学位論文要旨



No 125417
著者(漢字) 岡橋,純子
著者(英字)
著者(カナ) オカハシ,ジュンコ
標題(和) 都市文化遺産の保全に関する一考察 : その概念形成、フランスの事例と国際協力の課題
標題(洋)
報告番号 125417
報告番号 甲25417
学位授与日 2009.12.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第938号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 石井,洋二郎
 東京大学 教授 羽田,正
 東京大学 准教授 森山,工
 東京大学 准教授 長谷川,まゆ帆
 東京大学 教授 西村,幸夫
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、今日の人間社会とりわけ都市社会が、過去から受け継いだ土地固有の文化遺産を破壊せず活用しその価値を生かし続けることができるか、という包括的な課題を踏まえつつ、以下の命題を呈する。何を文化遺産として見出し保全行為の対象として選択するかは、その環境の中で生きる人々の価値基準を反映するものであってこそ意義があるのではないか。また、変化が必然である都市を文化遺産概念の範疇に捉える場合には、限定された専門・行政領域によって物理的な建造物修復等を行なうだけでなく、より包括的規模の保全政策が考慮されるべきではないだろうか。まずは保全対象を生み出す文化遺産という価値概念の成り立ちと発展の過程、そして保全に関する国際基準の変遷を考察し、価値の見出された都市の歴史的環境に適用される保全制度の事例に触れた上で、文化遺産の価値概念と保全制度適用との関係性およびこの分野での国際協力に際する現実的課題を論じる。

文化遺産の価値概念は人文主義、ナショナリズム、産業革命やロマン主義など、人間 社会を大きく動かす言説の潮流や社会現象を経て形成され発展してゆく。遺跡や建造物を歴史的公共財として国家が保護管理する政策思想は、絶対王政に替わる国民国家制度の整 備過程にあった大革命下のフランスにおいて、国民的アイデンティティ構築の理念に立脚したものとして誕生し、七月王政下で具体的な行政制度として実現した。都市に関しては、 都市という建築や公共空間の総体が長い間文化遺産概念の範疇に捉えられなかったのは、人々が自らの日常空間の形態を客体化して眺める機会がなかったからと考えられるが、産 業革命の影響を受けた地域では、近代化において都市空間を改造しようとする際に既存の重要性を都市計画の原則の内に確立し、後のマルロー法にも影響を及ぼすこととなる。 空間形態が障害となり、古来の特徴が浮き彫りにされたことによって、都市文化遺産の概 念が刷新型整備と開発の流れに逆行するかたちで形成された。一理論に基づけば、都市の 歴史性は記憶的、歴史的、歴史構築的という三つの捉え方ができる。そして、歴史的都市 空間はそれ自体がモニュメントであり生きる組織体でもある、とする視点が都市の現代における機能性と歴史性を併せて捉えた歴史構築的な存在としての価値付けを強調し、歴史的環境保全の

1972年に採択された世界遺産条約に基づく世界遺産にはその「」(以下OUV)および真正性と完全性が不断的に保全されることが求められるが、都市文化遺産が世界遺産として登録されている諸例は、完全性が重視される最も代表的な類型である。同じ歴史的都市という類型に属する諸都市は、国や地域を超えて保全と発展の両立に関わる同様の課題を抱えていても、ある国における保全管理政策が他国の都市のOUVと完全性を保障できる制度として適用可能であるとは限らず、対処法には共有できる要素とそうではない要素が存在する。都市の発展が持続可能であるためには、ある特定の地理的条件の下に成り立った都市を構成し続けてきた人間社会と土地空間との関係性の持続を図ることが重要であることは、ひとつの共通要素として挙げられよう。

