学位論文要旨



No 125460
著者(漢字) 田中,夕香理
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,ユカリ
標題(和) 2つの閾値に基づく動的治療レジメンに対する周辺生存関数の推定
標題(洋)
報告番号 125460
報告番号 甲25460
学位授与日 2010.03.03
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第3378号
研究科 医学系研究科
専攻 健康科学・看護学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大江,和彦
 東京大学 教授 小山,博史
 東京大学 教授 川上,憲人
 東京大学 准教授 梅崎,昌裕
 東京大学 准教授 福田,敬
内容要旨 要旨を表示する

1.緒言

動的な治療レジメン(Dynamic treatment regime:以下,DTR)は,時間依存性共変量に基づき,各時点において処方する治療を逐次的に判断するレジメンを指す.DTRの治療目標は,臨床検査値等の患者の状態を表す短期的アウトカムを改善・維持管理することだけでなく,死亡や心疾患などの長期的アウトカムを改善することにある.DTRの臨床効果を厳密に評価することは,短期的なアウトカムを最適に保つような治療レジメンが必ずしも最終的なアウトカムを改善できるとは限らないと考えられる疾患の治療方針を決定していく際に特に有用な情報を与える.例えば,腎性貧血患者に対するエリスロポエチン製剤の投与レジメンは,長期的アウトカムに与える影響を検討すべきDTRの一つとして挙げられる.臨床現場では,貧血の改善が見込まれる目標Hb値の範囲に患者のHb値が到達・維持されるようにエリスロポエチン製剤の投与をコントロールすることが一般的になされている.一方,維持Hb値が高すぎる場合には心疾患系イベントのリスクが上昇することが指摘されており,目標Hb値の上限をいくつに設定すれば良いかを支持するエビデンスの蓄積が望まれている.このような背景を受け,日本人の腎性貧血患者の目標Hb値を検討することを目的とした前向き観察研究であるJET Studyが現在実施中である.

近年,観察研究データに基づきDTRの臨床効果を評価する方法論が,因果推論の枠組みで提案されている.その1つに,Inverse Probability Weighting(IPW)法を用いた推定方法がある.既存の方法は,「ある値を超えたら治療を処方する」のような1つの閾値に基づくDTRに適用可能である.一方,腎性貧血患者に対するエリスロポエチンの投薬レジメンのように,短期的アウトカムの改善・維持管理を目標とした,積極的に薬剤投与を開始すべき臨床検査値の下限値と,長期的アウトカムの改善・リスク予防を目的とした積極的に休薬を開始すべき上限値の2つの閾値に基づくDTRを検討すべき場合,既存の推定方法を拡張する必要がある.さらに,生存時間データに対するDTRの推定方法は未だ提案されていない.そこで本研究は,生存時間データに対し,2つの閾値に基づくDTRの周辺期待値の推定方法を提案し,その提案法をJET Studyデータに適応する.

2.方法

生存時間データに対する,全対象者が2つの閾値に基づくDTRに従ったときに観察されるアウトカムの期待値である周辺期待値を推定する方法を提案する.例えば,2つの閾値に基づくレジメンjを「Xikがx_low未満ならば投薬する,x_high以上ならば休薬する」とする.ここで,Xikを対象者iの時点kにおける共変量とする.このレジメンjに応じて処方される時点kにおける治療変数dj(Xik)は以下のように定式化される.

上記のレジメンjの周辺期待値は,Xikがx_low以上x_high未満の対象者の治療割合によってその値が変化するため,その治療割合をqと設定する.

生存時間データに対する,上記の2つの閾値に基づくレジメンjの周辺期待値Sj(t)の推定方程式は以下の式で表わされる.Sj(t)は時間tにおける周辺生存確率を示す.

ただし,wikは以下で表わされるような各対象者の重みであり,時点kにおいて共変量歴,治療歴で条件付けた下で実際に受けた治療を受ける確率の逆数である.また,対象者iの時点kにおける治療変数をAik,アウトカムが観察されるまでの時間をTi,潜在打ち切り時間をCiとし,実際に観察される追跡期間はUi=min(Ti,Ci)となる.△i=I(Ti<Ci)は打ち切りの有無を示す指示変数,()jiKUはレジメンjに従っている対象者における打ち切り分布を示す.なお,1- Sj(t)は時間tにおける累積イベント発症確率を表す.

