学位論文要旨



No 125443
著者(漢字) 古賀,裕章
著者(英字)
著者(カナ) コガ,ヒロアキ
標題(和) 日本語における逆行形および関連するヴォイス構文
標題(洋) The Inverse and Related Voice Constructions in Japanese : From a Functional-Typological Perspective
報告番号 125443
報告番号 甲25443
学位授与日 2010.03.01
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第940号
研究科 総合文化研究科
専攻 言語情報科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 大堀,壽夫
 東京大学 教授 坂原,茂
 東京大学 教授 林,徹
 東京大学 准教授 坪井,栄治郎
 東京大学 准教授 西村,義樹
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、これまで見過ごされてきた直示移動動詞「くる」のヴォイスに関連する用法を、機能的に類似する受動構文、受益構文とのシステマティックな比較を通して明らかにし、日本語のヴォイス体系に位置付けることを目的とする。また、(1a)に示した「くる」の持つ話者の方向への物理的移動を表す機能と、(1b)の時間にかかわる起動アスペクトの機能、そして(1c)のヴォイスに関連する機能との間に概念的並行性が存在することを主張し、その拡張のメカニズムを提案する。

(1) a. タロウが部屋に入ってきた。

b. 外が暗くなってきた。

c. タロウ手紙を送ってきた。(#タロウが私に手紙を送った。)

以下、各章の概要を述べる。

(第一章)

Shibatani(2003)は、(1c)に見られる「てくる」が、(2)に挙げた人称の階層の下位に位置する参与者から上位に位置する参与者に移動/行為が行われた場合に現れるという点で、北アメリカのアルゴンキン諸語に広く見られる逆行態標識と類似した、ヴォイスに関連する機能を有すると特徴づけた。

(2) 日本語の人称の階層:1人称 > 2人称 > 3人称

本稿は、この逆行態標識「てくる」に関して、特に(3)に挙げた4つの問題を提起し、以下の章でそれぞれについて考察する。

(3) 日本語の逆行標識「てくる」に関する4つの問題

a. 逆行態標識/逆行構文をライセンスするための意味的、統語的、語用論的条件は何か。同じ概念内容を表しうる複数の構文の中で、逆行構文を選択する動機は何か。

b. 直示移動動詞「くる」が逆行態標識に文法化するメカニズムは?空間移動や時間・アスペクトを表す「くる」の機能との間に、どのような概念的な繋がりが見出せるのか。

c. 話者の方向への移動を表す要素が逆行態標識に文法化するという現象は、日本語に特化した現象なのか。

d. 日本語の逆行構文とアルゴンキン諸語やその他の言語の逆行構文の違いは何か。

最後に、先行研究に言及しながらヴォイスとダイクシスの定義を概観した。

(第2章)

(第2章)本章では、まず人称の階層が文法を考える上で重要な役割を果たすということを、様々な言語の格標識やヴォイスの選択、人称の一致を例に議論し、そしてShibatani(2003, 2006)が提示する「てくる」の分析の問題点を指摘した。Shibatani(2003, 2006)は、「てくる」を含む逆行態と受動態がいずれも人称の階層の下位の参与者から上位の参与者に対して働きかけが行われた場合に生起するヴォイスであるとし、その機能のすみ分けは主動詞の意味によってなされるという分析をしている。これは、主動詞が移動を表す場合には逆行態(4a)が、行為を表す場合には受動態(4b)が選択されるというものである。

(4) a. タロウが(私に)ボールを投げてきた。

b. (私は)タロウに殴られた。

しかし、逆行態と受動態の選択が主動詞の意味によって決まるという分析には反例が認められる。例えば(5a)が示すように、移動を表す動詞が受動態に生じることもあるし、(5b)のように行為を表す動詞を逆行態で使用することも可能である。

(5) a. タロウに鍵を渡された。(cf., タロウが鍵を渡してきた。)

b. タロウが(私を)殴ってきた。(cf., (4b))

これらの観察から、逆行態と受動態の選択は主動詞の意味のみによって決まるわけではなく、両ヴォイスの生じる構文の意味的、統語的、語用論的特徴に動機づけられていると見るべきである。

