学位論文要旨



No 125434
著者(漢字) 萬澤,陽子
著者(英字)
著者(カナ) マンザワ,ヨウコ
標題(和) アメリカ合衆国における内部者取引責任の法的基礎
標題(洋)
報告番号 125434
報告番号 甲25434
学位授与日 2010.01.21
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第234号
研究科 法学政治学研究科
専攻 基礎法学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 神田,秀樹
 東京大学 教授 寺尾,美子
 東京大学 教授 樋口,範雄
 東京大学 教授 白石,忠志
 東京大学 教授 高見,澤磨
内容要旨 要旨を表示する

アメリカ合衆国(以下アメリカ)では、内部者取引が規制される根拠を、取引される証券発行会社の株主や取引者に情報のアクセスを許可した情報源に対して負っている義務に違反したことに置く。このような立場は、取引相手も含む投資者一般あるいは市場との関係で不正であるから内部者取引が規制されることを当然の前提として考えていた我が国にとって、異質で不可解なものであり、さまざまな批判が加えられてきた。もっとも強い批判は次の二点である――内部者取引責任の成立に義務違反を要求すること、および情報源への義務違反が証券詐欺になるとすること――。言い換えれば、前者は、なぜ内部情報を得て取引したという行為だけでは責任は生じないのか、後者は、なぜ証券詐欺の相手が市場や取引相手ではなく情報源となるのか、という批判である。しかし興味深いことに、同じような批判はアメリカでもなされていた。アメリカにおいても、自分たちの採った制度は違和感を覚えざるを得ないものであったのである。

本稿は、このようにアメリカでも強い批判を浴びせられるような内部者取引規制がなぜ採用されることになったかについて、コモン・ローの発展という観点から検討し、一つのあり得べき解釈を提示することを試みる。これまでアメリカの内部者取引制度について論じた日米における先行業績は膨大な数にのぼるが、それらの多くは制度を批判あるいは擁護する、あるいはより優れた制度を提案するものであり、なぜ当該制度が採られたかを深く追求したものは多くなく、特に、19世紀後半から存在していた内部者取引に対する法から1933年に制定された連邦証券取引諸法のルールの現在に至るまでの発展を連続的包括的に捉え、現行法の意義を探ろうとしたものは――ルールの解釈の基礎となるコモン・ローの発展の重要性にもかかわらず――なかったように思われるからである。

本稿は、まず日本における内部者取引規制の全体像――条文およびそれに関する判例の変遷、そしてその背後にある考え方――を確認した(第一章)後、現在のアメリカの内部者取引規制に関する判例の流れを紹介し、内部者取引責任の法がどのように発展してきたか、それは法に携わる者にどう理解され論じられてきたかを概観し、これらを通じて、アメリカの内部者取引規制が日本と比較してどんな特殊性を有しているのかを明らかにする(第二章)。続いて、なぜそのような特殊性を備えることになったのかの検討に移るが、その検討にあたっては、まず連邦政府による制定法が成立する1933年34年以前の内部者取引をめぐるコモン・ローの発展を分析する(第三章)。1933年34年以前のコモン・ローの発展の分析からはじめるのは、そこでの発展が制定法の解釈に重要な影響を与えるからである。すなわち、内部者取引について明文の禁止条項を有し、何が内部者取引行為に該当するかの大枠が明らかとなっている日本とは異なり、内部者取引に関する定義もそれを具体的に禁ずる条項も存在しない、存在するのは連邦証券取引諸法の包括的な詐欺禁止条項とそれに基づいた判例の蓄積、およびそれ以前のコモン・ローの発展だけというアメリカにおいては、内部者取引の事案でどのような行為を規制するのかは一定の範囲内で裁判所に任されており、そこでの解釈はコモン・ローが基礎となるのである。

1933年以前の内部者取引責任に関するコモン・ロー上の対応については、従来も検討が多くなされてきた。よって、連邦証券取引法制確立前の内部者取引の事案とは、取締役が職務上知りえた情報を開示しないで個々の株主から株を購入したという形態(以下、伝統的内部者取引の事案)を採り、それに対して裁判所は、取締役による株式購入が当該株主に対する信認義務違反となるか否かを判断することで責任を決めたこと、初期の事例では信認義務違反が認められなかったが、最高裁で述べられた「特別な事実理論」をきっかけに、同義務違反を認めるようになったことは、すでに通説のようなものになっている。連邦政府による証券規制立法がなされた後も信認義務違反で責任が判断されたため、これで内部者取引に関するコモン・ローの検討が十分なされたかのようだが、実際はまだ反面しか扱われていない。本稿は、もう半面も検討することで内部者取引の法の発展を総合的に捉えることを試みる。もう半面とは何か――「詐欺」の法である。

