学位論文要旨



No 125450
著者(漢字) 鶴見,太郎
著者(英字)
著者(カナ) ツルミ,タロウ
標題(和) ロシア・シオニズムの想像力1881-1917 : 帝国における非ユダヤ人の影と社会という位相
標題(洋)
報告番号 125450
報告番号 甲25450
学位授与日 2010.03.01
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第947号
研究科 総合文化研究科
専攻 国際社会科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山本,泰
 東京大学 教授 中井,和夫
 東京大学 教授 山脇,直司
 東京大学 教授 山内,昌之
 立教大学 特任教授 高尾,千津子
内容要旨 要旨を表示する

本論文は、ロシア帝国において、ロシア語を中心に活動していたシオニズム運動の思想的側面、とりわけその世界観を、その機関紙『エヴレイスカヤ・ジズニ』や『ラスヴェト』などを中心とした出版物に即して社会学的に分析したものである。この潮流のシオニズムは、反主流派の筆頭である、シオニズム右派として知られる修正主義シオニズムに主に連なっていく流れである。

ロシア・シオニズムの思想的特質を体系的に抽出するというそれ自体新規性を持つ作業を通して本論文が従来主に「ディアスポラの否定」として見られてきた(ロシア・)シオニズム像に変更を迫るのは、シオニズムとロシア帝国というディアスポラの地との密接な関係性に関する観点である。具体的には主に次の2点である。第1に、ロシア・シオニズムがロシア帝国という場を重視し、かつそれと有意に連関していたこと、特に、この点を差し置いて少なくとも1917年までのロシア・シオニズムの思想的射程を理解することはできないということ。第2に、それまで反ユダヤ主義への反応や伝統的なユダヤ人意識の延長として捉えられることがほとんどだったシオニズムにおける、ロシア帝国という場が及ぼした影響、とりわけシオニストによるユダヤ人定義やシオニズムが目指したものに関する影響。

本論文では、これを分析するに際して、「客観的文脈」と「主観的文脈」という観点を重視する。従来の研究では、研究者の側で設定した客観的文脈とシオニズムを関連付ける作業は行われてきたが、シオニスト自身がいかなる文脈を想起していたのかという側面は不問に付されてきた。

第1章では、19世紀後半のロシア帝国とユダヤ人の関係史と、初期のシオニズム思想を分析した。19世紀半ば以降、シオニストの多くを輩出したユダヤ人の層であるマスキリーム(啓蒙主義者)は、ロシア帝国の中で、ユダヤ人の集合性を保持したままどのようにユダヤ人の地位を向上させていくかに奮闘していた。この姿勢を可能にした客観的文脈としては、ロシア帝国の、集合的な単位が実質的には帝国の構成単位となっていた政治社会的条件が挙げられるが、ユダヤ人の側でもそうした多様性を担保する存在としてロシア帝国という場が想起されていた。1881‐2年ポグロムはそれまでのそうした姿勢に再考を迫る事件だったが、シオニストになったユダヤ人は単にユダヤ人迫害からの逃避としてパレスチナ移住を構想していたわけではなく、むしろ多民族的環境という文脈を継続的に想起しつつ、シオニズムを通してユダヤ人のネーションとしての存在を内外に提示することで、ロシア帝国における安定した政治社会的地位を確保しようとしたのである。

