学位論文要旨



No 125408
著者(漢字) 永瀬,節治
著者(英字)
著者(カナ) ナガセ,セツジ
標題(和) 近代日本における参詣空間の創出に関する研究 : 明治期から昭和前期にかけての参詣をめぐる社会的文脈と空間づくり
標題(洋)
報告番号 125408
報告番号 甲25408
学位授与日 2009.12.11
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第7180号
研究科 工学系研究科
専攻 都市工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 西村,幸夫
 東京大学 教授 北沢,猛
 東京大学 准教授 窪田,亜矢
 東京大学 教授 伊藤,毅
 東京大学 准教授 小野,良平
内容要旨 要旨を表示する

(本文)本論文は、近世までに成立した、信仰と余暇の両面を孕んだ社寺参詣の文化と、その受け皿としての「参詣空間」のあり方を基軸に捉えながら、明治期から昭和前期に至る近代の社会的文脈のもとでの、参詣をめぐる空間づくりの実像を捉えるものである。各章の要旨は以下の通りである。

■ 第1章 参詣空間の原像と近代の作用

1章では、近世にかけての社寺参詣の文化の成立と、それらを取り巻く信仰環境、参道、門前町の成立のあり方や空間形態の特色ととともに、そのような空間に対する近代の作用因を捉えた。信仰と遊覧の両面を孕んだ参詣のあり方は、近代以降にも通底するものであり、そのような行為を包含する基本的な参詣空間の構成は、近世において完成をみていたが、近代にもたらされた国家神道、鉄道、空間計画技術という3つの要因が、そのような空間のあり方を「増幅」あるいは「変容」させるものとして作用していったことを指摘した。

■ 第2章 近代における参詣空間の諸相

2章では、明治期から昭和前期に至るまでの参詣空間の様相について、「境内」、「みち・門前町」、「創建神社」、「周辺環境」という4つのテーマを設定し、それらの創出のあり方について、特徴的な事例や社会背景等に触れながら、俯瞰的把握を試みた。このような空間は、伝統的な様相をまといながらも、近代の新たな社会状況に対応しながら、さまざまな形で創出されていった。特に神苑の設置や創建神社のように、国家神道体制の影響が窺える空間の場合も、実際には国家的な意図以上に、地域の側の文脈に規定されながら、時に俗的要素を取り込みながら形成されていった側面があることを指摘した。そしてこのような参詣空間創出をめぐるあり方は、昭和前期まで通底するものであることを示した。

■ 第3章 参詣地における近代交通空間の受容 -「参詣路線」の敷設された参詣地に着目して-

3章では、従来の参詣道に代わる交通路であり、参詣地の様相を大きく変容させたと考えられる鉄道等の交通機関のうち、特に参詣客輸送を積極的に担ったと考えられる「参詣路線」について、全国の事例を抽出し、それらの参詣地空間における開業動向と敷設形態を捉えた。

これらの路線は、明治中期から昭和前期に至るまで、全国で盛んに敷設され、参詣地の立地条件等に規定されながらも、新たな参詣空間の構成要素として挿入されていった。また複数の路線が敷設され、参詣地の空間再編が進められる場合は、周辺の参詣地を路線網で連絡することにより、巡礼ネットワークの形成が図られるケースも見られた。

このような路線敷設は、既存の参詣道に沿って形成された参詣地の空間構成を、駅を起点としたものへと再編していったと同時に、誘客による地域振興の前提条件となったことを指摘した。

さらに付論として、昭和前期までに竣工した代表的な「社寺風駅舎」を取り上げ、それらの竣工をめぐっては、いくつかの地域的・時代的文脈が存在したことを指摘した。

■ 第4章 鉄道敷設を契機とした出雲大社・神門通りの創出過程

4章では、国鉄大社線の敷設を契機とした出雲大社・神門通りの創出過程を跡づけた。

明治末年に開業した大社駅は、門前の東西二地区による誘致争いを鉄道院が調停する形で、市街地から離れた地点に位置が定められ、これにより、出雲大社への新たな直通道路が整備されることとなった。当時の高岡知事は、県会において「天下ノ大社」に訪れる参詣客のためにぜひとも必要であることを主張し、県費による築造が決定された。これにより、既存の参道の軸線を延長したシンボリックな形態をもつ道路が築造された。また高岡知事の尽力の背景として、初の島根県出身知事としての気概とともに、前任地の宮崎において実施されていた宮崎宮の整備事業からの感化を推察した。

道路開通の翌年、県出身の篤志家によって、鉄筋コンクリート造の新大鳥居が建造され、沿道には松並木が植樹された。直通道路の築造とこれらの景観創出は、神域の拡張として認識され、新大鳥居の竣工を機に、「神門通り」の名が与えられた。

