学位論文要旨



No 125449
著者(漢字) 平野,悠一郎
著者(英字)
著者(カナ) ヒラノ,ユウイチロウ
標題(和) 現代中国の森林政策をめぐる構造 : 地域における環境研究の新領域
標題(洋)
報告番号 125449
報告番号 甲25449
学位授与日 2010.03.01
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第946号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 後藤,則行
 東京大学 教授 丸山,真人
 東京大学 准教授 川島,真
 東京大学 教授 井上,真
 東京大学 准教授 佐藤,仁
内容要旨 要旨を表示する

1.本稿の目的

本稿の直接の目的は、中華人民共和国期の中国(以下、現代中国と表記)において、人間と森林との関係がどのように推移してきたのかを明らかにすることである。その背後には、この地域の現代史を対象として、自然をめぐる人間同士の関係構造の特徴・変遷と、その自然への影響の理解を通じて、望ましい人間―自然関係の将来像を描き出すという狙いがある。この観点に基づいて、本稿では、現代中国の「森林政策」に着目し、それが地域の人間―森林関係、森林環境への影響を、構造的に読み解くというアプローチを取る。以上の目的は、関連する学問領域に従って区分すると、以下の3つに集約できる。

(1)「地域研究」としての目的:現代中国において、森林をめぐる社会関係の推移・変化を、森林政策の影響という観点から明らかにする。

(2)「森林政策研究」としての目的:地域において多様かつ重層的な人間―森林関係を規定してきた森林政策を、構造的に解き明かす方法論を提示する。

(3)「環境研究」としての目的:人間と地球・自然との持続的な関係構築に向けた、地域からの研究の方法論を模索する。

2.全体的な分析視角(【序章】)

これらの目的の達成に向けて、本稿は、人間が森林に対して認識する「機能・価値・便益」という根源的な部分にまで踏み込んだアプローチを行う。地域社会において、人間による何らかの森林(変動)への知覚は、「価値」によって意味づけられる(価値づけられる)。これが、更に個々人の持つ政治的立場や文化的・社会的背景などを反映して、具体的な「便益」(利害)を形成し、森林への働きかけに結びつく。この段階で、「森林の役割」という形で科学的に認識されたものが「機能」である。本稿では、この理解に基づき、森林の「用地提供機能、物質提供機能、環境保全機能、精神充足機能に伴う価値・便益といった認識の区分を想定し、各種の機能・価値・便益を反映して、人間の森林に対する異なる働きかけが行われてきたと捉える。この視座に立って、現代中国の森林政策が、どのような森林をめぐる価値・便益を反映して立案・実施され、また、どのような価値・便益の構図の変化を地域社会にもたらしたのかを明らかにする。このアプローチを通じて、地域の人間―森林関係とその変化を「総合的」に捉え、森林政策とその影響を「構造的」に明らかにすることが、(1)~(3)の目的を達成する上で不可欠となる。

3.研究内容(【第1部】~【第5部】)

以上の目的と分析視角に基づいて、第1部から第4部では、現代中国の森林政策の展開と、それが地域の人間―森林関係にもたらした影響について、重層的な分析を行っている。

第1部では、その分析の前提となる状況の整理を行っている。すなわち、第1章では、現代中国の森林関連の公式統計データから、この時期を通じて、中国では、森林が極めて「過少」と言える状況にあったこと、また、それを改善するための政策的な試みがなされてきたことを示している。第2章では、現代中国に至るまでの歴史における、人為的な働きかけを通じた森林破壊が、この過少状況を演出してきたことを明らかにした。第3章では、現代中国の歴史過程において生じた度重なる政治変動と、その社会への影響を整理した。