1905年革命前後の時期を中心に扱う第2章ではこの点について掘り下げていった。中心的に取り上げたのは、月刊『エヴレイスカヤ・ジズニ』や週刊『ラスヴェト』といった、ロシア・シオニズムの機関紙である。とりわけ、シオニストの世界観の中での「ネーション」という概念の位置づけを集団内アイデンティティと集団間アイデンティティという観点を手掛かりに探っていった。ここで、ユダヤ人の集団内アイデンティティとは、ユダヤ人自身にとってのユダヤ人のアイデンティティのことであり、集団間アイデンティティとは、ユダヤ人がどの集団群(諸宗教集団、諸ネーション、諸階級等)に属すのかということをめぐるアイデンティティのことである。ロシア帝国において、シオニストはユダヤ人が諸ネーションという集団群に数え上げられることは次の3点の効果があると考えた。第1に、前章でも見たように、ユダヤ人が尊厳を持った集団であるとみなされること、第2に、他と区別される固有の利益を持った政治的統一体であることを示すこと、第3に、多民族的環境において、中立性を確保するということである。この点は、例えばポーランド化やロシア化が、それぞれロシア人とポーランド人にユダヤ人に対する不信感を印象付けるという事態を、ユダヤ人という別個の存在としてとどまることで回避するという効果、また、いわゆるユダヤ人陰謀論に対して、ユダヤ人がユダヤ人の民族的利益以上のことは目指していないことを印象付けるという効果があると考えられた。このように「ネーション」概念は集団間アイデンティティという局面において重要性を持っていた。しかし興味深いのは、その反面で、集団内アイデンティティという局面とこの点が分離していたということである。シオニストは、ユダヤ人がネーションであると主張し、その証左としてシオニズムを推進していた一方で、ユダヤ人の定義はむしろ明白に留保していたのである。これは、『ラスヴェト』においてユダヤ人の本質に関して議論した記事がきわめて少ないことにも表れている。

第3章では、では、なぜロシア・シオニズムにおいてユダヤの本質について語られることが少ないばかりか、それを戒める発言さえ見られたのかという問いを探ることを通して、シオニズムの主観的文脈におけるロシア帝国を中心としたディアスポラの地における非ユダヤ人の影響を見出した。まず、ユダヤ的な本質がロシア系において強調された局面であり、ロシア系がユダヤ的なものを強調していたと印象付けた事件である「ウガンダ」論争を取り上げ、実際はロシア系は戦略的に「ユダヤ的なもの」を前面に出していた側面が強かったことを指摘した。しかし、では彼らは何を目指していたのか。これを見定めるために、まず、ロシア・シオニズムの指導者の一人パスマニクが1905年に『エヴレイスカヤ・ジズニ』に連載した自伝小説を読み解いた。そこでは、同化でもなく、伝統回帰でもない方向が強く意識されていることが明らかとなった。この方向が打ち出された背景として次の2点が指摘できる。第1に、資本主義化によってユダヤ人固有の経済的機能が失われ、ユダヤ人の同化が懸念されるようになっていた中で、実証主義や唯物論的な想像力がロシア・シオニストにおいて現実を捉える上で重視され、それが、シオニズムが形而上学的な観念論に堕ちることを警戒させた。第2に、ユダヤ人に固有の契機として挙げられるのが、反ユダヤ主義という経験である。シオニストが特に嫌悪したのは、反ユダヤ的な周囲に存在を認められるために、周囲におもねる形でユダヤ人を定義してきた歴史だった。彼らから見て、同化主義的であるほどユダヤ人の本質について語りたがり、シオニストほどそうした固定化を嫌ったのだった。同時に、社会主義はもちろんのこと、ロシア自由主義やナショナリズムは、排他主義というよりも拡張主義的であり、とりわけユダヤ人に対しては同化を求めていた。彼らの論理は、ユダヤ人という集合性や文化に価値がないということだった。これに対してシオニストが提示したのが権利という概念である。すなわち、諸民族には、その文化や価値に拘わらず権利が付与されるべきだという主張である。文化や価値を前面に出す戦略はそれと矛盾するものだった。また、実証主義的な視線が発見したのは、ユダヤ人を取り巻く諸事象や諸形態が社会的に構築されてきたものなのであって、ユダヤ人に本来的に備わっている性質ではないということだった。とりわけそれはディアスポラという社会的条件に起因するように思われた。シオニストにとって、それまでの「ユダヤ人」概念は、不本意な形で様々な負荷を背負ってきたのだった。それに反発する形で、シオニストは本論文が「純粋な社会性」と呼ぶ何も色づけられていない無垢なものを追求していったのであり、ユダヤ人が基軸となった社会を創るという発想が生まれた。パレスチナはユダヤ人が主体的な創造活動を行っていた時期と考えられ、そこを目指すということは、そうしたいわば様々な手垢にまみれてきた「ユダヤ人」概念をリセットし、自律的にそれを育んでいくという意味合いを持っていた。したがって、第一義的には彼らは「ユダヤ人国家」ではなく「ユダヤ社会」の建設を目指したのであった。