確かに、伝統的内部者取引の事案では詐欺の法は発展しなかった。それは、裁判所は詐欺を基礎にした訴えであっても信認義務違反で責任を判断する傾向があったからであり、そこでは信認義務違反と詐欺の関係はほとんど言及されなかった。連邦証券取引法制が創設され10b-5で内部者取引責任の有無の判断がなされることになった後もこの傾向は踏襲され、伝統的内部者取引が10b-5上問題となった初期の事例では、信認義務違反を基礎に34年法10条(b)項および10b-5責任が課せられたが、なぜ同義務違反が「相場操縦的あるいは詐欺的な策略あるいは計略」を要求する同ルール違反に該当するのか――内部者が株主に負う信認義務に違反したこと自体で足りるのか、あるいは他の要素、例えばその不公正さ等も必要なのか、ここでの解釈はコモン・ローを修正した立場なのか、あるいは整合的であるのか――が議論されないままであった。しかし、1977年の連邦最高裁Santa Fe判決で10b-5の責任を課すためには詐欺でなければならない――すなわち、信認義務違反だけでは責任を課せない――とした法のもとでは、詐欺の法の発展は無視できないはずであり、現在の内部者取引責任の法を理解する上で不可決と考える。そこで、本稿は、一般的に内部者取引とは捉えられていないが、それと共通する要素を有する事案、具体的には、ある地位に立つ者が積極的な不実表示はしない――全くあるいは一部情報を与えない、あるいは予測や意見を述べる――がその地位を利用する行為によって、その地位の受益者的存在の犠牲の下に利益を得ようとした事案――例えば、相場操縦の事案、市場を通じて取引を行った私人が内部者を提訴した事案、ブローカー・ディーラーが法外に高い値で顧客に株を売却した、合理的根拠がないのに顧客に取引の推薦を行った等の事案等――をめぐって、コモン・ロー上あるいは10b-5上詐欺の法がどのように適用されてきたのか、あるいは適用されてこなかったのかを検討する(第三章・第四章)。これらの事案をめぐる詐欺の法の発展を分析することによって、詐欺責任の基礎としてある要素が常に重要視されてきたことを明らかにすることを試みる――その要素とは、事実と異なる理解をさせる表示である。

このように、積極的不実表示のない内部者取引的事案では、関係性から生じる義務違反(信認義務違反)か、事実と異なる理解をさせる表示(詐欺)がある時、10b-5責任を肯定するとの立場が採られていた。しかし、1977年の最高裁判決で10b-5違反に該当するためには詐欺であることが要求されて以降は、その中核的要素である事実と異なる理解をさせる表示が10b-5違反に必要であったと思われる。この観点から、現在の一般的な内部者取引の判例で述べられた法を検討・評価し、従来批判の的となってきた1997年に述べられた法およびそれに至る過程を検討すると、それらは決して「混迷」でも「彷徨」でもなく、コモン・ローの発展に沿ったきわめて自然な、当然の帰結でさえあったことが明らかになるはずである。

