学位論文要旨



No 125448
著者(漢字) 森下,嘉之
著者(英字)
著者(カナ) モリシタ,ヨシユキ
標題(和) 住宅から見る20世紀チェコ社会と住民-戦間期プラハの都市空間を中心に-
標題(洋)
報告番号 125448
報告番号 甲25448
学位授与日 2010.03.01
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第945号
研究科 総合文化研究科
専攻 地域文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 柴,宣弘
 東京大学 教授 中井,和夫
 東京大学 教授 石田,勇治
 成城大学 教授 木畑,洋一
 北海道大学 教授 林,忠行
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、近代において出現した社会問題、とりわけ住宅問題を事例に、政府、自治体、及び様々な福祉活動を担った住宅組合などの中間団体と住民との相互関係に焦点を当てることで、新国家チェコスロヴァキアの住宅・社会政策がどのような意図をもって対処されたのか、都市の住民層がどのような形で住宅政策の意図を受容したのかを考察するものである。このような事例を通して、帝政から国民国家への移行期にあった20世紀チェコ社会における、社会変容の一端を明らかにすることを目的としている。

都市化に伴う社会変容は、19世紀から20世紀初頭にかけて、身分制社会から近代市民社会への移行期にあったチェコ社会においても現れ出ていた。19世紀後半より、ハプスブルク帝国の諸都市は都市行政の拡充を目指し、台頭していたブルジョワ諸政党の指導下で、都市再開発事業や住民の福祉政策を実施した。しかし、都市社会問題の中でも最大の懸案であった住宅問題に対しては、帝政期には広範な都市住民を対象とした政策はほとんど実施されなかった。

第一次世界大戦の終結に伴うチェコスロヴァキア共和国の建国は、住宅・社会問題を取り巻く状況に大きな変化をもたらした。ハプスブルク帝国の継承国家として1918年に成立した新国家チェコスロヴァキアは、民族問題や国内の地域経済格差、近隣諸国との国際関係の問題を抱えながら、国家の統合をはかる必要に迫られていた。新国家における住宅・社会政策の担い手となったのが、国民民主党など「ブルジョワ政党」と、社会民主党や国民社会党などの「社会主義政党(左派政党)」であった。「ブルジョワ政党」側は戦時中より、戦時統制経済からの脱却と「自助」の重要性を掲げ、貯蓄を通した「強い個人」の育成とそのための労働者政策の実現という社会改革を目指していた。このため、彼らの住宅改革案は、民間住宅市場の活性化と家賃補助の廃止を主眼としていた。他方で、「社会主義政党」側は、労働者層に対する社会政策の一環として、家賃補助の存続と住宅市場への公的介入を主張していた。しかし、20年代初頭に、社会民主党内の左派が共産党を結成して党を離脱したことによって、同党は政権内での勢力を弱め、「ブルジョワ政党」の発言力は相対的に強まることになった。左派政党の一翼であった国民社会党もまた、「自助」を基盤とする組合活動を重視するなど、「ブルジョワ政党」とも見解を共有しうる立場にあった。

このため、戦間期に制定された建設支援法は、建設費の貸付によって民間、住宅組合、自治体の三者に、「家族住宅」の建設を促すことで住宅市場の活性化を目指すことを目的とした、「ブルジョワ政党」の見解を色濃く反映する内容であった。援助対象となる三者の中でも、特に重視されたのが、帝政末期に各地で組織化されていた住宅組合であった。戦間期チェコスロヴァキアにおいて、住宅組合による郊外の家族住宅団地建設の最大の事例が、1925年より首都プラハに建設された住宅団地「スポジロフ」であった。この住宅団地は、「非所有階層に、緑に囲まれた健康で安価な住宅を提供する」ことを目的に、プラハ市・ヴィノフラディ貯蓄銀行が設立した住宅組合によって建設された。住宅組合「スポジロフ」は、約3,600人が居住する1,160家屋を建設したが、これらの家屋はすべて庭付き1-3部屋程度の「家族住宅」であり、ガスや電気、水道といった基本インフラを備えつつ、住宅設計の合理化によって建設費を抑えることが目指された。

