学位論文要旨



No 125479
著者(漢字) 浦山,聖子
著者(英字)
著者(カナ) ウラヤマ,セイコ
標題(和) グローバルな平等主義と移民・外国人の受け入れ
標題(洋)
報告番号 125479
報告番号 甲25479
学位授与日 2010.03.11
学位種別 課程博士
学位種類 博士(法学)
学位記番号 博法第236号
研究科 法学政治学研究科
専攻 総合法政専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 准教授 宇野,重規
 東京大学 教授 井上,達夫
 東京大学 准教授 寺谷,広司
 東京大学 教授 中谷,和弘
 東京大学 教授 高原,明生
内容要旨 要旨を表示する

本稿の目的は、グローバルな平等主義を擁護すること及びグローバルな平等主義の観点から、移民・外国人の受け入れについて論じることである。

本稿は、第一章・第二章から第六章・第七章・終章という四部から成る。第一章で、本稿の主題であるグローバルな分配的正義から移民・外国人政策について論じる理由を明らかにし、第二章から第六章にかけてグローバルな分配的正義論、第七章では移民の正義論の批判的検討を行っている。最後に、終章として、全体の議論を総括し、移民・外国人の受け入れについて、さらに議論を敷衍するという構成になっている。

第一章においては、グローバルな分配的正義から移民・外国人政策について論じる理由について、有能な人材に特化した先進国の移民・外国人政策、先進国による途上国の人材の引き抜き、国際的な経済体制と人の移動の関係性を指摘し、明らかにした。近年、医療従事者やIT技術者を中心として、国際的な人材獲得競争は激しさを増している。このような中、高度な技能を持つ人材の流出が途上国の経済や社会に与える影響は大きな国際問題となりつつあり、移民・外国人政策こそグローバルな分配的正義の中心的論題の一つであると言える。

第二章においては、John Rawlsの国際的正義論を巡る論争を検討した。現代リベラリズムにおける国際的な経済的再分配の正当性を巡る論争の主な火種は、平等主義的リベラリズムの代表的論客と目されるRawlsがグローバルな平等主義を否定したことにある。第二章では、これに対するCharles Beitzの批判及びBeitzへの応答として、Rawlsが国際的な正義論に取り組んだ『諸人民の法』及びJoseph HeathによるRawlsの擁護論を紹介・検討した。本稿の結論は、Rawls自身もHeathの擁護論もBetiz等グローバルな平等主義者の批判に有効に応えたとは言い難いというものである。

第三章の目的は、Rawls以降のグローバルな分配的正義の否定論を検討することである。取り組んだ否定論は二つある。第一に、国内社会と国際社会の条件的相違を論拠とするものである。強制装置、主権的統治、公共財の存否をそれぞれ条件的相違として挙げるMichael Blake、Thomas Nagel、Andrea Sangiovanniの見解を検討した。いずれの論者も、各制度が分配的正義実現の道具としての必要性を超えて、なぜその理論的成立に必要であるかという点において、説得的な理由を示していないというのが私の結論である。第二に、人は、他国居住者に対して自国居住者を優先的に配慮する義務を担っているため、グローバルな経済的再分配は限定されるべきであるという否定論がある。社会における信頼と法の遵守の確保を根拠とするRichard Millerの見解を批判的に検討した後、このような自国居住者中心主義自体についても考察した。いかにこの主張が一般的倫理感に沿うものであったとしても、そのような義務の存在を無批判に与件とするならば、グローバルな分配的正義の企図は歪められざるを得ないと批判した。

