述べられている。マイクロアレイは蛍光色素の交換を含む系統的な実験計画に基づいて行われている。また数十の遺伝子について発現解析を行い、ASEL細胞およびASER細胞に発現する遺伝子を複数同定したことが報告されている。第三に左右非対称な細胞特異的遺伝子発現を制御する分子メカニズムの解析について述べられている。既知の分化メカニズムに関わる遺伝子の変異体を用いて発現解析が行われ、ASE細胞の運命決定を制御する機構の普遍性が示されている。第四にDNAモチーフの構成から細胞分化を説明する仮説が提示されている。すなわち左右非対称に発現する遺伝子のプロモーター領域を解析することで、ASEモチーフと呼ばれる塩基配列の構成と細胞特異的発現の間に相関を見いだし、またモチーフの配列および数を変化させることで、発現パターンに仮説から予想される変化が生じることを示している。第五に感覚神経細胞特異的に発現する膜貫通型グアニル酸シクラーゼ(GCY)の機能解析について述べられている。AS肌細胞に特異的に発現するGCY-14が特定のイオンの受容に関与し、また細胞自律的に機能することを示している。さらに変異型グアニル酸シクラーゼを用いた実験により、機能ドメインの特定およびヘテロ二量体として機能する可能性の指摘を行っている。第4章は結論であり、単一神経細胞の遺伝子発現プロファイリングが細胞の運命決定機構および細胞固有の機能を実現する分子メカニズムの解明に役立つ手法であることが述べられている。第5章では謝辞が述べられている。第6章は参考文献である。

既存の研究と比較した際、本研究の新しい点または意義のある点として以下の5点が挙げられる。第一に単一の神経細胞から転写産物を抽出するというこれまで成し遂げられていなかった手法を確立したことである。第二に本手法を適用することで線虫の左右一対の味覚神経細胞の遺伝発現を網羅的に比較し、各細胞に特異的に発現する遺伝子を新規に複数同定することに成功したことである。第三にこれらの遺伝子の制御機構を解析することにより、既知の分化メカニズムの一般性を示したことである。第四にプロモーター領域の解析から、左右非対称な遺伝子発現を実現する分子メカニズムについて新規の仮説を提示し、また検証実験を行ったことである。本仮説はDNAモチーフの塩基構成およびモチーフの個数から細胞分化を説明するという点で独特のものである。第五に膜貫通型グアニル酸シクラーゼが特定のイオンの受容に必要であることを示し、変異型グアニル酸シクラーゼを用いた解析からその機能様式にいて推測したことである。特に、膜貫通型グアニル酸シクラーゼが外界の金属イオンを認識する新たな化学受容体分子として機能する可能性に言及している点が重要である。

なお、本論文は、Serge Faumont國友博文、Shawn R.Lockeryおよび飯野雄一との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析及び検証を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

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