フランスで1962年に制定されたマルロー法に立脚する都市文化遺産という概念を、法として都市空間の保全制度に反映させたものである。保全地区内に敷かれる保全活用プランは、フランスの都市計画法典の一部として位置づけられる。保全活用プラン策定に際する作業には、文化遺産としての価値付けと都市形態の総合的な読解および、社会経済的な機能と展望を可能とする調査が必要とされるが、これは保全活用プランが保存のための規制のみを目的とするのでなく、社会経済的な都市機能を勘案した都市計画文書として成立するために欠かせない。また、保全地区が創設されるとその内部の建築物は全て何かしらの規制を受けることになるが、地区全域の全てが保存されなければならないわけではなく、保全すべき建築、改善すべき建築、今後取り壊すべき建物が明示されることとなる。フランスにおいては、歴史的モニュメント法や景勝地法、アボール法、マルロー法だけでなく、国家と地方自治体との協働政策の象徴ともいえる建築都市景観的文化遺産保護区域や基礎自治体主導の地域都市計画プランなど性格の異なる諸制度が重層的に存在しており、これが保全政策理念のあらゆる側面を網羅し支える強靭な複合体制となっていることが考察される。

このような重層的な都市文化遺産保全制度の施行される一例として、場合を考察する。都市として世界遺産登録されているボルドーの登録範囲は、歴史的モニュメント法に基づく347の歴史的モニュメントを内包しており、アボール法によってそれら全ての周辺に500メートル景観制御地帯が発生するため、世界遺産登録範囲のほぼ全域の保全管理が法によって網羅されていることになる。中でもとりわけ重要とされる歴史的中心市街地は、マルロー法に基づいてボルドー保全地区となっている。また、ボルドー保全地区を中心とする歴史的市街地に安定した住民を取り戻すための住宅政策は注目に値するものである。ボルドー市は、文化遺産建築の中にも現代的な住居の提供を推進し、不動産供給を多様化し、不衛生環境を撲滅し、住民を維持することを目標に、第三セクターを通して、個人の持ち家や安心して家族世帯が長期間暮らせる物件の増加に務めている。歴史的環境の都市機能再生および維持のためには、景観の規制的側面からの保全管理を行なうだけでなく、住民生活を考慮した社会的な住宅支援や公共空間整備といった補完的な活用事業を展開してゆくことが重要なのである。

ここで、ヨーロッパとは都市、政治体制や経済状況も異なり、かつて産業革命による近代化と変革を経験することなく、したがって文化遺産概念の発展を必ずしも社会の内部に蓄積してきたわけではない国や地域における都市文化遺産保全の例として、外国(フランス)の制度の適用が試みられるラオスの古都ルアンプラバンを取り上げ、独自の価値観に立脚する特定社会における保全政策の構築を支援する際に、国際協力活動にどれだけ柔軟な姿勢が必要であるかを考察する。ルアンプラバンの歴史的都市保全に関する国際協力は、1995年の世界遺産登録を契機にフランスのシノン市とルアンプラバンとの自治体間の技術協力を基盤として、二国間協力、更にはEUレベルでの国際協力体制へと漸次的に拡大してゆき、結果として、ラオスにおける国内法が整備され、保全活用プラン策定を通じてルアンプラバンの歴史的環境全体の詳細が読解されることとなった。この協力事業の特徴としては、地域の人々の伝統的な生活文化の尊重が事業の中心に据えられたことが挙げられる。また、地域社会に根ざして保全活用プランを施行する行政組織が定着し、ここに国際協力の事業資金および実務が収斂されたことによって、複合的な国際介入に一貫性が保たれたと考察される。この協力事業は、世界遺産という国際連帯を生かして都市文化遺産の保全と発展の両立を試みる一例を示したともいえるが、どのような制度も、有効に機能するためには、制度を受容する社会が、その理念を共有できていることが必要である。世界のどこか他の場所で成立した理念的な都市計画方法や文化遺産保全制度が、他の諸都市において効果的であるとは限らない。しかし、他所に特有の制度を考察することは、それがある程度の普遍性をもって自分たちの状況に適用できるものであるかどうかの可能性と限界を、そこに必要な文脈とプロセスを想像しながら、分析することに意義がある。また、特定の地域や国における制度を他国が手本とする際にも、制度を支える理念背景の差異を超越して、制度適用が及ぶ地域社会に生きる人々の理解と支持があって初めてそれが意味を持ち、効力を発し、根付いてゆくものであるという事実は、普遍的であるといえるだろう。