第4章では、こうした経緯でロシア・シオニストがどのような「国際規範」をつくっていったのか、どのような想像力の中でパレスチナの現実とシオニズムの整合性を付けようとしていたのかを検証していった。まずシオニズムのライバルだったユダヤ人社会主義組織ブンドだけでなく、ロシア・シオニスト自身が参照していたオーストリア・マルクス主義の民族理論を概観したのち、シオニストがこれをどのように読解し、ブンドを批判していたのかを明らかにした。かなりの部分においてオーストリア民族理論を下敷きにしていたシオニストがブンドを批判したのは、前章で見たように、文化は社会的基盤があって初めて生まれ維持されるし、そうすべきであるとの視座をシオニストが持っていたからであり、それゆえに、単なる文化的自治は民族存立には意味を成さないと考えたからだった。したがって、ロシア・シオニストが描いていたのは国家的単位と民族的単位が必ずしも一致しない多民族的な秩序だったが、どの民族も本拠地としての領土を持つ空間だった。ロシア・シオニストがパレスチナに投影したのもこの秩序観だったのである。広大なアラブ地域とその一区画のパレスチナという位置づけで、パレスチナはユダヤ人の民族的本拠地とされたが、アラブ人はマイノリティとしての権利が付与されることが想定された。

結論においては、1917年革命期におけるシオニズムの状況を示したのち、本論文のまとめに加えて、その含意として、パレスチナでの展開を西欧国民国家史ではなく、ソ連民族政策史とのアナロジーで見ることの有効性および、1世紀前の時代において狭義での「社会」という位相が想像力の中で重要性を持っていたことに注視すべきであることを示唆した、

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、1948年のイスラエル国建国の原動力となり現代世界に大きな影響を与えたシオニズムについて、その起源・社会的背景、諸潮流の特徴と関連を、歴史学と社会学の手法を駆使して明らかにした研究である。1881年のウクライナ南部でのポグロム(反ユダヤ暴動・虐殺)の発生から1917年の帝国崩壊までの時期を対象に、ロシア帝国におけるユダヤ人社会の様相を浮き彫りにしながら、パレスチナにユダヤ人の「ネーション」としての根拠地を樹立しようという思想(運動)がこの地でどのように芽生え、広がっていったのかを解明している。

本論文は、ロシア帝国末期という時代と場所と、シオニズムという特異な思想・運動の生成との関連を丹念に分析し、シオニズムがなぜ西欧ユダヤ人の間ではなく、東方ユダヤ人の間で立ち上がったのか、シオニズムはどのような世界観を内包し、後のアラブ社会との葛藤の源泉になっていったのかというスケールの大きな問いを立て、それを様々な資料を活用して実証的に解明する。

従来の研究では、シオニズムは反ユダヤ主義に対する反応として、あるいはユダヤ人の伝統的な同族意識の近代における発展として捉えられてきた。そこでは総じて、シオニズムは「ディアスポラの否定」であると目されてきた。それに対して、本論文は、シオニズムとディアスポラはそのように簡単に片づけられないより深い関係にあったことを論証する。第一に、シオニスト自身がディアスポラ地域を捨て去るのではなく、むしろそこでのユダヤ人の居住の継続を織り込んだ上でシオニズムを構想していたこと、第二に、それが故に、シオニズムはディアスポラ時代の経験やロシア帝国という枠組みの影響を深く受けていたことが重要な論点である。

