学位論文要旨



No 125444
著者(漢字) 御園生,涼子
著者(英字)
著者(カナ) ミソノウ,リョウコ
標題(和) 越境する情動 : 一九三〇年代松竹メロドラマ映画と近代における文化の流動性
標題(洋)
報告番号 125444
報告番号 甲25444
学位授与日 2010.03.01
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第941号
研究科 総合文化研究科
専攻 超域文化科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松浦,寿輝
 東京大学 教授 内野,儀
 東京大学 教授 浦,雅春
 東京大学 名誉教授 蓮實,重彦
 ニューヨーク大学 准教授 吉本,光宏
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、一九三〇年代の日本映画、とりわけ松竹キネマ合弁会社において製作されたメロドラマ映画を取り上げ、その映画テクストおよび政治・社会的背景の分析を通じて、東アジアにおける「近代性」のあり方を、国境横断的な文化・資本の移動とそれに伴う文化・民族・国家間の葛藤と折衝という視点から明らかにしてゆくことを目指したものである。第一次大戦後の近代世界において、最も際立った変化の一つは情報文化およびテクノロジーの発展とその時間的・空間的位相の変革であり、映画史においてそれは、アメリカ映画産業による国際市場の支配と、それに伴うアメリカ消費文化のグローバルな影響力の拡大という形をとって現れた。日本近代においても、映画、ことにアメリカ映画がその文化にもたらした影響は計り知れない。日本モダニズムの象徴とされた映画は、近代生活のあらゆる側面を表象し、伝達し、東アジアにおけるローカルな経験をグローバルな文化の流動性に結びつける駆動機の役割を果たしていた。文化において以上のような多大な影響をもたらしたアメリカ映画は、また一方では、表現様式の面においても日本の映画産業に影響を与えずにはいなかった。ハリウッド古典映画形式が確立したとされる一九一〇年代は、アメリカ映画産業の躍進によってその表現様式が世界各地に伝播されてゆく過程と同期している。すなわち、映像の普遍言語を自任することとなるハリウッド映画は、グローバルな経済的波及力においてその「普遍性」を証明したのだと言えよう。日本映画へのアメリカ映画の影響およびそのローカルな文化実践としての翻訳過程は、映画史上の出来事としてのみならず、両大戦間期の世界の地勢図を大きく塗り替えつつあったこうした国境横断的な文化・資本の流動性のなかにおいて考えられなければならないと考えられる。

他方、日本近代史における一九三〇年代は、従来の議論においては、一九二〇年代におけるモダニズムの爛熟期から、アジア・太平洋戦争を通じた日本帝国主義プロジェクトの展開期として、あるいは国内政治におけるファシズム体制の形成期として捉えられてきた。しかし、近年は文化研究の視点から、一九二〇年代と一九三〇年代との間に分水嶺を見る二分割的な視点、すなわちモダニズムに対して帝国主義ナショナリズムおよびファシズムを対立項と見なす解釈に対する見直しを求める研究が現われてきている。一九二〇年代のモダニズム文化の中に胚胎されていたファシズムの萌しを指摘する、あるいはファシズム的であると見なされてきた一九三〇年代の文化実践の中に見られるモダニズムとの連続性を指摘するこれらの研究が問いかけているのは、単なる時代区分の妥当性・正確性ではない。そこで問題とされているのは、モダニズム、あるいは「近代」という概念そのものの問い直しなのではないだろうか。「近代」という概念や、運動としてのモダニズムが持つ多様性はそれ自体単一の概念として定義されることを拒む性質を持っているが、そこに共通する要素をあえて挙げるとすれば、啓蒙主義思想、発達史観に基づいた時間概念、文化的な普遍主義などを見出すことができるだろう。一見中立的なこれらの概念に内在する政治性を抽出し、帝国主義ナショナリズムとの協同性を明らかにする研究は、一九九〇年代のポスト植民地主義批評をはじめとして、多くの重要な成果を生み出してきた。これらの研究が明らかにしてきたのは、モダニズムとナショナリズム、更には資本主義的な拡張主義が、互いに排他的な関係にあるのではなく、それぞれが利益・不利益を折衝させながら、入り組んだ模様を描き出してきた過程こそが近代の歴史だったのだという事実ではないだろうか。また、こうした「近代」の錯綜した意味が最も際立った形で現れるのが、近代の中心と長い間考えられてきた西洋世界ではなく、むしろ周縁と見なされた世界の各地域と西洋世界との関係においてであるということを示したという意味においても、これらの研究が「近代」をめぐる議論において果たした役割は大きい。日本における「近代」の意味も、こうした国境横断的な近代化・資本主義化の地図の中において考えられるべきものだと思われる。

