学位論文要旨



No 125422
著者(漢字) 白須,未香
著者(英字)
著者(カナ) シラス,ミカ
標題(和) ムスク系香料の嗅覚受容メカニズムの解析および疾患と関連する匂いの分析
標題(洋)
報告番号 125422
報告番号 甲25422
学位授与日 2009.12.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(生命科学)
学位記番号 博創域第530号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 先端生命科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 東原,和成
 東京大学 准教授 河村,正二
 東京大学 講師 尾田,正二
 東京大学 教授 渡邉,秀典
 理化学研究所脳科学総合研究センター シニアチームリーダー 吉原,良浩
内容要旨 要旨を表示する

私たちは、数十万種類もの匂い物質に囲まれて生きているが、その中には、生物に対して影響を及ぼす匂いや、情報としての役割をもつ匂いが存在する。本研究では、第1章で、フェロモン様の生理作用をもつ匂いに着目し、その嗅覚受容メカニズムの解析を行った。そして第2章で、ある種の疾病にかかったときに体から放出される特徴的な匂いに着目して、疾患と関連する匂いについての研究を行った。

第1章 ムスク系香料の嗅覚受容メカニズムの解析

ジャコウジカの臭腺から採取されるムスク(じゃ香)の香りは、秦の始皇帝の時代から、女性を惑わす媚薬として用いられていた。1926年、L.ルジチカにより、この臭腺の主要香気成分が大環状ケトン構造を有することが発見され、ムスコンと名付けられた。ムスコンは、ジャコウジカの場合、交尾期の雄から分泌され、雌をひきつけるフェロモン様の働きを持つ。また、自身はムスコンを分泌しないヒトにおいても、この匂いは女性ホルモンの分泌を促進する生理作用を持つ。一方、ムスコンは、その魅惑的な香気から香粧品業界で注目されてきたが、天然のムスコンを採取することが困難であるため、これまでにその香気を模した多くの合成ムスク香料が開発されている。この様に興味深い性質がありながら、これまで、ムスク系香料の分子・細胞・神経回路レベルにおける認識機構についての研究はほとんど進んでいなかった。そこで、本研究では、嗅神経細胞レベルから嗅覚中枢レベルまでの統合的な解析が可能なマウスを用いて、ムスク系香料の嗅覚受容メカニズムの解明を目指した。

1. マウス嗅神経細胞における匂い応答解析

鼻腔内に存在する個々の嗅神経細胞は、ゲノム上に約千種類存在する嗅覚受容体遺伝子のうち1種類のみを選択的に発現し、選択的に匂いを認識する。そこで初めに、ムスコンに対する嗅神経細胞の応答を解析した。嗅上皮から嗅神経細胞を単離して、カルシウム蛍光指示薬Fura2-AMを負荷し、単離嗅神経細胞に対してムスコン、オイゲノールに対する匂い応答測定を行った。約五千個の嗅神経細胞のうち、オイゲノールに応答する細胞は全体の1.4%であったのに対して、ムスコンに応答する細胞は0.1%であった。この結果から、ムスコンは比較的少数の細胞で受容されることが示唆された。次に、匂い応答解析をよりシステマティックに行うために、嗅球における匂い応答解析を行った。

2. マウス嗅球における匂い応答解析

2-1. in vivo匂い応答測定

同一の嗅覚受容体を発現する嗅神経細胞は、嗅球表面に存在する約二千個の糸球体構造のうち、特定の場所に位置する数個の糸球体に収束投射する。そのため嗅上皮での匂い物質と受容体の結合は、嗅球において糸球体の活性化パターンとして観察できる。この解剖学的知見を利用して、嗅球におけるムスコンに対する応答パターン解析を行うことにした。ここでは、嗅球での匂い応答測定に、嗅神経細胞への匂いシグナルの入力に伴い発光強度が変化するGFP改変タンパク質(spH)を嗅神経細胞末端のシナプス小胞に発現させたノックインマウス(spHマウス)を用いた。頭部を自由に回転できるよう設計した特注固定器に、麻酔下のマウスを固定した後、頭部を開き嗅球を露出させる手術を行った。まず、測定手法の確立されている背側・外側領域においてさまざまな匂いに対する応答を測定したところ、ベンゼン、オイゲノール、ヘキサナールなどの匂いに応答する糸球体は複数観察されたものの、ムスコンに対して応答する糸球体は存在しなかった。そこで、従来の手法では匂い応答測定が不可能であった、左右の嗅球が接する内側領域を観察するため、外科的に片側嗅球を切除する手術法を確立した。これにより、嗅球広範囲(約7から8割)における匂い応答測定を行うことに成功した。その結果、嗅球背内側領域において、ムスコンに応答する糸球体が初めて観察できた。複数個体について同様にムスコンに対する匂い応答測定をおこなったところ、ムスコン応答糸球体は極めて少数(1~3個)であり、かつ、応答糸球体はすべて背内側の前方0.5 mm四方の狭い領域に局在することがわかった。