このような庭付き「家族住宅」の建設は、20世紀初頭に理論化されたイギリス田園都市の系譜をひくものであった。プラハ市政は、田園都市構想や1920年代のモダニズム建築に代表される世界的な住宅改革運動に携わった建築家や都市計画官僚を、積極的に都市計画事業に動員した。他方で、「スポジロフ」の語源が「貯蓄 (Spo?ivost)」に由来するものであったことからも伺えるように、組合による住宅建設は組合員の住宅購入を前提とした営利目的の事業であった。国民社会党は、社会民主党や共産党が主張したような、広範な層のための健康で安価な住宅供給と、「ブルジョワ政党」が主張する民間住宅市場の維持という二つの見解の接点を住宅組合に見出し、インフラ整備や市有地の譲渡などにおいて便宜を図った。「スポジロフ」で目指されたのは、住宅組合という中間団体への援助を通した住宅市場の活性化と、「家族住宅」の実現を通した労働者層の市民化であった。「スポジロフ」の実験は、貯蓄によって財産すなわち「自分の家」を所有する市民層を訓育するという政府の住宅政策の方向性を示すものであった。このため、郊外住宅団地に入居した住民層は、住環境の改善を必要としていた労働者層よりも、官吏や教員、従業員といった中間層が多数を占めていた。彼らの多くは所帯を有した核家族であり、下宿人やベッド借りを排した「家族住宅」は、郊外住宅団地において実現したように見受けられる。

しかし「スポジロフ」住宅団地に見られたような、組合による「家族住宅」の建設を通した市民層の育成という試みは、チェコスロヴァキア全体で実現されたわけではなかった。確かに建設支援法によって、1920年代前半には組合住宅が、後半には民間住宅が大きく建設数を伸ばしていたが、住宅組合の圧倒的多数は首都プラハ、及びボヘミアの都市部に集中しており、地域間の相違は明瞭であった。さらに、住宅組合を通した「家族住宅」の実現と市民層の育成という政府の理念は、住宅組合が帝政期よりチェコ系、ドイツ系といった「国民」別の組織化という現実に直面した。チェコ系政党によって担われた新政府は、「チェコスロヴァキア国民」のための住宅政策を掲げていたが、実際は、チェコ側に居住するチェコ系住民に受益者層は限定されていた。家賃補助政策など、チェコ系政党主導の新政府が推進した住宅政策は、ドイツ系政党及びドイツ系住宅組合からの批判を受けるなど、新政府の住宅政策の方向性は、国内における社会階層や諸「ネイション」の利害に左右されていたのである。

その一方で20年代後半には、都市部への流入民が安価な住居を確保できないまま、市周縁部の仮設住宅での生活を余儀なくされていた。郊外住宅団地の支援政策は、「家族住宅」を形成しえないような低所得の労働者層や失業者などを考慮に入れることはなく、都市住民の多くは依然として、帝政期と変わらぬ過密で不衛生な住環境の中に取り残されていた。このような状況を背景に、市内の労働者地区で教育・文化活動を行い、地域社会において独自の社会的基盤を作り上げていた共産党は、1930年代の経済恐慌期に、市の住宅政策から排除された層を組織化することで、国民社会党を中心とする市与党に対峙した。新政府が建国以来推進してきた戸建の「家族住宅」への支援政策は、より小規模な住宅からなる集合住宅に対する建設援助へと転換した。その結果、1930年代にはプラハやブルノにおいて、モダニズム建築を導入した市営の集合住宅が、中間層を超えた広範な住民層を対象に建設された。国民社会党などチェコ系与党は、「家族住宅」の実現による住宅改革という基本原則を維持しながら、より直接的な住宅供給を実施することで共産党の批判をかわし、自治体での住民福祉を担うことによって、新国家チェコスロヴァキアの体制維持を図ったのである。

