学位論文要旨



No 125427
著者(漢字) バイオッキ,育子
著者(英字)
著者(カナ) バイオッキ,イクコ
標題(和) 国土の保全と破壊によるナショナリズムの追求 : 近代日本にみる「想像の環境」の形成と歴史的意義
標題(洋) The Pursuit of Nationalism by Means of Environmental Conservation and DestructionThe Formation of "Imagined Environment" and its Historical Significance in Modern Japan
報告番号 125427
報告番号 甲25427
学位授与日 2009.12.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(国際協力学)
学位記番号 博創域第535号
研究科 新領域創成科学研究科
専攻 国際協力学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 佐藤,仁
 東京大学 教授 國島,正彦
 東京大学 教授 吉田,恒昭
 東京大学 教授 山路,永司
 恵泉女学園大学 准教授 篠田,真理子
内容要旨 要旨を表示する

本研究の目的は、ナショナリズムが国内環境といかなる関係にあるのかを明らかにすることにある。地球環境問題への対処が急務とされる今日、ナショナリズムを背景に自国中心的に振舞う国家の行動は、しばしば問題視されて来た。地球環境問題のみならず、国内開発においても、ナショナリズムは国土の環境悪化に拍車をかける傾向が存在する。

しかしながら、ナショナリズムは時として環境保全・保護においてポジティブな影響を及ぼす場合がある。たとえば、日本においては、旧小泉・安倍政権にかけて「美しい国」の創造や、日本の伝統や文化の継承や尊重、ナショナリズムの育成といった課題が追求された。両政権にとって、国民の誇りとなる美しい国土の創造は、ナショナリズムの向上の一環であった。自然環境と伝統文化の保護は、ナショナリズムの強化・強調という目的において車の両輪としての側面を備えていたのである。地球温暖化問題への対処などに対しては消極的な姿勢が批判されやすい一方、国内環境の保護にナショナリスティックな関心を寄せる日本の姿勢は、どの様なメカニズムによるものなのか。

この様な問題意識から、本研究は「ナショナリズムが環境の保全・保護、あるいは破壊という矛盾した姿勢を見せるのはなぜなのか」という問いを立て、日本におけるナショナリズムと環境の保全・保護、そして破壊の関係性を歴史社会学的に分析することで、ナショナリズムと環境、さらに、ナショナリズムを行動原理のひとつとする国家と環境の関係性の解明を行った。それにより、これまで環境思想史・環境政治学研究者らが、ナショナリズムと環境保全・保護との関係を単純に環境保全・保護にとって「正か負か」という視点で捉えがちであった両者の関係を、より本質的なレベルで理解することが可能になると考えた。

本論では第1章において環境政治学、ナショナリズム研究、環境思想史等における既存研究の検討を行うと共に、方法論の提示およびナショナリズムの概念整理を行った。ナショナリズムは多義的な概念であるが、基本的には「政治的な単位と文化的あるいは民族的な単位を一致させようとする思想や運動」と定義される(Hobsbawm、1990、Breuilly、1993、Smith、1991など)。ナショナリズムと国土環境との関係性に対しては、アンソニー・スミス(Anthony Smith)によるエスノ・ナショナリズム研究やデシャリット(Avner de-Shalit)の環境思想史研究において重要な示唆が見出せる。スミスは近代国民国家の形成期には、前近代におけるエスニック集団(「エトニ」)に共有された民族の歴史、神話、価値、シンボルといった要素が愛国心の土台となり、国民統合が行われることを指摘する。近代国家形成期には、国土環境の「シンボル化」による「国民」と「国土」の結びつきの形成が行われる。国民はシンボルを通じて国土と結びつけられることで、国土への帰属意識が養成され、ナショナリズムの形成へとつながる。国立公園などによる国家シンボルとなる自然環境の保全・保護、国民の自然回帰運動といった現象は、ナショナリズムの維持・形成の試みと深く連動しているのである。

その一方で、デシャリットが指摘する様に、ネイションの繁栄を優先するナショナリズムは、国家利益の追求のためにはローカルな自然環境の破壊をも厭わない傾向がある。インドにおける大規模開発が、ナショナリズムを背景に地域環境と地域社会の荒廃を無視して推進されたことはその例である(Roy、2001)。ナショナリズムを原動力とする国家の環境破壊的行動の背景を捉える上で、橋川文三(2006)が論じる(ローカルな)パトリオティズムとナショナリズムの間の緊張関係に注目することは重要である。つまり、原初的な共同体意識としてのパトリオティズムは、ナショナリズムの基盤として国家形成に欠かせない一方で、強すぎるパトリオティズムは分離主義の温床となることから国家統治上の阻害要因として排除・抑圧される関係にある。ここから、国土の保全・保護と荒廃というナショナリズムの矛盾した行動は、国家統治における中央と地方、ナショナリズムとパトリオティズムの相克という関係性から生じるのではないかという仮説を導くことが出来る。