このように、アメリカの内部者取引責任に関する法は、目の前にある不正行為を、コモン・ローと10b-5の文言およびその発展と整合性をつけながら、裁判所が何とか規制しようと苦闘した結果の産物であったといえる。このことから我が国が何かを学ぶとしたら、なぜ内部者取引に責任を課すのかを再考することではないかと思われる。確かに我が国では、内部者取引を投資者一般あるいは市場に対して不正ゆえ規制する(市場的アプローチ)ということは自明のこととされ、立場の対立は存在してこなかったとされている。しかし実際はこのアプローチには二つの異なる立場が存在し得るのである。一つは、内部者取引が市場に対して不正である理由として、取引した者が情報にアクセスできる特別な地位にいたことを重視する立場であり、もう一つは取引した者の占めていた地位や有していた特権を重視しない――未公開情報を利用したことを重視する――立場である。これらは、特別な地位に立たない者――たまたま偶然未公開情報を得てしまった者や意図的に内部情報を盗んだ者――による取引の責任を肯定できるか否かで結論が異なるのに、それぞれの立場の利点や問題点、いずれが優れているかといったことは、ほとんど論じられたことがない。また、アメリカのような、会社やその株主に対して不正ゆえに内部者取引を規制するという立場(関係的アプローチ)からの方が、我が国の内部者取引規制制度をより説得的に説明できるとの鋭い指摘も一部存在しているにもかかわらず、これについてもほとんど議論がなされたことはない。関係的アプローチはなぜ採られないのか、何が問題なのか、また、市場的アプローチならいずれの立場が採られるべきか、それはなぜか等、今一度、内部者取引の法的責任の基礎を再考する必要があると思われる。そのことは、内部者取引規制に伴う不確定性を軽減するとともに、内部者取引にとどまらず証券規制の根源にあるものを問うことにもなり、たとえば村上ファンド事件といった複雑化した不正行為に対して十分対処できていない現状を打開する大きな一歩となること間違いないからである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、一般に公開されていない、会社の内部者のみが知りうる情報を利用して株式の取引を行った者の法的責任を扱う内部者取引責任法制について、アメリカ法に特徴的な法理の由来を明らかにしようと試みた論文である。

アメリカの内部者取引規制は、主として1934年に立法された証券取引所法10条b項およびその下で定められた規則10b-5によって規律されている。誰によるどのような場合に、内部情報を利用した取引が法的責任を発生させるかの線引きを行うために、この規則のもとで発展した判例法理の世界にあっては、内部取引者責任の法的根拠は、取引相手の知りえない内部情報を利用して取引を行ったことの不公正さや、そうした取引によって取引相手が損害を被ったことに置かれてはいない。言い換えれば、内部情報を利用して株式取引をしてはいけないという一般的義務は存在せず、それとは別の義務違反がなかったか否かが問題とされるのである。そうした義務違反としては、会社の内部者が会社の株主に対して負っている信認義務が中心であるが、会社の内部者が取引者でない場合には、内部情報を得た取引者がその情報源に対して負っている義務違反が責任の根拠とされている。

内部者取引規制によって守られるべきは市場であり一般投資家であるとの理解が一般的なわが国では、こうしたアメリカ法のあり方は、異質で不可解なものと受けとられ、なぜ内部情報を得て取引したという行為だけでは責任は生じないのか、なぜ証券詐欺の相手が市場や取引相手ではなく情報源となるのか、といった批判が展開されてきた。本論文は、大恐慌を契機として1933年法・34年法によってアメリカの証券取引法制が誕生する以前に遡って、内部者取引責任に深く関係するコモン・ローのあり方を探り、そこで獲得された知見を分析の軸に据え、現行法を分析整理し直すことで、「不可解」とされてきたアメリカ法のあり方のなぞを解明しようとした意欲的な論文である。

本論文は、まず第一章で、日本における内部者取引規制の全体像――条文およびそれに関する判例の変遷、そしてその背後にある考え方――を確認する。第二章では、現在のアメリカの内部者取引規制に関する法のあり方を、いわば教科書的に整理・紹介したうえで、日本と比較してどのような特殊性を有しているのか、言い換えれば、本論文が解明しようとしている謎の姿がいかなるものであるかを、次のよう形で整理している。すなわち1933年、34年法制のもと、アメリカでも1960年代には、投資家の投資判断に影響を与える重要な情報に対するアクセスは、証券市場に参加する投資家に等しく保障されるべきであり、規則10b-5を、こうした情報への平等アクセスを保障するための規定として解釈し、広く内部者取引責任を認める方向での、SECの審決(Cady 審決)や連邦下級審判例の流れが登場した。この平等アクセス・ルールを支持する学説も少なくなかった。しかし、合衆国最高裁判所は、内部者取引責任を正面から問題とした1980年の最初の判例で、平等アクセス・ルールを正面から否定し、取引された株式の発行会社との関係で信認義務を負わない被告には責任がないと判示した。最高裁はこの後、取締役を始めとして会社に信認義務を負う会社の内部者、および内部者の義務違反により内部情報を取得した内部者に準じる者以外にも内部者取引責任を拡大するために、(内部情報の)不正流用理論と呼ばれる法理を発展させた。この法理が確立されたのは、弁護士事務所の顧客の公開買付計画を知った弁護士が、その情報を利用して取引をした事件であった。そこでは、この弁護士の責任の基礎を内部情報の情報源に対する義務違反に、取引の詐欺性を情報源に対して忠実を装いながら自己利益を追求したことに求める、一見苦肉の策とも見えるような法的構成を採用した最高裁の姿が示される。