3.シミュレーション実験

3.1設定

ベースライン共変量,時間依存性共変量に応じて治療の受けやすさが変わり,共変量と治療変数の間に質的な交互作用が存在する状況のデータを作成し,提案法により累積イベント発症確率がバイアスなく推定されることを確認するためにシミュレーション実験を行った.対象者数は1000人,繰り返し数は100回とし,時点0,1の2時点を設定した.エンドポイントはイベント発症までの時間とし,加速モデルに基づき各対象者の生存時間を算出した.治療変数と時間依存性共変量の交互作用効果は0から1.0まで0.2刻みで6通りの状況を想定した.

発生させた追跡時間を用いて,全対象者が「Xikがx_low未満なら治療あり」「Xikがx_high以上なら治療なし」「Xikがx_low以上,x_high未満ならば治療を受ける確率q」というレジメンに従った場合の累積イベント発症確率を提案法により推定する.qは30%と70%の2通りを設定する.また,比較のため,決定ルールを守った対象者のみを抽出して得られる累積イベント発症確率(調整なし法),ベースライン共変量のみを調整して得られる累積イベント発症確率(ベースライン共変量のみ調整法)を算出した.なお,推定値を算出する際に設けた2つの閾値は,x_lowを3と固定し,x_highを3~8とした.

3.2結果

治療確率qが70%,治療変数と時間依存性共変量の交互作用が若干強い状況における累積イベント発症確率の結果を図1に示す.横軸が休薬する閾値x_high,縦軸が累積イベント発症確率を表す. 調整なし法,ベースライン共変量のみ調整法により得られた推定値は真値から乖離していた.一方で,提案法による推定値は真値とほぼ一致しており,バイアスがないことが確認された.なお,x_highおよびqに関する他の設定状況においても,同様の傾向の結果が得られた.

4.JET Studyへの適応結果

本研究では,投与開始6ヶ月時点までのデータを用いる.投与6ヶ月時まで試験継続している対象者および6ヶ月時までに死亡イベントあるいは中止している対象者計2977人のうち,エリスロポエチン製剤を投与開始前にHb値が測定されており,試験期間中のHb値が欠測していない対象者2870名を解析対象集団とした.また,入院あるいは死亡イベントを起こしている575人をイベント発症者とした.DTRを「x_low未満なら投薬,x_high以上なら休薬」とし,その2つの閾値に関しては,x_lowを9g/dLと固定した下で,x_highを10,11,12,13g/dLの4つに設定した.また,x_lowとx_highの間のHb値が観測される対象者の治療を処方される確率qは,治療を受けている対象者の割合が多いことを考慮し,80%と設定し,各レジメンに対する累積イベント発症曲線を調整なし法ベースライン共変量のみ調整法,提案法により推定した.

以上の3つの方法で推定した累積イベント発症曲線を図2に示す.調整なし法により,休薬する閾値が低いほど累積発症確率が高いという結果が得られ(図2-1),ベースライン共変量のみ調整法により,休薬する閾値が高い12g/dLおよび13g/dLのレジメンの累積発症確率は閾値が低いレジメンと比較して若干高くなる傾向が見られた(図2-2).提案法により得られた累積発症確率は4つのレジメン間でほとんど差異がみられなかった(図2-3).ただし,投与開始180日付近で休薬を開始する閾値が高いレジメンの累積発症確率が若干高くなる傾向が見られた.さらに,循環器系疾患や脳血管障害等の既往歴の有無によって,休薬すべき閾値が異なる可能性があることを考え既往歴の有無で層別し,4つの各レジメンの累積イベント発症確率を提案法により推定した(図3)その結果,既往歴がある対象者の累積発症確率の方が高いという臨床的に尤もな結果が得られ,既往歴が有る対象者は既往歴が無い対象者と比較して,休薬する閾値が高いと投与開始180日付近で累積発症確率が高く傾向が,若干強く見られた.

5.考察

生存時間データに対する,2つの閾値に基づくDTRの周辺期待値の推定方法を提案した.2つの閾値に基づくDTRは,主に2つの観点において有用なレジメンと考えられる.1点目は,時間依存性共変量がある範囲に収まるように処方する疾患に対してはそもそも1つの閾値のDTRを設定するのは適切ではなく,2つの閾値のDTRを検討する必要があるという,臨床的な観点における有用性である.2点目は,統計的観点における有用性である.1つの閾値を持つDTRはレジメンに対する制約が厳しいため,長期に渡る試験ではそのレジメンを遵守している対象者が必ずしも多いとは限らず,そのことが推定される周辺期待値の不安定さにつながる側面をもち,より制約が緩い,2つの閾値に基づくレジメンは有用と考えられる.

