学位論文要旨



No 125447
著者(漢字) 藤波,伸嘉
著者(英字)
著者(カナ) フジナミ,ノブヨシ
標題(和) 青年トルコ革命の政治文化 : オスマン立憲政と非ムスリム共同体、1908-1913年
標題(洋)
報告番号 125447
報告番号 甲25447
学位授与日 2010.03.01
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第944号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山内,昌之
 東京大学 教授 中井,和夫
 東京大学 教授 柴,宜弘
 東京大学 教授 鈴木,董
 東京大学 特任准教授 森,まり子
内容要旨 要旨を表示する

博士請求論文は、第二次立憲政前半期オスマン帝国における非ムスリム共同体をめぐる政治過程と正統性言説とに着目して、青年トルコ革命の政治文化の一端を明らかにし、それを通じて、青年トルコ革命の政治史的・思想史的意義の再検討を行なっている。

従来、18世紀末以降の「末期オスマン史」は、事実上「トルコ近現代史」として叙述されることが多く、非トルコ諸民族の歴史叙述も、「ギリシア史」や「ブルガリア史」といった各国史的枠組みの下になされてきた。近年盛んな「青年トルコ時代」論や近代帝国論、宗派政治論やアイデンティティ・ポリティクス論も、実はこうした各国史的な歴史叙述の分断を強化する側面を持つ。このような研究動向と並行する形で、同時期の「オスマン思想史」もまた、民族意識をめぐる各国史的な「主義」の発展史という形で論じられがちである。そして、第二次立憲政期の最大の政治集団となった統一派は、しばしば「トルコ人」の政治主体と見做されるため、民族集団即ち政治主体だという理解が助長される。

その一方で、近年ではオスマン史研究においても、「市民社会」を重視する潮流が高まってはいる。ところが、この種の研究の多くは、末期オスマン帝国における統治集団の「イスラーム主義化」や「トルコ主義化」を前提する余り、当該期のオスマン社会における多民族多宗教的「公共性」について充分な議論を成し得ていない。アイデンティティ・ポリティクス論の影響下、当該期の「公共性」や「市民社会」の問題は各国史的文脈に回収され、民族や宗教を異にする人々相互の接触が日常的に行なわれていたオスマン社会の文脈について、共通の理解が欠けたままである。この結果、第二次立憲政期の政治過程に関しても、統一派と非トルコ諸民族との対立関係ばかりが強調される。つまり、多民族多宗教の行為主体が参画する当時の政治空間において、そこに具体的に如何なる利害関係の対立があり、それをめぐって如何なる争点が存在したのかという問題は余り顧みられないまま、専ら統一派の意向と非トルコ人の分離独立への意志とが当該期の政治を決定付けたと見做されがちなのが現状である。このため、政治過程における象徴体系や言説の意義を論ずる研究も、その展開を専ら統一派の意図に帰すような、些か一面的な政治史理解に依拠し続ける結果が生じている。

こうした研究動向は、「主義」や「意識」のみでは動かない現実政治や個々の政治家の現実主義的な行動様式が過小評価され、「政治」と「思想」とが短絡させられていることを示している。しかし、多民族多宗教の政治家が参画する帝国議会を中心とした政治・言論空間が現実に存在し、異なる帰属意識や政策志向を持つ人々が実際に直接の交渉を行なっていた以上、それが如何なる制度や交渉様式、政治文化に規定される形で生じていたのかを論じる必要があろう。本稿がそのための切り口として着目するのが、立憲主義である。本稿では、青年トルコ革命があくまでタンズィマート及び新オスマン人以来の立憲的国民統合の課題の正統な後継者として実現したことを踏まえ、非ムスリムの処遇が現実の政治過程で如何なる争点をもたらしていたかという点を考察する。この際、事例研究として特にギリシア正教徒共同体を取り上げ、立憲主義を中核とする正統性言説が、革命後の政治過程において具体的にどのような争点をもたらし、その結果として各政治主体相互の関係にどのような変容をもたらしたのかを考察する。