これらの仮説を検証していくための道筋として、本論文は以下の二つの側面の重要性を指摘する。第一は歴史的文脈の重要性である。1881-82年と1903-06年のポグロムはユダヤ人社会に大きな衝撃を与えたことはよく知られているが、ユダヤ人社会が多民族国家ロシア帝国の中で、多数派のロシア人や他の民族集団とどういう関係にあったのか、ユダヤ人の同化はどの程度進み、ユダヤ人の社会的な地位はどのように変化していたのか。標題にいう「非ユダヤ人の影」とは非ユダヤ人の活動や思想がユダヤ人に影響を及ぼした側面を指す。本論文は、ユダヤ人の置かれた客観的な状況を「客観的文脈」と呼び、様々な研究文献や統計資料を読み解きながら解明し、問題を掘り下げていく。

他方、このような客観条件・環境制約もそのままユダヤ人の思想や運動を決定していたわけではない。本論文が注目するのは、ユダヤ人がそのような制約条件をどのように認識し、自分たちの言葉でどう語っていたのか、という「主観的文脈」である。たしかにシオニズムをユダヤ内在的な本質的なものの近代における表出を見る立場もあるが、本論文では、ロシア・シオニズムの中心となった非社会主義系(自由主義系)の機関紙と言える『エヴレイスカヤ・ジズニ』や『ラスヴェト』を丹念に読み込み、ユダヤ人が多民族国家というレジームの下で自分たちの置かれた状況をどう解釈し、閉塞状況をどのように打開しようとしてシオニズムという思想にたどり着いたのかを克明に分析している。

論文本体は序章と終章を含む六つの章から構成されている。

序章では、既存の研究を概括しつつ、ディアスポラとシオニズムの関係は依然として未解明であることを述べる。ロシア・シオニズムはユダヤ人意識を高揚させたという側面が強調されがちだが、それはパレスチナという出口を用意するものであったとは必ずしも言えず、多民族国家ロシアの中での存在基盤の強化という側面があったことも示唆される。シオニズムをユダヤ人社会の内部で完結する思想としてではなく、諸民族がせめぎ合う当時のロシアでの集団間の関係のダイナミズムを背景に、他者に向けた「自己呈示」の戦略でもあった点を見ていくという課題が提示される。

第一章「ロシア帝国におけるシオニズムの生成」では、19世紀終わりのロシア・ユダヤ人と初期のシオニズムの様相が分析される。18世紀末のポーランド分割によってユダヤ人の大半はロシア帝国に編入され、居住地域を様々に制限された。ユダヤ人は都市部において集住の度合いが高く、低い地位に置かれながらもユダヤ人の集合性(一体性・アイデンティティ)を自明視することが可能で、かっ、ロシア帝国の緩やかな構造(レジーム)の故に、自分たちの置かれた状況を様々に解釈する余地があった。そうした状況を背景に、ドイツから伝播したユダヤ啓蒙主義(ハスカラー)の影響の下、ロシアでもマスキリーム(啓蒙主義者)層が出現し、非ユダヤ人からの差別的まなざしに対抗して、同化ではなく、イメージを向上させた上での文化的統合を目指す運動が大きな力を持った。しかし、中世においては仲介業や手工業などの分野で独自の役割を担っていたユダヤ人は、資本主義化・工業化の流れの中でその役割を徐々に喪失し、プロレタリア化の様相が濃くなりつつあった。こうした矛盾を露呈させたのが、1881年に発生したポグロムであった。これを契機として、シオニズムは定住区域全体で発生した。初期のシオニストであるピンスケル、アハド・ハアム、リリエンブルムなどは、他の民族集団と同様に本拠地を持つ「ネーション」という集団として他者から認知されることこそユダヤ人が他の民族集団と対等の地位を獲得するための必要条件と考えた。シオニストは、帝国内での安定した地位を獲得することを諦めたのではなく、むしろ帝国内での安定した地位を獲得し、インテリ層の同化を防ぐ手段としてパレスチナでの拠点樹立を企図していた。このような想像力の行使が可能であったのは、あくまで、帝国という多民族国家の枠組みがあったからこそであり、想像力の行使にはそれを必要とすると同時に可能にする社会的文脈があることを説得的に述べている。これがいわゆるシオニズム第一世代と呼ばれる運動である。

