学位論文要旨



No 125467
著者(漢字) 村口,尚志
著者(英字)
著者(カナ) ムラグチ,タカシ
標題(和) 低酸素刺激ストレスに対する心筋細胞の応答機構の解明
標題(洋) Analysis of molecular mechanisms for the adaptive response induced by hypoxic stress in cardiomyocytes
報告番号 125467
報告番号 甲25467
学位授与日 2010.03.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第948号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久保田,俊一郎
 東京大学 教授 石井,直方
 東京大学 准教授 山田,茂
 東京大学 准教授 村越,隆之
 東京大学 准教授 松田,良一
内容要旨 要旨を表示する

研究の背景と目的

運動などの生理的状態や動脈硬化・心臓疾患などの病的状態で、低酸素状態が生じ、それに心臓が応答する。低酸素刺激に対する心臓の応答機構を解明することは、運動の研究に役立ち、また、心筋梗塞、糖尿病などの生活習慣病の予防法(食習慣、運動習慣)や治療法の確立に繋がる。心筋細胞における低酸素研究では、長時間の低酸素刺激に対する心筋細胞の応答(細胞内情報伝達系)は数多く報告されている。しかし、短時間での低酸素刺激で変動するタンパク質や細胞内情報伝達は十分に解明されていない。本研究ではラット心筋由来株化細胞(H9c2細胞)を用いて、特に低酸素刺激の初期段階で発現が変化するタンパク質を同定し、細胞死および細胞死を抑制する機構の解明を目的として研究を行った。

実験方法

1 低酸素刺激がH9c2細胞へ及ぼす影響

H9c2細胞を10%FBS含有DMEMで培養し、実験に用いた。低酸素刺激に対する影響を解明するために、グローブバッグ内に窒素を充填した低酸素条件下に細胞を暴露し、15分後、3、 6、12、24時間後に光学顕微鏡を用いて細胞形態の観察および細胞数、生存率をトリパンブルー法で測定した。さらに、apoptosisの指標になるcaspase-3の活性化とDNA断片化をwestern blot法とTUNEL法により検討した。

2 プロテオミクス解析

H9c2細胞を15分間の低酸素刺激を行った後、二次元電気泳動用のLysis bufferを添加して、細胞を回収した。細胞混濁液から遠心して、可溶性タンパク質を回収した。タンパク質400ugを用いて二次元電気泳動法を行い細胞内タンパク質の発現変動を検討した。変動のあったタンパク質スポットを切り出し、質量分析を行った。

3 prohibitin過剰発現による低酸素刺激に対する効果

prohibitinのcDNAをRT-PCRで増幅し、pAcGFP発現ベクターに挿入した。このプラスミドコンストラクトをH9c2細胞に導入し、prohibitin-GFPを過剰発現させ、8時間、24時間低酸素に暴露させ、細胞数の変化について解析した。また、prohibitinの局在に関して、蛍光免疫染色法を行った。

4 prohibitinの生化学的機能解析

prohibitin-GFPを過剰発現させたH9c2細胞を用いて、低酸素に3時間暴露させ、ミトコンドリアの膜電位の変化について解析した。また、prohibitin-GFPを過剰発現させたH9c2細胞を用いて、低酸素に18時間暴露させ、ウェスタンブロット法によりCytochrome c、Bcl-2、Baxの変化を検討した。

実験結果

1 低酸素刺激によるH9c2細胞の細胞死

H9c2細胞の形態は、低酸素刺激開始後6時間以降より明らかに細胞の大きさが縮小し、細胞数が3時間以降から優位な減小が認められた。長時間(3時間以上)の低酸素刺激によって、H9c2細胞で細胞死が誘導される事が明らかになった。また、長時間の低酸素刺激では、caspase-3の活性化とDNAの断片化が見られたことから、この細胞死はアポトーシスである事が判明した。一方、短時間(15分間)の低酸素刺激では、刺激前と比較して、細胞形態、細胞数で有意な変化は認められなかった。

2 プロテオミクス解析

タンパク質400ugを用いて二次元電気泳動法を用いて細胞内タンパク質の発現変動を検討した。明確に変動のあったタンパク質スポットを切り出し、質量分析を行なった結果prohibitinが同定された。