2-2. 匂い刺激によるc-Fos発現誘導解析

次に、匂い刺激による初期応答遺伝子c-Fosタンパク質の発現誘導を指標として、嗅球における匂い応答解析を行った。自由行動下のマウスに、ムスコンを約1~2分呈示したところ、全ての個体で、嗅球背内側領域の少数(1~3個)の糸球体の周辺のみに、c-Fos発現が観察された。spHマウスを用いた匂い応答測定と、c-Fosを指標とした匂い応答解析の結果が一致したことから、ムスコンの情報は嗅球背内側領域の少数の糸球体のみに入力されていると考えられる。

2-3. ムスコン応答糸球体における匂い応答構造活性相関

工業的側面からみると、ムスコンは合成が難しく非常に高価である。そこで現在までに、その香気を模して、大環状ムスク、ニトロムスク、多環状ムスクなど数百種のムスク系香料が作り出されている。spHマウスを用いて、これらのムスク系香料に対する匂い応答を測定したところ、ムスコン応答糸球体は、炭素数15か16の大環状ケトン構造をもつムスク系香料のみに応答を示した。この結果は、ムスコンが極めて少数かつ選択性の高い嗅覚受容体で認識されることを示唆している。

3. ムスコンに応答する嗅球背内側領域とムスコン認知との関係

以上の結果から、ムスコンの匂い情報は、嗅球内側部の少数の糸球体に入力されることが示された。そこで、ムスコン応答糸球体が存在する嗅球前方の直径0.5 mm領域を外科的手術で除去した後、マウスに匂い物質を5分間呈示して匂い源探索にかかるまでの時間を計測した。その結果、手術マウスは、ムスコンを探索することはできなかった。つまり、自由行動下において、マウスがムスコンを認知するためには、嗅球背内側領域の糸球体を介した情報伝達が必要であるといえる。

現在、経シナプス性トレーサーやc-Fos発現誘導を指標として、嗅覚二次中枢以降におけるムスコン受容部位の解析を行っている。これまで、嗅球への匂い情報の入力は複数の糸球体の活性化パターンから成る複雑なものであると考えられており、高次中枢への匂い情報の入力経路の解析は困難であるとされてきた。しかし本研究において、ムスコンの場合は、嗅球への情報入力が極めて少数の糸球体に担われていることが明らかになった。他の匂いと比較して嗅球への情報入力が圧倒的に少ないという事実は、高次中枢における匂い情報処理や、それによって引き起こされる行動を解析するにあたり、利点として生かすことができるだろう。

第2章 疾患と関連する匂いの分析

第1節 癌と関連する匂いの分析

皮膚に浸潤し潰瘍を形成する進行癌の局所は、独特の悪臭を伴い、患者のクオリティ・オブ・ライフを著しく下げる要因のひとつとなっている。本研究では、癌性悪臭の有効な消臭手段を講じるべく、この匂い物質の同定を目指した。

まず、悪臭を放つ乳癌および頭頸部癌の患部にあてられたガーゼからSPME(固相マイクロ抽出法)を用いて匂いを捕集した。次に、SPMEを匂い嗅ぎガスクロマトグラフ質量分析計(GC-MS-O)に供し、この悪臭の原因物質の同定を試みた。GC-MS-O分析では、トータルイオンクロマトグラム(TIC)上の各成分のマススペクトル(MS)測定と匂い嗅ぎを同時に行うことができるため、各成分の化学構造に加えてその匂いの質も知ることができる。GC-MS-O分析の結果、乳癌、頭頸部癌ともにTIC上の同じ保持時間に、癌患部の悪臭を体現する硫黄様の強い悪臭を感じた。そしてMS分析の結果、この物質はジメチルトリスルフィドであることが明らかになった。ジメチルトリスルフィドは、いわゆる"たくあん臭""強いたまねぎ臭"とも表現でき、キャベツなどの野菜の過熱臭、微生物の代謝産物として知られる。今後、この匂いの発生源を特定することによって、癌患部からのジメチルトリスルフィドの発生を制御することができると期待される。

第2節 統合失調症と関連する匂いの分析

19世紀後半の文献に、「精神科病棟には独特の匂いがある」という記述がみられるのを皮切りに"統合失調症と匂い"については複数の報告がある。本研究では、この匂いの同定を試みた。

