学位論文要旨



No 125435
著者(漢字) 河野,麻沙美
著者(英字)
著者(カナ) カワノ,マサミ
標題(和) 算数授業における図的表現が媒介する協同的な学習過程の検討 : 社会数学的規範の形成とインスクリプションによる知識構築
標題(洋)
報告番号 125435
報告番号 甲25435
学位授与日 2010.02.03
学位種別 課程博士
学位種類 博士(教育学)
学位記番号 博教育第162号
研究科 教育学研究科
専攻 総合教育科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 秋田,喜代美
 東京大学 教授 岡田,猛
 東京大学 教授 恒吉,僚子
 東京大学 教授 岡本,和夫
 東京大学 准教授 藤村,宣之
内容要旨 要旨を表示する

本研究は、学校教育における学習の場である授業で期待される数学学習の心理社会的過程を検討することを目的としている。特に教室談話の性質と算数学習で頻繁に使用される図的表現の機能に着目し、社会数学的規範を形成し、インスクリプションとして図的表現を使用することで導かれる知識構築過程を明らかにし、算数授業における協同的な学習の在り方を導くものである。

第一部は、教室談話と数学学習研究の動向(第1章)と、算数・数学学習における図的表現の使用(第2章)に関する先行研究を展望し、日本の算数授業における実践的課題をまとめ、それに応答する図的表現を使用した算数授業における協同的な学習過程の理論的枠組みを提示した(第3章)。第4章では、第3章における理論的枠組みの実証的検討を行うための方法論を検討したうえで、本論文の目的と方法を示した。

第1章では、新しい学校数学に関する理解・学習研究の動向を捉え、授業における数学理解の様相と教室談話の性質を展望した。その結果、数学の概念形成や手続き的知識の習得を課題としてきた学校数学から、協同し探究を深める学校数学へと質的な転換が起きていることを指摘した。また、理解や学習を対象とした心理学的観点と社会的相互作用を対象とする社会学的観点を統合した視点(McClain & Cobb, 1996)から、教室談話の性質と数学理解の関係を検討した。これらの先行研究の知見から、相互交渉に必要な表現形式や思考様式を含むリテラシーや談話参加の規範を獲得すること、協同構築される表象に着目する新たな視座を得た。

第2章では、算数・数学学習における図的表現の使用に関する先行研究を概観し、協同的な学習における図的表現の機能を検討した。個人の認知支援ツールとみなされてきた図的表現を、社会過程を可視化し、組織する「インスクリプション」と捉え直すことで、協同的な問題解決が導かれること、また、共有知が可視化されるという機能を指摘した。

第3章では、第1章と第2章の問題点を受け、算数授業における協同的な学習過程の理論的モデルを構築した。このモデルは、協同の表象に着目するBereiterらの「知識構築」(2002他)を理論的枠組みとし、算数・数学における学習と談話の研究を推進してきたCobbら(Cobb&McClain, 1996他)の知見を統合したものである。省察的談話と図的表現の協同使用に着目し、図的表現の表象を吟味、再共有する「立ち戻り」過程(McClain & Cobb, 1998)と、省察的談話の中で形成される「社会数学的規範」、及び、協同の表象を可視化するインスクリプションを、知識構築へと至る協同的な学習過程に位置付けた、新たな学習観に基づくモデルである。

第4章では、第3章で導出した理論的モデルを実証する方法論を検討した。まず、比較研究から、実践に埋め込まれた信念や志向性である「学校算数観」(第二部)を明らかにする方法を示した。次に、集団的な問題解決と協同的な学習を合わせて行い、図的表現を積極的に使用する算数授業の事例研究 (第三部)から理論的モデルの実証的検討を行うことを説明した。

第二部の目的は、教科書と授業の比較研究を行い、数学理解や学習過程に対する信念や志向性である「学校算数観」を捉えることである。問題解決と図的表現の使用という観点から日本とシンガポールの学校数学の比較研究を行った。カリキュラムに準じ、教育課程や教育文化が強く反映していると考えられる教科書比較(第5章)と、実際の授業事例を検討(第6章)し、学校算数観の文化的差異を捉えた(第7章)。