第2部では、実施に際しての領域区分に基づいて、森林政策の展開把握に努めている。過去50数年間を通じて、中国では、地域住民を動員して森林造成・保護を行い、歴史的に形成された森林過少に伴う諸機能の低下を改善する政策的取り組みがなされてきた。第4章・第5章では、この森林造成・保護政策という、現代中国の森林政策の一つの柱となった領域を対象とし、その展開過程を詳述している。その一方で、現代中国を通じては、社会発展に伴う林産物需要増に対応するため、森林の提供する物質資源を確保していかねばならないという事情が存在した。第6章は、こちらの事情に焦点を当て、森林開発・林産業発展政策が、各時期の政治路線の方向性や、社会の変化に対応する形で展開されてきたことを示している。第7章では、森林造成・保護政策と森林開発・林産業発展政策という2つの領域を周縁から方向付けた要因として、森林関連の知識・技術の交流、環境問題という概念の受容、経済発展に伴う森林レジャーの勃興を挙げ、それぞれに対応した政策の展開を扱っている。

第3部では、第2部で概括した各領域の森林政策を、権利関係・政策実施システム・法令という「制度的な側面」から切り取って論じている。第8章では、現代中国を通じた「林権確定政策」が、各時期の政治変動に完全に沿った形で、基層社会の森林をめぐる権利関係・経営形態を改変してきたことを明らかにした。その改変の結果として、現在の複雑な権利関係が生み出されると共に、基層社会の住民による長期的な便益享受のヴィジョンをもった森林経営が不可能となっていった。第9章では、森林政策実施システムの整備を対象とし、時期を通じて、共産党指導者層の意向を基層社会に徹底させる仕組みが作り上げられたこと等を示している。第10章では、「法令」を対象とし、改革・開放以降の法律法規の整備が、民営化・市場化による社会の緩みを引き締め、森林利用の規制・管理を徹底させるものであったことを明らかにした。

第4部では、指導者層(第11章)、専門家層(第12章)、一般住民・企業(第13章)という形で、森林に働きかける主体を区分し、それぞれの森林に対する価値・便益が、どのように森林政策の立案・実施に反映されてきたかを明らかにしている。森林政策を規定する中央政府にあって、共産党指導者層は、「森林・樹木を増やせ」という認識を形成し、森林の諸機能の維持・向上を常に呼びかけていた。その行動を支えていたのは、森林の物質提供・環境保全機能の発揮によって、地域住民の財の蓄積や生活の安寧を保障するという認識であり、また、森林造成・保護活動を通じた「美しい祖国」の創造を通じて、地域住民の愛国心を醸成し、国家統合を促進させ、自らの政治的基盤を強化しようという「統治者としての価値・便益」であった。この認識を背景とした森林政策の実施を通じて、森林官僚、知識人、基層技術者、篤志家といった専門家層が次第に形成されていく。森林に対する働きかけを専門とする彼らは、行政機構に所属し、また「模範」として表彰されることを通じて、基層社会に森林政策を徹底させる潤滑油の役割を果たしてきた。しかし同時に、彼らは、森林と深く関わる中で、その知識・技術への誇りや、森林生態系の営みへの尊敬、郷土の森林・樹木に対する愛着といった、指導者層には見られない独自の価値・便益を抱くようになる。この指導者層・専門家層を通じて実施される森林政策は、基層社会の一般住民・企業の価値・便益を部分的に保障するものであった。その反面、薪炭・建築用材といった生活資材提供に伴う価値・便益や、森林に対する精神的な帰依(土着の信仰等)は、政策によって規制される対象であった。そして、一元的な国家運営を担う立場から政策を進める指導者層と、基層社会で森林を向き合う主体の価値・便益の性質の違いは、時期を経る毎に際立つ傾向にあった。