以上のようなグローバルな分配的正義の成否を巡る論争に対し、国内社会と同等の規模の経済的再分配は斥けるが、基本的ニーズのグローバルな充足を認める立場をコスモポリタニズムとして提示しようとするのがDavid Millerの弱いコスモポリタニズム論である。第四章で検討したのは、この妥当性である。Millerには二つの主張がある。第一に、各国の政策の在り方は、各国家を構成するナショナルな共同体の判断に委ねられるべきであり、その結果として、失敗した場合の責任も周囲に転嫁されるべきではないという自己責任論である。第二の主張とは、それにも拘らず、基本的ニーズの充足についてはグローバルな対応が必要であるという点である。自己責任論に対しては、正義よりも各共同体の責任に基底的な役割を見出す点を、弱いコスモポリタニズム論に対しては、その論拠を問題点として挙げた。国家の経済状態について、各国家に責任を求めることができるのは、グローバルな制度的秩序が公正である場合であり、一部の国家の利益に沿うようなグローバルな制度的秩序下では、むしろ、残りの国家の逸失利益の補償が問題にされなければならない。

グローバルな分配的正義への否定的立場から一転して、第五章において取り上げたのは、そのより強い論拠になる。単に平等主義的な分配的正義論の射程を国内に限定すべきではないと言うのではなく、そもそも世界的な貧困を生成・増産しているのは豊かな国家に居住する我々であり、それゆえ、我々はそのような貧困の撲滅に向けて積極的に動く責任を負うというThomas Poggeの加害責任論である。この検討を通して、グローバルな経済的再分配がグローバルな分配的正義の要請のみではなく、先進国の加害行為への補償として要請される可能性を示した。また、Poggeの議論の内在的検討を通じて、Pogge自身の立場も匡正的正義としてのグローバルな経済的再分配に尽きるわけではなく、グローバルな資源税を分配的正義の構想として理解し、Poggeをグローバルな平等主義の論者として位置づけた。

第六章の目的は、グローバルな平等主義の輪郭を明らかにすること及びグローバルな平等主義へ向けられた批判を検討することである。以上の議論の上に、本稿では、豊かな国家の国籍の自動的な継承に問題を見出すAyelet ShacharとRan Hirshlの議論を今後グローバルな平等主義を展開していく上で基礎にすべきものとして支持した。国籍も所有権も公権力の制裁が担保される法的境界を定めるものであって、正当な権利を持たない人々を公権力で排除することによって正当な所有権者の利益が守られるように、正当な資格を持たない人々を公権力によって排除することによって、正当な国籍保持者の利益が守られるという点で、国籍と所有権は同様の機能を果たしていると言える。豊かな国家は、国籍や正当な在留資格を持たない人々を排除することによって、国籍保持者や在留資格を持つ人々が経験可能な機会を高めている。そうであるならば、所有権の継承については課税されるのに対し、なぜ国籍の自動的な継承の妥当性が問われることはないのだろうか。このような問題意識の構想における具体化は今後の課題であるが、ShacharとHirshlの姿勢は興味深く、より一層の検討に値する。

第七章では、グローバルな平等主義から移民・外国人政策について考えるための手がかりとして、まず、移民の正義論における論争を整理し、先進国による移民・外国人の受け入れをグローバルな経済的再分配の手段として主張する立場について批判的に検討した。この立場に対し、移動・移住能力の格差及び頭脳流出問題を指摘し、先進国による移民・外国人の受け入れを社会の開放性や分配的正義実現への貢献度を示すものであるかのように見なすことに疑問を呈した。今後検討されるべき課題は、移民・外国人の受け入れの再分配的効果の有無ではなく、どのような受け入れがどのような再分配的効果をもたらすかである。

終章では、これまでの議論を総括し、移民・外国人の受け入れを巡る問題について議論を敷衍した。高度な技能労働者が希少な地域からの引き抜きのように、移民・外国人の受け入れを巡っても、先進国の政策やグローバルな規制の在り方の公正さが問われるべき場合が存在する。各国家の移民・外国人政策は、いかにその国民の民意を反映したものであったとしても、グローバルな正義の理念による評価の対象となるべきである。