第二章「ロシア・シオニストにとって『ネーション』概念にはいかなる利点があったのか」では、帝政末期(1905年前後から第一次大戦までの時期)のロシアを舞台に、いよいよ流動化する統治の枠組み(レジーム)と激しさを増す諸潮流のせめぎ合いの中でのロシア・シオニズムの展開を活写している。この時期、パレスチナにユダヤ人の主権国家を建設するとした西欧ユダヤ人のジャーナリスト、テオドール・ヘルツルがロシア・シオニストの前に現れた。これがロシア帝国でのユダヤ人の地位向上という課題にとらわれていた第一世代のシオニストの目を世界に開かせる契機となり、ロシア帝国系シオニストを力づけたことは疑いないが、他方でこの時期興隆したブンド(ユダヤ人社会主義運動)との対抗もあり、シオニストはディアスポラ地域でのユダヤ人の地位向上のための諸活動(ゲーゲンヴァルツアルバイト)にも力を注いだ。ロシア国内でのユダヤ人社会の認知度の向上、ロシア帝国の政治社会でのプレゼンスを高める趣旨がこの時期も濃厚であり、1905年革命時においてもシオニズムは明確にロシア政治への参加を掲げていた。こうした中で、シオニストは、「ネーシヨン」という概念でユダヤ人が認知されることには、次の三つの利点があると考えた。第一に、ユダヤ人が「流浪の民」ではなく、尊厳を持った存在であることを呈示すること、第二に、当時ユダヤ人に対する同化圧力がある中で、他のどの民族にも同化しえない独自の利益を持った存在であることを呈示すること、そして第三に、諸民族がせめぎ合う多民族的環境において、どの民族の傀儡でもない中立的な存在であることを呈示すること、である。これらはいずれもユダヤ人がどの集団群に属するのかという集団間アイデンティティに関わる問題であった。しかし興味深いことに、他方で、「ユダヤ性」という集団内アイデンティティに関わる議論が『ラスヴェト』等においてほとんどなされていないばかりか、明確にそうした議論に反対する立場が表明されていたのである。本章で明らかになったのは、「ネーション」という概念が、革命前夜の流動的なロシアの状況の中で、「ユダヤ性」についての内向な議論に陥らずに対等なステークフォルダとしての地位を確保するための「パッケージ」と目されていたという側面である。