保全という理念を生み出す文化遺産の概念は人間社会の中で時間をかけて形成されるものであり、政策実現のための制度は理念に支えられてこそ機能する。社会的に動態であり続ける都市の保全とは、多領域にわたる異質の人々の協調と合意形成が欠かせない包括 的かつ複雑な政策課題である。本論文では、歴史構築的な空間環境を維持するためには、保護や規制のみを考慮するのではなく、進化発展を前提とした都市計画の内に保全を位置づける手段が存在することを取り上げた。都市の持続可能な発展のためにはその動態としての機能は必然であるが、必ずしも物理的変化の全てが無批判に受け入れてよいものではないのではないかと議論することが、都市空間における文化遺産認識へと連なる。文化遺産の保全という客観的な政策制度の設置は、該当社会が文化遺産の価値概念を共有することに始まる選択である。そして、地域社会が有する土地空間への知識や情感を反映させることは保全政策の役割である。都市文化遺産の保全方法は、国際規模で比較や議論、協力 を重ねつつも、各国や各地域社会において固有の文化的・経済社会的な文脈に馴染む有効な方法論を成熟させてゆかなければならない。本論文は、文化遺産およびその保全という概念が国際条約の施行によって普遍化してゆく中で、それが固有の地域文化を対象とする ゆえ、どれだけ各地における政策づくりのプロセスと制度適用の多様性が尊重されるべきものであるかという点を強調するものである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文『都市文化遺産の保全に関する一考察―その概念形成、フランスの事例と国際協力の課題―』は、ユネスコの職員として文化遺産の保全に携わってきた経験をもつ筆者が、今日の都市社会が過去から継承した固有の文化遺産を破壊することなく、いかにしてその価値を活かし続けることができるかという実践的課題に取り組んだものである。全体は序論、第一章から第五章、および結論から成る。

まず序論では、物理的存在としての都市空間よりも、あくまでそこに暮らす人間を主体としてとらえた保全政策の可能性を追求するという基本的な姿勢が述べられた後、ある国で実施された制度や政策が他の地域において持続可能なものとして受け入れられるためにはいかなる条件が必要かという、本論文の主要な課題が提示される。

第一章「文化遺産と都市 概念の交差」では、ヨーロッパ中世から現代に至る「文化遺産」概念の形成史が、人文主義、ナショナリズム、産業革命、ロマン主義といった種々の言説の潮流や社会現象との相関関係を視野に入れつつ、詳細に跡付けられる。とりわけ筆者は、フランソワーズ・ショエによる都市の歴史性の分類、すなわち(1)記憶的、(2)歴史的、(3)歴史構築的、という三つのとらえ方に立脚し、文化遺産としての都市空間の価値を三者の相関性のうちに見出そうとする。

第二章「国際的見地における文化遺産の規範 普遍性、多様性と持続可能性」では、1972年のユネスコ総会で「世界遺産条約」が採択されるに至る経緯が説明された後、その基本的基準となる「顕著な普遍的価値」(OUV)、とりわけ「真正性」authenticityと「完全性」integrityをめぐる議論が紹介され、現に住民が生活している都市それ自体が世界遺産リストに登録されるケースについて、経済活動の持続と環境保全との両立がいかにして可能になるかという問題が考察される。