3 prohibitin過剰発現による低酸素刺激に対する効果

低酸素刺激15分後、1、3、6時間後によるprohibitinのmRNAとタンパク質発現レベルを検討した。mRNAの変化は見られなかったが、タンパク質レベルでprohibitinの発現が経時的に減小していた。このことから、prohibitinは低酸素刺激によりタンパク分解を受けていると示唆された。次に、H9c2細胞にprohibitin-GFPを過剰発現させた後、低酸素刺激を行うとコントロールに比べ細胞数が有意に高く(P < 0.05)、細胞死が抑制されていた。また、prohibitinはミトコンドリアに局在する事が蛍光免疫染色により明らかとなった。

4 prohibitinの生化学的機能解析

低酸素刺激3時間後のミトコンドリア膜電位を検討した。低酸素暴露により、膜電位が低下していることが明らかとなった。prohibitin-GFPを過剰発現させたH9c2細胞ではコントロールに比べ膜電位の低下が有意に抑制されていた。次に、prohibitin-GFP過剰発現H9c2細胞を低酸素刺激に18時間暴露後、Cytochrome cのミトコンドリアからの遊離が有意に抑制されていた。さらに、Bcl-2の減小が抑制されていた。しかし、Baxのミトコンドリアへの移行には影響が見られなかった。

考察

本研究では、低酸素刺激によってH9c2細胞はアポトーシスを誘導する事を示した。

本研究室では以前、低酸素刺激15分で、細胞生存シグナルが誘導されていると報告している。そこで、本研究では低酸素刺激15分で変化するタンパク質を同定するためプロテオーム解析を行ったところ、prohibitinの同定に成功した。prohibitinは低酸素刺激15分で減小し始め、長時間にわたり発現抑制が続いた。細胞死誘導とパラレルな発現抑制であった。そこで、prohibitinに細胞生存作用があるとの仮説をたてて、prohibitinの過剰発現実験を行った。prohibitinの過剰発現により細胞死が抑制され、仮説が実証された。prohibitinは、ミトコンドリアに局在し、膜電位の維持、アポトーシス誘導因子のCytochrome cのミトコンドリアからの遊離抑制、細胞死の抑制が示されたことから、prohibitinの細胞生存作用機構の詳細な解析が可能となった。本研究で、prohibitinをターゲットとした心臓疾患の予防法や治療法の確立、また、生活習慣病の運動療法の確立に繋がる成果が得られた。

審査要旨 要旨を表示する

村口尚志氏の提出した「低酸素刺激ストレスに対する心筋細胞の応答機構の解明」と題する本論文は、低酸素刺激ストレスを曝露した心筋細胞において、アポトーシスが生じることを細胞形態変化だけでなくアポトーシス誘導分子も解析することで詳細に明らかにした。さらに15分の短時間の低酸素ストレス曝露による心筋細胞内応答分子を二次元電気泳動により探索し、同定した分子がアポトーシス誘導分子の活性化に関与することを明らかにし、加えて、その意義を述べたものである。

本論文の前半は、ラット心筋由来H9c2細胞を用いた心筋梗塞モデルで、細胞を0.1%未満の酸素分圧下に曝露した時の細胞死のメカニズムを解析している。低酸素曝露によるH9c2細胞の細胞死誘導メカニズムに関してこれまでミトコンドリアを介したアポトーシス経路が誘導されることが報告されている。しかし、アポトーシス研究が進むにつれ、TUNEL法だけでアポトーシス時に見られるDNA断片化を基にアポトーシスの検出をすることは不十分であることが明らかとなっている。そこでアポトーシスの特徴であるDNA断片化だけでなく、実行因子のcytochrome cのミトコンドリアからの遊離、caspase-3の切断、ミトコンドリアでのBcl-2減少、Baxの集積を時間経過とともに確認している。さらに、アポトーシス誘導分子の活性化前に活性酸素産生の増加、ミトコンドリア膜電位の低下が認められた。