最後に、先行研究に対する本稿の特徴および本稿の意義を明らかにしておきたい。取り上げた先行研究は主に二つ、グローバルな分配的正義論と移民の正義論である。本稿の第一の特徴は、このようなグローバルな分配的正義論を体系的に整理し、グローバルな平等主義を擁護するべく、グローバルな分配的正義を巡る様々な立場の批判的検討を詳細に行ったことである。日本においては、英米法哲学・政治哲学における分配的正義論一般については多く紹介されてきたが、グローバルな分配的正義論については、英米圏においても比較的近年盛んになった分野であるためか、今のところあまり研究が進んでいない。現在公表されている論考も断片的なものに留まっている。これに対し、グローバルな分配的正義論全体を展望したことが本稿の意義の一つである。

本稿の第二の特徴は、国際的な自然資源の配置の偏りを中心的な論題とし、人の移動の問題について論じてこなかった従来のグローバルな分配的正義論に対し、移民・外国人政策もグローバルな分配的正義論が視野に収めるべき政策領域であると主張したことである。従来の制度構想においては、国家間の経済取引の制度的枠組みを巡るものが中心を占め、各国の国籍・在留資格制度や移民・外国人政策などについては問題にされてこなかった。

本稿の第三の特徴は、移民の正義論における論争を整理し、先進国による移民・外国人の受け入れをグローバルな経済的再分配の手段として活用しようという主張について批判的に検討したことである。移民・外国人に関わる問題は、日本の法学界では行政学・憲法学を始めとする実定法学が率先的に研究を行ってきた分野である。そのため、個別の事例研究の蓄積は豊富であるが、法哲学・政治哲学による原理的研究はほとんどなされてこなかった。本稿のような原理的研究は、従来の研究に対し、個別の事例を超えた政策の方向性をマクロに考えるための視点を提供すると確信している。

英米法哲学において、グローバルな分配的正義論と移民の正義論は独立して展開されてきた。本稿が目指したのは、本来ならば一貫して論じられるべきではあるが、独立して発展してきた二つの分野を接合し、グローバルな平等主義を支持する観点から、移民・外国人政策の正当性を巡る論議における大局的視点を築くことである。

審査要旨 要旨を表示する

本論文は、英米法哲学・政治哲学において近年発展してきたグローバルな分配的正義論と、新たに論議が起こりつつある移民の正義論の検討を通して、グローバルな平等主義の立場を対抗する諸理論に対して擁護するとともに、それが移民・外国人の受け入れ問題に対してもつ含意について考察したものである。ここにおけるグローバルな平等主義とは、国内社会における経済的再分配と国際社会における経済的再分配の論拠を区別しないという意味における平等主義である。

本論文の第一の目的は、グローバルな分配的正義を否定あるいは限定する立場から積極的に肯定する立場まで様々な諸理論を体系的に整理してそれぞれの長短を検討し、グローバルな平等主義を擁護することである。本論文は、ジョン・ロールズの国際正義論をめぐる論争の分析から出発し、その後展開したグローバルな分配的正義をめぐる複雑多様な論議を考察し、国籍による恣意的差別を排除する視点からグローバルな平等主義を擁護している。第二の目的は、領土・自然資源・富の国家間の格差の是正を中心的な論題とし、人の移動の分配帰結の問題について論じてこなかった従来のグローバルな分配的正義論に対し、移民・外国人政策もグローバルな分配的正義論が視野に収めるべき政策領域であることを明らかにすることである。本論文は、技能労働力の受け入れに特化し途上国の有能な人材の引き抜きを進める先進国の移民・外国人政策の現状と途上国に対するそのインパクトを分析し、国際的な経済体制と人の移動の密接な関係を指摘して、移民・外国人政策がグローバルな分配的正義の中核的問題の一つとして位置づけられるべきことを主張している。第三の目的は、移民の正義論における論争を整理し、ナショナリズムに基づく移民規制論とリベラルな移民受け入れ促進論という従来対立してきた二つの立場が、グローバルな平等主義の観点からはともに批判さるべき問題点を含むことを明らかにし、先進国の移民受け入れ体制の公正さを途上国に与える影響の精密な分析を踏まえて検討する必要を提唱することである。先進国の国益を優先する点でナショナリスティックな移民規制論が批判されるだけでなく、「開放的国境(open border)」論や、移民・外国人の受け入れをグローバルな経済的再分配の代替手段として活用すべきことを説く議論などのようなリベラルな受け入れ促進論も、途上国内の人々の間の移動・移住能力の格差問題や、途上国にとって希少な人材の流出問題を無視・軽視していることを指摘している。その上で技能労働者の移動について、希少な人材の積極的な引き抜きの抑制・一定の金銭的補償・移動のコントロールなどの可能性を示している。

