学位論文要旨



No 125470
著者(漢字) 菅原,武志
著者(英字)
著者(カナ) スガワラ,タケシ
標題(和) 細胞内「ケモフォレシス」
標題(洋) Chemophoresis in a Cell
報告番号 125470
報告番号 甲25470
学位授与日 2010.03.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第951号
研究科 総合文化研究科
専攻 広域科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 金子,邦彦
 東京大学 教授 佐々,真一
 東京大学 准教授 福島,孝治
 東京大学 准教授 澤井,哲
 国立遺伝学研究所 准教授 木村,暁
内容要旨 要旨を表示する

化学場由来の熱力学的力が、マクロ分子・細胞内器官(以下、巨視的要素と呼ぶ) の運動や位置情報形成を担う可能性を議論する。

バクテリアにおいて、細胞内環境は高度に組織化されており、タンパク質は然るべき位置に局在したり勾配をつくりそれぞれの機能を担う。すなわち化学場は位置情報を形成する。

化学場による巨視的要素の運動や位置情報形成の可能性を調べるため、本論文ではまず、巨視的要素が化学場からうける熱力学的力を導出し、その現象をケモフォレシスと名づけた(第2 章)。次に、プラスミド分配系(第3 章)、バクテリア染色体(第4 章) を例にとり、化学場による巨視的要素の位置情報形成は、以下の2つのメカニズム・ 巨視的要素が吸着反応を介して化学場から熱力学的力をうけること・ 巨視的要素が化学場を制御するメカニズムが存在することの組み合わせによって可能であることを示した。

第2章 ケモフォレシスの導出分子種X が結合するサイトB を表面にもつ巨視的要素を考え、ビーズと呼ぶ。そのビーズは、一様な温度T およびX の化学ポテンシャル分布μ(r)(濃度x(r))が指定されたd 次元空間(r 2 Rd) 内のr = _ におかれている(図1)。

ビーズ表面の反応はX とB が複合体Y を形成する化学吸着に相当し、次のようにかける。

μ(r) の勾配rμ(r) が外的条件により維持されているとき、ビーズは化学場x(r) から以下で表現される力f をうける。

この力は濃度の増大する方向へ作用する。electrophoresis, thermophoresis など、環境の場から力をうける典型的なphoresis 現象にちなみ、我々はこの現象をchemophoresis(ケモフォレシス)と名づけた。上の表式は、熱力学第2 法則に基づいて導出された。

この力の有効性を説明するため、熱揺らぎよりも支配的であるための条件を求めた。

最後に、プラスミド分配への応用の可能性を議論した。

第3 章 ケモフォレシスが誘起するプラスミド分配の位置情報第2 章で導出したケモフォレシスをプラスミド分配系に応用した。プラスミド集団は自身がコードする分配系により駆動され、バクテリア細胞長軸に沿って運動し、クラスタリング・長軸にそった振動・等間隔分布といった、分配に必要な位置情報を形成する。プラスミドの運動・位置情報形成がどんな駆動力によってなされているかが議論されている。我々は観測事実に基づいて、ある分配タンパク質が化学場として駆動力を生成し、別のタンパク質がプラスミドと複合体を形成してプラスミド上で化学場を制御すると仮定し、ケモフォレシスを応用した簡単なモデルを構成した。 この簡単なモデルは、報告されているクラスタリング・長軸にそった振動・等間隔分布といった現象を説明できた。

第4 章 ケモフォレシスがバクテリア染色体構造と遺伝子発現を関係づける可能性第4 章では、ケモフォレシスがバクテリア染色体構造と遺伝子発現を関係づける可能性について議論した。バクテリア染色体はランダムコイルではなく、高度に組織化されており環境条件に応じて全体の構造を変化させることが最近分かってきた。そのような構造変化は遺伝子発現パターンに依存し同時に影響をあたえることが示唆されている。

「結合サイトへの分子の吸着」という、ケモフォレシスと遺伝子制御の共通点に注目し、我々はバクテリア染色体構造と遺伝子発現を関係づけるモデルを構成した。そのモデルを使って、我々は遺伝子活性の変化に対して染色体が凝縮転移を起こす事を示し、遺伝子のON,OFF のスイッチと染色体の構造転移の関係を示唆する結果を得た。

図1: ケモフォレシスの模式図。

審査要旨 要旨を表示する

細胞内環境は高度に組織化されており、バクテリアにおいてさえ、プラスミドなどの細胞内小器官は然るべき位置に局在する。その組織化についての実験研究は測定技術の革新により、この数年で急速に進展してきたにもかかわらず、その全貌の理論的な解明には程遠いのが現状である。本論文では化学勾配が、マクロな小器官に力を及ぼし、その結果あらわれる力学一化学結合が細胞内の組織化に関与しているという仮説を提示し、その妥当性をシミュレーションにより示している。第1章で論文の簡潔な導入がなされたあと、第2章では、その上に化学反応サイト(レセプター)を持つ巨視的要素が化学場から力を受けることが指摘され、その力を踏まえて第3章ではプラスミド分配の最近の実験、第4章では遺伝子発現レベルに依存したバクテリア染色体の動態の理論的説明が行われる。第5章はまとめにあてられている。