以上のような「近代」と「メロドラマ映画」をめぐる問題設定のもと、本論文においては、四章に渡って個別の作家・作品を取り上げ、テクストの分析および作品の置かれた文化的・社会的文脈との関係の検証を行った。第一章においては、ハリウッド犯罪メロドラマ映画の様式が文化翻訳された一例として小津安二郎監督『その夜の妻』(一九三〇)『非常線の女』(一九三三)を取り上げ、犯罪メロドラマ映画を成立させる要因となった文化・階級・人種的な他者への恐怖と、社会の流動性・混血性を加速させる都市空間に対する不安と憧憬とが、両大戦間期の日本映画においてどのように翻訳され、文化・民族・国家間の越境行為を多層化させていったのかを分析した。本章においては、とりわけこの二作品の特徴である無国籍性・非歴史性の中からモダニズム概念の政治性を抽出することを目的とし、一見政治とは何の関わりも持たない近代都市表象の下に、文化・人種・階級を横断する権力の網が潜んでいることを明らかにした。

第二章においては、清水宏監督『港の日本娘』(一九三三)及び『恋も忘れて』(一九三七)を取り上げ、「堕落した女のメロドラマ fallen woman melodrama」としてカテゴライズされるこれらの作品を、東アジアにおける日本の帝国主義プロジェクトが進行してゆく中で、女性性の表象がいかに「国民国家」の枠組みにおいて形成され、まだそこからの逸脱を断罪されていったのかを、映画検閲の問題を手がかりとしながら分析した。清水のこれらに作品においてとりわけ注目に値するのは、「堕落した女 fallen woman」という形象が、「国民国家」の境界に位置する存在として「異種混淆性」や「他者性」のイメージを帯びて視覚化されているという点である。本章においては、いかなる「国民=民族」の共同体にも同一化され得ないこの女性性のイメージを、「無国籍者 stateless people」の形象とも比較させつつ、「国民国家」の臨界点を指し示す表象として分析した。

第三章においては、横光利一原作、島津保次郎監督『家族会議』(一九三六)を取り上げ、金融と恋愛をめぐる家族メロドラマであるこの作品を取り巻く小説・新聞・映画・雑誌といったマス・メディアの網の目が、いかに一九三〇年代中盤という近代日本の政治的・経済的な過渡期を表象すると同時に、同時代の東アジアの地勢図への眼差しを媒介する役割を果たしていたのかを考察した。一見「国民=民族」の境界内部に閉じられたかのように見えるこの作品は、株式市場と恋愛という二つのモチーフを媒介としながら、近代のグローバルな文化の流動性によって産み出された「領土的な論理」と「資本主義的な論理」との相克を象徴的に描き出していると思われる。本章では、政治的・経済的布置状況を媒介するメディアとしてのメロドラマ映画の機能を問い直すと同時に、この作品が近代日本の東アジアにおける帝国主義的拡張主義のアレゴリーとなっている様相を分析した。

第四章においては、野村浩将監督『愛染かつら』三部作(一九三八‐一九三九)を取り上げ、アジア太平洋戦争の開戦直前の時期において空前の大ヒットを放ち、松竹女性メロドラマ映画の集大成となったこの作品が、いかに日本ファシズム黎明期において「大衆」という存在を浮上させ、またそれが「国民」というカテゴリーへと再編されていったのかを考察した。映画観客=資本主義経済の消費者としての「大衆」が、「国民国家」の成員である「国民」として再定義されてゆく過程の狭間に位置するこの作品には、「大衆」と「国民」という相似しつつ相反し合う二つのカテゴリーの相克が徴候的に表れていると思われる。本章においては、「資本主義的な論理」を体現する「大衆」と、「領土的な論理」によって規定される「国民」との対立がいかに作品をめぐる文化的・社会的文脈およびテクスト内部において見出されるかを検証しつつ、「大衆の国民化」がいかに作品内部においてイメージ化されているかを分析した。

以上、「越境性」という参照枠をメロドラマ映画研究に取り入れることによって本論文が目指したものは、東アジアの近代史と映画研究という二つの研究領域を交差させることによって、「近代」のグローバルな地平とそこで発生する文化の流動性のあり方を明らかにすることにある。それは一方では、日本映画というローカルな場での文化実践が二〇世紀の国境横断的な文化・資本の流れと結びつき、折衝するあり方を示すことによって、両大戦間期の日本を貫いていた「近代性」の意味を問い直すことを意味している。それはまた一方では、メロドラマ映画という文化形式を複数の文化・国家間の境界線によって複数化された可変的な場として定義し直すことによって、ハリウッド映画を普遍的モデルとして構築されてきた従来のメロドラマ映画研究の政治性を検証し、新たな視点から光を当てることを意味している。一九三〇年代の松竹メロドラマ映画と近代の文化の流動性をめぐる諸問題において賭けられているこうした二重化された課題に答えることが、本論文の最終的な目標である。

