学位論文要旨



No 125441
著者(漢字) 大川,英希
著者(英字)
著者(カナ) オオカワ,ヒデキ
標題(和) LHCにおけるATLASカロリメータのコミッショニングおよび新物理探索への展望
標題(洋) Commissioning of the ATLAS Calorimeters at the Large Hadron Collider and Prospects towards New Physics Search
報告番号 125441
報告番号 甲25441
学位授与日 2010.02.26
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第5445号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 蓑輪,眞
 東京大学 教授 齊藤,直人
 東京大学 特任教授 村山,斉
 東京大学 准教授 浜垣,秀樹
 東京大学 准教授 山下,了
内容要旨 要旨を表示する

LHC(Large Hadron Collider) 加速器は、TeVスケールの物理を直接探索できる、初の加速器である。その衝突点の一つに設置されたATLAS検出器(A Toroidal LHC ApparatuS) は、CMS(Compact Muon Solenoid) 検出器と並ぶ、汎用検出器である。TeVエネルギースケールでは、標準理論を越えた新物理(超対称性理論や余剰次元理論など)が存在すると考えられている。本研究では、モデルに依存しないそれらの新物理探索の方法として、ジェットと消失横方向エネルギー(Missing ET)を用いた手法を考える。この手法は、暗黒物質が衝突で生成される場合に特に有効である。ジェットとMissing ETは、主にカロリメータを用いて再構成されるため、宇宙線などの実データを用いて性能を評価し、理解することは極めて重要である。本研究では、宇宙線データを用いたカロリメータのコミッショニングと、そこで得られた知見を基に、Monte Carloシミュレーションも駆使して、新物理探索への展望について考察した。

ATLAS検出器において、粒子のエネルギー測定の心臓部とも言えるカロリメータは、電磁カロリメータとハドロンカロリメータで構成されている。電磁カロリメータに、液体アルゴンカロリメータが、又ハドロンカロリメータには、プラスチックシンチレータをPMTで読み出すタイルカロリメータをバレル部に、液体アルゴンカロリメータがエンドキャップ及びフォワード部で、採用されている。これら液体アルゴンカロリメータとタイルカロリメータは、1990年頃からのR&Dを経て、長い年月をかけて建設され、2005年にタイルカロリメータを用いて初めて宇宙線測定を行って以来、 宇宙線測定を継続し、2008年9月のシングルビームの周回・測定を経て、現在に至るまで、コミッショニングを行ってきた。これらの測定から得られたデータは、ATLAS検出器の理解を深めるとともに、カロリメータにおける、クラスター、ジェット、消失横方向エネルギー(Missing ET)の再構成など、オフラインのアルゴリズムの確認・最適化などを行うことを可能にした。

ランダムトリガーによって得られた事象は、カロリメータのセルでのエネルギー再構成に対する、電子ノイズの影響を測定することに適している。本論文では、ATLAS検出器が衝突点に建設された状態での初めての電子ノイズの測定を行った。タイルカロリメータでは、それまで予想されていた電子ノイズとは異なった挙動が観測された。角度φ方向については、ほぼ一様であったが、擬ラピディティー(η)方向には、η=1,1.7付近に電源があり、η=0.5付近でディジタイザーなどからのノイズの影響が無視できず、ノイズの増大が観測された(図1)。又、これらの箇所において、非ガウス分布的なノイズが観測されたが、それが主に低電圧電源に由来していることを明らかにした。ATLASで用いられている標準的なカロリメータのクラスタリングの一つである、Topological Clusterは、それまでノイズのエネルギー当値分布のガウス性を仮定して、カロリメータのセルにおけるエネルギーの有意性から、クラスターのシードの決定を行っていた。これは、非ガウス分布の場合には、正しく有意性を考慮せずにクラスタリングを行っていることになり、ノイズから多くのクラスターが形成されるとともに、それらを用いて計算されているMissing ETの分解能の低下にもつながっていた。 筆者は、ノイズの非ガウス性を考慮したクラスタリングを提案し、実際に分解能が改善されることを示した(図2)。クラスタリング手法の改善後にも、モンテカルロとの若干の相違がみられたが、これはシードの閾値を越える、ノイズの非ガウス的なテールによるもので、この寄与については、エネルギー再構成の際の、シグナルの波形とフィッティングの適合性を見ることで取り除くことができる。