まず、第2章では分子種Xが結合するサイトBを表面にもつ巨視的要素(ビーズと呼ぶ)を考え、それが一様な温度T、そしてXの化学濃度(化学ポテンシャル)の勾配下に置かれているという設定の問題が考えられる。サイトBへのXの結合反応を吸着反応と考え、それはこのビーズが動いても常に素早く平衡に達していると仮定したもとで、Xの化学勾配のもとでは、このビーズに対して、Xの濃度が増大する方向へ力が作用することが推論される。この力によるビーズの駆動を本論文ではchemophoresis(ケモフォレシス)と呼んでいる。ついで、この章での議論のもとにある、すばやい化学反応平衡が成り立つ条件ならびにこの力が熱揺らぎよりも支配的であるための条件が細胞内の過程にあてはめられるかを議論し、この化学駆動力の細胞内小器官や高分子に対する有効性を推論している。

第3章では、この化学勾配による駆動力がプラスミド分配系に適用される。バクテリア細胞内でプラスミドは細胞長軸に沿って運動し、クラスター化、長軸にそった振動、等間隔分布といった、興味深い振る舞いを示す。しかも、こうしたプラスミドの空間配置は、細胞分裂に際してプラスミドが適切に分配されるためにも本質的なものである。更に、プラスミドが細胞内の化学場に与える影響も実験的に示唆されている。このような近々の実験結果をもとにして、プラスミドの配置を与えるための駆動力の議論も始まっているが、上記現象をすべて説明する適切なモデルは存在していない。本論文ではまずこれらの実験結果の概説が述べられ、それをふまえて、菅原氏は、ある分配タンパク質が化学場として駆動力を生成するという、第2章の結果に基づく仮説を導入し、それに加えて、実験結果に基づき、別のタンパク質がプラスミドと複合体を形成してプラスミド上で化学場を制御することを要請する。この2つの過程に基づいて、化学場とプラスミド運動の結合した、簡単なモデルが構成される。このモデルの理論的解析とシミュレーションが行われ、その結果、実験で報告されているクラスタリング・長軸にそった振動・等間隔分布の現象すべての説明に成功している。

第4章では、本論文での化学駆動力がバクテリア染色体構造と遺伝子発現を関係づける可能性が議論される。近年の測定からバクテリア染色体はランダムなコイル構造ではなく、組織化された構造をしており、その構造が環境条件に応じて変化することが見出されてきた。その結果により、染色体の構造と遺伝子発現パタンが連関していることが示唆されている。本論文では「結合サイトへの分子の吸着」と遺伝子制御の共通点に注目し、遺伝子発現によって生成されたタンパク質の濃度勾配が、そのタンパク質に制御される遺伝子(結合サイト)へ力を及ぼすというモデルが導入される。そのモデルのシミュレーションにより遺伝子発現活性が高まると化学駆動の引力が増大して染色体が凝縮転移を起こす事が示される。これによって、実験で示唆されている、バクテリア染色体構造と遺伝子発現活性の連関が説明される。この両者の連関は現在、非常に注目を集めている分野であり、遺伝子発現の制御の観点からも興味の持たれる結果である。

以上のように、菅原武志氏の学位論文は、(i)化学成分の勾配によってそれと反応するマクロな小器官や高分子が力を受けること、(ii)そしてそれらの要素が勾配をなす化学場を制御できること、に着目して、細胞内の組織化への仮説を提示し、それに基づいてプラスミド分配に関する最新の実験結果を説明し、また遺伝子発現と染色体の構造変化が連関する機構を提案したものである。導入されたモデルの理論解析とシミュレーションの結果は、実験結果をすべて説明している。これまでにない、画期的な理論であるが、その一方で、上記の(i)の妥当性は現時点では実験的に確証はされていないという側面もある。とはいえ、これらの現象に関してはこの数年で実験は大いに進んでいるが確立した理論もなく、これまでに提案されたモデルも現象の部分的説明にとどまっているのが現状であり、それと比して本論文の理論は(i)の導入のみで、知られている実験を説明できるもので、大きな注目に値する。もちろん、本論文の理論が細胞内の現象にどこまで適合しているかには今後、様々な実験的な検証を進めることが必要であるが、それに値する理論と考えられる。また、いったん妥当性が検証されれば、その適用は細胞内の組織化に広くあてはめられる可能性も秘めている。

本論文の各章は,金子邦彦との共同研究に基づいているが,論文の提出者が主体となって基本的アイディア、モデル化、シミュレーション、解析を行ったもので,論文提出者の寄与が大であると判断する。よって本論文は博士(学術)の学位請求論文として合格と認められる。

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