本研究では、歴史社会学の方法論、およびジェームス・スコット(James Scott)による「シンプリフィケーション(simplification)」の概念を援用・発展し、本研究の分析枠組みとした。本研究においては、ナショナリズムというスコットが対象としない思想・概念をシンプリフィケーションの射程に含めることで、ナショナリズムという国家規模の統合的な概念と、環境という具体的物象との間の関係性を俯瞰することを試みた。なぜなら、両者は歴史的にネイションの形成という目的を背景に、国家権力によるシンプリフィケーションの結果形成されたものと位置付けられるからである。

第2章では、明治維新後の国家形成過程において、統治機構の統合と共に領土を国境線によって囲い込み、無数の村落共同体を「国土」の一部としてシンプリファイする象徴的な行為が成された過程を分析する。明治政府は地租改正を契機とする資源の国有化を進め、「郷土」を社会・経済的にも国家システムの中へと編入して行った。その目的の一つには、地域共同体の政治・経済的な「無力化」が存在した。地域共同体の無力化の作業は地域環境の荒廃を引き起こした。神社合祀政策と足尾鉱毒事件に代表される鉱毒問題は、その代表的な例である。合祀政策の過程では、天皇を頂点とする神道体系の浸透を図るため、地域の民間信仰の解体と再編成が行われ、信仰の対象であった社や自然物が排除されたことで地域の自然環境の荒廃が生じた。足尾鉱毒事件では、地域環境の破壊に対し、殖産興業や日清戦争といった国家の側の論理が優先されたのである。

第3章では、ナショナリズム運動が国土像を規格化して行った過程を明らかにすると共に、そこに国家イデオロギーがどう関与したのかを分析した。明治維新以前の日本における風景観は一部の貴族階級やエリート階級によって形成された高度な抽象観念であり、実際の自然風景との関係性は希薄であった。しかし、明治ナショナリストである志賀重昂が発表した『日本風景論』は、地域の風景を近代自然科学の視点を取り入れた「国家」の風景の中へと吸収し、普遍的な国土観を提示した。その意図は、藩によって分断されていた人々の地域共同体に対する愛着を、統合された日本風景を提示することにより「ナショナリズム」へと昇華させることにあった。同様の試みは、明治政府によって史跡名勝、天然記念物の保護として実行された。そこには皇室にかかわる遺跡の保護も重要な位置を占めており、同法において国土環境の保護が国家統治の補強と表裏一体をなす構造が出現した。

地域環境をより大きな国土という枠組みへと吸収しながら発展して行った国土観は、昭和に入りナショナリズムが先鋭化して行く中で再び大きな変貌を遂げた。『国体の本義』(1937)をはじめとする政府刊行物、ロマン主義作家による言説、また林学者の風景論において、国土を「皇祖神」によって創造された「皇土」とし、八紘一宇によって皇祖の血に結ばれた日本国民は、「皇土」である国土とは同胞であることが唱えられた。その背景には近代個人主義の否定が存在し、日本は「神州日本」へと変貌し、現実の国土からは遊離した「感性的自然」としての日本国土が描かれた。

第4章では、満洲と朝鮮という日本植民地に注目し、領土と資源のシンプリフィケーションがいかにして行われ、その意義はいかなるものだったのかを森林資源を対象に分析した。朝鮮では、森林の保護は大規模な森林の国有化と日本人への造林地の優遇という政策によって進められた。そこには朝鮮人および焼き畑(火田)農民による森林破壊が荒廃要因であるとの言説が伴ったが、実際は日韓併合以前の調査では、むしろ在韓日本人による大量の木材需要が森林荒廃の主要な原因とされていた矛盾がある。また、火田民に対しては火田を禁止し、帝国日本の「大なる恩」に浴させて「怠惰な性癖」を改めさせることが試みられるなど、朝鮮における森林保護には、利益追求とアジアの指導者を自認する植民思想が混在していた。その傾向は、満洲帝国における森林保護政策においても顕著である。「五族協和」を建前とする満洲では、「パトリオティズム」の涵養のために植林による国土美化が行われた。しかし、第二次世界大戦の敗戦により、それまでの国家機構と国土観は植民地の喪失や国土の焦土化によって精神的にも物理的にも崩壊した。

第5章では、本論の分析を受け、次の結論を提示した。国内統治の貫徹は国家統合の基盤となり、国家統合の目的は国益の拡大、すなわち国家の発展と存続にある。国家エリートとナショナリストによるこの論理は、近代日本において一貫して来た。同時に、国家エリートやナショナリストによって形成された国土観、つまり「想像の環境(imagined environment)」は、国民の間に浸透し、アカデミアや文学・芸術、メディア等の分野に取り込まれ、再生産されることで、「想像の環境」を補強して来た。それは本論が分析した様に、国土の保全・保護と破壊を通じた「国民」の形成運動として現れるのである。