(第3章)

本章では、逆行構文と受動構文の意味的、統語的、語用論的違いについて論じた。まず両構文における動作者の話題性に違いが見られる。逆行構文の動作者は受動構文の動作者よりも話題性が高い。この語用論的な違いは、逆行構文の動作者が、対応する能動構文の動作者同様、主語の役割を担っているのに対し、受動構文の動作者は選択的な斜格項に降格されている、という統語的な違いに動機づけられている。つまり、能動/順行構文と逆行構文の交替には、受動構文の場合とは違い、文法関係の変更も結合価の減少も見られないのである。

意味的な違いに目を向けると、以下の3点から逆行構文が因果連鎖の起点、行為局面を焦点化するのに対し、受動構文は因果連鎖の終結点、結果局面を焦点化することがわかる。まず1点目は、動詞事象の実現を打ち消すことができるかどうかである。ある種の表面接触動詞を逆行構文で使った場合、(6a)が示すように結果である接触の打ち消しが可能である。一方、(6b)、(6c)に見られるように受動構文、能動構文の場合には結果のキャンセルが許容されない。

(6) a. タロウが殴ってきたが、うまくかわした。

b. *私はタロウを殴ったが、あいつはうまくかわした。

c. *タロウに殴られたがうまくかわした。

2点目は、行為を焦点化する逆行構文の動作者は意図的行為者に限定されるが(7a)、結果状態を焦点化する受動構文にはそのような制約が見られない(7b)という事実である。この制約は能動構文にもやはり当てはまらない(7c)。

(7) a. タロウは私の足を{わざと/*うっかり}踏んできた。

b. 私はタロウに{わざと/うっかり}足を踏まれた。

c. 私は{わざと/うっかり}タロウの足を踏んだ。

3点目は、状態変化動詞との相性の悪さである。「殴る」、「蹴る」などの表面接触動詞とは異なり、「折る」、「壊す」などの状態変化動詞は被動者の被る状態変化を特定する。これらの動詞が対応する自動詞を典型的に持つのはこのためである(「折れる」、「壊れる」)。このような特徴を持つ状態変化動詞は、因果連鎖の行為局面よりも結果局面に焦点を当てる。従って(8a)の許容度が低いのは、動詞のプロファイルと逆行構文のプロファイルの間に齟齬が生じるためと考えられる。

(8) a. ??タロウが(私の)足を折ってきた。

b. タロウが足を折ろうとしてきた。

c. (私は)足を折られた。

「V(動詞)しようとする」という動作者の意図性を前景化すると同時に結果の達成を背景化する要素を付加すると、(8b)のように逆行構文が成立することも、逆行構文が因果連鎖の起点、行為局面を焦点化するという分析の妥当性を示すものである。一方、受動構文は状態変化動詞とプロファイルが一致するため、(8c)のように問題なく成立する。

日本語の受動構文、逆行構文の選択が以上のような意味的、統語的、語用論的な特徴によってなされていることを明らかにした。

また本章では、(1)に見られる「くる」の物理的移動を表す機能、起動アスペクトを表す機能、そして逆行態標識としての機能の間に存在する概念的並行性が、「くる」の語彙的意味に内在するイメージスキーマの保存に動機づけられていると主張した。このスキーマにおいて、話者は直示的中心に静止し、自らを取り巻く直示領域に出現するモノ・事態を知覚、認識する主体である。話者の直示領域に出現するのが自律移動の主体である場合には、「くる」は(1a)の物理的移動を、非意図的な状態変化を表す事象である場合には(1b)の起動アスペクトを、そして動作者によって外的に引き起こされた他動的行為である場合には逆行態というヴォイスに関連する機能を担うのである。これが問題(3b)に対する解答である。

(第4章)

本章では、(9)のような「てくれる」を含む受益構文が、(2)に挙げた人称の階層の下位の参与者から上位の参与者に移動/行為が行われた際に生起することから、「てくる」同様逆行標識と認めたうえで、両者の違いを考察した。