まず第一章では、全体の議論の前提として、タンズィマート以来の前史に遡りつつ、第二次立憲政期の思想潮流及び制度的枠組みを論ずる。続く第二章では、1908年総選挙の政治過程を概観し、議会召集後の政党に関する議論を分析することで、議会召集前後のオスマン政界における、民族や宗派をめぐる問題の所在と政治構造とを整理する。通説的理解とは異なり、政治的分権・行政的集権は共に否定し、政治的集権と行政的分権との組み合わせを求める点で当時のオスマン知識人は基本的に一致しており、集権分権論議は第二次立憲政期の本質的な争点ではなかった。寧ろそこで問題となっていたのは、個々人の平等に基づくオスマン国民全体の代表という論理と、共同体を単位とし、その相互の平等を実現するための民族・宗派代表という論理との相克であり、また、国民の公益と各民族の個別利益との対立であった。それが表面化したのが、1908年総選挙における議席配分問題と、民族政党の是非をめぐる結社法案第4条をめぐる議会論戦とであった。

第三章では、非ムスリム諸民族の個別利益の核心と目された「宗教的特権」をめぐる諸問題が、立憲主義の解釈とどう連動して表出していたかを、当該期の政治過程に位置付けつつ論じる。「宗教的特権」それ自体は憲法により保障されていたという背景から、政府・トルコ語紙と総主教座・ギリシア語紙との間の論戦は、「政治的」特権と「宗教的」特権との間の線引きをめぐって争われることになる。ギリシア人が正当な「宗教的」特権と見做すものが、トルコ人にはしばしば不当な「政治的」特権と映る。この対立構造は次第に、立憲主義の共和主義的解釈を採るトルコ人と、その共同体主義的解釈を求めるギリシア人という形へと収斂した。ただし、政府側も一枚岩ではない。公教育省が国民の権利義務の平等の観点を強調するのに対し、徴兵法の早期制定とそれに基づく軍制改革を最優先する陸軍省は、公教育省の意向に反しても非ムスリムに融和的な姿勢を示していた。陸軍省の政治的影響力の結果として、特権問題は、差し当たり非ムスリムに有利な形で決着する。

続く第四章では、「二重の政治空間」と題し、ギリシア正教徒共同体それ自体がオスマン政界でどのような位置付けにあったのか、共同体内部にはどのような権力構造が存在していたのかという問題を分析する。具体的には、1910年前半のシノド改選問題、同年夏の教会法及び「民族議会」問題、同年秋以降のギリシア・ブルガリア「和解」が対象となる。この作業を通じ、ギリシア人政治主体がしばしば共同体の内外で、その時々の政情と利害関係とに基づき、異なる立憲主義解釈を使い分けていたこと、「民族議会」問題以降、「和解」の時期にかけ、共同体に内在する対立軸の所在が再編され、憲政倶楽部支持者とそれへの批判者という形に共同体内政界が二極化したことが明らかにされる。

第五章では、以上に検討した、特権問題に代表される共同体内外の諸問題と共同体の二極化とが、1912年総選挙という政局の節目においてどのような形で表出し、国政の次元での与野党二極化とどのように連動したのかを検討する。国民統合と立憲主義との関係で争点となった従来の諸問題が与野党対立の文脈で政争の具と化す中、オスマン立憲政はバルカン戦争という破局を迎えたのだった。そして最後の第六章では、立憲主義をめぐる言説が1912-13年のバルカン戦争を経てどのように変容したかを論じ、青年トルコ革命の政治文化が「オスマン後」に残した影響についての展望を示す。

本論文の結論として、以下の点が指摘されている。即ち、20世紀初頭のオスマン帝国において、立憲主義の正統性は民族や宗派の別を問わず広く共有されていた。それは、既に30年前に一旦は憲法制定に漕ぎつけており、憲法の制定ではなく、その復活が革命の目標だったという事情に起因する面が大きい。従って、オスマン政治家は、民族的・宗派的利害に関わる問題に際しても、あくまで立憲主義を援用することで自らの立場を正当化しようとする。この結果、民族や宗教をめぐる諸問題は、必ずしも剥き出しの民族主義対民族主義、あるいは宗派主義対宗派主義という形ではなく、立憲主義の解釈をめぐる論争として表出した。

その焦点となったのが、教育や兵役に関する、非ムスリム各共同体の「宗教的特権」をめぐる問題であった。それは、総主教を長に戴くギリシア正教徒やアルメニア人の共同体が、正にそれ故に、「政治」と「宗教」とが不可分な制度的枠組みの下、一定の自治的権利を有していたという歴史的経緯に基づく。この際、政府・統一派やそれを支持するトルコ語紙が、公と私、政治と宗教の分離を前提した上で、前者の領域における国民個々人の平等とそれに基づく多数決原理による「公益」実現とを求めるのに対し、ギリシア人は、多数決原理の単純な適用は少数派の権利の否定に等しいと反発する。つまり、共和主義的解釈と共同体主義的解釈との相克という主旋律の中、公私区分や平等の主体、多数決原理の是非が争点となった。