第5部では、第2部~第4部を通じて行った重層的な分析・考察を踏まえ、現代中国の森林政策の実施、及びその影響をめぐり、どのような構造が存在したのかを総括している。

まず、第14章では、現代中国において実施されてきた森林政策が、「森林の諸機能の維持・向上」を志向する「第1の動力」と、「総合的な政治路線の方向性」という「第2の動力」によって規定されてきたことを示している。この2つの動力は、それぞれ「継続」と「断絶」のベクトルとして絡み合い、その出力として森林政策が規定・変更されてきた。これらの動力は、森林の過少状況、一元的な国家運営体制といった背景を反映し、また、共産党指導者層を中心とした現政権の正当性の維持という、根源的な動力に支えられたものであった。第15章では、機能・価値・便益の構図の特徴と変化から、この森林政策をめぐる構造を捉えなおしている。すなわち、現代中国の森林政策は、「第1の動力」に基づく森林の維持・拡大を目指してきたが、その実態は、指導者層の独自の価値・便益を反映したものであり、それに沿った形で、基層社会の各主体の価値・便益は取捨選択されることになっていた。また、「第2の動力」である総合的な政治路線の度重なる変動は、各主体の価値・便益享受の構図自体を強制的に改変することに繋がった。特に、政治変動に伴う権利関係・経営形態の改変は、森林政策において「選択」されていたはずの価値・便益すら、継続的な享受を不可能にするものだった。

4.本稿の結論と課題(【終章】)

この結果として、現在の中国の基層社会においては、住民・企業等の各主体が、長期的なヴィジョンをもって、森林をめぐる価値・便益の享受を模索する土壌が失われつつある。この結論を踏まえて、終章では、今後の中国をはじめとした各地域の自然・森林との持続的な関係構築を目指す上で、森林をめぐる機能・価値・便益に注目した研究が、どのようなインプリケーションを持つかを整理している。ここでは、個別の機能・価値・便益について、「想定される享受の時間軸」と「相互の両立可能性」を検証することによって、公平かつ持続的な調整を導くという方法を提示している。

このアプローチを発展させ、各地域において、自然・森林に対する異なる立場を持つ主体間の価値・便益を、公平性を保ちつつ、持続的に享受できるよう調整していく方法論を確立することが、今後の大きな課題である。

審査要旨 要旨を表示する

主題

本論文は、自然と人間、自然をめぐる人間関係の望ましいあり方という根源的な問題意識を根底に、現代中国(中華人民共和国期の中国)において人間と森林の関わりが認識面および社会変動の実態面でどう推移してきたのか、その森林政策に着目し多角的(政治的、経済的、社会的)な視点からの構造的解明を通じて明らかにしたものである。

構成と各章の内容

本論文は、序章に続き、第1部(第1~3章)、第2部(第4~7章)、第3部(第8~10章)、第4部(第11~13章)、第5部(第14~15章)、終章という構成である。分量はワープロ原稿で565ページという大著力作である。

まず序章では、本論文の分析視角を提示しているが、森林の有する多面的な機能および価値・便益とそれらをめぐる人間関係の複合的性格を概念的に整理し、異なる主体による異なる価値認識間の政治・経済・社会的相互関係を多角的な視点から捉え分析を進める旨が述べられている。

第1部では、歴史的に現代中国が過少な森林状況から出発したこと、その公式統計データ等に依拠した確認と主たる原因の考察を行い、その後の森林政策を特徴付けることになった背景と政治・社会的変動の関係を整理している。

第2部では、過去50数年間にわたる森林政策の展開過程を丹念に検証している。現代中国における一つの政策的柱とされる地域住民を動員しての森林造成・保護政策の変遷をたどり、経済発展にともなう林産物需要増大への対応という経済的側面、治水や政府の威信維持を意図した共産党政権の国家的政策という政治的側面、森林の多様な機能・便益と住民生活の関係という社会的側面から重層的に動態構造の解明を行っている。

第3部では、第2部での分析を拡張し、権利関係・政策実施システム・法令という制度的な側面からの検討を加えている。そこでは、各時期の政治路線が森林政策の基本的動向を決定し、それに沿った林権確定政策は一般住民や企業間の権利関係ならびに経営形態を改変し、地域住民の長期的な経済的便益予測に依拠した健全な森林経営を阻害してきたと論じている。さらに、そうした共産党指導者層の意図は関連法規の整備により、地域社会における森林利用の規制や管理を徹底させるなど大きな影響をおよぼしたことを明らかにしている。