このように、新国家チェコスロヴァキアにおける住宅政策、及び住宅改革運動の分析は、国民国家への移行期にあったチェコ社会の変容を考察するうえでの示唆を与えてくれる。本稿では不十分であったが、住宅団地内に設立された結社の活動を通して育まれた住民共同体の在り方にまで踏み込むことで、20世紀チェコ・「東欧」社会の見方に新たな視座が加えられるであろう。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は第一次世界大戦後に建国された東欧諸国のなかでは、最も先進的な経済発展を遂げていたチェコスロヴァキア共和国のチェコ社会を、ヨーロッパの近代社会が共通にかかえる住宅問題という視点から考察したわが国初の本格的な論文である。この論文が対象とする時期はチェコスロヴァキア共和国が建国された1918年から、ミュンヘン協定によってチェコスロヴァキア共和国が崩壊する1938年までのいわゆる戦間期であるが、前史として19世紀後半から第一次世界大戦期までのハプスブルク帝国統治下のチェコ社会も概観されている。

論文の目的は次の2点の解明にある。第一は、チェコスロヴァキア共和国の新政府が直面する住宅問題に対していかに取り組み、自治体や様々な福祉活動を担った住宅組合などの中間団体、および住民との協力関係をいかに築こうとしたのかを明らかにすることである。第二はこれと関連し、プラハなどの都市住民が政府や自治体による住宅政策に対して、コミュニティー(結社)やそのネットワークを構築してどのように対処したかを検討することである。これまで、ドイツやオーストリアにおいて、近代における住宅問題に関する研究は数多く蓄積されてきているが、チェコではようやく研究の端緒が開かれたばかりである。本論文はこうした研究状況のなかに位置づけられる。さらに、この論文は西欧と東欧という単純な二分法を排し、近代において、ヨーロッパ社会が共通にかかえる重要な課題となった住宅問題をチェコ社会を事例として取り上げるなかで、チェコスロヴァキアの特殊性、すなわち住宅問題が国民統合の問題と密接に関連せざるをえなかった点に注目して考察を進めている。

本論文は序章と終章を除く7章から構成されており、A4用紙で脚注を含めて206ページ、参考文献表と地図・写真が24ページからなっている。チェコ語の文書館史料、法令集、統計資料集、チェコ語とドイツ語の新聞・雑誌・協会刊行物、刊行された史料集、同時代の回想録や文献を駆使した研究である。

第1章と第2章は本論文の前史にあたる部分であり、ハプスブルク統治期の、とくに世紀転換期のチェコの都市社会と都市行政のあり方を概観している。第1章では、都市問題がどのようにしてチェコ社会で発生し、当時の政府がこの問題にいかに対処したかに注目して考察がなされる。第2章は、ハプスブルク帝国統治末期のチェコ社会において、住宅改革を目指す試みが公的機関ではなく、民間の住宅組合から現れた点に着目して、住宅組合の組織化を進める住宅改革協会が果たした役割を検討している。政府と住民のあいだの中間団体として位置づけられ、住宅組合を束ねようとした住宅改革協会は社会改革を進めただけにとどまらず、ドイツ人が多く居住するチェコ社会において、住宅改革協会が「ネイション」の問題にどのように取り組んだのかという点にも焦点が当てられる。

第3章以下では、1920年代のチェコスロヴァキア共和国のチェコを対象として考察がなされる。第3章では、チェコスロヴァキア建国期(1918-1924年)の政治的背景が概観されたあと、新政府による住宅政策の取り組みが検討される。具体的には、ハプスブルク帝国統治期に形成された住宅組合が新政府の住宅政策の担い手とされた点に注目して、住宅組合が住宅問題の解決のために何を行なおうとしたのか、どのような社会層を対象としたのかについて明らかにされる。第4章では、「国民社会」が分化したままで、階層と民族が複雑に交錯したチェコスロヴァキア(1924-1929年)において、新政府の住宅政策が人びとにどのように受け入れられ、どのような問題を引き起こしたのかが考察される。この際、新国家最大のマイノリティであったドイツ系住民が設立した住宅改革協会の活動と、チェコ系主導の新政府の関係に多大な関心が割かれている。