(9) タロウが(私に)手紙を送ってくれた。(cf., (1c))

「てくる」を含む逆行態と「てくれる」を含む逆行態の意味的な違いは、以下のような文脈で顕著に表れる。

(10) a. タロウがやさしくしてきた。

b. タロウがやさしくしてくれた。

c. ??タロウがやさしくしてきてくれた。

d. タロウが手紙を送ってきてくれた。

「てくる」を含む逆行構文は(10a)のように予期していなかった事象を表すことが多く、その事象は往々にして話者に悪影響を及ぼす。これに対して、(10b)の「てくれる」を含む逆行構文は常に話者に良い影響を及ぼす事象を表す。よって、両者を同じ節で用いると意味的に矛盾をきたすこととなることが多く、(10c)のように不適格な文となる。以上の観察から、「てくる」は中立/受害逆行形、そして「てくれる」は受益逆行形と特徴づけられる。(10d)が示す通り、両構文は完全に相互排他的ではないが、逆行領域において両者による興味深い機能のすみ分けが日本語に生まれつつある。

(第5章)

本章では、「てくる」を含む逆行構文の項共有パターンについて論じた。連動詞構文においては主語一致、主語変更、動詞主語パターンの3つが主要な項共有パターンとされているが、これは日本語の複合動詞の形成に関しても同様である(松本1998)。様々な例を統一的に扱うには、「てくる」を含む逆行構文の項共有パターンが、動詞主語パターンであるとする分析が最も妥当であることを示した。

以上第3章、4章、5章の議論において問題(3a)に対する答えを提示した。

(第6章)

この章では、日本語に見られる話者の方向への移動を表す要素(「くる」)から逆行態標識への拡張が日本語に特有の現象ではなく、地理的にも類型論的にも異なる多くの言語において観察されることを、東南アジア、北アメリカ、オセアニア言語の例を挙げて示した。この議論で問題(3b)に対する解答が与えられた。

(第7章)

この結論の章では、これまでの議論を総合して、日本語のヴォイス体系、および逆行構文に見られる言語特有の特徴を典型的な逆行言語との比較を通して特定し、そして残された問題について議論した。この章において、問題(3d)に対する答えが提示された。

審査要旨 要旨を表示する

古賀裕章氏の博士論文「The Inverse and Related Voice Constructions in Japanese:From a Functional-Typological Perspective」の審査結果について以下に報告する。

本論文は,直示移動動詞「くる」のヴォイスに関連する用法を、機能的に類似する受動構文、受益構文との体系的比較を通じて明らかにし、日本語のヴォイス体系に位置づけることを目的として書かれたものである。そして「くる」のもつ、話者の方向への物理的移動を表す機能と、時間にかかわる起動アスペクトの機能、そしてヴォイスに関連する機能との間に概念的平衡性が存在することを主張し、その拡張のメカニズムを提案している。

本論文は7章からなる。第1 章では、北米アルゴンキン諸語に典型的に見られる「逆行態(inverse voice)」を概観したうえで、1人称>2人称>3人称という人称に基づいた階層によって節の構造が選択されることを示した。Shibatani (2003)による、日本語においては階層の下位に位置する参与者から上位に位置する参与者に向けて移動事象が起きたときに「~てくる」が使われるという指摘を取り上げた上で、第2章以降で取り上げる問題の提起を行っている。

第2章では,日本語の逆行標識をライセンスするための意味的、統語的、語用論的条件を検討した。Shibatani (2003)の分析では、人称の階層に逆行する作用が起きたとき、それが移動であれば「~てくる」による逆行構文、行為であれば受動構文が選択されるとしている。しかし、このような主張には反例が見出され、「(私が)太郎に鍵を渡された」のように移動を表す動詞が受動態に生じることもあるし、「太郎が(私を)殴ってきた」のように行為を表す動詞を逆行態で使用することも可能である。また、「太郎が(私に対して)仕事を断ってきた」のように行為動詞の逆行構文でもextra-thematic な主語が可能である。これらの観察から、二つの構文は動詞の意味によってのみ決まるのではなく、構文のさらなる特徴を明らかにすべきことが示された。