以上のような特異な様相を呈しているアメリカの内部者取引のなぞを解くために、第三章ではまず、連邦政府による制定法が成立する1933年、34年以前に遡り、内部者取引をめぐるコモン・ローの発展が分析されている。そこでは、会社の取締役が株式の価値を高騰させるような内部情報を株主に知らせることなく、相対取引で株式を取得したような事例(伝統的な内部者取引事例)において、最初は責任を否定していたコモン・ローが、次第に責任を認めていくようになる過程が分析されている。周知のように、英米の会社法は信託法の強い影響を受けており、会社役員を信託の受託者に準じる存在と捉え、その義務を受託者の義務に準じた信認義務と構成している。そこで、判例においては、内部情報を会社の財産に準じるものと捉え、そうした情報を自らの利益追求のために用いる場合は、取締役は株主に対してそのことを開示する義務を負うという法的構成を採用する形で責任が認められていった。内部者取引責任との関係では、不法行為としての詐欺責任法理の発展も重要であり、この章では、相場操縦責任を中心に、コモン・ローにおける詐欺責任法理の展開についても分析が行われている。

第四章および第五章は、第三章で明らかになったコモン・ローの法理が規則10b-5の解釈にどのように影響を与えていたのかという視点に立って、分析が行われている。まず第四章では、Cady審決以前に内部者取引や内部者取引事案に類する事案において、規則10b-5の下でも、信認義務の有無や、コモン・ロー上の詐欺責任の成否を判断枠組として利用した従来のコモン・ローによって発展した法とほぼ同じ法、あるいは、その延長線上に位置づけられる法によって、証券詐欺責任の成否が決せられていたことが明らかにされる。続く第五章では、第三章、第四章で得られた知見を基に、第二章で紹介された現行法のあり方、わが国では不可解とされてきたアメリカ法の一見特異な姿の謎を解く作業が次のような形で展開される。

まず示されるのは、一般投資家の保護や証券取引市場の公正さの確保という理念に最も親和的な、Cady審決が確立しようとした平等アクセス・ルールは、それまでのコモン・ローの諸ルールとは、色々な局面において遠くかけ離れたものであったということである。内部者取引について明文の禁止規定を有し、何が内部者取引行為に該当するかも明文によってその大枠を示しているわが国の状況とは異なり、包括的な詐欺禁止規定のみを根拠に、判例を通じて内部者取引規制を発展させなければならなかったアメリカにおいて、それまでのコモン・ローの連続延長線上に位置づけることが不可能な平等アクセス・ルールが最終的に裁判所の採用するところとならなかったことは、ごく自然なことであった。アメリカの証券取引規制は、証券の発行者・販売者等に情報開示責任を課し、そこにおける不実表示を証券取引詐欺として法的責任を負わせるという規制手法を柱としている。しかし、内部者取引においては、内部情報を知る者は、知らない者との情報ギャップを利用して大きな利益をあげたり損を免れたりするわけであるが、その取引において積極的になんらかの不実表示をするわけではない。積極的不実表示なくして責任を認めるためには、取引者に開示義務を課す信認義務が存在するか、詐欺責任を成立させる上で必要な事実と異なる理解をさせる表示、それも公衆一般に対して向けられたものではなく、関係性のある特定の当事者に向けてなされた表示があったことが、コモン・ロー上、必要とされてきた。このことが、不正流用理論の詐欺性の相手方が情報源とされるしかなかったことの理由である。