第5章と第6章では、都市政策や住宅政策によって、首都プラハの都市社会がどのように変化していったのかが検討される。第5章は、プラハの都市政策を担った国民社会党の活動に焦点を当てている。ナショナルな性格を備えた社会主義政党からリベラル政党へと性格を変えた国民社会党がプラハという自治体市政において、どのような意図をもって都市政策に取り組んだのかを、同党が主導した福祉、都市開発、住宅政策を通して考察される。第6章では、戦間期にヨーロッパだけにとどまらず日本でもみられた現象である郊外住宅の開発が、プラハを事例として検討される。都市政策の側面だけでなく、20世紀の新しい都市空間として現れた「郊外」において、住民が住宅団地開発を受け入れ、それに伴いどのような住民コミュニティー(結社)やネットワークが構築されたのかという興味深い点にも踏み込み、プラハがもつ複合的な都市社会のあり方の一端が明らかにされている。

第7章は、1930年代の経済恐慌期を中心に考察される。経済恐慌という状況下で、政府と自治体の都市政策、および地域住民の様々なコミュニティー(結社)が1920年代と比べてどのように変化したのか、さらに住宅改革を進める左派勢力の集団の住宅改革構想はいかなるものであったのかについて検討が加えられる。具体的には、経済恐慌と共産党の勢力拡大、民族主義勢力の台頭という状況に直面して、国民社会党がプラハ市政でどのような対応策を講じたのかについて分析される。

終章では、序章で設定された二つの課題、(1)チェコスロヴァキア共和国新政府の住宅政策の取り組み、そして政府、自治体、住宅組合、住民の相互関係の検討、(2)プラハなどの都市社会や住民の住宅政策・都市政策への様々な対応の考察、について総括がなされる。(1)については、新政府は他の東欧新国家と同様に、国内に民族問題、経済格差、国境問題をかかえており、国民統合を進めなければならない事情があったため、住宅政策や社会政策に関して、自治体への介入を拡大し、住宅組合などの住民コミュニティーに対しては協力を取り付けることに奔走したと結論付けている。(2)については、プラハなど都市自治体が大きな役割を果たし、自治体による福祉が住民の自治を支えるとの考え方が実践されたが、都市住民の下層部やマイノリティ住民がその政策から排除されるという限界を指摘している。

本論文の研究上の貢献としては次の3点が指摘できる。第一に、第一次世界大戦後に建国された東欧諸国が共通にかかえる最大の課題であった国民統合の問題を、チェコスロヴァキアを対象として、住宅問題・住宅政策といった観点から検討しようと試みた意欲的かつ先駆的な論文である。チェコ語とドイツ語の史料と文献を駆使しており、今後、東欧諸国の国家建国期や戦間期を研究する際、基本的な文献として参照されることは確実である。

第二に、政府による住宅政策や都市政策をめぐり、首都プラハを中心とした都市住民の間につくりあげられたコミュニティー(結社)に着目し、その自律性を描くとともに、政府による政策との相互関係にも焦点を当てようとしており、政治史と社会史との統合という点で、今後の研究が大いに期待される。

第三は、戦間期にプラハ近郊に建設された郊外住宅団地が具体的に考察されており、同様の団地が建設された当時のヨーロッパ諸国や日本との比較が可能である。本研究は、今後、比較の視点を組み込むことにより、都市と住宅をめぐる様々な問題の研究へと広がる可能性を十分にもっている。

上記のようにきわめて高く評価することのできる論文ではあるが、問題点がないわけではない。審査委員会では、(1)住宅政策の側面は検討されているが、表題にある都市空間の住民の姿が史料的な制約のためか、十分に描ききれていない。住民の間につくられたコミュニティー(結社)の具体的な分析がほしかった、(2)チェコスロヴァキアにおける国民統合と住宅政策との関連について、もっと積極的に検討すべきであった、(3)中間団体という概念が用いられているが、その定義を明確にする必要がある、(4)本文に挿入されている表と説明が一致しない箇所が見られる、(5)付録に収められた地図や写真にナンバーが付されていない、などの本論文の問題点や今後の課題を含めた指摘がなされた。

しかし、審査委員会は指摘された問題点が本論文の学術的な価値を損なうものではなく、本論文が博士論文としての水準を十分に超えていると判断した。したがって、審査委員会は本論文が博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認定した。

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