第3章では、逆行構文と受動構文の相違について論じた。まず両構文における動作者の話題性に違いが見られる。逆行構文の動作者は、受動構文の場合よりも話題性が高い。この語用論的な違いは、前者では動作者が能動構文の動作主と同様、主語の役割を保持するのに対し、後者では斜格項に降格されていることに近する。続いて意味的な違いに目を向け、以下の3点から逆行構文が因果連鎖の起点、行為局面を焦点化するのに対し、受動構文は因果連鎖の終結点、結果局面を焦点化することを論証した。(i) 接触動詞の下位クラスでは、結果含意性のキャンセルが逆行構文では可能だが、受動構文では不可能な場合がある、(ii) 逆行構文では行為が焦点化されるため、動作者は意図的行為者に限られるが、受動構文では結果状態が焦点化されるため、このような制約は見られない、(iii) 状態変化を表す達成動詞は意味的に逆行構文との適合性が低い。本章では、「くる」の意味拡張について、「話者は直示的中心に静止し、自らを取り巻く直示の領域に出現するもの・事態を知覚する主体である」という基本スキーマを想定し、話者の直示領域に出現するのが自律移動、非意図的な状態変化、そして外的に引き起こされた他動的行為であるときに、それぞれの用法が分岐するというモデルを提示した。

第4章では、「~てくれる」を含む受益構文について論じた。この構文は人称の階層の下位の参与者から上位の参与者に移動・行為が行われる際に用いられるので、「~てくる」と同様、逆行構文の下位類とみなすことが可能である。しかしこれら二つの構文間には相違があり、語用論的に「~てくる」は中立/受害逆行形、「~てくれる」は受益逆行形と特徴づけられる。さらに、「~てくる」による逆行構文は、移動の着点(R)または被動者(P)が一人称である時に用いられ、移動物(T)が人称の階層の上位であってもこの構文は使われないが、「~てくれる」構文はR, P, T どれが階層の上位でも使用可能である。これより、「~てくる」逆行構文においては、P とR が一つの統語カテゴリーをなすという分析が支持され、これは直接目的語(P+T)-間接目的語(R)という区分とは異なる、一次目的語(P+R)-二次目的語(T)という類型論的区分が日本語において局所的にはたらいていることを意味する。このような指摘はこれまで類型論的研究においてなされておらず、今後の研究に大きな示唆をもちうる。

第5章では、「~てくる」を含む逆行構文の項共有パタンについて論じた。動詞連続においては主語一致、主語変更、動詞主語の3通りが主要なパタンであるとされているが、これまでの章で論じてきた例を統一的に扱うには「~てくる」を含む逆行構文の項共有パタンは動詞主語パタンであるとする分析が最も妥当であることを示した。

第6章では、日本語に見られる話者の方向への移動を表す要素「くる」から逆行態標識への拡張(文法化)が、日本語における特殊な現象ではなく、地理的にも類型論的にも異なる多くの言語において観察されることを、東南アジア、北アメリカ、オセアニア諸語の例を挙げて示した。

第7章では、これまでの考察を整理した上で、「~てくる」逆行構文から見た日本語のヴォイス体系の特徴を、より典型的な逆行構文をもつ言語との比較を通じて特定し、残された問題について論じた。

本論文の学術的意義については、以下の審査結果が得られた。

第一に、日本語における逆行構文と受動構文、および受益構文の機能領域について従来の研究の問題を指摘・克服し、それらの使用条件を明らかにすることによってこの分野の研究に対して大きな前進をなしとげた。第二に、直示動詞による逆行構文を類型論的視野の中に位置づけ、文法化のメカニズム、とりわけそこに介在する主観性の現れについて掘り下げた研究を行った。ここで得られた洞察は、ヴォイス体系の類型への新たな可能性を開くものである。

以上、本論文は新たな観点から日本語における参与者のコード化について従来なされなかった貴重な観察、分析、理論化を提示した。学術的価値がきわめて高く、この分野における優れた研究成果として高く評価すべきものと判定する。よって、本審査委員会は博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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