宇宙線データは、検出器の応答を検査するだけでなく、オフラインソフトウェアの検証及び最適化をする機会をもたらす。 数百GeV以上の高エネルギーの宇宙線は、時折、制動放射で、大きなエネルギーをカロリメータに落とす。宇宙線データでは、実際にそのような事象が多数観測され、TeVを越えるエネルギーも1時間に数回の割合で観測された。ホットチャンネルの理解及び同定は、ほぼ網羅されていたため、これらのエネルギーが実際に宇宙線由来のものであることが予想された。この予測について、宇宙線のATLAS検出器での相互作用を考慮したモンテカルロシミュレーションを用いて検証した。その結果、実際に宇宙線ミューオンからの制動放射で、TeVオーダーのエネルギーがカロリメータにもたらされることが判明し、カロリメータにおける全横方向エネルギーなどの分布がモンテカルロで再現された。又、これらの事象に対して、ソフトウェアの検証も含めて、ATLASで初めて、実データにおいてジェットアルゴリズムの動作確認を行った。Missing ETアルゴリズムの検証も行った。その結果、宇宙線ミューオンからカロリメータにもたらされるエネルギーによって、擬似的に「ジェット」が再構成されることが、多々あることが判明した(図3)。このような事象は、又、宇宙線が衝突点付近を通ることが稀であるために、大きなMissing ETを生じることも明らかとなった。これらの現象も、モンテカルロで良く再現することができた。

宇宙線から生じる、上述のような偽のジェットやMissing ETは、多くの物理測定にとって深刻なバックグラウンドとなる。本研究では、それらのバックグラウンドを除去する手法を、実データ及びモンテカルロを駆使して、検証した。宇宙線から生じる偽のジェットは、主に制動放射によって生じるために、エネルギーが狭い領域に集中的に存在する。その結果、電磁カロリメータとハドロンカロリメータにおけるエネルギー比(しばしばelectromagnetic fraction; EM fraction と呼ばれる)において、QCD由来のジェットと極めて異なる性質示す(図4)。 又、ジェットに付随するトラックの数も、宇宙線由来のジェットを同定し、除去することができる。これらは、QCDジェットと宇宙線からのジェットを分離する良い変数となる。その他の有用な識別変数(discriminant variable)についても提案するとともに、それらの性能を、宇宙線が他の物理事象と重なった場合についても確認した。この際には、宇宙線の実データと物理事象のモンテカルロをdigitizationの段階で重ねる "Event Overlay"という手法を用いた。

本研究の後半部は、コミッショニングで得られた知見を基に、Monte Carloを用いて、Monojet事象を用いたLarge Extra Dimensions の探索と、Missing ETに多数のジェットが付随するmulti-jet事象を用いた超対称性粒子の探索法について研究した。

標準理論を超える物理探索には、バックグラウンドの理解と評価が必要不可欠である。この際には、標準理論の枠内で生じる、W/Z事象やtop-quarkの対生成、QCD dijetからの寄与以外に、宇宙線やビームハローなどのnon-collisionバックグラウンドについても考慮しなければならない。Monojet事象と呼ばれる、単独の高エネルギージェットに大きなMissing ETが付随する事象では、前述の識別変数を用いない場合、宇宙線バックグラウンドは、標準理論のバックグラウンドや新物理現象を遥かにしのぐ事象数になることがわかった。宇宙線バックグラウンドは、Muon Spectrometerからの情報だけでは、除去することができないことが本研究で判明したが、カロリメータの情報も用いてバックグラウンドの除去を行うと、そのほとんどを取り除くことができることを示した。本論文では、Arkani-Hamed, Dimopoulos, Dvali (ADD) の提唱したLarge Extra Dimensions 模型におけるmonojet事象(gg→gGKK, qg→qGKK, qqbar→gGKK; g:gluon, q:quark, G KK:KKgraviton)を例に、ジェットの識別変数の性能を評価し、その必要性について考察することができた。