以下、論文の要旨を述べる。

第一章は、グローバルな分配的正義の問題と、移民・外国人の受け入れ問題とを接合して論ずべき理由を明らかにする。国籍や外国人の在留資格を定めるのは法制度であり、それがグローバルな分配帰結に大きな差異をもたらしうるがゆえに、グローバルな分配的正義論の観点からの規範的評価の可能性に開かれていることを確認した上で、有能な人材に特化した先進国の移民・外国人政策、先進国による途上国の人材の引き抜き、国際的な経済体制と人の移動の関係性を指摘し、移民・外国人政策がグローバルな分配的正義の中心的論題の一つに位置づける必要があることを示す。

第二章では、現代正義論の代表的論客であるジョン・ロールズの国際的な分配的正義論とそれをめぐる論争を取り上げる。まず、国内社会と国際社会における経済的再分配に関するロールズの『正義の理論』における議論を整理して、それに対するチャールズ・バイツの批判を紹介し、次に、バイツの批判等への応答として、ロールズが著した『諸人民の法』の議論を分析して、最後に、『諸人民の法』へのバイツやトマス・ポッゲのさらなる批判及びジョゼフ・ヒースによるさらなる擁護を検討する。筆者によれば、ロールズが国内社会を対象とした議論において主張したように、社会的経済的関係の公正さを確保するために正義が要請されるならば、それは国内における関係にせよ、国家を超えた関係にせよ、およそ社会的経済的関係一般について公正さを確保する必要があるはずであり、ロールズが主張する正義の二原理の適用がなぜ国内社会に限定されるのか明らかではない。とりわけ、国際的な経済関係が緊密化しつつある現代において、このような限定は不当である。また、ロールズの援助義務論は、グローバルな制度的秩序の正当性の問題を見過ごしている点で、先進国に課すべきグローバルな分配的責任を十分に扱ったものとは言えない。ヒースによるロールズの擁護論もバイツ等の批判に対して十分な応答を提供していない。以上が本章での筆者の議論の骨子である。

第三章は、ロールズ以降登場したグローバルな分配的正義に対する否定論について検討する。国際社会と国内社会の制度的条件の違いをグローバルな分配的正義否定の論拠とする立場に対しては、グローバルな経済的再分配を即座に実現することが不可能であるということを示すだけであって、その正当性を否定する論拠にはならないことを指摘する。さらに、同胞への特別な配慮義務を根拠とする議論についても、そのような義務の存在を無批判的直観にとどめずに道徳的に正当化しようとするなら、ロバート・グッディンの割当責任論や、コクチョア・タンの個人道徳・制度道徳二元論など、グローバルな分配的正義の責務と同胞への特別配慮義務との両立可能性を示す議論に依拠せざるを得ないと論じる。