本論の議論は、国内事例を中心とし、あらゆる事例を網羅的に分析したものではないことから限界が存在する。しかし、ナショナリズムが国家の環境に対する行動をいかに規定しているのかという研究目的に対し、一定の解答を提示するものであると考える。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、これまで正面から吟味されてこなかった環境とナショナリズムの関係を歴史社会学的な視点から明らかにしようとするものである。筆者は、ナショナリズムが時として環境の保全・保護に向かい、時として環境を破壊する方向に向かわせるのはなぜか、という問いを立て、国内における中央政府と地方との微妙な利害関係に答えを求めた。本論文の理論的な貢献を際立たせるうえで特に中心的なのはB.アンダーソンの『想像の共同体(Imagined Communities)』とJ.スコットによる『国家のまなざし(Seeing Like a State)』という二つの先行研究である。アンダーソンの著書は、地図や国語といった印刷技術に基づく人為的なシンボルが民族統一の象徴として人々の心の中に「国家」という想像上の共同体を作り出すことに寄与した経緯を明かした金字塔的な業績であった。しかし、そこには環境や景観といった自然条件がナショナリズムの形成において果たす役割の考察はない。他方でスコットは、地図や統計といった統治のための諸技術が、地域の多様性や文脈を捨象しただけでなく、国土景観そのものを改変してきた経緯を詳述した。特に「シンプリフィケーション(画一化、規格化)」という概念を用いて、中央政府が多様に広がるローカルな世界を「読みやすく」加工し、課税や徴兵の対象として操作してきた歴史を描きだしたことが注目された。しかし、そこでは土地や森林といった実体のあるもの、あるいは、苗字や度量衡といった客観的に記述可能なものに考察対象が限定され、宗教や信条といった文化的な側面への考察はほとんど見られない。何よりも、両研究は、国家を一つに向かわせる一方向的な力の分析に注力するために、その力が、地方勢力による抵抗のベクトルを生み、かえって国家目標の達成を困難にするといった双方向的な分析に欠けていた。

バイオッキ氏はこのギャップに目をつけ、人々の思想や信条といった無形の要素が「ナショナリズム」という形でどのようにして想像され、翻って環境そのものに実体的な影響を与えるようになるのか、そのメカニズムを明らかにしようとした。バイオッキ氏の論文で特に特徴的なのは、上の文献がいずれも中央政府による統治を所与として、国家権力の浸透メカニズムを分析するのに対して、国家が地方勢力を排撃するだけでなく、時として地方の基盤にある郷土愛に依存しなくてはならないという、中央と地方との緊張関係の中で「想像力の操作」を捉えようとしたことである。

論文は、日本の明治時代以降を事例に、無数の村落共同体が地租改正や森林の官民区分を経て規格化される状況の描写を行い、この過程で無力化された地域社会が地域環境の劣化を促進した事実を指摘する。明治期の寺社合祀政策による鎮守の杜の減少や流域の環境を顧みない鉱工業の推進の例としての足尾鉱毒事件は、この顕著な例である。他方で、日本の風景や景観を介して国威の高揚を企てる志賀重昂らの知識人の存在も確認される。彼らは、藩ごとに分断されていた地域への愛着を、国家のレベルで回復する手段として、日本の美的風景に可能性をみた。こうした画一的な国土観の押し付けは、戦中にもっとも極端な形で露呈するが、それが実際の国土の改変に如実に現れたのは満州や朝鮮といった植民地であった。特に、体面上は現地の人々の協力した理想的な国家建設の実験場と目された満州では、「想像の環境」が大規模な植林活動などを通じて形を成していった事実が確認できる。

事例分析から明らかになるのは「国」を単位とするナショナリズムが郷土愛と相互依存的な関係にあるために、とりわけ環境の利用という点に関しては、あるときは保護的、あるときは破壊的に機能するという可変性である。ナショナリズムという抽象的な国家への帰属意識を醸成するには、それを容易ならしめるための具体的な愛着の対象が必要であるが、郷土愛の過度な強調は、統一体としての国家の存在を脅かす。極端な中央集権化が進められた戦前から戦中までの間は、地方の共同体と環境を犠牲にした政策が堂々と進められたが、地方分権が世界的な政策の方向性となった今日、本研究は「環境ナショナリズム」の行方を読み解くうえで示唆に富む。すなわち、分権化を通じて地域共同体の環境管理能力を活性化させるという事業を、中央集権的に実施するという矛盾にどのように立ち向かうのか、また、多様な地域の実情と自律性とを重んじた場合に、国際環境交渉における「国益」とは何かを代表することになるのか、といった今日的な政策課題にも有益な示唆をもたらす。

上記のように、論文の課題設定は意欲的なものであり、実証の部分にも一定の厚みが認められる。日本という事例の特殊性と示唆の射程、政策的意義など、さらに掘り下げるべき論点はあるが、日本の環境史研究に新たな展望をもたらす論文であると評価できる。よって本論文は、博士(国際協力学)請求論文として合格と認められる。

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