第5章の教科書比較では、小数の性質と四則計算に関する単元を対象とし、教科書の設問や構成、図的表現の使用を検討した。その結果、シンガポールでは、数量の表象として図的表現が使用され、問題解決へと直結するのに対して、日本では、数量関係の表象として図的表現が使用され、その読解や操作によって数学的思考や推論を深めることが期待されていることを明らかにした。

第6章では、小数乗法で同数累加の性質を学習する導入授業を対象に、図的表現の使用と授業の展開を比較した。授業展開の特徴を、学習活動と学習課題から同定することで、日本には構造化された展開が見られたのに対して、シンガポールは教師主導の一斉型授業が特徴的であったこと、また、図的表現の使用において、日本は読解と推論、説明などの言語化を求めるのに対し、シンガポールは描写し、迅速に正答を導出することを求めるという違いがみられた。同じ「同数累加」の学習場面でも、シンガポールが用語習得と演算技能の習得を意図しているのに対して、日本では用語は使用せず、多様な表現形式の使用から概念形成を促す意図が捉えられた。

第7章では、第5、6章の結果を踏まえ、「学校算数観」を検討した。シンガポールは、的確な問題解決方略の獲得を目指す「方略重視型」の学習を、日本は問題解決や図的表現の使用といった数学的活動を通して、数学的思考や推論、コミュニケーションといった数学的実践や数学に対する深い理解を期待する「活動重視型」の学習を特徴としている点を指摘し、学習観の差異を説明した。

第三部では集団的な問題解決を行う算数授業の事例研究を通して、第3章で構築した算数授業における協同的な学習過程の理論的モデルの実証的検討を行った。本研究では、継続的な授業観察を行い「小数の乗除法」の一単元とそれに関連する次学年も含めた長期的学習過程を対象としている。

第8章では、学習者が独自に生成して問題解決に至った事例から、省察的談話と図的表現の協同使用によって、教室談話による知識構築を導くことを実証的に示した。そして、図的表現が「立ち戻り」過程の「イメージ」となること、また、学習者間の思考を媒介するインスクリプションとなることを事例に即して説明した。

第9章では、定型化された図的表現を使用した授業を対象に、「立ち戻り」過程における「イメージ」としての機能を検討した。図的表現そのものを理解していくことで、課題解決が促されること、また、学習課題である概念との相乗的な理解過程を捉えることを明らかにした。

第10章では、定型化された図的表現を学習者が目的的に使用した授業を対象に、省察的談話が導く「立ち戻り」過程の様相と、社会数学的規範の形成を検討した。社会数学的規範の検討には、第8章からの談話事例と合わせて中長期的な視野から検討を行った。

第11章では、第8章から第10章で対象とした授業事例における図的表現の機能を検討し、算数授業における図的表現のインスクリプション機能を考察した。その結果、多様な思考様式や表現を内包する表象となり、学習者らの多様な表象を集約する機能(第8章)、概念の表象である図的表現が具体的な課題場面を記号化しているため、学習者間の思考を媒介する機能(第9章)、図的表現が思考を媒介することで、学習者間に生じていた表象の不一致を調整する機能(第10章)の3機能を指摘した。

第四部(第12章)は、第三部における事例研究の成果をまとめ、算数授業における協同的な学習過程における教室談話と図的表現の使用について総括を行った。算数授業における協同的な学習過程において、図的表現の協同使用によって、学習集団で協同して知を構築し共有していく過程を明らかにした。この過程は、学習集団内で承認される説明・思考様式の共有により導かれる、社会数学的規範の形成によって支えられている。また、図的表現が、共有知を可視化するインスクリプションとして、知識構築を媒介する過程を示した。さらに、数学的な思考や説明の在り方といった社会数学的規範の形成はカリキュラムの進度に伴い修正・再形成され、より高次の数学的内容に関する知識構築の生起が生じることを指摘した。第3章で構築した理論的モデルでは、社会数学的規範の形成と知識構築を段階的に捉えていた。しかし、事例分析を通して、社会数学的規範の修正・再形成と知識構築の循環的過程が明らかにされたため、協同的な算数学習過程モデルを修正した(図1)。