このような神門通りの創出過程は、全国に名を馳せる出雲大社を、郷土の拠り所として自覚する地域の人々の思いを束ねるプロセスとして捉えられることを指摘した。

■ 第5章 都市計画街路事業による明治神宮表参道の成立過程

5章では、大正期の市区改正事業により計画された明治神宮表参道の成立過程を跡づけた。

神宮ノ森厳」の確保と、多数の参拝者への対応が要請される表参道の計画をめぐっては、計画者側は余裕のある歩道幅員と植樹帯を重視した案を提示したが、車両交通を重視する論調の中で、最終的に総幅員20間、中央車馬道12間、両側歩道各4間の設計内容が決定された。

その後、歩道幅員を3間として施工する手違いが生じ、未舗装で植樹もなされないまま供用が開始された。これを機に、庭園協会理事会は改良案として、参道とブールウ゛ァールとしての性格を兼ね備えた空間像を提示した。一方、鎮座祭以降の参拝者の通行実態により、4間の歩道幅員や植樹の有用性が実証されることとなり、翌年の都市計画委員会において、当初設計への歩道改修と舗装、植樹等を施す計画が承認された。

欅並木は、街路樹としてはじめて本格的に導入されることとなるが、優れた樹形が壮麗な参宮道路の風致創出に適ったものであると同時に、関東には著名な欅並木の参道が存在していたことも、樹種の妥当性を裏付ける一因になったと考えられる。

近代的な並木街路としての性格を備えた表参道の空間は、神宮へ至る記念碑的な「参詣空間」として明確に位置づけられたことで、成立に至ったと考えられる。

■ 第6章 昭和前期における出雲大社神苑の成立と観光振興

6章では、大正期から昭和前期にかけて実施された出雲大社の神苑整備事業の経過を捉えるとともに、当時の島根県の観光振興の動きに着目し、竣工した神苑に付与されていった意味について考察を行った。

神域の拡張と森厳な風致の創出を意図した神苑の設置は、高岡知事のもとで具体化し、宮内技師の市川之雄に設計が委嘱されるが、並行して神門通りの計画も進められており、両者は一体の空間として構想されたものとみなされる。後に市川による設計は、出雲大社に相応しくないとして退けられ、新たに伊東忠太に設計が託された。その後、国費補助の決定を受けて、寄付金の受け皿として神苑会が設立され、県を挙げた一大事業として着工された。

一方で、大社線の敷設を機に、全国からの多くの参詣客を迎えることを動機として構想された神苑は、当初から誘客施設としての性格を孕むものであった。起工後には、当時の山陰線の旅客輸送の中核を担っていた大社駅が、社殿風の壮麗な駅舎へと改修された。

昭和前期の観光ブームの中で、出雲大社の存在により多くの来訪者を得ていた島根県では、島根半島を中心に観光インフラの整備が進むとともに、県観光協会が設立され、観光振興が積極的な展開をみせるが、出雲大社はそのイメージの中心に据えられていった。

この間に、神門通りには新たな門前町が生成されていった。神苑が孕んだ両義的な性格は、その延長としての神門通りに、松並木と門前町がせめぎあう独特の景観をもたらしたと言える。

■ 第7章 参詣空間の原像と近代の作用

7章では、紀元2600年祝典記念事業として実施された、橿原神宮を中心とした一連の空間整備事業の経緯と背景について明らかにした。

明治23年に創建された橿原神宮においては、大正12年に大軌橿原線が敷設されることで、付近には商店が並び、俗化が進んでいた。そのような中、畝傍町長と奈良県の積極的な働きかけにより、紀元2600年記念事業が誘致されることとなり、大規模な境域拡張と、周辺空間の整備が図られることとなった。境域の拡張は、付近の民家と鉄道線路の移転を伴うものであり、13年に畝傍都市計画が決定され、街路事業と土地区画整理が実施されるとともに、奈良県奉祝会により外苑(橿原道場)も整備されていった。

これらの大規模な空間整備事業は3年足らずで完了し、境域の緑地と一帯となった空間計画、大和棟を基調とした総合駅をはじめ。神宮境域を中心に、市街地、街路、鉄道、文化・体育施設等を配した総合的な空間計画が実現するが、このような都市計画も、畝傍町長の働きかけによるものであった。

また奈良県では「建国の地・大和」を宣伝しながら盛んに観光客誘致を図っており、奈良を基盤に路線網を拡大する大軌も、そのような観光を支えていた。これらの地域主体の思惑が交錯する中で、国家的事業を誘致して実現した「神都」の空間は、拡張された聖域とともに、再配置された鉄道駅と「門前」の市街地によって構成され、聖と俗の両義性を備えた参詣空間の、昭和前期における到達点となった。

■ 結章

結章では、各章で得られた知見の整理を行うとともに、本論文で具体的な創出過程を跡づけた神社の参詣空間のあり方として、第一に、参詣空間が当初から孕んでいた聖と俗の両義性が、国家神道による神社の聖性の高まりと、鉄道敷設による俗性の増幅という、両極のせめぎあいの中で、境界領域としての空間の様相がさまざまに規定されていった点を指摘した。第二に、国家神道と鉄道という二つの作用因は、神社をめぐる地域の人々の捉え方においても、地域社会の心情的拠り所であると同時に、多くの来訪者をもたらすことで地域振興に寄与するという、両義的な認識がなされ、その意味で、新たな参詣空間の創出は、地域づくり的な性格をもつものであった点を指摘した。