提案法により,時間依存性共変量と治療変数との間に質的な交互作用がある状況下においても,バイアスなく周辺期待値を推定できることをシミュレーション実験により確認した.また,JET Studyの6か月データに適用し,腎性貧血患者における,死亡・入院イベントに対する複数のDTRの累積イベント発症曲線を推定したところ,調整なし法による累積イベント発症曲線は,休薬する閾値が低いほどその推定値が高くなった.これは,循環器系等の既往歴や循環器治療歴が有る対象者など,イベント発症に対するリスクが高い対象者ほど低いHb値で休薬する傾向があることを反映した結果であると考えられる.一方で,提案法による推定値はレジメン間で大きな違いが見られなかったが,投薬開始後180日付近において,休薬する閾値を高く設定したレジメンの累積イベント発症確率が低い設定のレジメンと比較して若干高くなっており,治療変数とHb値の間に質的な交互作用がある可能性は否定されなかった.また,心疾患等の既往歴の有無別にDTRの効果の違いを検討したところ,既往歴を持つ対象者の方が,累積発症確率に対するレジメン間の違いが存在していた.今後,より長期間におけるイベント発症に対するDTRの効果の検討が必要ではあるものの,特に循環器系等の既往歴をもつ対象者においては,休薬する閾値に関して注意する必要性が示唆された.

図1.各閾値に対する累積発症確率のプロット

図2-1.調整なし法

図2-2.ベースライン共変量のみ調整法

図2-1.提案法

図2.JET Studyへの適用結果: 各レジメンを遵守した対象者の累積イベント発症曲線

図3.既往歴の有無別の累積イベント発症曲線

審査要旨 要旨を表示する

腎性貧血患者に対してエリスロポエチン製剤を処方する際,医師は積極的に薬剤投与を開始すべきHb値の下限値と,積極的に休薬開始すべき上限値の2つの閾値に基づいて投薬の有無を判断する.本研究は,このように2つの閾値に基づく治療レジメンを定式化し,その治療レジメンの周辺生存関数の推定方法の提案,さらに実データへの適用を試みたものであり,下記の結果を得ている.

1.2つの閾値に基づく動的治療レジメンを「2つの閾値の範囲外に検査値が観察されたら処方する治療を判断し,範囲内に観察されたら確率qで治療を実施する」という決定ルールに基づき定式化した.このような2つの閾値に対する治療レジメンへの拡張は,検査値を上げ過ぎても,下げ過ぎても死亡や心疾患等の長期的アウトカムの予後を悪化させてしまう治療・疾患に対して有用であると考察された.一方で,2つの閾値間に検査値が観察された際の決定ルールをより複雑にした方が現実的であるが,単純化した決定ルールは数学的に非常に扱いやすいという利点がある.ただ,複数の確率qを用いて周辺期待値を推定することでアウトカムが最も改善される閾値を検討し,その頑健性を確認することは重要であると考察された.

2.2つの閾値に基づく動的治療レジメンに対する周辺生存関数を提案した.さらに,提案法により周辺生存関数をバイアスなく推定できることを確認するためにシミュレーション実験を実施した.その結果,通常の方法により求まる推定値にはバイアスが存在していたが、提案法ではバイアスなく周辺生存関数が推定可能であることが示された.

3.JET Studyの投薬開始6ヶ月データに提案法を適用し,腎性貧血患者における,死亡・入院イベントに対する複数のレジメンの周辺期待値を比較検討した.その結果,休薬を開始すべき閾値によって,少なくとも投薬開始から6ヶ月時までの累積イベント発症確率は大きく異ならないことが示唆された.

以上より,本論文で提案した2つの閾値に基づく動的治療レジメンに対する周辺生存関数の推定方法は,検査値を上げ過ぎても下げ過ぎても死亡や心疾患等の長期的アウトカムの予後を悪化させてしまう治療・疾患に対する閾値の検討をする際に,重要な貢献をすると考えられ,学位の授与に値すると考えられる.

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