第三章「本質規定を忌避するナショナリズム」では、このように「ユダヤ性」という本質について留保する姿勢が何に起因していたのかを興味深く論じている。第二節では、一般にロシア系シオニストの本質主義的な姿勢が顕在化した例として言及されがちな「ウガンダ論争」(1903-6年)に至る経緯を取り上げる。この論争は西欧系シオニストとの覇権闘争の様相を帯びていた。ここでロシア系シオニストが西欧系に欠けている点として「ユダヤ的なもの」を押し出したのは事実だが、元来の本質主義が反映したというわけではなく、戦略的にそうしていたとの指摘が興味深い。第三節では、パスマニク(この時期の中心人物の一人で、『ラスヴェト』の中心的寄稿者。ウクライナ生まれ。1869・1930)が著した自伝小説『一人のユダヤ知識人の歴史』(月・刊『エヴレイスカヤ・ジズニ』に連載、1905年)でも前章で確認された本質主義を忌避する姿勢が貫かれていることを丹念に確認している。続いて、パスマニクともう一人の中心人物イデルソン(リトアニア生まれ。1865-1921)の議論も具体的に検討する。これらの分析を踏まえて、本章は次の二つの背景が重要であると主張する。第一に、総体として社会経済構造の変動の故にユダヤ大衆は同化傾向にあり、それに対抗する戦略として、新たな意味体系を呈示するような形而上学的な処方箋が意味を持たないことが意識されていたということである。むしろ、ユダヤ人の社会経済地盤を確保することこそがユダヤ人の同化を止める上で重要視され、その拠点としてパレスチナが目指されたのである。第二に、同化主義的であるユダヤ人ほど本質主義的な議論を行うという傾向があるという指摘も興味深い。つまり、非ユダヤ人の中で民族ではなく宗教としてのユダヤの存在意義を主張するために「ユダヤ人の使命」といったものを語る傾向である。また、ユダヤ人が有用である限りにおいて非ユダヤ人に受け入れられてきた歴史が存在することも背景として重要である。こうした中で、イデルソンやパスマニクは、存在する理由を語ることそのものに反発を表明したのである。彼らは、「ユダヤ」は「社会的事実」として存在しているのであり、非ユダヤ人に対する価値や有用性でその是非が測られるべきではないと主張した。また、このようにユダヤ人という存在が本質的に決定されたものではなく社会的なものであるとする思考は、ユダヤ人の特徴として否定的に語られるもの(例えば資本主義)がディアスポラという社会的な条件の中で形成されたものであり、ユダヤ人種なるものに本来的に備わったものではないことを意識させた。しかし、他方で、「流浪の民」=ディアスポラという社会的条件を変えない限り、「ユダヤ」という概念が様々な本質主義的な語りの「手垢」にまみれた状態を脱することはできないとされ、そうしたものをリセットする場としてパレスチナが目されていたことが明らかにしている。こうして本章では、ユダヤ人が非ユダヤ人の視線を受け入れる形で規定されてしまうことからの解放が目指されていたことが明らかにされる。本質規定から逃れたユダヤ人の特性は本章で「純粋な社会性」と呼ばれている。

第四章「シオニズムの『想像の文脈』」では、こうした経緯で形成されたロシア・シオニズムが描いていた文脈、とりわけその規範的な部分について検証している。ロシア・シオニズムは、帝国内でユダヤ人の自治を求めた点でブンドと共通していた。国家の枠組みを維持した上での諸民族の自治を理論化したものとしては、レンナーやバウアーなどのオーストリア・マルクス主義者の民族理論が知られているが、シオニスト自身がそれらに言及したうえで、それらを正しく理解しないものとしてブンドの「文化的自治」論を批判していたことが興味深い事実として示される。それは、前章で見たように、シオニズムが求めていたものが文化それ自体ではなく、それを生み出す土壌である社会的な位相だったからである。ロシア・シオニストは、パレスチナにおいてユダヤ人が領土的自治を獲得することを主張する一方で、帝国においてはマイノリティとしての自治にとどまることを受け入れていた。こうしたシオニズムの「想像の文脈」は、シオニストがパレスチナやその住民を認識する際の認識枠組みとしても作用していたことが本章の後半で示される。シオニストは、パレスチナにおいて、ユダヤ人がマジョリティとしての領土的自治を獲得することを目指したが、そこの非ユダヤ住民を、「アラブ人」という概念で認識し、それを他の「アラブ地域」と結合させることで、他の地域でマジョリティとしての権利を享受している「アラブ人」は、パレスチナにおいては、マイノリティとしての権利が認められることを予定していた。このような想像の文脈に従って、シオニストは自らの企図とパレスチナの現実との整合性を付けていた。本章は、それがロシア帝国で育まれた認識枠組みと深く関係していたことを論じている。