第4部では、森林に働きかけを行う各主体を指導者層、専門家層、基層社会(一般住民、企業など)というアクターに区分し、各主体による価値・便益の認識と行動を明らかにし、それらの相互関係の分析へと論を進めている。経済的便益と環境保全に加え国家威信の維持・高揚をも含む「美しい祖国」創造政策(指導者層)を背景に、森林官僚、知識人、技術者や篤志家などの専門家層が育成された。これらの専門家層は政策遂行の円滑化に貢献するとともに、生態系の科学的理解を通じた知識や役割への誇りを抱き、また樹木への尊敬や愛着といった独自の森林価値を見出すようになった。こうした動向は、一方で基層社会における森林の価値・便益を部分的に保障するものではあったが、他方で土着の森林信仰に対する規制と管理強化につながり、日々の生活を木材に依存する地域住民の認識との乖離を際立たせることになった。著者は、こうした各アクター間の認識および行動における相互関係と変遷のダイナミズムを詳細に検証している。

第5部では、前部までの多角的な分析と考察を踏まえ、現代中国における森林政策の実施と社会的影響の変遷について構造的な側面から総括を行っている。その構造的骨格は、森林が有する諸機能および便益の維持と増大を指向する「第1の動力」と総合的な政治路線の方向性という「第2の動力」の間のせめぎ合いとして把握されることを説得的に論じている。これら2つの動力は「継続」と「断絶」という動力学的な現象形態として表出し、根底にある共産党政権の正当性維持や一元的な国家運営体制という根源的な動力に支えられてきた、というのが大まかな結論である。

終章では、本論文において得られた知見を簡単に整理するとともに、こうした地域研究の意義と限界、そして政策的インプリケーションの活用の仕方について考察を加え、さらに自然と人間の望ましい関係という根源的な問いに接近するべく今後の環境研究の進展への展望と自らの貢献的意欲を述べている。

評価

本論文の長所として、以下の諸点があげられる。まず第1に、冒頭に記したように大著力作であり、現代中国における森林政策の変遷に関してこれほど丹念に検証しまとめた研究は例がない。頻繁に現地を訪れ資料収集やインタビューなどの調査を行った成果は、随所に議論の深みと説得性の高さとなって表出している。第2に、複数の視点を交錯させた分析の方法論は独創的であり、立体的な構造理解を可能にしている。第3に、自然と人間の関係という根源的な問いかけが常に根底にあり、現代中国を対象とした事例研究ながら、より一般的な環境政策研究の進展と展望について示唆を与えている。加えてそれは、ともすれば特定事象の探求やその記述にのめり込みすぎるのを抑制し、分量の多さにもかかわらず論文に落ち着いた安定感を与えている。

無論、本論文に改善の余地が見当たらない訳ではない。以下の諸点があげられる。まず第1に、先行研究との関連付けにやや不足が見られ、それらを得られた知見と比較するなど課題も残されている。第2に、森林の便益や機能、第1・第2の動力など諸言説について概念的な理解が色濃く、それらの定量的評価や比較秤量などを含め、中国の事情に則した詳細な分析に踏み込んだ議論も検討の価値があろう。第3に、アクター分析という抽象化しての把握は一面では成功しているが、たとえば基層社会も利害が錯綜する多様なアクターから構成されており、アクター内での相互関係にまで考察を深めることも課題である。第4に、特に研究分野の近い審査員からは、著者が自ら遂行した膨大な現地調査の仕方や収集資料の利用法について、研究の進展に寄与するという意味で、参考になるような調査それ自体に関する経験的情報の提供も欲しかったとの希望が出された。

しかしながら、これらの課題は著者自身も十分に自覚するところであり、むしろ著者および本博士論文の有する高いポテンシャルから導き出される将来的検討課題とでもいうべきものであろう。ここで示された著者の力量をもってすれば、今後、本論文の分析枠組みの拡張と発展によって、これらの課題に取り組み、研究の新境地を切り開いてゆくことは十分に期待されるところである。

結論

したがって、本審査委員会は一致して、論文提出者に博士(学術)の学位を授与するのが適当である、との結論に達した。

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