だがそれと同時に、ムスリム・非ムスリムの双方が、時々の利害関係に基づき、立憲主義解釈を使い分ける戦術を駆使していたため、以上の論点もまた、しばしば政略的に利用される。それはとりわけギリシア人の場合に著しい。つまり、オスマン帝国の憲政運用において、公と私、政治と宗教をめぐる問題は、イスラームやキリスト教それぞれの教説に内在的な問題として存在したのではなく、歴史的前提や権力政治の動向、所与の政治単位内部の人口の多寡や外圧の有無という地政学的条件に大きく左右される形で表出していた。

こうした諸問題は、同時代的にも現在でも、およそ多民族多宗教的環境で憲政運用を行なう限り観察される問題であり、それ自体が取り立ててオスマン立憲政に特有の欠陥だった訳ではない。問題は寧ろ、前代ハミト期の「政治」の不在の負の遺産として、政策の統合を実現する回路が人的にも制度的にも完成しないまま、また、競合する種々の立憲主義解釈の調和についての輿論も熟さないまま、バルカン戦争の破局を迎えたことにあった。つまり、オスマン帝国の存続が「東方問題」の論理により左右されたことがオスマン立憲政の命運を定めたのであって、その逆ではない。換言すれば、オスマン立憲政の「失敗」とは、ムスリム多数派の下での多民族多宗教的な憲政運用に基づく国民統合及びそれを通じたオスマン領内の諸問題の自主的解決という試み自体が、キリスト教を奉じ帝国主義を推進する西洋列強諸国が構築した国際秩序、即ち、「ヨーロッパの協調」には容認され得ないものだったことに起因した。だが第一次世界大戦後には、歴史叙述の各国史的分断の中、オスマン国民形成の試みそれ自体の不可能性が自明視されるに至る。このような事態に鑑みれば、オスマン立憲政の経験とは、多民族多宗教的環境における憲政運用という課題の極めて興味深い歴史的一事例であると共に、その種の試みが評価される文脈自体が、如何に時々の支配的価値規範によって左右されがちであるかを示すものであるとも言えるのではないだろうか。

審査要旨 要旨を表示する

藤波伸嘉氏より提出された学位請求論文は、「青年トルコ革命の政治文化-オスマン立憲政と非ムスリム共同体、1908-1913年-」と題するものである。

本論文は、オスマン帝国の第二次立憲政前半期における非ムスリム共同体をめぐる政治過程と正統性言説を中心に、青年トルコ革命の政治文化の一端を解明したものである。同時に、青年トルコ革命を政治史と思想史の両面から再検討している。

これまでの研究では、18世紀末以降の「末期オスマン史」を「トルコ近現代史」として叙述することが多く、非トルコ諸民族の歴史叙述は「ギリシア史」や「ブルガリア史」という各国史の枠組みでおこなわれてきた。また、「青年トルコ時代」論や近代帝国論、宗派政治論やアイデンティティ・ポリティクス論も、各国史的な歴史叙述に基づいていた。こうした研究動向と並行する形の「オスマン思想史」も、民族意識をめぐる各国史的な「主義」の発展史で論じられがちであった。第二次立憲政期の最大の政治集団、統一派は、しばしば「トルコ人」の政治主体と見なされるため、民族集団を政治主体と見なす理解が助長されてきたのであった。近年ではオスマン史研究においても、「市民社会」を重視する潮流が高まってきたが、この種の研究は、末期オスマン帝国における統治集団の「イスラーム主義化」や「トルコ主義化」を前提にするせいか、オスマン社会の多民族多宗教的「公共性」について充分な議論をおこなっていない。

藤波氏は、このように研究史を整理しながら、「主義」や「意識」のみで動かない現実政治や政治家の現実主義的な行動様式に着目し、「政治」と「思想」との有機的な連関を重視した。そして氏は、青年トルコ革命がタンズィマートと新オスマン人以来の立憲的国民統合の課題の正統な後継者であり、非ムスリムの処遇が現実の政治過程で争点となった点を考察した。この際、事例研究として、ことにギリシア正教徒共同体を取り上げ、立憲主義を中核とする正統性言説が、革命後の政治過程でどのような争点をもたらし、その結果として各政治主体相互の関係にいまなる変容を強いたのかを考察した。