さらに、現代の空間づくりへの示唆として、本論文で取り上げた参詣空間について、近代遺産としての保全・活用が望まれる点、さらに社会的価値が共有される中でトータルな空間創出が図られたことの意義について指摘した。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は社寺境内や参道、門前町などによって形成される一連の空間を参詣空間として一括し、その空間的社会的特性を把握することを目的としたものである。とりわけ近代において鉄道の発達などと共に変容し、新たに形成された近代的参詣空間の経緯と特質を明らかにし、その社会的文脈を明らかにすると同時に、今後の参詣空間のあり方に示唆を得んとするものである。

論文は、研究の枠組みと目的、方法を述べた序章に続いて、参詣空間の原型とその近代における展開を論じた第1部、および近代における参詣空間の実相を事例をもとに詳述した第2部、そして結論を述べる結章から成っている。

第1部はさらに参詣空間の原像を中心に論じる第1章、近代における参詣空間の変容の諸相を述べる第2章、参詣地における近代交通手段の導入と共に変化する空間構成を明らかにする第3章とから成り、付論として参詣地における社寺風駅舎の出現の背景を論じている。

第2部は事例研究として、明治初期の出雲大社門前町を論じる第4章、明治神宮表参道を対象とする第5章、昭和前期の出雲大社門前町を論じる第6章、橿原神宮を論じる第7章から成っている。

第1章は、近代の参詣空間の原型として、近世に成立した社寺参詣行動を実態を明らかにし、参道空間や門前町の主たる空間形態の特色を整理している。

第2章は、明治初年の社寺境内地の公園指定が参詣の実態を大きく変容させることとなったこと、しかし、国家神道のもとで神社の森厳さの保持が神苑整備や風致の保護などの点において突出し、寺院との差異化が行われたこと、さらに昭和初期における観光熱の高まりによって、参詣客誘致が重要な政策となり、聖と俗との交錯に特徴付けられることを明らかにしている。

第3章は、明治中期から昭和初期にかけての参詣路線の整備の全貌を明らかにした章である。地形条件や門前町の形態に留意しつつも、参詣客の利便性を優先した駅の立地が参詣空間のあり方を大きく変えていったことを明らかにしている。同時に、参詣行動が宗教的な行為ととらえられるよりも誘客による地域振興の手段と見なされるようになり、参詣空間の質的変容が進んだことも明らかにされている。

第4章から第7章は事例研究である。

第4章においては、鉄道敷設を契機とした出雲大社神門通りの創出過程が明らかにされている。シンボリックな軸線を備えた近代的な参詣空間である神門通りが成立していった過程において、神苑の延長と神門としての宇迦橋の建設の意図を明らかにしている。

第5章においては、都市計画事業による明治神宮表参道の成立過程を論じている。表参道は、日本大博覧会計画を転用した明治神宮の敷地計画のうち、唯一独自に計画され、実現したものであることを明らかにし、西欧のブールバール概念と並木を備えた神社参道概念の交錯と融合によって日本で始めてケヤキ並木が本格的に導入された例として特色があることを明らかにしている。

第6章においては、昭和前期における出雲大社神苑の成立と観光振興の関係について論じている。俗的な要素を排除し、森厳性を拡張することを目指した出雲大社神苑計画の経緯を明らかにするとともに、観光振興策の一環としての参道整備としての性格を付与された参詣空間の実情を分析し、参道並木と神門通りが連結する象徴的な動線が成立したことを明示している。

第7章においては、紀元二千六百年記念事業として構想された神都橿原とその中核である神武天皇を祀る橿原神宮の境域拡張事業の実際とその背後の思想を明らかにしている。そしてこのような大規模な空間整備事業の背景に、明治中期以降の継続的な地元の地域振興の意図があったことを論じている。

最後の結章は、それぞれの章の結論をまとめたのち、総合的考察として、参詣空間を地域づくりのひとつの基点としてとらえることにより、ある種の公共性を備えた地方の官国幣社が地域づくりのひとつの心情的拠点となり得た事情を論述している。また近代において参詣空間はより直截に地域振興の場となり得た。地域の人々に心情的にも経済的にも共有された参詣空間は、同時に地方の人々のみならず来訪者にも開かれた空間であり、独特の公共性を有していた点において、特異な地域づくりの事例として位置づけることができると論じている。

以上、本論文はこれまでまとまった論じられることのなかった近代における参詣空間の成立と展開の歴史に関して正面から論じた初めての論文として貴重である。とりわけ近代の参詣空間が一定の公共性を多方面において有していたことが独自の地域づくりを推進する契機となったという分析は、この分野の研究に新しい考察の視点を提供するものとして高く評価することができる。

よって本論文は博士(工学)の学位申請論文として合格と認められる。

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