知識構築に至る教室談話で、社会数学的規範が形成・修正されていることを事例に即して明らかにしたことは、本研究の成果である。社会数学的規範の形成には、発言者以外の学習者は、説明の妥当性を判断し、承認することで参加し、共有知に対する責任が生じる。集団での考えを精緻化する「練り上げ」では、一部の学習者の発言によって予定調和で答にたどりつく学習軌跡と、発言者以外が実質的に参加していないという課題を第3章で指摘した。本研究はこの課題に対して、知識構築を行う学習の在り方を示し、図的表現の使用と教室談話の性質を明らかにすることで、協同的な問題解決を行う授業に新たな知見を示したものである。

最後に本研究に残された課題を2点指摘した。第1に、本研究では、学習集団を分析単位とした協同の表象を捉えることを目的とした。そのため、授業過程において個々の学習者に起きた数学発達や概念変化は検討していない。課題解決や概念、授業過程での学習者の聴解を検討してきた先行研究の知見をもとに、教室談話の分析と並行して学習者内の変化の分析を行うことで、上記の課題を解決する課題を残している。第2に、教科書や学習単元の内容と学習者を対象に授業過程を検討したが、協同的な学習を支援する教師の力量や授業デザインに関しては、十分な検討・考察は行っておらず、総体的な授業実践の記述には至っていない。教師の児童認知や状況把握、教授・学習に対する信念や志向性、教授や教科内容に関する知識を検討し、意思決定を踏まえた実践化の過程を記述することが、今後の課題である。

図 1 算数授業における図が媒介する協同的な学習過程

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、小学校算数授業における教室談話の性質とその過程において使用される図的表現の機能に焦点を当て、社会数学的規範を形成しインスクリプションとして図的表現を使用することによって行われる協同的な知識構築過程を明らかにすることを目的とするものである。

第部第1章では教室談話と数学学習研究の動向を展望し、授業内相互作用を通した協同表象形成過程研究の必要性を指摘し、第2章では算数・数学における図的表現の機能に関する展望からインスクリプションとしての協同機能に関する課題を挙げている。そして第3章では本研究がとりあげる課題を整理し、これらをふまえ第4章では学校数学の学習過程に関して想定される理論モデルを提示し、本論文の枠組みを説明している。

第II部において、学校算数観と図的表現使用の点で共通性をもつ日本とシンガポールについて、小数の演算単元授業を対象にして、第5章では教科書の設問や構成、図的表現使用の比較から、図的表現をシンガポールでは数量の表象として使用し問題解決に直結する記述がなされているのに対し、日本では数量関係の表象として使用され読解と操作による推論が求められる記述がなされていることを明らかにしている。続く第6章では同単元の両国授業の比較分析から、用語習得と技能習得を意図するシンガポールと多用な表現形式の使用により概念形成を促す日本の授業の特徴を指摘している。そして第7章では、第5,6章をふまえ、学校算数観として、方略重視と活動重視と言う差異を見出している。

第III部においては、第II部の日本の授業の特徴を踏まえ、同単元の1単元及び関連する次学年授業単元を含む長期的な学習過程を対象にし、第8章では図的表現の媒介により立ち戻りによるわかり直し過程が可能となること、第9章では図的表現の説明と言う言語化過程を介して定型化された図的表現が学習されていくこと、第10章ではインスクリプションとしての図的表現使用により社会数学的規範が形成されていくことを明らかにし、第11章では協同的な学習での図の機能としての、集約、媒介、調整機能を提示している。そして最終章では論文を総括した理論モデルを提出し、研究の意義と課題を述べている。

本論文は、比較文化的視点を入れ、長期的な授業過程分析研究をもとに、算数授業での協同的学習過程を捉えた点で独自性を有しており、今後の授業研究や学習過程研究に新たな方法論的示唆をもたらす研究である。よって、博士(教育学)の学位を授与するのにふさわしい論文であると評価された。

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