終章では、まず、1917年革命に際してのロシア・シオニズムの状況が提示される。帝政を崩壊させた二月革命では、以上に見たようなシオニズムの「想像の文脈」はより現実味を持って論じられていたが、ボリシェヴィキが権力を掌握することになる十月革命ではそれが落胆へと変わっていき、現実主義的な認識のみが残っていくことになった様子が示され、本論文の歴史学的な側面が結ばれる。後半では、本論文を今一度概観したのち、より理論的な側面を二つに分けて総論的に概括している。第一は、とりわけ第四章で見たようなシオニズムの解釈図式が、西欧の国民国家体系が持っていた想像力よりも、国家の枠組みの中で諸民族を自治の単位としながら再編することを企図したソ連民族政策の想像力に似た側面があったことである。第二は、本論文が副標題にも掲げている「社会」という位相は、昨今のナショナリズム論や多文化主義論がほとんど論じていない位相であるが、つねに集団内や集団間の相互行為の文脈となっているという指摘である。時代や場所に規定されたそれぞれのアクターの想像力には制度に裏打ちされた固有の文脈がある。この「想像の文脈」を本研究は1881-1917年のロシア・シオニズムに即して見いだしたと概括して本論文は閉じられる。

本論文は初期からロシア革命までのロシア語圏のシオニズム思想を体系的に分析した点に最大の貢献があり、高く評価される。特に1904年に没するまでシオニズム運動の中心となったヘルツルの時代以降のロシア・シオニズムについてこれまで研究が極めて乏しかったが、本研究は、同年に始まった第二次アリヤー(ロシア・ポーランドからの大規模な移住)によってもパレスチナに渡ることなくロシア帝国に残った潮流に関する研究を深めた点はきわめて貴重な学問的寄与となっている。この研究によって、帝政末期のロシア・シオニズムについて多くのことが明らかになった。

総括的に述べれば、パレスチナへの移住運動が1881年ポグロムなどへの初期段階での反発から発し広まったという従来の定説とは異なり、当時のロシア・シオニストは「ネーション」を主張したものの、それは帰還を直接に意図したものではなく、むしろロシアでの定住・地位向上を目指したものであったことを資料に即して明らかにした。パレスチナへの移住の動きが支配的となったのは、ボリシェヴィキの権力掌握によってロシアでの存在主張の可能性について幻滅が広がった時期である。第3次アリヤーと呼ばれる、主としてロシアからの大規模な移住(1919-23年)は史実としては知られているが、このような歴史のダイナミックな動きを初期のロシア・シオニズム以来の思潮とそれが置かれた文脈に即して一貫して解明した本研究は、これまでの世界の学会の常識を覆したと言って過言でない。一言で言えば、パレスチナへの移住運動はポグロムへの対応であるよりは、ポグロムへの対応への対応であった。このような解明は、現在のパレスチナ/イスラエルの紛争を理解する上での重要な視座も提供している。かくして、この研究は、日本のみならず、世界に通用する第一級の成果であると評価することが出来る。

このような成果を生み出すために、本研究が用いた概念枠組・方法論も、今後のナショナリズム、エスニシティ研究に大いに貢献するであろう。旧来の知識社会学のように、歴史に置かれたアクターの思想や行動を客観条件や環境制約に還元するのではなく、当事者が集合的に構成する「想像の文脈」の領域にまで考察を深めた点は高い評価に値する。

加えて、社会学的視点と歴史研究の視点を高い次元で融合させることに成功したことも希な成果である。複合領域を横断しつつ、個々の領域にインパクトを及ぼす研究は数少ないが、鶴見氏の研究はその模範を示しており、相関社会科学の業績として今後の道標になるものである。

他方で、残された課題もある。まず、本研究はこの時期のロシア語の文献の解読に多くを負っているが、果たしてこれだけの調査で全体像がどこまで明らかになったのかについてやや不安が残る。また、帝政末期のロシアの社会主義系勢力との関係についてもより立ち入った分析が必要であった。さらに、結論の章で提示されたソ連民族政策とのアナロジーに関する議論についても未消化との印象がぬぐえない。

しかし、これらはあくまでも部分的な問題点に留まっており、本論文の学術的な成果を損なうものでは全くない。

したがって、本審査委員会は、本論文を博士(学術)の学位を授与するにふさわしいものと認める。

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