超対称性探索のための、multi-jet事象を用いた探索では、標準理論からのバックグラウンドを評価すること自体が困難になる。Multi-jet事象は、Monte Carloでの不定性が極めて大きいためである。そのため、このような探索の際には、バックグラウンドをデータから評価するdata-driven methodと呼ばれる手法が効果的である。これは、Monte Carloの不定性のみでなく、検出器の性能も自動的に考慮できるという点で、特に実験初期にはなくてはならない手法である。ここでは、Z,W,Top由来のバックグラウンドについて、data-drivenな手法を提案し、その性能と不定性について考察した。一方で、宇宙線事象がQCD事象に重なる寄与は、極めて小さいこともevent overlayのアルゴリズムを用いて示した。この結果、実験初期(200 pb-1)において、data-driven methodを用いた現実的な性能のもとでも、生成される超対称性粒子(スクォークやグルイーノなど)の質量が400から700 GeV付近の場合に、その兆候を観測できる可能性があることがわかった(図5はグルイーノが717 GeV, スクォークが~600 GeVの質量を持つ場合)。又、事象のバックグラウンドからの超過だけでなく、有効質量(Effective mass: Missing E Tと最もハードな3本のジェットの横運動量のスカラー和。生成された超対称性粒子の質量に近似的に比例する)分布のピークを測定することによって、生成された超対称性粒子の質量についての示唆を得ることができる(図6はグルイーノが413 GeV,スクォークが~400 GeVの質量を持つ場合)。

本研究で、新物理探索に必要不可欠なカロリメータの性能を、実際の宇宙線データを用いて評価し、ノイズの測定、ホットチャンネル・デッドチャンネルの同定、クラスタリングの検証・改善などを行うことができた。又、カロリメータでのエネルギー再構成における宇宙線の寄与を、Monte Carloを用いて理解することができた。クラスタリングやジェットアルゴリズムなどのソフトウェアツールの動作確認、改善にも貢献することで、ATLASカロリメータ及びオフラインツールを物理ランの測定に対応しうる状況にすることに大きな貢献をした。又、ジェットやMissing ETを用いた新物理探索の可能性について、monojetとmulti-jet事象において、実際の宇宙性データと、Monte Carloシミュレーションを用いて研究した。これは、超対称性事象や余剰次元の探索に必要不可欠な研究結果である。

図1: タイルカロリメータにおける単一のセルの電子ノイズのη依存性。φ方向については、平均を取っている。A,B/C,Dは各サンプリングレイヤーを指す。

図2: 消失エネルギーのx方向成分。青が、ランダムトリガー事象における観測、赤は同データについてクラスタリングの改善を行った場合、黒がモンテカルロからの予測。

図3:宇宙線によって生じる「偽」のジェットの横エネルギー分布。青は宇宙線データ、赤はモンテカルロ。

図4:宇宙線によって生じる「偽」のジェットの電磁エネルギー比(EM fraction)分布。青は宇宙線データ、赤はモンテカルロ。黒は、QCD jetのモンテカルロ

図5:超対称性事象と標準理論からのバックグラウンドのMissing ET分布。赤が全事象、黒が標準理論からのバックグラウンド、青が本研究の手法で予測されたバックグラウンドの寄与。

図6:超対称性事象からの有効質量分布。黒がシグナルのみ場合の理想的な状況の場合、青がバックグラウンドを本研究の手法を用いて評価し、系統誤差も考慮してバックグラウンドを除いた際に再現できる分布。

審査要旨 要旨を表示する

この論文は、欧州原子核研究機構(CERN)のLHC(Large Hadron Collider) 加速器の衝突点の一つに設置されたATLAS 検出器(A Toroidal LHC ApparatuS) の心臓部であるカロリメータについて、その性能試験データを元に本実験での新物理現象探索の具体的方法について研究した結果をまとめたものである。