第四章では、グローバルな分配的正義に対する否定論から限定論へ検討対象を移し、限定論として近年影響力を高めているデイヴィッド・ミラーの「弱いコスモポリタニズム」が考察される。この立場は、グローバルな分配的正義を否定はしないが、ナショナルな自己決定・自己責任を重視する観点からそれを限定し、基本的ニーズのグローバルな保障を承認するが国内社会と同等の規模の経済的再分配は斥ける。まず、経済的再分配について、ナショナルな共同体の自己決定を基本的に尊重すべきであるが、基本的ニーズが満たされていない場合には、周囲の共同体に救済責任が課されるべきであるという主張としてミラーの議論が整理される。これに対し、筆者は、ナショナルな共同体の自己決定の尊重は、グローバルな正義の要請が充足されていることが前提になるとし、国家の経済状態を各国家の自己責任とみなすことができるのは、グローバルな制度的秩序が公正である場合であり、一部の国家の利益に沿うようなグローバルな制度的秩序下では、むしろ、他の国家の逸失利益の補償が問題にされなければならないと論じる。

第五章では、国民共同体の自己責任論が看過しやすいグローバルな政治経済システムの公正さの問題を直視して、グローバルな分配的正義の責務を、貧しい途上国に対する先進諸国の制度的加害への補償を要請する匡正的正義の観点から構成することを試み、近年注目されているトマス・ポッゲの理論が検討される。単に平等主義的な分配的正義の射程を国内に限定すべきではないとするのではなく、貧しい途上国にその自立的発展を妨害ないし困難にする制度構造を押し付けることにより、世界的な貧困を生成・維持しているのは豊かな先進諸国であると指摘し、先進諸国の途上国に対する支援義務をグローバルな再分配の要請ではなく加害行為への補償として構成するポッゲの議論と、彼に対する批判者たちの議論とが検討され、ポッゲの議論が一定の留保を必要としつつも、現在のグローバルな制度的秩序形成の中心にいる先進諸国が、狭義の再分配的援助義務に還元されない制度度的加害責任を問われる可能性と必要性を示した点が評価される。その上で、筆者は、ポッゲの議論の内在的検討を通じて、ポッゲ自身の立場も匡正的正義にグローバルな分配的正義を還元する理論として自己を限定できるわけではなく、そのグローバルな資源税の構想は匡正的正義を超えた分配的正義の構想として理解さるべきこと、それゆえ彼の理論はグローバルな平等主義の一構想として位置づけうることを指摘する。

第六章では、グローバルな平等主義を発展させる有望な方途が探索される。特に、グローバルな平等主義をより深化させる積極的な議論として、豊かな国家の国籍の自動的な継承に問題を見出すアィエレット・シャカールの議論に筆者は注目する。それによれば、ある資源の利用に法的権原を持たない人々を公権力で排除することによってその資源の法的な所有権者の利益が守られるように、ある国家が国民に提供する様々な保護・便益の享受に法定の資格を持たない人々を公権力によって排除することによって、国籍保持者の利益が守られるという点で、国籍と所有権は同様の機能を果たす。さらに、親がどの国の国籍を有しているか、あるいは、どの国で子を生んだかという偶然的事情によって子の取得できる国籍が決定されるという点で、国籍は相続財産と同じ機能をもつ。そうであるならば、相続財産についてはその大きさに応じて課税され、再分配の原資にされることが一般的に承認される以上、子がコントロールできない出生時の国籍によって子のライフ・チャンスの大きな格差がもたらされることの是正の必要も承認さるべきであろう。この視点から、相続税に類比可能な国籍税を原資としてグローバルな再分配を行うグローバルな分配的正義構想を発展させる可能性が開かれる。筆者はこの構想の制度的具体化の方途の探究は今後の課題としつつも、そこに一層の検討に値する洞察を見出す。さらに、グローバルな平等主義を擁護するために、文化的多様性を根拠にしたチャンドラン・クーカサスやデイヴィッド・ミラーらの国内的分配的正義と国際的分配正義との統合否定論に対し、文化的多様性はグローバルな分配正義をめぐる政治的合意の形成可能性を否定する論拠にならないとして反論し、かかる政治的合意形成過程への途上国の参加能力を実効化するとともに、その国内的人権保障能力を先進諸国に接近させるために、貧しい途上国の国家建設の支援が、グローバルな分配的正義実現の不可欠の条件であるとするアレン・ブキャナンの議論のもつ重要性を評価する。