第三章「フランスの歴史的都市空間保全制度」では、フランスの都市空間保全に大きく貢献することとなった1962年のマルロー法成立に至る経緯が説明された後、特に「保全活用プラン」(PSMV)と呼ばれる制度を中心に、その具体的内容と課題が図版などの視覚的資料も交えながら詳細に示され、これを補完する「建築都市景観的文化遺産保護区域」(ZPPAUP)や、その管理に重要な役割を果たす「フランス建築監視館」(ABF)の機能についても解説が加えられる。

第四章「ボルドーの事例」では、2007年に「月の港」という呼称のもとに世界遺産に新規登録されたボルドーを例として、都市全体が世界遺産に指定されることにともなう諸問題が考察される。筆者は特に、都市の周辺に広大な緩衝地帯が設定されていること、公共交通としてのトラムが復活されたこと、中心部の歴史的市街地区において住民が文化遺産と共存できるような住宅政策が推進されたこと、さらに教育を通して歴史的価値への自覚が涵養されていることなどを、重要な成功要因として挙げている。

第五章「都市文化遺産保全の国際協力 ルアンプラバンにおける事例」では、都市形成のあり方がヨーロッパとはまったく異なる文化圏での都市保全の例として、1995年に世界遺産に登録されたラオスの古都、ルアンプラバンがとりあげられる。ユネスコとフランスの共同イニシャティヴによる保全活動は、特にメゾン・デュ・パトリモワンヌ(文化遺産センター)と呼ばれる現地事務所を拠点として推進され、いくつかの課題を残しながらも、国際協力の成功例として多くの成果を挙げたと評価される。

最後に「結論」で、筆者は都市文化遺産の保全にとってはまず住民による理念と価値観の共有が必要であること、歴史的都市空間の保全には規制や保護だけでなく、進化発展を前提とした包括的な政策が求められること、そして国際協力にあたっては各地域に固有の文化的・経済的・社会的文脈の尊重が不可欠であることを強調している。

本論文のおもな成果、および美点としては、次の点が挙げられる。

1)文化遺産としての都市空間の保全は、学問的には歴史学・政治学・社会学・都市計画等、複数の領域にまたがる複雑な問題であると思われるが、これを特定の方法論に縛られることなく、筆者の実務経験に基づいた視点から分析し、その現状と課題を明らかにしたこと。

2)フランスの文化遺産政策に関する膨大な資料を明快に整理し、年表や図版を効果的に利用しながら、素人の読者にもわかりやすい形で客観的な情報を提供したこと。

3)特にボルドーとルアンプラバンという具体的な事例を詳細に検討し、両者の成功要因と課題を多面的に分析したこと。

4)全体として、単に紙の上で思考した思弁的な論文ではなく、実地経験を最大限に活かした実践的考察たりえていること。おそらく筆者はこの成果を自らの今後の活動に還元していくものと思われるが、これは社会人的な視点に立脚した地域文化研究のひとつの方向を示した仕事としてきわめて有意義である。

その一方、審査の席上ではいくつかの問題点も指摘された。

1)都市計画論として見た場合には、参照すべきいくつかの基本文献が脱落している。この点に関しては可能なら補充・修正されることが望ましい。

2)面的な広がりをもつ文化遺産としての都市について、「真正性」authenticityと「完全性」integrityの概念、特に後者をめぐる議論が不十分である。

3)「文化遺産」の存在が前提となっていて、都市がなぜ文化遺産としてとらえられるようになったのかという経緯が十分に説明されていない。

4)第五章のルアンプラバンの事例は国際協力一般の問題であり、得られた結論は今では前提となっている。むしろ失敗例についても扱うべきではなかったか。

5)文化遺産の保全は単なる物質的な保存にとどまらず、記憶を創出する行為としての側面をもっているはずだが、そうした理念的側面への言及が乏しい。

しかしながら、これらの問題点はいずれも本論文の本質的な価値を損なうほどのものではなく、むしろ筆者が今後もなお継続していくであろう実務経験の中で克服されていくべき課題としてとらえられるべきものである。

したがって、本審査委員会は本論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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