藤波氏は、その考察の結論として、20世紀初頭のオスマン帝国において、立憲主義の正統性が異なる民族や宗派が広く共有されていた点を明らかにした。氏は、30年前にすでに一旦は憲法制定を実現しており、新たな憲法の制定でなく、その復活こそ革命の目標だったという事情に起因する面が大きいと主張する。オスマン帝国の政治家は、民族や宗派の利害に関わる問題において、立憲主義を援用することで自己の立場を正当化しようとしたのである。この結果、民族や宗教をめぐる諸問題は、必ずしも民族主義対民族主義、あるいは宗派主義対宗派主義という形でなく、立憲主義の解釈をめぐる論争として表出したと氏は考える。

その焦点として氏は、教育や兵役に関する、非ムスリム各共同体の「宗教的特権」をめぐる問題を扱った。その際、オスマン政府・統一派やそれを支持するトルコ語新聞が、公と私、政治と宗教の分離を前提にした上で、前者の領域における国民個々人の平等とそれに基づく多数決原理による「公益」実現とを求めるのに対し、ギリシア人は、多数決原理の単純な適用は少数派の権利の否定に等しいと反発したことが明らかにされる。つまり、共和主義的解釈と共同体主義的解釈との相克という主旋律の中、公私区分や平等の主体、多数決原理の是非が争点となったわけである。

こうした点を明らかにした藤波氏は、ムスリムと非ムスリムの双方が、時々の利害関係に基づき、立憲主義解釈を使い分ける戦術を駆使していた結果、以上の論点もしばしば政略的に利用されたと強調する。それはギリシア人の場合にとくに著しいという。つまり、オスマン帝国の憲政運用において、公と私、政治と宗教をめぐる問題は、イスラームやキリスト教それぞれの教説に内在的な問題としてあったのではなく、歴史的前提や権力政治の動向、所与の政治単位内部の人口の多寡や外圧の有無という地政学的条件に大きく左右される形で表出していたと証明する。

こうした問題は、当時も現在も、およそ多民族多宗教的環境で憲政運用を行なう限り観察される問題であり、オスマン立憲政だけに特有の欠陥だった訳でないと注目すべき結論に近づく。問題はむしろ、前代ハミト期の「政治」の不在の負の遺産として、政策の統合を実現する回路が人的にも制度的にも完成しないうちに、競合する種々の立憲主義解釈の調和に関する輿論も熟さないままに、バルカン戦争の破局を迎えた点にあったという指摘は説得的である。これは、オスマン帝国の存続が「東方問題」の論理に左右された点こそオスマン立憲政の命運を定めたという結論につながる。オスマン立憲政の「失敗」とは、ムスリム多数派の下での多民族多宗教的な憲政運用に基づく国民統合およびそれを通じたオスマン領内の問題を自主的に解決しようとする試み自体が、キリスト教を基礎にしながら帝国主義を推進した西洋列強諸国の構築した国際秩序、つまり「ヨーロッパの協調」からは容認できなかったことに起因したというのである。

こうした注目すべき論証と分析を踏まえ、第一次世界大戦後になると、歴史叙述が各国史に分断される中、オスマン国民形成の試みそれ自体の不可能性が自明視されるに至ったという魅力的な結論を導いている。オスマン立憲政の経験とは、多民族と多宗教の環境における憲政の運用という興味深い歴史的事例に係わるものであり、その試みを考察する文脈自体が、時の支配的な価値規範によって左右されがちだったのである。以上の点を本論文は、オスマン・トルコ語とギリシア語とフランス語の基本史料に加えて、アラビア語やロシア語などの二次史料も咀嚼しながら明らかにした。一部に日本語表現の晦渋さや論理展開の齟齬も見られるが、全体として見れば瑕疵でしかなく、国際水準に達する重厚な学位論文であるという点で審査委員会の見解は一致した。

その結果、論文提出者 藤波伸嘉氏は博士(学術)の学位を受けるにふさわしい十分な学識を有するものと認め、審査委員全員により合格と判定した。

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