第七章では、グローバルな平等主義の観点から、移民・外国人政策について考えるための手掛かりとして、移民の正義論における論争が検討される。移民の正義論の主要類型が、国境を越えた移動の自由及び先進国の移民・外国人の受け入れによる分配的正義の実現の考慮から、より積極的な受け入れを訴えるリベラルな受け入れ促進論と、移民・外国人の受け入れの経済的文化的影響をコントロールする権利を各政治共同体がもつとするナショナリズムの議論とに大別され、それぞれの検討を通じて、受け入れ数の増大を求める前者の主張と、受け入れの決定権が各国にあるとする後者の主張とはそもそも問題関心が食い違っているため真の対立があるとはいえないとし、両者の間の真の争点として、以下の三つの問題が析出される。すなわち、移動の自由は基本的自由とみなしうるか否か、移民・外国人の受け入れが経済的再分配の適切な代替手段になりうるか否か、許容可能な移民・外国人の選別方法は何かである。筆者は第一点と第三点についてはリベラル派とナショナリスト派の実際上の対立は綿密に検討すれば見かけほど大きくなく、第二の問題がグローバルな分配的正義にとって中心論点であるとして、これを検討し、もっぱら自国の国益を理由に移民規制をするナショナリズムの立場から批判的距離をとる一方、移民・外国人の受け入れをグローバルな経済的再分配の手段として主張するリベラルな立場に対して、移動・移住能力の格差及び人材流出問題を指摘し、先進国による移民・外国人の受け入れを社会の開放性や分配的正義実現への貢献度を示すものであるかのように単純に見なすことはできないと論じる。

終章では、グローバルな分配的正義を否定・限定する立場を批判してグローバルな平等主義を擁護するこれまでの議論を総括し、移民・外国人の受け入れについても、グローバルな平等主義の考慮から、先進国による受け入れが送り出し社会に負の効果をもたらすような場合には、その受け入れ体制の公正さが問われるべきであるとし、技能労働者の移動について、希少な人材の積極的な引き抜きの抑制・一定の金銭的補償・移動のコントロールなどの可能性が承認さるべきことを主張する。最後に、移動の自由をいかなる理由によっても侵害されてはならない基本的自由の一つであると考える立場から提起されうる批判に対して、問題は移動の自由の有無ではなく、移動の自由を自国の国益に沿う限りで利用する先進諸国の政策の是非であると応答する。

本論文の評価は以下の通りである。長所としては次の点が挙げられる。

第一に、グローバルな分配的正義は、近年、規範的正義論の新領域として開拓され、英米の法哲学・政治哲学を中心に研究業績が蓄積されつつあるが、我が国では断片的な紹介・展望はあるものの、包括的研究は未だ乏しい。本論文は、1970年代初頭にロールズが『正義論』において国際的分配正義に対して示した消極的な姿勢とそれが喚起した批判的論議から始まり、晩年のロールズの『諸人民の法』における分配的正義のグローバル化消極論の再定式化をめぐる論議、さらにそれを超えてリバタリアニズム・平等基底的リベラリズム・功利主義・ナショナリズムなど多様な陣営を巻き込む形で拡大してきたグローバルな分配的正義をめぐる現在までの論議状況をほぼ網羅的にとりあげ、複雑に絡みあった係争点を体系的に整理して検討している。しかも、単なる論議の展望にとどまらず、グローバルな分配的正義における平等主義的な立場を様々な批判への応答と対抗理論への批判を通じて擁護する議論を展開し、グローバルな分配的正義についての自らの構想を発展させるための理論基盤を開墾している。