はじめに、統合失調症患者が入院する3つの精神病院病棟の匂いを嗅ぎ、全病棟に共通した「ロースト臭にやや生臭さを加えた匂い=病棟臭」が存在することを確認した。つぎに、病棟臭同定のため、病棟空気中の揮発性成分を捕集しGC-MS-O分析したところ、複数の香気成分の中に、病棟臭と同質の匂い成分が確認された。しかし、この匂い成分のピークは検出できず、病棟臭成分は微量かつ匂い閾値が非常に低いものと考えられた。そこで、市販製品の約千倍量の揮発性成分を捕集できる吸着装置で、病棟空気を大量に捕集した。この捕集サンプルをクロマトグラフィーで分離し、病棟臭が確認された画分のGC-MS-O分析を行った。得られたMSからはピラジン化合物が推定された。次に、この病棟臭が実際に患者自身から分泌されているのかを調べるため呼気の香気成分分析を行った。統合失調症患者12名、強迫性障害患者1名、健常者3名から呼気2 Lを採取し、SPME-GC-MS-O分析を行った。その結果、統合失調症患者4名の呼気から病棟臭が検出された。現在、統合失調症と病棟臭との関係を明らかにするため、更に呼気分析を進めている。将来的に、本研究が疾患による患者の代謝経路の変化、病態の解明、疾患に対する診断マーカーの開発につながると期待される。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は二章からなり、第一章で、フェロモン様の生理作用をもつ匂いのひとつであるムスクに着目し、その嗅覚受容メカニズムの解析を行った。第二章では、疾病にかかったときに体から放出される特徴的な匂いに着目して、疾患と関連する匂いについての研究を行った。

第一章では、様々な商品に実用化されているムスク系香料を感じる受容機構を解析した。ムスクは、その魅惑的な香気から香粧品業界で注目されてきたが、天然ムスクを採取することが困難であるため、これまでにその香気を模した多くの合成ムスク香料が開発されている。また、これまで、ムスク系香料の分子・細胞・神経回路レベルにおける認識機構についての研究はほとんど進んでいなかった。そこで、本章では、嗅神経細胞レベルから嗅覚中枢レベルまでの統合的な解析が可能なマウスを用いて、ムスク系香料の嗅覚受容メカニズムの解明を目指した。嗅神経細胞におけるムスク応答(末梢神経レベル)、新規手法を使った嗅球におけるin vivoムスク応答(嗅覚一次中枢レベル)、ムスクに応答する脳領域と認知との関係(行動レベル)、これらの解析を通して、ムスクの受容機構がはじめて明らかになった。

第二章では、癌のなかでも浸潤性悪性癌、そして精神疾患のひとつである統合失調症に関連する体臭の匂い分析をおこなった。皮膚に浸潤し潰瘍を形成する進行癌の局所は、独特の悪臭を伴い、患者のQ.O.L.を著しく下げる要因のひとつとなっている。そこで、癌性悪臭の有効な消臭手段を講じるべく、匂い嗅ぎガスクロマトグラフ質量分析計を用いて悪臭原因物質の同定を試みたところ、いわゆる"たくあん臭""強いたまねぎ臭"を呈するジメチルトリスルフィドであることがわかった。この匂いの発生源を特定することによって、癌患部からのジメチルトリスルフィドの発生を制御することができ、患者のQ.O.L.を向上させることができると期待される。また、19世紀後半の文献に、「精神科病棟には独特の匂いがある」という記述がみられるのを皮切りに"統合失調症と匂い"については複数の報告がある。匂い嗅ぎガスクロマトグラフ質量分析計を用いて、病棟臭の同定を試みたところ、ピラジン化合物が推定された。この病棟臭が実際に患者自身から分泌されているのかを調べるため呼気の香気成分分析を行ったところ、統合失調症患者の呼気から病棟臭が検出された。将来的に、本結果が、疾患による患者の代謝経路の変化、病態の解明、疾患に対する診断マーカーの開発につながると期待される。

本研究は、匂いを感知する側としての生体、そして逆に匂いを発する側としての生体、の二つの視点からの匂い研究である。このような嗅覚研究はいままでにない極めて独創的なものであるという審査委員の評価であった。本審査における、論文提出者の口頭発表は、非常にわかりやすく、明快に研究成果が説明された。審査の質疑に対しても、論文提出者は適確に答えた。また、博士論文は、審査員全員の共通コメントとして、大変わかりやすく、理路整然と説得力ある形で書かれているという評価があった。一方、第一章ではムスクの受容体がまだ同定されていない、第二章では匂いの生成経路が明らかになっていないなど、興味深い課題が残されており、今後の進展が期待される。

なお、本論文の癌性悪臭の研究は、国立がんセンター東病院の長井俊治先生、落合淳志先生、林隆一先生との共同研究で、原著論文では共著者となっているが、全ての結果は、論文提出者がだしたものなので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。また、精神疾患に関連する匂いの同定は、都立精神医学総合研究所の糸川昌成博士の指導のもと松沢病院で採取され、長谷川香料株式会社天池正康氏の協力を得て論文提出者が分析したものである。第一章のムスクの研究は、すべて論文提出者がおこなったものである。

以上の結果、博士(生命科学)の学位を授与できると認める。

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