審査要旨 要旨を表示する

御園生涼子氏の博士号学位請求論文『越境する情動──一九三〇年代松竹メロドラマ映画と近代における文化の流動性』は、一九三〇年代の日本映画とりわけ松竹キネマ合弁会社において製作されたメロドラマ映画を取り上げ、その映像テクスト及び政治的・社会的背景の分析を通じて、日本における「近代性」の特質を、国境横断的な文化や資本の移動と、それに伴う民族間・国家間の葛藤と折衝という視点から明らかにすることを試みた研究である。

本論文は全四章の構成をとっている。まず第一章においては、ハリウッド犯罪メロドラマ映画の典型的様式が文化翻訳された一例として小津安二郎監督『その夜の妻』(一九三〇年)と『非常線の女』(一九三三年)を題材に採りつつ、文化的・階級的・人種的な他者への恐怖と、社会の流動性・混血性を加速させる都市空間に対する不安や憧憬が、この時期の日本映画にどのように移植され、文化間の越境現象を多様化させていったかが分析されている。第二章では、「堕落した女のメロドラマ fallen woman melodrama」としてカテゴライズされる清水宏監督『港の日本娘』(一九三三年)及び『恋も忘れて』(一九三七年)において、「女性性」の表象がいかに「国民国家」の枠組みにおいて形成され、またそこからの逸脱を断罪されていったかが、映画検閲の問題を手掛かりに考察され、「堕落した女」の表象が「異種混淆性」や「他者性」のイメージへと結晶してゆくさまが緻密に分析されている。

さらに第三章において、横光利一原作・島津保次郎監督の『家族会議』(一九三六年)を取り上げ、金融と恋愛を主題とするこの家族メロドラマを取り巻く小説・新聞・映画・雑誌といったマス・メディアのネットワークが分析され、一見「国民=民族」の内部に自閉しているかに見えるこの作品が、実は近代のグローバルな文化的流動性によって産み出された「領土的論理」と「資本主義的論理」との相克を象徴的に描き出しているさまが透視される。最終章の第四章においては、アジア太平洋戦争の開戦直前の時期に空前のヒット作となった野村宏将監督の『愛染かつら』三部作(一九三八-三九年)を題材として、松竹女性メロドラマの集大成と言ってよいこの作品を契機として、映画観客=資本主義経済の消費者としての「大衆」が、「国民国家」の成員である「国民」として再定義され、いわゆる「超国家主義」ファシズムへと接合されてゆく過程が解明されている。

「越境性」という参照枠をメロドラマ映画研究に導入することによって本論文が達成したものは、東アジアの近代史とフィルム・スタディーズという二つの研究領域を交差させることによって、「近代」のグローバルな地平とそこで発生する文化の流動性のありかたを浮かび上がらせるという課題である。それは一方では、日本映画というローカルな文化実践が二〇世紀の国境横断的な文化や資本の流れと結びついてゆく過程を示すことで、両大戦間期の日本における「近代性」の特質を問い直す作業を意味している。またそれは他方では、メロドラマ映画という形式を複数の文化・国家間の境界線によって多様化され錯綜化された可変的な場として定義し直すことによって、ハリウッド映画を普遍的モデルとして構築されてきた従来のメロドラマ研究の政治性を検証し、新たな視点から光を当てるという試みでもある。

一九三〇年代日本におけるメロドラマ映画の代表作の映像テクストと、それを取り巻く製作・流通・消費の諸環境の実態とを緻密に分析することを通じて、本論文はこの二重の課題に対して説得力のある応答を行なっている。そこでは、政治的現実とは一見無縁なこうした「通俗的」娯楽作品のうちに胚胎されている隠微なイデオロギー性が明快に剔抉され、国際的な文化伝播の開放性と帝国主義ナショナリズムの自閉性との共犯関係の諸様態が、広い領域にわたる文献渉猟と作品の細部をゆるがせにしない注意深い視線を通じて、鮮やかに解明されている。

審査会においては、取り上げた作品の選択の根拠がやや薄弱なこと、松竹という会社の映画史における位置付けが不十分なこと、分析に当たって使用された概念装置がやや図式的で映画と現実社会の実状を単純化しすぎている弊があることなど、幾つかの批判が提起されたが、それらの瑕瑾は、「メロドラマ映画」というジャンルの歴史的な実像の解明に新たな展開をもたらした本論文の学問的貢献を本質的に損なうものではないという点が最終的に確認された。

従って、本審査委員会は、全員一致で、博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定する。

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