論文は全3 部からなり、第1 部では、導入としてLHC で期待される新物理現象や、LHC 加速器とATLAS 検出器についての概要を説明している。第2 部では、ATLAS 検出器のカロリメータの性能試運転についての詳細が述べられ、第3 部においてその知見を元に、期待される新物理現象の具体的探索方法について詳しく研究した結果が記されている。

LHC加速器は、TeV(テラ電子ボルト)スケールの物理を直接探索できる初の加速器であり、ATLAS 検出器はその主要な汎用検出器である。ATLAS 検出器において粒子のエネルギー測定の心臓部とも言える電磁カロリメータとハドロンカロリメータは、1990 年頃からの研究開発を経て、長い年月をかけて建設され、2005年から宇宙線測定を開始し、2008 年9 月のシングルビームの周回・測定を経て、現在に至るまで、コミッショニング(本実験に向けての性能試験のための試運転)を行ってきた。その際、特定場所でディジタイザーなどからの非ガウス分布的なノイズの増大が観測されたが、それが主に低電圧電源に由来していることを明らかにした。従来の解析手法では、非ガウス分布的ノイズが存在する場合には、解析能力の低下が起きていたが、論文提出者は、ノイズの非ガウス性を考慮した手法を提案し、解析能力が改善されることを示した。

宇宙線測定では、ミューオンからの制動放射で、TeV オーダーのエネルギーがカロリメータにもたらされ、その結果擬似的に「ジェット」が再構成されることが、多々あることが判明した。このような事象は、又、宇宙線が衝突点付近を通ることが稀であるために、大きなMissing ET(横方向消失エネルギー)を生じることも明らかとなった。このような偽のジェットやMissing ET は、多くの物理測定にとって深刻なバックグラウンドとなるので、それらのバックグラウンドを除去する手法を、実データ及びモンテカルロシミュレーションを駆使して確立した。

さらにコミッショニングで得られた知見を元に、モンテカルロシミュレーションを用いて、Monojet 事象を用いたLarge Extra Dimensions の探索と、Missing ETに多数のジェットが付随するmulti-jet 事象を用いた超対称性粒子の探索法について研究している。Monojet 事象と呼ばれる、単独の高エネルギージェットに大きなMissing ET が付随する事象では、宇宙線バックグラウンドは、標準理論のバックグラウンドや新物理現象を遥かにしのぐ事象数になることがわかった。宇宙線バックグラウンドは、Muon Spectrometer からの情報だけでは、除去することができないことが本研究で判明したが、カロリメータの情報も用いてバックグラウンドの除去を行うと、そのほとんどを取り除くことができることを示した。超対称性探索のための、multi-jet 事象を用いた探索では、標準理論由来のバックグラウンドをデータから評価するdata-driven method と呼ばれる手法を提案し、その性能と不定性について考察した。この結果、実験初期においても、生成される超対称性粒子の兆候を早期に観測できる可能性があることがわかった。

以上に述べたように、この論文において論文提出者は、ATLAS 検出器のカロリメータのコミッショニングで得られた知見をもとに今後始まるLHC 加速器の本実験における、素粒子の標準理論を超えた新物理現象探索のための有効な効率的解析手法を確立することに大きく貢献した。

この論文は、学問的に大変有用なものであり、また論文提出者の独創性も十分であると認められる。また、この論文はATLAS 実験グループの他の共同研究者との共同研究に基づくものであるので、論文提出者がどのような主導的な寄与があったのか審査委員会において念入りに審査した。その結果、検出器の試運転における性能測定と問題点の洗い出しおよびその対策、さらに、その知見を元にした新物理探索の方法に関する研究は、論文提出者が中心となり行なったものであることが明らかであることから論文提出者の主導性が十分であると判断した。

したがって、博士(理学)の学位を授与できると認める。

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