本論文の後半は、15分間の短時間の低酸素ストレス曝露初期での細胞内応答分子の探索と同定した分子の機能解析を行った。低酸素ストレス曝露により心筋細胞がアポトーシスを引き起こすことは知られているが、低酸素ストレス曝露初期での細胞内応答に関する一致した見解は得られておらず、その応答機構がどのようにアポトーシス誘導と関連するかについての情報が非常に少ない。そこで、低酸素ストレス曝露初期での細胞内応答の分子レベルの変化を理解するために、二次元電気泳動法により低酸素ストレス応答因子を探索した結果、低酸素ストレス曝露初期に発現が減少する分子prohibitinを同定した。このprohibitinは酵母からヒトに至るまで高度に保存されたミトコンドリアに局在するタンパク質で、ミトコンドリアにおいてシャペロン様の機能を有することや、ミトコンドリアDNAの安定化、アポトーシスに関連する機能が知られている。

prohibitinの心筋細胞での動態を理解するため、低酸素ストレス曝露時におけるprohibitinの時間経過における発現量を検討した。その結果、低酸素に曝露された心筋細胞においてprohibitinのタンパク質は15分で急激に減少し、その後持続的な減少を示した。しかし、prohibitinのmRNAの発現量に変化は認められなかった。このことから、prohibitinの低酸素刺激曝露によるタンパク質の減少は遺伝子転写レベルによる影響ではないと示唆された。

prohibitinは低酸素ストレス曝露の心筋細胞において減少することから、過剰発現実験を行った。過剰発現実験において、低酸素ストレスによる細胞死誘導が抑制されることが観察された。prohibitinは、様々な細胞外ストレスによって誘導される細胞死を抑制することが報告されてはいるが、本研究で、心筋細胞に対する低酸素ストレスによる細胞死誘導を抑制することを初めて明らかにした。次に、prohibitinはミトコンドリアに局在することからミトコンドリアの膜電位に対する影響を検討した。その結果、prohibitin過剰発現において低酸素ストレスによるミトコンドリア膜電位の低下を抑制することが明らかとなった。prohibitin過剰発現により低酸素ストレスによるミトコンドリアの機能不全、細胞死をそれぞれ抑制したことから、ミトコンドリアを介したアポトーシス経路を抑制している可能性が考えられた。そこでprohibitin過剰発現によるcytochrome cのミトコンドリアからの遊離、Bcl-2、Baxのミトコンドリアでのタンパク質の発現量を検討した。その結果、prohibitin過剰発現において低酸素ストレスによるミトコンドリアからのcytochrome cの遊離を顕著に抑制し、ミトコンドリアにおけるBcl-2の減少も抑制していることが明らかになった。Baxのミトコンドリアへの集積はprohibitin過剰発現において抑制効果は認められなかった。しかし、BaxとBcl-2のミトコンドリアでのタンパク質の発現量を Bax/Bcl-2 ratioとして示すと、prohibitin過剰発現は低酸素ストレス曝露によるBax/Bcl-2 ratioの増加を顕著に抑制していた。prohibitin過剰発現により低酸素ストレスによるアポトーシス誘導を抑制することが示唆された。

本研究で、心筋細胞において15分間の短時間の低酸素ストレス曝露初期での細胞内応答分子としてprohibitinを同定した。prohibitinは心筋細胞においてミトコンドリアに局在しており、低酸素ストレス曝露によるミトコンドリアの膜電位の低下を抑制することが明らかとなった。また、cytochrome cの遊離とBcl-2のミトコンドリアでのタンパク質発現量の変化を抑制することが明らかとなった。これらのことから、prohibitinはミトコンドリアでのBcl-2の安定化に寄与し、ミトコンドリアの機能を制御し、アポトーシスの誘導を抑制している可能性が示唆された。この知見は、低酸素ストレスに曝露された心筋細胞内ストレス応答分子prohibitinの減少が、アポトーシスを制御する重要な分子であると示唆され、心筋梗塞におけるアポトーシスシグナル伝達経路の解明を行なった点で重要である。

以上のように村口尚志氏の論文は、低酸素ストレスに対する心筋細胞内でのストレス応答分子prohibitinを同定し、prohibitinのアポトーシス誘導に関する細胞内分子機能を明らかにしたものであり、新しい知見を提供した。したがって、本審査委員会は全員一致して、博士(学術)の学位を授与されるにふさわしいと認定した。

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