以上が本論文の要旨である。

本論文の長所としては、次の点が挙げられる。

第一に、アメリカの内部者取引責任法においては、証券取引市場の健全な育成や一般投資家の保護という、法が本来目的とすべき利益が背景に押しやられ、責任の有無を決定する際の線引きの道具立てとして、複雑でテクニカルな、論理的理解や説明の難しいルールが採用されているのはなぜなのか、という問題関心の下、コモン・ローの歴史的分析も含め、この考察に関係のある主要判例をほぼ網羅的に収集し、それらを丁寧に分析・整理するという作業を丹念着実に積み重ねている、という点が挙げられる。判例法主義を特徴とする英米法の研究においては、こうした地道な基礎的作業を積み上げる中で、分析や考察の枠組を獲得していくことが重要であるが、この論文は、英米法研究のそうした王道を忠実に辿った研究である。個々の判例の読み込みにより、いわばジグソー・パズルのピースを丹念に揃えていくという作業を通じて、大きな全体像に迫ろうとする労作であり、欠けているミッシング・ピースがないわけではないが、全体について相当の説得力の有る像を示すことに成功していると言える。

第二に、本論文が主題として設定した「不可解」なアメリカ法の特徴の謎の解明にかなりの程度成功を収めているという点が挙げられる。内部者取引責任の決定に当って信認義務に着目するという特徴については、これまでも1934年法以前のコモン・ローに遡って研究した先行研究は存在したが、従来の先行研究は、それを平面的に、単にpath-dependent(経路依存)的に説明したにすぎない。

内部者取引責任は、証券の詐害的取引を制限・禁止する証券取引法制の中に位置づけられる法的責任であり、コモン・ロー上の不法行為である詐欺に関する法と深い関係がある。別な言い方をすれば、信託法に起源をもつ信認義務に関する法と不法行為としての詐欺に関する法が交錯する法領域である。本論文は、19世紀後半から20世紀初めにかけての、信認義務に関する法の発展のみならず、コモン・ローの詐欺の訴えが、内部者取引の事件や、その隣接分野である相場操縦の各種事件において、どのように利用され、また利用されなかったかを合わせ考察することで、アメリカ法のこうした特徴を炙り出し、不可解さの謎を解くことに成功したのである。すなわち、信認義務違反が問題となるのは、他者の信頼を与えられている受認者は、受託者が自己取引を禁止されるように自己利益の実現を図ってはならず、信認者との間でそうした取引に入る場合にはそのことを開示する義務がある。内部者取引が責任を問われるのは、この開示義務に反するため、取引者が積極的な虚偽表示をしなくとも、開示義務に反することによる消極的な虚偽表示が存在することになる。そのことが、内部者取引が証券取引詐欺となる根拠とされたのである。内部者取引責任の法的構造がこのようなものであるため、内部者による取引ではない事件で詐欺が成立するためには、別の虚偽表示が必要となる。このことから、情報源が内部情報の利用者に与えた信頼を裏切ったことが注視され、そこに消極的虚偽表示を認めるという法的構成がとられる必要が生まれたのである。このように、本論文は、一見したところは、無関係な法理の寄せ集めのように見える、信認義務違反法理と不正流用理論が、いずれもコモン・ローの詐欺法というより大きな箱の中に整理されうる存在であり、詐欺法のコモン・ローのルールが、証券取引という各論的分野において、その分野に必要な修正を受けて発現しているという姿を浮かび上がらせることに成功しているといえる。

第三に、本論文は、長編ではあるが、上述したアメリカ法の「不可解な」特徴の謎を探るという、一貫した問題関心によって貫かれている。現代法の分析と、判例法の歴史的分析がなされており、時代の変化を反映して、扱われている判例の事件の事実や事案のあり方も変化しており、個々の判例の分析を繋げて大きな物語を描くことは、それほど容易ではない。しかし、問題関心が一貫していることが、叙述が平明なことと相まって、本論文を読みやすい論文に仕上げている。

もとより、本論文に短所がないわけではない。

第一に、第一章でわが国の状況が相当程度に詳しく整理されているとはいえ、論文によって明らかにされたことが、わが国における内部者取引責任をめぐって議論されている問題とどのような関係に立つかまで、十分に消化され、論じられているわけではない。

第二に、本論文が明らかにしたのは、競争原理によって支えられている市場において、フェアプレイの審判者としてどのような責任の線引きをすべきかという課題に裁判所が「いかに」取組んできたかであったが、「なぜ」を問うことで主題を探求したため、論文の導入部や結論部において、ややもすると、アメリカ法の法理の理解自体が「なぜ」内部者取引が制限されるべきかの理論的考察に直接的に役立つという、やや短絡的な前提のうえにたつ著述が進められている箇所が存在する。

本論文には、以上のような問題点がないわけではないが、これらは、長所として述べた本論文の価値を大きく損なうものではない。以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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