第二に、従来のグローバルな分配的正義論の主たる関心は領土・自然資源・富など、いわゆるモノとカネの分配に向けられていたが、本論文はヒトの移動とその規制のあり方もグローバルな分配状態に大きな差異をもたすことに注目し、近年研究が新たな展開を示しつつある移民の正義論の分野の論議を、グローバルな分配的正義論の中に、その主要論題の一部をなすものとして統合することを試みている。これはグローバルな分配的正義論の視野を拡大すると同時に、国内的な多文化主義政策等との関係で論じられることの多かった移民の正義論の問題関心を、グローバルな分配問題に接合する形で拡大深化するものであり、独創的で生産的な着眼点を示すものであると言える。

第三に、グローバルな分配的正義論の一部としての移民の正義論においては、自国の国益や文化的アイデンティティの擁護を優先させる観点から移民規制を求めるナショナリズムの立場と、貧しい途上国民の先進諸国への移動の自由の保障が途上国民と先進諸国民の分配格差の是正をもたらす手段にもなるとして、これを積極的に擁護するリベラルな移民受け入れ促進論とが主要な対立軸を構成している。これに対し、本論文は、ナショナリズムの自国中心主義を批判する一方、リベラルな移民受け入れ促進論が途上国の内部的な移動能力格差や人材流出問題、さらには先進諸国の利己的な人材引き抜き政策の問題性を無視しているとしてこれを批判し、各国の移民政策の公正性を、受け入れの開放度の差ではなく、そのグローバルな分配帰結に照らして批判的に吟味する新たな第三のアプローチを呈示し、その重要性を相当程度説得的に証示している。

もっとも、本論文にも短所がないわけではない。

第一に、本論文は、国内的な分配的正義の原理とグローバルな分配的正義の原理とを二重基準的に差異化する立場を斥けるという意味でのグローバルな平等主義を擁護する議論はかなり綿密に展開しているが、国内的文脈とグローバルな文脈とを貫通する分配的正義の原理として、どこまで平等化を要請する原理を擁護しようとするのか、例えば、ロールズが国内的文脈に限定した格差原理のグローバル化を求めるのか、それより弱い必要充足原理や、あるいは、より強い格差縮減原理の内外無差別適用を主張するのかを必ずしも明確にしていない。

第二に、本論文では第一章と第七章および終章で移民の正義論が扱われ、中間の第二章から第六章まではグローバルな分配的正義論の検討に向けられているが、両者を統合するところに本論文の主眼があることに鑑みると、論述の重心がグローバルな分配的正義論一般に傾斜し、移民の正義論が周辺化され、構成がバランスを欠く印象を与える。

第三に、本論文は、移民政策の評価の原理を移動の自由よりもグローバルな分配帰結の公正化に置くが、移動の自由がグローバルな分配的正義の実現とは独立した価値ではないとなぜ言えるのか、移動の自由とグローバルな分配的正義の実現との間で適正なトレード・オフを行う必要はないのかについては十分に論じられていない。

しかし、短所の第一点は、現在のグローバルな分配的正義をめぐる論議の主たる係争点が、どの分配的正義の原理がグローバル化さるべきかという問題以前に、国境の内外における分配的正義の原理の二重基準的差異化が正当か否かにあるため、本論文が後者の問題の解明を課題として設定したことの帰結であること、第二点は、グローバルな分配的正義の観点からの移民の正義論の研究が世界的にもなお萌芽状態であるため、やむを得ない面もあること、第三点は、本論文の批判の焦点が、移動の自由とグローバルな分配的正義のトレード・オフを主張する立場にではなく、両者の予定調和を想定する立場に置かれていることによる面もあること、以上を鑑みるなら、いずれも本論文の意義と価値を著しく損なうものとは言えない。

以上から、本論文は、その筆者が自立した研究者としての高度な研究能力を有することを示すものであることはもとより、学界の発展に大きく貢献する特に優秀な論文であり、本論文は博士(法学)の学位を授与するにふさわしいと判定する。

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